「ジュリアン様」 窓辺でぼんやりと外を見ていたジュリアンは、自分を呼ぶソレントの声で我に返った。 「はい?」 振り返るとソレントが、少し不安そうな、心配そうな顔で自分を見つめていた。 「どうしました? ソレント」 「いえ、お元気がないようでしたのでまだ体調が芳しくないのかと……」 「そんなことはありません、もうすっかり元気ですよ。でなければ、退院なんかできないでしょう?」 ジュリアンは強いて笑顔を作り、ソレントに向けた。 「そうですか。それならばよいのですが……」 そうは答えたものの、ジュリアンが何故元気がないのか、その原因はソレントにはわかっていた。 カノンがまだ来ていないからだ。 昨夜自分がここから帰る時には、カノンも今日は退院の時間に合わせて迎えに来ると言っていたのだ。だがそのカノンは、未だ姿を現してはいない。 一体何をしているんだ? と、ソレントは内心で怒りにも似た焦りを覚えずにはおれなかった。 「退院の手続きは、済ませていただけましたか?」 「あ、はっ、はい。たった今済ませてきました」 「ありがとう。迎えの車は?」 「はい、もう用意は出来ております」 「そうですか。ではもう帰ってもいいのですね?」 「え、ええ、そうですが……」 ソレントの表情が、今度は困惑したように動いた。 「どうかしましたか? まだ他に何か?」 ジュリアンは窓辺を離れると、ソレントにそう聞き返しながら鞄の置いてあるソファの方へ移動した。 「いえ、そうではないのですが……」 言いにくそうに言葉を濁すソレントに、ジュリアンは小首を傾げ 「どうしたのです? 何か変ですよ、ソレント」 からかうようにして、小さく笑った。 「ジュリアン様、カノンがまだ来ておりません。退院の時間までには来ると、言っていたのですが」 一瞬だけ躊躇った後、ソレントは思いきって口を開いた。 平然とした風を装ってはいるが、ジュリアンもカノンのことを待っているのだろうと思ったからだ。 だが――― 「彼は……来ません」 「えっ!?」 だがジュリアンから返ってきた答えは、ソレントの予想外のものだった。 「来ないって、カノンがそう言っていたのですか?」 昨夜は確かに自分の方がカノンよりも先に帰り、その後しばらくジュリアンとカノンは二人だけになっている。その時に状況が変わっていたのだとしてもおかしくはないが、それにしてもちょっと不自然だった。 「そうではありませんが、私にはわかるのです。今日だけではなく、多分、彼はもう二度と私の前には……」 曖昧に答えて、ジュリアンはソレントに気付かれぬように、ほんの一瞬だけ無人となったベッドを見遣った。 ジュリアンが目を覚ました時にはもう、カノンの姿はここから消えていた。だがジュリアンも漠然と、本当に漠然とだが、そうなるであろうことを予期していた。だからショックは殆ど感じなかった。だがそれと同時に、恐らくカノンがもう二度と自分の前に現れてはくれないであろうことだけは、嫌でも思い知らざるを得なかったのだ。 ジュリアンが目覚めた時、ベッドにはまだほんの仄かにカノンの気配と香りが残されていたような気がした。そして自分自身の身体には、今でもはっきりとカノンの温もりが残っている。 それでももう、カノンは居ない―――。 ジュリアンの全身に残るカノンの温もりが、とてつもなく大きな喪失感を伴って、その現実をジュリアンに実感させていた。 「それはどういうことですか? カノンと何かあったのですか?」 自分が帰った後、一体二人の間に何があったと言うのだろうか?。 いずれは何かしらの形でけじめなり決着なりはつけねばならないが、今しばらくの間は、少なくともジュリアンの心身が完全に復調するまではこのままで居るつもりだと、そう言っていたのはカノンの方だ。 それが何故、こんなに急に事態が変わってしまったのか?。ソレントにはその理由がまるでわからず、戸惑う一方だった。 「いいえ、そういうわけではありません。ただ彼には彼の、私達にはわからぬ事情があるんです。私のわがままばかりを押し付けていては、彼に迷惑だ。それがわかったと言うまでのことですよ。だからもういいんです」 「ジュリアン様……」 ジュリアンははっきりとした笑顔を作り直してソレントに言ったが、それが真実ではないことをソレントは見抜いていた。 だがそれを更に深くジュリアンに問い質すことを、ソレントは躊躇った。 ジュリアンとカノン、二人の間に何かがあったのであろう事は間違いない。それによって、ジュリアンがまた心に負ってしまったのであろう傷に、不用意に触れてしまうことを恐れたからだ。 ジュリアンは自分一人で、懸命にそれを吹っ切り、自分の中で決着をつけようとしている。それがわかるだけに、ソレントは何を聞くことも出来なくなってしまったのだ。 「さぁ、もうこんなところに長居は無用です。行きましょう、ソレント」 ソファの上の鞄を取り、ジュリアンは黙りこくっているソレントを明るく促した。それは明らかなる空元気で、その声には力も張りもなく、ソレントの胸の端にチクリと棘が突き刺さったような痛みが走った。 「はい……」 ソレントは、ただジュリアンの言葉に頷くことしか出来なかった。 一方その頃、双児宮ではカノンが、見送りに出てきたサガとアイオロスに笑顔で別れを告げていた。 「それじゃあサガ、アイオロス……」 「気をつけてな」 自分で失笑してしまうほどにありきたりだったが、アイオロスにはこれしかかけるべき言葉が見つからなかった。 カノンからジュリアンの元へ行く、と聞いた時、アイオロスもまたサガと同様、黙ってカノンの決断を受け入れた。やはりそうなる可能性を予想していたからでもあったが、何も言わずにカノンを送りだしてやることが、今の自分達がカノンにしてやれる唯一のことだと思ったからだ。 個人的には、サガのためにも無理にでもカノンを引き止めたい気持ちはあった。 長い擦れ違いの時を経て、ようやく一緒に暮らせるようになった弟のことを、サガがどれほどまでに大切に思っているか、アイオロスは誰よりも良く知っている。そんな兄弟を、再び離れ離れにはさせたくはなかった。 それでもアイオロスは、最終的にはカノンの意志を尊重することを選んだ。サガがそれを望んでいることが、敢えて確認せずともわかっていたからだ。 「サンキュ」 そしてそんな二人の気持ちは、もちろんカノンにも通じていた。口に出している言葉は少なかったが、その中には万感の思いがこめられていた。 短い礼を告げ、カノンはアイオロスからサガの方へ視線を動かした。応じてサガは慈しむようにカノンを見つめ、そして無言のまま励ますようにしっかりと頷いた。 「じゃ」 軽く右手を上げて踵を返し、カノンは一歩一歩を踏み締めるようにして、階段を降り始めた。ようやく住み慣れ始めた双児宮が、歩を進めるごとに徐々に遠ざかっていく。ほんの少しだけ、寂しさがカノンの胸の内を過っていった。 「カノン!」 三十数段程を降りたところで、背後からアイオロスの声が追いかけてきた。反射的に足を止め、カノンが振り返ると、アイオロスが小走りにカノンの方へ向かってくるのが見えた。そしてあっという間にカノンの側に駆け寄ると、アイオロスはカノンの両肩を掴み、そして言った。 「もしいつか、ジュリアンの元を離れる時がきたら……必ずここへ戻ってこい。お前はいつまでも女神の聖闘士、そしてオレ達の仲間だ、それを忘れるな。オレ達はいつでも待っている。だからいいな、必ずだぞ」 十センチほど上空にあるアイオロスの薄い青色の瞳が、悲しげに優しく、そして真剣に瞬きながらカノンの濃蒼の瞳を映し返していた。 アイオロスの言葉は、100%彼の本心である。アイオロスは自分の愛する者が大切に思っている人間を、同じように大切に思うことが出来る心を持った人間だった。そんなアイオロスの純粋な気持ちが、胸が痛くなるほどに嬉しかった。 「ありがとう、アイオロス」 それは先刻のアイオロスと同様、月並みすぎる言葉だった。だがこれはカノンがアイオロスと出会って初めて、心の底から告げた精一杯の感謝をこめた一言であった。 そしてカノンは改めてアイオロスに兄を託すと、今度は一度も振り返ることなく十二宮を後にした。 窓の外を流れる景色を、ジュリアンはぼんやりと眺めていた。 幼き頃より常に身近に在ったエーゲ海。眼下に広がる深く澄み渡った紺碧の海は、いつもジュリアンの心を慰め、そして癒してきた。 だが今のジュリアンの心は、癒されることも慰められることもなかった。 何を感ずることもせず、何を考えることもなく、ジュリアンはただ瞳にその景色を反射させているだけだった。 「ジュリアン様、間もなくお屋敷に到着します」 車に乗ってから、ソレントが初めてジュリアンに声をかけた。車に乗った途端、塞ぎ込むようにして黙り込んでしまったジュリアンに、ソレントは今の今までとても声をかけることが出来なかったからだ。 「ああ……」 気の抜けた返事をして、ジュリアンは反対側のウインドウの方へ視線を転じた。その視線の先には青い空と蒼い海に囲まれた岬と、その上に建つ広大な屋敷がある。いつもであればやはり自宅が近づくにつれて自然と安堵を覚えるのだが、今日は何の感情も沸き上がってはこなかった。まるでポッカリと大きな穴が開いてしまったかのように、ジュリアンの心の中は空っぽだった。 「お疲れになられたのではありませんか? ご自宅に着きましたら、どうぞゆっくりとお休みになって下さい」 まるで人形のように表情を失っているジュリアンの横顔に、ソレントは労るように言った。内心では焦りにも似た感情すら覚えるほどにジュリアンを案じているソレントだったが、口に出してはこんな風に当たり障りのないことしか言えなかった。ジュリアンの今の気持ちを、察していたからである。 「いえ、大丈夫ですよ、ソレント」 ジュリアンは無機質な笑顔をソレントに返すと、すぐにまた窓の外へと視線を戻した。 ソレントもジュリアンに倣うようにして、同じ方向に視線を向ける。今はただ、黙ってこうしてジュリアンの側に付いていることしか自分には出来ない。今はそれでいい。だがこの先、ジュリアンが新たに負ってしまったであろう傷を癒すために、一体自分が何をしたらいいのか、どうすればいいのか、ソレントにはまるでわからなかった。 ソレントはジュリアンと同じ景色見つめながら、自分の無力さを苦々しく噛み締めた。 鉛のように重い沈黙に支配された車は、刻一刻とソロ邸に近づいていく。 そこでカノンが彼らを待っていることを、ソレントも、そしてジュリアンも、今はまだ知らない―――。 |
||
END |
||
|
||