【Count 2】2月12日:Embracing
「今日は……遅いな」
リビングボードの上の時計を見ながら、アイオリアがボソリと呟いた。
この4日間、毎朝決まった時間に獅子宮に来訪していたシャカが5日目の今日はその『いつもの時間』に姿を現さず、時刻はもう正午に差し掛かろうとしていた。
たった4日と言われればそれまでだが、その4日間本当に判で押したように同じ時間に来ていたシャカがまだ『本番』であるバレンタイン当日を迎える前であるにも拘らずその『ルーティン』を突然崩したともなれば、さすがにアイオリアも心配せずにはおれない。
これがバレンタイン絡み、もっと言うならプレゼントが絡んでさえいなければ気軽にテレパシーを入れて様子を尋ねることもできるのだが、考え過ぎかも知れないが現状それをやってしまうとまるでプレゼントを催促しているものと変な誤解されそうな気がして自分から連絡を入れることが躊躇われ、どうしたんだろう? とジリジリソワソワしながらシャカが来るのを待っているしか出来なかった。
何か都合が出来てしまって来るのが遅れているのならまだいいのだが、よもや急に体調を崩して倒れてでもいるのでは!? と時が進む毎に思考がマイナス方面に進んでしまい、アイオリアは一人で勝手に不安と焦燥感を募らせていた。
最も他の黄金聖闘士が今のアイオリアの内心を知ったら「シャカが体調不良? ないないそれは絶対ないあるわけない!」と全否定して笑い飛ばしたであろう。だがアイオリアはそんなことは露程も思わず、真剣に大真面目にシャカのことを心配していたのである。
心配や不安と言うものは芽生えたら加速度的に大きくなるもので、もう変な誤解が云々細かいことなど気にしていられない、シャカにテレパシーを入れるかそれとも処女宮まで赴いた方がいいかとアイオリアが真剣に考え始めた正にその時、タイミングよくと言うか漸くシャカが姿を現した。

「シャカ!」

弾かれたようにソファから立ち上がり、アイオリアはシャカの元に駆け寄った。

「何を慌てている?」

何やら妙に慌てている様子のアイオリアに、シャカが訝し気に尋ねた。

「いや、ここ最近毎日同じ時間に来てたのに、今日は随分と遅かったから何かあったのかと思って……具合が悪いとか……」

見た感じシャカに変わった様子は全くなく、すこぶる元気そうである。
この時点でとりあえず一番心配していた体調不良の線はほぼなくなり、アイオリアはホッと安堵の吐息を零した。

「体調は変わらないし別に何かあったと言うわけではない。単に今日はそんなに早く来る必要がなかったからこの時間になった、それだけだったのだが……」

ここでシャカはくすっと小さく笑ってから言葉を接ぎ、

「どうやらそのせいでお前に余計な心配をかけてしまったようだな、すまない」

笑顔のままアイオリアにそう詫びた。

「あ、いや、オレが変に気を回しすぎただけだから……何でもないならいいんだ、よかった」

考えてみれば偶々前4日の訪問リズムが規則的になっていただけで、きっちり時間が決まっていたわけでも訪問時間を予告されていたわけでもないのである。
一人で勝手に先走って余計な心配をして損した……まぁ何事もなくてよかったけど、とアイオリアが安堵しつつ自嘲していると、不意にシャカがアイオリアに向かって無言のまま両腕を差し出してきた。

「?」

シャカのこの突然の謎行動の意味がわからずアイオリアがその場に佇立していると、シャカは察しの悪いアイオリアに少し苛立ったかのように眉間を寄せ、今度は急き立てるように突き出した両腕を更に彼の方に突き出した。
ここで漸くシャカのその行動の意味、つまり『ハグしてくれ』と言っているのだということを理解したアイオリアは、それならそうとちゃんと言葉に出してくれよと心の中で軽く文句を零しつつ、その無言の圧力めいた要望に応じてシャカの身体を抱き寄せた。
自分より随分と華奢なシャカの身体がすっぽりと両腕の中に収まると、応じてシャカの細い両腕が自分の背に回り、確りと抱き返して来たのがわかる。ここのところ一方的に目的を果たしてさっさと帰っていたシャカが急にどうした風の吹き回しかとアイオリアは思ったが、直後、三日前の記憶が蘇るとともに一つの可能性に思い至った。

「シャカ、もしかして今日はハグをする日だったりするのか?」

アイオリアは絹糸のようなシャカの金髪に頬をすり寄せながら、その耳元に唇を寄せ囁くように問いかけた。
三日前は『プロポーズ・デー』と言って相手に思いを告白する日で、その告白そのものがつまりその日のプレゼントのようなものだった。
その前後が薔薇だったりチョコレートだったりぬいぐるみだったりと物品をもらっていたせいですぐにピンと来なかったのだが、このバレンタイン週間に贈られるプレゼントは必ずしも物品とは限らないのだということは二日目にして既に実証済だった。それを思い出したのである。

「正解だ」

シャカもアイオリアの耳元に唇を寄せ、同じく囁きかけるようにそう答えた。

「あっは、当たった……」

嬉しそうに言って、アイオリアはシャカを抱く腕に力をこめた。
こんな風にシャカと触れ合うのは久しぶりだな、とアイオリアは恋人の温もりを心地良く堪能していたが、実際には5日ぶりくらいなので大したことはない。単に主観の問題である。
そこからしばし二人は無言で抱き合ったまま時の流れに身を任せていたが、しばらくしてアイオリアの方から腕を解き、少しだけシャカから身体を離した。
もちろんここでシャカを解放する気などアイオリアにはなく、まだ陽は高い場所にあるもののせっかくいい雰囲気になったのだからこのまま先に進んでしまえと考えて、次の行動へ移ろうとしていたからである。
数秒ほど見つめ合った後、アイオリアは再びシャカを抱き寄せながら彼の唇に自分の唇を寄せていった。だが唇と唇が重なり合うその直前、シャカの手がそれを遮った。
まさかここまで来てシャカに拒否されるとは思わず、いい感じに盛り上がった勢いでキスする気満々だったアイオリアは、驚いたように目を丸めてシャカの顔を見た。
その目が何で? どうして? と訴えかけていることを感取したシャカは短く、だがはっきりと「今日はダメだ」と拒否の意をアイオリアに伝えた。
アイオリアはますます目を丸め、「え?」と間の抜けた声で聞き返した。

「だから、今日はまだダメだと言っている」

拒否の返答を繰り返すシャカにアイオリアは、今日はまだダメってハグは良くてキスはダメなのか? 今日がダメならいつになればキスしていいんだ? と混乱してハテナマークを飛ばしまくった。

「とにかく今日はダメだ」

そう言ってシャカはアイオリアの胸を軽く押し、彼から身体を離した。
決まった時間(は今日で崩れたものの)にやって来て、目的を済ませたらさっさと帰っていくというパターンがこの数日ですっかり定着していることから、あ、今日もこれで帰っちゃうのか……と内心で一気に落胆したアイオリアだったが、その予想に反してシャカは帰るとは言い出さず踵を返す様子も見せることなく、じっとアイオリアを見上げていたかと思うと今度は唐突にその名を呼んだ。

「アイオリア」

「うん?」

「……腹が空いたのだが」

「は?」

これまた唐突なシャカの空腹アピールに、アイオリアの目が三たび丸くなった。

「だから腹が空いたと言っているのだが……」

「えっ? あ! ああ、うん、そう言えばちょうど昼飯時だもんな」

やや返答が的外れになったのは、よもやシャカの方から空腹を訴えて来ると全く思っていなかったからだ。何故ならシャカが自分から空腹だと言い出すことは、非常に珍しいことだからである。
いくら神に近い男と言われてはいても、シャカとて一応生身の人間。霞を食べて生きているわけではないので普通に飲食はするし、身体は細くても食が細いというわけでは決してないのだが、ただシャカは食べ物に対しての執着が薄いと言うか食べなければ食べないでもいいと思っている節があるようで、一緒に居ても彼の方から空腹を言い出すことは極々稀なことだった。
そのシャカが唐突に腹が減ったと言い出したのだからさすがにアイオリアも少なからず驚かされたのだが、極めて珍しいこの機を逃す手はない。すかさずそう考えたアイオリアは、即座にシャカに誘いを向けた。

「オレもそろそろ昼飯にしようかと思ってたところだし、よかったらこのままウチで食べて行かないか? 大したものはないが、量だけは充分あるから遠慮はいらないぞ」

シャカは恋人を相手にそんな遠慮をするタマではないし、ついでに言うなら恋人相手じゃなくても遠慮などするタマではない。そもそも少しでも遠慮があったら空腹アピールなどしないだろうし、どういう風の吹き回しかは知らないが恐らくシャカも最初からそのつもりで自分に水を向けたに違いない。それくらいのことは少々鈍いところのあるアイオリアにも容易に察しがついたが、だからこそ敢えてこんな風に軽い調子でそれに応じたのである。
アイオリアのその誘いに、シャカははっきりとした喜色を浮かべて微笑みながら頷きを返した。

昨日までの4日間は滞在時間10分足らずで帰っていたシャカは、この日は打って変わって夕刻までの時間を獅子宮で過ごしていった。
アイオリアは数日ぶりにシャカとゆっくり時を過ごし、その間何度もハグをして都度都度先に進めそうないい雰囲気にもなったのだが、それでもシャカはその先へは断固として進ませてはくれず、最後まで頬への軽いキスすらも許してはくれなかった。
結局この日はアイオリアにとって、幸せながらもある意味蛇の生殺し的な一日となってしまったのだった。

Next>>