「サガ……カノンはまだ、海底神殿より戻らぬのか?」

いつも通り出仕したサガに、開口一番、心配そうに尋ねたのは、教皇シオンである。

「はい、今のところまだ……」

サガが答えるとシオンは、ふむ、と言って、考え込むように指先で形のいい顎を掴んだ。サガの横ではアイオロスが、やはり心配そうに表情を固めている。

「大丈夫かのう?」

「……何がでございましょう?」

「カノンじゃ。海闘士達の報復を受けておらねばよいのだが……」

貴鬼と、そしてその後にムウから詳しい話を聞いたシオンも、やはりそれを危惧せずにはいられなかった。カノン本人、そしてサガの意向は承知していたから、とりあえずここまで口は出さずに来たものの、やはりいわくつきの地に単身乗り込んだきり、何の連絡もなく2日も経てば不安も募ろうというものであった。

「やはり1人で行かせたのは、不用心だったかも知れんのう……」

ここは自分が命令してでも、サガを同行させるべきだったとシオンは今更ながらに思っていた。

「教皇様にまでご心配をおかけいたしまして、申し訳ございません。ですがカノンが海底に行ってまだ2日でございますし、その心配はいらぬかと存じます。恐らく、用事とやらに手間取っているのでしょう」

サガは表情、口調ともに一糸乱すことなく、平静にそう応じたのだが、残念ながらシオンにはそれは通じなかった。

「やれやれ、相変わらずそなたも素直じゃないのう……」

「……はい?」

シオンはやれやれ、と言いたげに苦笑した。

「本当はカノンのことが心配で心配で仕方がないのであろう?。別に無理をしてそれを隠すこともなかろうに……」

シオンに内心をピシャリと言い当てられ、サガは恐縮の態で赤面した。さすがサガの10倍近くの年数を生きているだけあって、その洞察力は並々ならぬものがある。

「恐れ入ります……。ですが教皇様、カノンに何かあれば私にはすぐにわかります。カノンの身に危険があれば、それは私にとって我が身に起こる危険も同様。どんなに離れていても、すぐに察知することはできます。ですが幸い私もそのような危機を感じてはおりませんし、重ねて申しますがご心配には及ばないかと存じます」

「ほう、それは双子マジックとやらか?」

からかうようにシオンに言われ、サガは再び赤面した。

「そのように表せるものでもございませんが……」

サガは曖昧に言って誤魔化したが、つまるところそう言うことである。カノンの身に何かあれば、自分はすぐに察知できる……確かにそのこと自体にはサガはほぼ絶対に近い自信は持っていたが、自信があるからと言って心配が消えるわけでもない。だがカノンの気持ちが誰よりもわかる以上、カノンの意向を尊重しないわけにもいかず、それを認めた以上は不用意に自分の内心の心配を顕にするわけにはいかなかった。

「カノンに危害を加えれば、それは即ち、聖域への宣戦布告じゃ。海皇が居らぬ今、海闘士達もそんな愚かな真似はすまいと、余も信じたいのだがな……」

それで収まらない感情を持つ者も、海闘士の中には当然いよう。その者たちが激発しないとも限らない。増してカノンは、丸腰で行っているのである。それを見て、復讐心が触発される恐れは充分にあろう。それをシオンは危惧しているのである。

「なぁサガ……やっぱり今からでも、誰か行かせたほうがいいんじゃないのか?。お前やミロが行くのはマズイにしても、他の者なら……何だったら私が行っても構わないのだし」

シオンの危惧が自分の持つそれと全く同一のものであることを理解したアイオロスが、やや遠慮気味にサガに言った。

「いや、次期教皇であるお前を行かせるわけにはいかないよ。ありがとう、アイオロス。気持ちだけ受け取っておく」

サガは素直に、アイオロスの気持ちが嬉しかった。アイオロスは心底、カノンを心配してくれているのだ。無論それは、カノンがサガの弟であるからに他ならないが、アイオロスがカノンを実弟同様に大切に思っていてくれることに変りはなかった。だが言わばこれは自分たちの、いや、カノンの私事である以上、聖域の次期教皇たるアイオロスを、このことに関わらせるわけにはいかないのだ。

サガの言葉の裏にあるものを正確に読み取ったアイオロスは、それ以上は何も言えず、不安げな目をサガに向けたまま、黙り込んだ。

「サガ、そなたの言うことはよくわかったが、やはり万一の時のことは考えておくべきであろうな。そなたがカノンの危機を察してから行動を起こしたのでは、遅いかも知れぬ。何しろ海の底じゃからのう……。今から有事の備えをしておく必要はあるかも知れぬぞ」

「はっ……」

確かにそれは、シオンの言う通りだった。だが本当に万が一そんな事態になったら、サガは真っ先に自分が駆けつけるつもりでいた。だがサガはそれは口には出さず、シオンの進言をそのまま受けるだけに止めておいた。

その時、教皇の間の扉が勢い良く開いて、珍しく血相を変えたカミュが駆け込んできたのである。

「何事か?」

シオンが尋ねると、カミュは一礼してシオンに非礼を詫びると、サガとアイオロスの方へ向き直った。

「サガ、ミロがいません」

「何?!」

サガの表情も、瞬く間に強張った。

「申し訳ありません、気をつけていたんですが、一瞬目を離した隙に……」

カノンがソレントと海底神殿に行った後、サガは納得しきれていないミロが軽挙に出ないようにと、カミュに頼んでずっとミロの側についていてもらったのである。言い方を悪くするとカミュにミロを監視していてもらったわけだが、どうやらミロの我慢が限界に達したらしい。元々ミロはかなり気が短い方であるし、そろそろ忍耐力も尽きるころだとサガも懸念してはいたのだが……。ミロがカミュの目を掠めて姿をくらませたと言うことは、行き先は1つしかなかった。

「海底神殿に行ったのか?!、あいつ!」

サガの内心を言葉にして出したのは、アイオロスであった。さすがのアイオロスも、それはマズイと青ざめた。それでなくともミロは、カノンが海底神殿に大人しく行ってしまったことを不満に思っているし、海闘士達には猜疑の目しか向けてない。まだ何事も起こってないと言うのに、そんな冷静さを欠いた状態で、あの血の気の多い火の玉小僧が海底神殿に乗り込んで行って下手なことをしたら、取り返しのつかないことになりかねない。

「教皇様、少しの間勝手をさせていただきます」

サガはシオンにそう言うが早いか、シオンの返答も待たずに教皇の間を飛びだした。

「お、おい、待てよ、サガ!」

アイオロスが慌ててサガを追い、更にカミュがそのアイオロスの後を追った。

「……今の今まで平静ぶっておったくせに……何じゃあれは……」

後に1人残されたシオンは、まるで目の前を台風が通っていったかのような騒ぎに、さすがに唖然とせずにはいられなかった。




「カノン……」

地上と海界とを結ぶ通路の1つであるスニオン岬へ続く道を歩きながら、アイザックは横のカノンに声をかけた。

「ん〜?」

どことなく寝ぼけたような、かったるそうな声でカノンが返事を返すと、アイザックは一瞬の間を置いた後に、思い切ったように言った。

「ソレントは……貴方のことが好きだったんですね……」

カノンがピタリと足を止め、アイザックを見る。カノンのその表情で、アイザックは確信を得た。

「やっぱりそうでしたか。多分、そんなとこじゃないかと思ったんですけど……当たりでしたね」

言いながらアイザックは小さく肩を竦めた。

「どことなく、いつものソレントと様子が違ってましたからね」

「お前、今日あいつに会ったのか?」

「あ、いえ……ソレントが一昨日、貴方を突然連れて帰ってきた時の話ですよ」

その時のことを思い出しながら、アイザックがくすっと笑った。

「その時すぐにはわからなかったんですけど……でも少ししてから、何となくそうじゃないかなって……」

「……何でそう思ったんだ?」

「何でと言われても、ただ何となく……としか言えませんけど。本当に何となく、ソレントの気持ちがわかったような気がしただけなんです」

アイザック自身、はっきりとした根拠は持っていなかった。理屈ではなく、ただ本当に漠然と、ソレントの気持ちを感知することが出来ただけのことだったのだ。

「お前がそんなに人の気持ちに敏感な奴だったなんて、知らなかったな……」

半分茶化すようにカノンは言ったが、正直なところ、些か面食らってはいたのだ。これは自分とソレントとの間だけの話だし、まさかアイザックに気付かれてるなどとは思ってもみなかったのである。

「そうですね……きっと以前のオレだったら、気付かなかったと思います。それに……」

そう、人を愛するという気持ちを失い、心を凍てつかせていたこの間までの自分であれば、恐らくソレントの気持ちを看取することはできなかっただろう。だがカノンが変わったのと同様、アイザックにも変化はあったのだ。いや、変化と言うよりも海闘士になる以前の、聖闘士になるべく訓練を受けていた頃のアイザックに戻ったのだと言ったほうが、正解に近いかもしれなかった。

「それに……何だよ?」

カノンが、アイザックが不自然に切った言葉の先を促す。

「それに、オレはソレントと年が近いですからね。そう言うところで、共鳴する部分があったんじゃないですか?」

言われてみれば確かに、ソレントとアイザックは2歳くらいしか年齢が離れていなかった。いわゆる同年代と言うやつで、となると感性のレベルも近いかほぼ同じかと言うところだろう。理屈や根拠抜きで、肌でわかりあえる部分があるのも納得できるような気がするカノンであった。

「あ〜、そうですか。おじさんにはわかんねーことですね」

やや自虐的というか、ヤケクソのセリフを吐いて、カノンは頭の後ろで手を組み、天を仰いで溜息をついた。さすがカノンも10歳以上年下のソレントやアイザックに、感性レベルを同調させることはできなかった。正直、8歳年下のミロの感性すら理解できないこともあるのだから、無理もない話であるが。

「そんなことでヤサグレないでください」

応じてアイザックは、少し楽しそうに笑い声を立てた。それを聞いてカノンはますます憮然としていたが、実はアイザックは思うところの全てを口にしていたわけではなかった。

同年代特有の、肌で感じあえる部分があるとは言っても、実のところソレントとアイザックとでは根本的な気性が違う。相容れないと言う程ではないにせよ、どちらかと言えば正反対に近く、無条件で互いを分かりあえると言う関係では決してなかった。それだけに、少なくともついこの間までのアイザックであれば、ソレントのそんな微妙な心理状態を読み取ることは出来なかっただろうし、それを実感として感じ、理解することは出来なかっただろう。それを感じ取ることができたのは、少なからずアイザックの方にソレントと想いを同にする部分があったからだった。再会以後、驚くほどの変貌を遂げたカノンに、アイザックもまた憧憬の念を抱くようになっていたのである。だがもちろんそれは恋心とは全く別物であり、そのあたりがソレントと決定的に異なってはいたが、それでもカノンに対しての共通する想いの一端が、アイザックにソレントの気持ちを洞察させたのだった。

だがこれは、自分の胸のうちにだけひっそりと仕舞っておくべきもので、口にするべきことではなかった。

「ソレントは……芯の強い人ですから大丈夫ですよ」

不意に表情を改めて、アイザックは唐突に言った。

ソレントの想いを察したのと同時に、アイザックはカノンがそれを受け容れられないであろうこともわかっていた。単に年齢差があるからと言う問題だけではなく、今のカノンには誰か大切な人間が、恐らく聖域に居るのであろう見当がついていたからだ。そしてソレント自身もそのことを知っているに違いないと言うことも。

「ああ」

カノンはそう短く答えただけで、それ以上は何も言わなかった。いや、言えなかったのであろう。カノンの心理を推し量ることはアイザックにはできなかったが、それでもそれくらいのことはわかった。

本当だったら、カノン本人に対して言うべきことではなかったかも知れない。知らぬふりをしてそっとしておけばよかったのかも知れない。そうも思ったアイザックだったが、アイザックはアイザックなり、カノンの心に少なからずかかっているであろう負荷を、ほんの僅かでも軽くしてあげることができたら……と言う一心からの行動であったのだ。もちろんこればかりはどうしようもないことで、カノンが悪いわけではない。だがソレントを傷ついた事実には変りはなく、それに対してカノンも罪悪感に似た気持ちを覚えずにはいられないだろう。でもソレントは、繊細な見かけによらずしっかりとした意志の強さを持った強い人だ。今は傷つき、打ち拉がれていても、ソレントは立ち直るのに他人の助力は必要としないだろう。すぐに自分の力で立ち上がってくる。アイザックはソレントの強さを信じており、そのことをカノンに伝えたかったのだ。

だがやはり未熟さゆえだろうか……とてもそれを的確にカノンに伝えられたとは自分でも到底思えず、余計なことに立ち入り過ぎたかも知れないと、アイザックはほんの少しだけ後悔した。多分、自分などに言われなくても、カノンにもわかっていたに違いないことなのだから……。

「……ありがとな……」

少しして、カノンがポツリと呟くように言った。アイザックが無意識のうちに伏せていた顔を上げてカノンを見ると、カノンはどこか照れ臭げに、だが優しい笑みをアイザックに向けていた。そしてまた、ポン、とアイザックの頭を叩くと、再びゆっくりと歩きだした。少し遅れてアイザックもカノンの後ろを歩き始めたが、数メートル行ったところでまたピタッとその足を止めた。

「……カノン?」

すぐにカノンに並んでアイザックがカノンを見上げると、カノンは青ざめた顔を強張らせていた。どうしたんです?と言おうとした瞬間、アイザックがビクリと身を震わせた。明らかに海界の人間のものではない、大きな小宇宙を感じたからだ。

「この……小宇宙は……?」

海将軍並……いや、或いはそれ以上の小宇宙に、アイザックは思わず身構え、カノンに聞くともなしに聞き返した。

「あんっの、バカッ!」

だがカノンはアイザックには答えず、怒鳴るような独り言を言うが早いか、その場を駆け出した。

「カノン!」

全く事情がわからないアイザックだが、反射的にカノンを追って走り出していた。





「ここが海界……か」

スニオン岬の岩牢奥から海界へ降り立ったミロは、初めて目の当たりにする海の底の世界に、無意識のうちにそう呟きを漏らしていた。

「……あれがメインブレドウィナ……かな?」

何キロ、いや何十キロ先なのか距離感は測れないが、前方にうっすらと見える巨大な柱があった。恐らくはあれが、海界で最も巨大で強固と言われるメインブレドウィナであろう。もし違ったとしても、少なくともあの柱を目指して進んでいけば、海底神殿に辿り着くには違いない。そう当たりを付けて、ミロは前方に見える柱の方へ歩き始めた。

『ここに13年間いたのか……あいつ……』

自分の足が地面を踏み締める音が、やけに大きく反響する。それ以外の音は殆ど聞こえず、周囲は恐ろしいまでの静寂に包まれていた。

「こんなろくに物音もしないところに閉じ篭もってて、よく気が狂わなかったな、あいつ」

静寂が重い塊のように感じ、それに押し潰されそうな錯覚すら覚える。住めば都、とも言うが、自分だったらとても耐えられないだろうな、と、ミロは思った。

カノンはこの地に13年間も……そのうちの何年かは恐らくたった1人で居続けたのだ。飽くなき野望と、聖域、そしてサガへの恨みだけを抱いて過ごしたその13年間は、一体カノンにとってどんな日々だったのだろうか?。ミロには想像もつかなかった。

重苦しい気分に苛まれながら、ミロがひたすらにメインブレドウィナを目指して歩いていると、正面から大きな小宇宙が近付いてくるのがわかった。一直線に、自分の元へと近付いてくるその小宇宙が誰のものであるかなど、考えるまでもなくミロにはわかっていた。

「カノン……」

ホッとして表情を緩めると、ミロはその場に足を止め、間もなくここへ来るであろうカノンを待った。





「ミロ!!」

ミロの姿を視界に収めるなり、カノンは声を張り上げてその名を呼んだ。

「お前……何でこんなとこにっ?!」

「カノンを迎えに来たに、決まってるだろ?」

ミロの側に駆け寄るなりカノンが問い質すと、ミロはしれっと答えてにっこりと笑った。

「迎えにって……バカッ!、おとなしく待ってろって言ったじゃないか!!」

「待ってたよ、2日もおとなしく。なのに一向に帰ってこねえんだもん。痺れが切れた」

「アホッ!たった2日くらいで、痺れ切らしてんじゃねぇっ!!」

カノンは呆れ果てたが、怒鳴り声はそれに反比例してますます大きくなった。

「たった2日、じゃねえよ!。オレがこの2日間、どれだけ心配したと思ってんだ!待ってる方の身になってみろ!」

「だから、最初から心配なんかいらねーっつったろうが!」

「心配するなったって、するに決まってんだろっ!」

確かにそれはミロの言う通りで、カノンは一瞬、言い返す言葉に詰まった。

「だからって……何もこんなとこまで来ることねえだろう!。考えなしに乗り込んで来やがって、要らぬ騒ぎを引き起こしたらどうするつもりだったんだ?!」

「オレはカノンを迎えに来ただけなんだ、別に騒ぎを起こす気なんかないよ」

「バカ!、お前にその気がなくても、乗り込んでこられた方はそうは思わないんだよ!」

「乗り込んできたわけじゃないって。さっきから言ってるだろ、お前を迎えに来ただけだって」

「だから、オレも言ってるだろう!。いいか、お前にその気が無くても、黄金聖闘士だっつーことで海闘士達が警戒するに決まってるだろうがっ!。サガにもそう言われてただろう!」

「それはわかってるよ。だから余計な警戒させないよう、聖衣着ないで来たんじゃないか!」

言われてカノンは、改めてミロの姿を見直した。確かにミロは蠍座の聖衣は纏っておらず、カノンと同様Tシャツにジーパンと言う、普段着の軽装だった。だがそれはそれで、カノンを大きく脱力させた。

「お前なぁ………」

ミロの言い分はわからないでもない。わからないでもないが、そもそもそう言う問題ではないのだ。聖衣を纏っていようがいまいが、自分達の縄張りでこんなデカイ小宇宙を遠慮なく発せられたら、何事が起きたかと騒ぎになるに決まっているだろう。自分の場合は一応正当な理由があったから警戒もされなかったが、他の者では自ずと話が異なるのだ。

「心配だったんだ、仕方ないだろう!」

口を尖らせてそう言うなり、ミロはいきなりカノンの腕を取って引っ張り、強引にその身体を抱き寄せた。まさかいきなりそんな行動に出られると思ってなかったカノンは、抗う間もなくあっと言う間にミロに抱き締められる。

「おっ……おい、何すんだ、こんなところでっ!」

カノンは咄嗟にミロから身を離そうともがいたが、ミロがそれを許さなかった。

「スッゲー心配だったんだ……カノンに何かあったらどうしようって……。オレの手の届かないところで、カノンに万一のことがあったらオレ……。そう思ったら、居ても立ってもいられなかった……」

カノンの身体を強く抱き締め、ミロがカノンの耳元で囁いた。それはまるで母親に甘える子供のようでもあり、カノンの胸を切なくさせる。

「バカ……何もあるわけねーだろ、縁起でもないこと言うんじゃねえよ……」

カノンはミロを窘めたが、その口調は直前までとは一変して、優しく柔らかいものになっていた。

「カノンに怒られるのはわかってたけど、でも……」

たった2日……カノンの言う通り、たった2日だが、ミロにはその2日が一週間にも10日にも思えていた。カノンのかつての仲間のことを信じたい気持ちはあったが、それでもやはり不安は拭い去れなかった。カノンの彼らに対する罪悪感がどれほど大きいか、贖罪の念がどれほど強いかミロは知っていたから……。

「……でも……よかった、カノン……無事で……」

カノンの身体をその手に抱いて、やっと心底安心したミロは、今にも泣きだしそうなか細い声を絞り出した。

「だから……大丈夫だって言ってただろ……」

そうは応じたものの、ミロの気持ちは痛いほどカノンの胸に染み渡っていた。しょうがないな、と呆れつつも、ミロの気持ちが嬉しくて、ミロへの愛しさが込み上げてきて、カノンは無意識のうちにミロの背に腕を回しそうになっていた。

その時、背後にふと人の気配を感じ取り、カノンはミロの背に回しかけた手を途中で止めた。

ミロに抱き締められたままの状態で、カノンが肩越しに振り返ると、そこには唖然呆然とした顔をアイザックが、所在なげに立ち竦んでいたのである。

『ヤバイ!、こいつがいたこと忘れてたっ!!』

カノンは大慌てでミロを自分からひっぺがすと、あたふたとアイザックの方へ振り返り、わざとらしく引きつり笑いを向ける。

「カノン……その人は……?」

まだ呆然としたまま、アイザックがカノンに問い返す。

「あ、あ〜……こいつは、その、オレの友達で……そのっ、何だ……」

半パニクり状態のまま、カノンがわけのわからない言い訳をしていると、カノンにひっぺがされたミロがカノンの背後からひょいっと顔を出した。ミロもようやく、自分達以外の第三者の存在に気付いたのである。

「あれ?、お前……確か水晶聖闘士んとこにいた……」

アイザックの顔を見たミロが、おや?と言うように目を瞠った。

「……覚えててくれたんですか?」

アイザックが意外そうにミロに聞き返すと、ミロは頷いて

「おう、覚えてるさ。へぇ〜、前に会ったときはまだ小さかったのに、随分でかくなったな。そうか、そう言えばお前、海闘士になってたんだっけ」

成長したアイザックを見ながら、懐かしそうに言った。

「何だ?、お前達……会ったことあんのか?」

自分を挟んでいきなり会話を交わし始めたミロとアイザックを、目をパチクリとさせながら見遣ってから、カノンが怪訝そうにミロに聞いた。

「ああ、一回だけだけどな。カミュがシベリアに行く時に、一緒にくっついてったことが何度かあるんだけど、そん時に水晶聖闘士のとこにいたこいつに会ったんだよ。氷河はまだ居なかったけどね」

ミロの答えに同調して、アイザックもカノンに頷いて見せた。言われてカノンも納得した。アイザックの師である水晶聖闘士の師はカミュ。そのカミュを介して、カミュの親友であるミロと孫弟子であるアイザックが面識を得ていたとしても、まぁ不思議なことではない。ただミロがたった一回会っただけの、しかもまだ幼かったアイザックのことを覚えていたこと自体は、少々驚きであったが。

「えっと、お前名前なんだっけ?」

「アイザックです」

「そうそう、アイザック。どうしてお前がカノンと一緒にいるんだ?」

ミロはアイザックにラブシーン(と言うほど大袈裟なものではないが)を見られたことなど全く気にもしていないらしく、能天気にアイザックに聞いた。

「ああ、一緒に聖域に連れてこうと思ってな」

その問いにはアイザックではなく、カノンが答えた。

「聖域に?何で?……って、あ、カミュに会わせる為か!」

カノンとアイザックが、同時に頷いた。

「会わせたいのはカミュにだけじゃないけど、まぁ、とにもかくにも聖域に連れてってカミュに会わせりゃ、あとはどうにでもなると思ってよ」

「そりゃそーだ」

大雑把かついい加減なことを言い合って、カノンとミロは笑いあった。

『そうか……この人だったんだ……』

楽しげに会話を交わす2人を見て……と言うよりも、カノンのミロに向ける笑顔を見て、アイザックはカノンの大切な人間がこのミロであることを知った。最も、有無を言わせずあんなシーンを見させられたのだから、わからないわけもなかったが。

それにしても聖域の人間であろうことは分かっていたが、まさか自分も顔見知りの相手だったとは思わなかった。だからどうのと言うことはないが、奇妙な巡り合わせであることには違いなかった。

目の前の2人を見ながら、アイザックはふと、ソレントに思いを致した。恐らくソレントも、聖域に行った時にこの2人の関係を知ったのだろう。知ったと言うよりは、察したと言うことであろうが、いずれにせよソレントとしてみれば心中穏やかではいられなかっただろう。こうして見ているだけでも、この2人の間にある絆がどれほど強いものか、アイザックですら伺い知れるくらいなのだ。アイザックより遥かに感受性の強いソレントが、そのことをわからないはずもない。今になってやっと、アイザックはソレントが何故いきなりカノンをここへ連れ帰ってきたのか、その本当の理由がわかったような気がした。そしてソレントは恐らく、この結果も予期してはいたのだろう。予期していながら、敵わないとわかっていながらもそうせずにはいられなかったソレントの気持ちを、アイザックは察することが出来た。

「どうした?、クラーケン?」

カノンの声に鼓膜を刺激され、アイザックが我に返る。

「はい?」

「いや、ボケ〜ッと人の顔見てるからさ」

2人をぼんやりと眺めながら、知らず知らずのうちについ自分の考えに耽っていてしまったようである。カノンに不審そうな目を向けられ、アイザックは慌てて首を左右に振った。

「い、いえ、何でもありません。すみません」

「別に謝るこっちゃねえけど……」

変な奴だな、と、カノンは苦笑した。

「よし、それじゃ帰ろうか。もういいんだろ?、帰っても」

いいんだろも何も、ダメだと言ったって無理にでも連れて帰る気だろう……とカノンは思ったが、もちろんそれは口には出さなかった。

「ああ」

カノンが一言で短く答えると、ミロは満足そうに頷いた。

「じゃ、急ごうぜ。早くカミュにアイザックと会わせてやりたいし、何より大急ぎで帰んないと、サガ達までここに来ちゃうからな」

「……サガがここに来るって、何で?」

ミロがさらりと言った最後の一言を聞き止めて、カノンが訝しげに眉を寄せる。

「ん?、何でって、多分オレを追いかけて」

「追いかけて……って、まさかお前……サガに黙ってここに来たのか?!」

「当然。言えば絶対止められるからな。カミュを監視につけられちゃってさ、目ェ掠めて出てくるの、結構大変だったんだぜ」

ミロはあっけらかんとして笑ったが、カノンの方は対照的に顔色を青くした。

「お前、何ちゅう無茶なことを……それじゃ今頃、きっとサガ……」

「うん、血相変えてるだろうね」

ミロの口調からも表情からも、危機感の欠片も感じられなかった。カノンはあまりにお気楽なミロの様子に頭痛を覚え、思わず額の辺りを押さえた。

放っておいたらミロは何をしでかすかわからないから、くれぐれもよろしく頼むと、ここに来る前サガに言い置いてきたのはカノンである。サガもそれは十分承知してくれていたし、そのサガをミロはどうやって説き伏せてここに来たのかととは思っていたが、まさか無断で目を盗んで来たとは……。

「そんな勝手なことして、サガ、絶ッッッ対に怒ってるぞ。お前、帰ったらソッコーで説教のフルコースだぞ。ついでにアイオロスにも怒られるぞ、カミュにもな。言っとくけど、オレは知らないからな」

実際、知らないぞでは済まないとは思うのだが……。兄の様子は容易に想像がつくし、となると多分、いや絶対自分もとばっちりを食うであろうことは目に見えている。そう思うと、一気に気持ちと足取りの双方が重くなるカノンであった。

「オレもそれは覚悟してたけど、大丈夫、こいつが一緒に居るんだからそうは怒られないさ」

ミロはアイザックの肩を抱え込み、カノンに向かって自信たっぷりに言い放った。

「はぁ?」

ミロの言っている意味がわからず、思わずカノンがマヌケな声を上げると、ミロはこれまた自信たっぷりの笑顔を浮かべ

「だって、カミュの気は全部こいつに向いちゃうだろうし、サガにしたってアイオロスにしたって、第三者の前で無闇にオレを怒ったりはできないだろう?」

いけしゃあしゃあと、そんな図々しいことを言ってのけた。さすがにこれにはカノンも呆れずにはおれなかったが、それはそれとして、確かにミロの言う通りことにも一理あった。カミュは言わずもがなだが、サガにしてもアイオロスにしても、さすがにアイザックの前ではいつもの調子でミロを叱ることは出来ないだろう。アイザックが一緒に聖域に行くと知るや、ミロは瞬時にちゃっかりとそんな目算を立てていたのである。

「アイザックはオレの、ラッキーボーイだな♪」

嬉しそうにそう言って、ミロはアイザックに同意を求めたが、何が何だかよくわかっていないアイザックは、引きつり笑いで応じるのが精一杯だった。

そうそう上手く事が運ぶとはカノンには思えなかったが、こう言うところがミロらしいといえばミロらしいので、結局は深い溜息を1つついただけでそれ以上は何も言わなかった。それよりも何よりも、ミロの行動は全て自分の身を案じるが故のことなだけに、強く文句も言えなかったのだ。となると、多少のとばっちりも甘んじて受けるしかないと、カノンも内心で覚悟を決めた。

「さぁ、帰ろう」

ミロが笑顔でカノンを促す。ミロに頷きを返してから、カノンはもう一度、海底神殿の方を振り返った。ぼんやりと佇むメインブレドウィナに、ソレントの残像が重なる。ソレントのことを思うと、やはり胸に痛みを覚えずにはいられなかったが、カノンもアイザック同様、ソレントの強さを信じていた。身勝手かも知れなかったが、いずれまた、ソレントとも笑顔で会える日が来るだろう。そしてその日は、そう遠い未来の話ではないかも知れない。そしてその時が来たら、今度こそソレントとも新しい信頼関係を築いていくことが出来るだろう。そう願わずにはいられないカノンだった。

「カノン?」

「……ああ、今行く」

幾許かの胸の痛みと共にその願いを胸にしまい、カノンはミロと共に聖域への帰路についた。




案の定、スニオン岬でカノン達は、ミロを追って海界へ行こうとしていたサガ達と鉢合わせをした。カノンの無事な姿と、そしてとりあえず事態が面倒な方に進まなかった事に安堵した後、当然サガはミロの行動の軽率さを咎めようとしたのだが、やはりアイザックの手前怒るに怒れず、これまた事態はミロの思惑通りに運んだのだった。

最もそれは殆どその場限りで、カミュがアイザックを早々に宝瓶宮に連れて帰ってしまってから、ミロはサガとアイオロスにこってりと絞られる羽目にはなったのだが。

そして無論、カノンもそのとばっちりを免れることは出来なかったが、今回に限ってはそれが自分を心配していたが故の裏返しでもあることがありありとわかり、ほんの少しだけ嬉しい思いがしないでもないカノンであった。


END

【あとがき】

8888リクエストどうもありがとうございました。
さんざんお待たせしておきながら、この程度のものしか書けずに申し訳ございません(>-<)。
ソレント×カノン+アイザック、最後ミロ×カノンと言うリクエストをいただいておりましたが、ソレント×カノンと言うよりも、ソレント→カノンになっちゃったんで、これでリクエストにお応えできたのかどうかが甚だ不安でございます。
アイザックはクールなイメージよりも14歳の少年っぽいところを強調しようとして、逆に失敗してしまったような感がございます。
ソレント達海闘士は初書きだったので、ビデオを見たり原作を見たりしながら色々試行錯誤はしたのですが、イメージを著しく損ねておりましたら大変申し訳ございません。