◆決別の果てにあるもの
波音に混じり不自然に撥ねる海水の音と、よく知る、だがまだ馴染みの薄い小宇宙を感じ、カノンは失っていた意識を取り戻した。
双子の兄・サガにこのスニオン岬の岩牢に幽閉されてから一体どれくらいの時日が経過したのか――? 太陽と月の位置と光の加減で大凡の時間はわかるものの、満潮の度に意識が朦朧としたり失ったりを幾度か繰り返しているうちに日数の感覚はすっかりと失われ、自分がここに閉じ込められて一体何日が経過したのか既にわからなくなっていた。
だが最早そんなことはどうでもいい――カノンはとりあえず自分がまだ「生きている」ことを確認し、岩牢の天井を扇いで大きく吐息してから、月明かりを背負って立つ外の人間に向かって忌々しげに問いかけた。
「お前……自由に出て来れるようになったのか?」

カノンがその問いを投げた相手、それは自分をここに閉じ込めた双子の兄・サガであった。
いや、正確に言うならそこに居るのはサガであってサガではない、別個の人間である。
完全に別人となって再びカノンの前に現れたサガは、抑揚のない口調でカノンのその問いに答えた。

「ああ、まだ100%完全とは言えぬがな。私の意思の力が飛躍的に増し、以前より遥かに自由に出て来れるようになったことは事実だ。アレがお前をここへ閉じ込めたことが、皮肉にも私の存在を確固たるものにする決定打となったようだな。ある意味、お前のお陰と言えよう」

「へぇ、そいつは何より……」

故意に厭味たらしく吐き捨てて、カノンは苦笑を零した。
兄・サガの奥底でずっと燻り続けていたもう一つの悪の人格――その人格がカノンの前に顕現したのはこれが初めてではない。
カノンはこれまでにもほんの数回程度、サガの主人格が眠りについていた時に表に出て来ていたこちらの人格のサガと面識があった。
カノンがサガに向かって言った「天使の裏側は悪魔」という言葉は、サガの裡に潜むもう一つの人格、即ち今自分の目の前にいるサガの存在を既に知っていたからこそ言えたことだったのである。
これまではサガの主人格の意思の力の方が強く、別人格のサガは主人格が眠っている時にしか存在を現すことは出来なかった。
だが今の月光の位置から判断してまだ然程夜が更けているわけでもなく、サガが眠りについている時刻とは考えづらい。にも拘らずこちらの人格が主人格と取って代わっているとなれば、別人格が起きている主人格の意思を押さえ付けられるだけの力を得たと考えるのが自然であろう。それに実際、本人もそうだと明言している。
遂に主人格と別人格が入れ替わる日が来たか……だからあれほど忠告してやったのに――カノンはそら見たことかと言わんがばかりに笑ってみせた。
カノンはもう一つだけ大きな溜息を吐き出してから、改めてサガに問いかけた。

「何をしに来た?」

「私がこんなところに足を運ぶ理由など一つしかあるまい」

「オレの様子を見に来た……ってわけか?」

「まだ死んでおらぬのは小宇宙でわかったからな」

やや歪曲な物言いでサガはそれを肯定した。
カノンは投げ槍に「あっそ……」と応じてからすぐに言葉を接いだ。

「なぁ、あっちのサガを潰したんならオレをここから出してくれよ。お前なら出来るだろう?」

「私にも無理だ。この岩牢は神の力でしか開けることは出来ぬとお前も知っておろう。いかに強大な力を有しているからとて私は人間だ、神ではない」

その問いに対してのサガの返答は?膠無いものであった。
だがその返答はある程度予想通りのものだったのか、カノンは然程落胆している様子もなくボソリと呟いた。

「……往生際悪く足掻いてないで、潔く諦めてさっさと死ねってことかよ」

それを聞いたサガは冷ややかにカノンを見下ろしながら、その視線と同等の冷ややかな口調で静かに言った。

「アレが言っていたであろう? お前が改心し、女神に許しを請えばそこから出ることも可能だと」

"アレ"というのは言うまでもなくサガの主人格、いや主人格であった者のことである。

「はっ……簡単に言うけどな、出来ることと出来ないことがあるんだよ。そんなことくらいお前なら理解してるだろうに」

「あくまでアレが言ったことだ、私が言ったわけではない」

「何だよその屁理屈……」

「屁理屈ではない。事実だ」

淡々と身も蓋もないことを言われ、カノンは呆れたように小さく笑った。
そんなカノンに、サガは追い討ちをかけるかのように冷然と言い放った。

「改心など出来ぬと言うのなら、今お前自身も言ったように諦めて死の国へ旅立つしかなかろうな。戦女神とは言え相手は神、上辺だけの偽りの改心など通用しない」

「つまりお前はオレに大人しく死ねと駄目押ししに来たってわけか。それが血どころか遺伝子まで仲良く分け合った弟に対しての仕打ちかよ?」

別にカノンは情に訴えるつもりでそんなことを言ったわけではない。そんなものが通用する相手ではないことくらい、カノンが一番よく知っている。ただほんの少しだけ当て擦ってやりたくなっただけなのだが、どうやらこのサガにはそんなささやかな反撃すらも通用しないようであった。

「アレが幾度となく機会を与えて来たはず。それを悉く見逃して来たのはお前自身だ。自業自得、それ以上でも以下でもない」

「へぇ〜庇うんだ? あいつのこと。庇うって言うか自己弁護?」

「庇っているわけでも自己弁護をしているわけでもない。先刻から私は事実のみを言っているに過ぎぬのだからな。ただ私としては、お前の存在を失うのはそれなりに惜しい」

言いながらサガは腰を落とし、鉄格子の合間から手を差し入れた。
カノンは反射的に身を引こうとしたがサガがそれを許さず、素早くその顎を掴んで自分の方へ顔を引き寄せると、まるで慈しむようにカノンの唇に親指を這わせた。

「こんなことになるのなら、最後にもう一度お前にこの身体を抱かせてやれば良かったな」

サガがふっと細めた目に一瞬だけ慈愛の光が宿った――いや戻ったように見えて、カノンは思わず息を飲んで既に別人となっている兄の顔を呆然と見つめた。
僅か一瞬の自失の後、我に返ったカノンは唇を這うサガの指をいきなり噛んだ。噛み千切らない程度の強さで。
完全に油断していたサガは突如指に走った痛みに少しだけ表情を歪ませたものの、全く動ずる様子を見せずすぐに平然とその手を引いた。
カノンは今絞り出せる精一杯の怒気を眼光にこめ、サガを睨みつけた。

「はっ! この期に及んで言うようなことかよ。今の今まで自由に出て来ることすら出来なかったくせに!」

「そうだな……確かにそれはお前の言う通りだ」

指先に流れる血を舐め、サガが不敵に笑う。
ゾクリ――! とカノンの背筋が怖気だった。
それはカノンがよく知っているはずのサガの、全く知らない顔だったからである。

「お前……これからどうする気だ? 何かをやらかすつもりなんだろう?」

強いて気を取り直してカノンが尋ねる。
するとサガはほぼ間髪入れず、何の迷いも躊躇いも見せずに答えた。

「アテナを殺す。教皇、アイオロス共々な」

それを聞いたカノンは思わず絶句したが、ほんの数瞬の後、今度はいい知れぬ怒りが腹の底から込み上げて来て、カノンはその激情に任せて声を張り上げサガを問いつめた。

「結局オレの言う通りにするってことかよ! ならば何故お前はあの時オレを糾弾した!? 何故オレをこんなところに閉じ込めた!? 正しい進言をしたオレをこんな死の国への入口に放り込む必要がどこにあった!? オレは一体何の為にこんな目に遭わされなければならなかったんだよ!」

蓄積されて来たものがあったとは言え、ここに閉じ込められる直接の原因となったのは、カノンがサガに『女神と教皇、アイオロスを殺せ』と嗾けたことでサガの逆鱗に触れたからである。
にも拘らず、結局は自分のその提案を実行するとサガは言う。それならば何故自分はこんなところへ、ほぼ確実に死ぬとわかっているこの場所に閉じ込められねばならなかったのか? 善か悪かと問われれば間違いなく悪であるが、それでも自分は、自分達兄弟が覇業を成す為に正しい選択肢を示したはずなのである。その自分がこのような辛酸を舐めさせられ、それを正義面して全否定した挙げ句に実の弟をこんな目に遭わせている張本人が、涼しい顔をして何事もなかったかのように振る舞っている……あまりの理不尽さにカノンはサガに対する激しい怒りを抑えることは出来なかった。
確かにあの時のサガと今目の前にいるサガは言わば別人、自分を閉じ込めたのはこのサガではない。だが最早そんなことを慮る余裕などカノンにはなかったし、どっちがどうであろうが関係ない、どうでもいいことであった。
だが怒りに震えるカノンに対し、サガはどこまでも冷静で冷淡で冷酷だった。

「必要か……。そのようなものは私にはない、だがアレにはあった。それだけの話だ」

「てめぇがさっさと出て来てサガを抑え込んでさえいれば、そもそもこんなことにはなっていなかっただろうが!」

「そうかも知れんがあくまでも結果論にすぎぬな。それにお前自身もたった今言っていたばかりであろう? 出来ることと出来ないことがある……と。それは私とて同じだ、あの時には出来なかったのだから今更それを言ったからとてどうなるものでもない。残念だがお前は運が悪かった」

「運が悪かったで片付けるんじゃねぇよ!」

「実際そうなのだから仕方あるまい」

ああ言えばこう言う……とカノンは呪詛のように吐き捨てた。
最早怒る気力すら失われ、途端に馬鹿馬鹿しくなったカノンは一気に脱力してその場に座り込んだ。

「……私も残念だよ。邪魔者を全員片付けた後、私はお前に双子座の黄金聖闘士の地位をくれてやるつもりでいたのだ、アレの代りにな。そうすればアレは表向きにはずっとここ聖域に存在することになる。実態はどうあれ、アレの存在さえ確保出来れば私も何かと動きやすかったし、全てにおいて好都合だったのだからな。実に残念だよ」

言いながら小さく首を左右に振ったサガに、カノンが眉を潜めて聞き返す。

「サガの代りに……だと? つまりお前はお前自身の中でサガを淘汰した後、オレをそのサガの影武者に仕立てあげるつもりでいたと言うことか? サガに成り代わり、カノンとしてではなくジェミニのサガとして生きろ……と?」

「そうだ。カノン、お前は所詮双子座の影でありこの私の影……影は影としてしか生きてはいけぬ。決して陽の当たる場所に出ることは叶わない」

「オレの意思はガン無視かよ?」

「言ったはずだ、お前は双子座の影、このサガの影であると。影として生きるべき者の意思など聞くに値せぬ」

カノンが決して認めたくない受け入れたくない現実を、サガは研ぎ澄まされた氷の剣の如くその眼前に突きつける。

「どこまでも容赦がないな、お前」

「私は事実を述べ、現実を見せているに過ぎぬ。それを認めることが出来ぬと言うのなら、それこそがお前の弱さだ。それに……」

サガは不自然に言葉を切り、ほんの僅かな時間何かを思案するように沈黙してから再び口を開いた。

「……それにこれがお前の望んだ兄の姿だったのではないのか?」

その問いかけに対してのカノンの答えは無言であった。
サガはしばし黙ってそんなカノンを見つめていたが、やがてふっと自嘲気味に唇の端を歪ませ、そして独り言のように呟いた。

「いや、違うな……お前の求めている兄、それは今の私ではない」

もう一度小さく首を左右に振り、サガはそのまま静かに踵を返した。

「奇跡が起きてお前がそこから出ることが叶えば、再び会える日も来よう。だがその時にはもう『お前の兄』は完全に消滅しているだろうがな……」

最後にそう言い残し、サガは一顧だにすることなく去って行った。
再び岩牢の中に一人取り残されたカノンはまるで嘲笑するように唇の片端だけを持ち上げ、

「それはどうかな……? そう簡単に消されるようなタマじゃねぇよ、あいつは。自分自身のことだってのに、ちっともわかっちゃいねぇ……」

どちらにせよ、もうオレの知ったことではないがな……と揺らぐ水面に向かってそんな独り言を零した。
そしてこの時カノンは、これがサガとの今生の別れになるであろうことを胸の裡で確信していた。
それは自分の死を予感してのことなのか、或いはサガの破滅を予感したからなのか――それはカノン自身にも不明瞭であったが、いずれにしても自分達を待ち受けるのは絶望的な未来しかない。
果たしてサガはそのことに気付いているのか、それとも――。

post script
短い話ではありますが、ここまでしっかり黒サガを書いたのは初めてかも知れません。
絶望的にすれ違ってはいますが、この頃のカノンのことを一番理解していたのはもしかしたら黒サガだったのではないか? 何となくですがそんな気がしてなりません。

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