過度に摂取したアルコールのせいでいつもより更に深い眠りの淵に落ちていたミロがやっとそこから這い上がって来たのは、朝寝坊の冬の太陽ですらすっかりと真上に昇ってしまった時刻であった。
たっぷりアナログ時計の針丸一周分以上の睡眠を取ったにも関わらず、今日の目覚めは近年稀に見るほどに不快で最悪なものだった。
理由は至って単純、言わずと知れた二日酔いに見舞われていたからである。
「う゛〜……」
声にならない呻き声をあげて、ミロは目覚めた途端に襲われた激しい頭痛に秀麗な顔を思いっきり歪めた。
頭が痛いだけではない。吐き気はするし、体中が重くて怠くて瞼を開けるのすら億劫だった。
しかもお約束通りに、昨夜の記憶は途中から見事にプッツリと切れている。
確か獅子宮を飛び出した後に双児宮に行って、そこでカノンに愚痴を聞いてもらいつつ酒を飲んで……と、思い出せるのはそこまでだった。
一体自分はいつまで双児宮で飲んでいたのか? その後どうやってここまで帰ってきたのか? と記憶の糸を手繰り寄せながら、ミロはやっとの思いで重たい瞼を半分だけ持ち上げた。
うっすらと開いた視界に飛び込んできたのは見慣れた天井――だったが、何故か微妙な違和感があった。
気のせいかとも思ったが、やっぱりいつも見ている天井とは違う……ような気がしてならなかった。
二日酔い+寝惚けていて錯覚を起こしてるのかと、ミロは緩慢な動作で満足に開かない目を擦った。
「あれ?」
やっとの思いで瞼を全部持ち上げると、一気に視界が開けた。
それと同時に靄がかかっていた頭が少しだけはっきりしてきて、ミロは改めて真上の天井をマジマジと見つめ直した。
やっぱり違う、天蠍宮の天井ではない――
しっかりと見覚えはあるし酷似した造りではあるが、明らかに自宮の寝室の天井ではなかった。
つまりここは天蠍宮ではないということだが、だとすると出て来る答えは自ずと一つしかない。
そう、ここは天蠍宮ではなく双児宮だ。
恐らく自分は昨夜怒りの勢いに任せて飲んでいるうちに、酔い潰れてそのまま寝てしまったのだのだろう。
夜の9時過ぎくらいまでは辛うじて記憶が残っているので潰れたとしたらそれ以降だろうが、自分が酔っ払わずに普通に寝たにしても一度起きたらなかなか起きない性質であることをミロは自覚している。そこに大量のアルコールが入ってぐっすり寝入ってしまったのだから、揺すっても叩いても起きなかったのであろうことは想像に難くない。
カノンはともかく幼いころから面倒を見てくれていたサガは、自分のそんな性質を知り尽くしている。
となると恐らく無理に自分を起こそうとはしなかったはずだし、だからと言って眠っている自分をわざわざ天蠍宮まで運んでくれたりもしないだろう。わざわざ寝ている自分を5つも上の宮に抱えて行くよりは、そのまま双児宮に泊めてしまったほうが手っ取り早いからだ。
ただ何れにしてもバツが悪いことこの上ない。あ?あ、やっちまった……と、ミロは天井に向かって大きく息を吐きだした。
だが、
「あれ? あれ?」
何気なく窓の方へ目を遣り、そこにかかっているカーテンが視界に入った途端、ミロの頭の中に一度は消えたクエスチョンマークが再浮上して来た。
そのカーテンにはミロも嫌という程見覚えがあった。だがそのカーテンがかかっているのは、双児宮ではない。
「まさか……」
ここでミロの目が今度こそくっきりと大きく見開かれた。
ここは双児宮ではない、ということは——
ミロの頭の中に明確な固有名詞が浮かび上がったその時であった。
「お、やっと目が覚めたか?」
柔らかい声に鼓膜を擽られ、ミロはも文字通り飛び起きた。
直後、頭の内側を金槌で殴られたような痛みが走り、ミロは頭を抱えて呻き声をあげた。
「大丈夫か? 二日酔いのくせにそんなに勢い良く飛び起きるからだ」
「ア……リア……」
苦痛の呻き声の下で、ミロは途切れ途切れにその名を呼んだ。
キシッとベッドが軋む音が聞こえたと同時に、マットレスが僅かに沈む。ミロが固く閉じた瞼を薄く開けて横目で見ると、アイオリアが優しく微笑みながらすぐ隣に座っていた。
「何でてめぇがここに……じゃねぇ、何でオレがここに居るんだ?」
昨夜自分は間違いなく双児宮で飲んでいたはずである。そしてその双児宮から出た覚えはない。
にも関わらず、目が覚めたら獅子宮に居るのはどういうことか?。
ケンカしている真っ最中に自分からここに来たとは思えないのだが、何しろ記憶がすっ飛んでいるだけに絶対にないと断言は出来なかった。
記憶を無くしている間に転がり込んだ可能性は否定できないし、同様にその間にアイオリアが双児宮に自分を迎えに来たということも考えられる。
そして正常な思考能力が失われている間に、なし崩し的に仲直りをしてしまった可能性も否めなかった。
「ん? お前昨日、双児宮で飲みすぎてぶっ潰れただろ。寝こけちゃってとても帰れる状態じゃなかったからって、兄さんがお前を双児宮から引き取ってここに連れてきたんだよ」
「アイオロスが?」
「ああ。兄さんも一緒に居ただろ、双児宮に」
「居たけど……」
仏頂面でミロはそれを肯定した。
昨日は殆どカノンとばかり話をしていたので、アイオロスには少し怒られた程度で会話らしい会話はしていない。そのせいでアイオロスが一緒にいたという印象が薄かったのだ。
「だからってアイオロスが何でオレを? 放っといてくれた方がよかったのに」
「これ以上サガ達に迷惑かけるわけにはいかなかったから……なんて言ってたけど、多分にそれは口実だろう。あの状態のお前を放っておいたら、サガがお前を甘やかしたいだけ甘やかすからな。それが嫌だったんじゃないか?」
そう言ってアイオリアは笑い声を立てた。
昨日あんな大喧嘩をしたというのに何事もなかったかのようにあっけらかんと能天気な顔をしているアイオリアを見て、やはり知らないうちに仲直りをしてしまったのだろうか? という懸念を深めながら、ミロは更に問いを重ねた。
「それじゃ、オレをここに運んだのはアイオロスか?」
「そうだよ」
「お前が迎えに来たとか、オレが酔っ払った勢いでここに転がり込んできたとか、そういうことじゃないんだな?」
「ああ違うよ。寝てるお前を兄さんがここに置いてっただけ」
「何で!?」
「何でって……最初は通り道だし天蠍宮へちゃんと連れ帰るつもりだったらしいけど、途中で面倒臭くなったみたいでな。いきなり来て問答無用で寝ているお前を置いてっちゃったんだよ」
寝ている自分をということは、知らぬ間にアイオリアと仲直りしているということはあり得ない。つまりまだ喧嘩状態は絶賛続行中ということである。
安堵したような落胆したような相反する気持ちに胸中を二分させていたミロだったが、昨日の喧嘩の怒りの炎は一晩経ってもまだ鎮火していなかった。
ミロの眉間にくっきりとした縦皺が刻まれ、次の瞬間にはミロは毛布を蹴り上げてベッドから飛び降りていた。頭が割れるように痛んで思わず蹲ってしまいそうになったが、気力で持ち堪えてミロはアイオリアに向かって一言「帰る!」と吐き捨てた。
喧嘩している恋人の家にこれ以上長居するなど間が抜けているにも程があるからだ。
「ちょ、ちょっと待てミロ!」
肩を怒らせて寝室を出ていこうとするミロをアイオリアは慌てて追い、後ろからその腕を掴んで引き止めた。
「何すんだ! 放せ!」
ミロはアイオリアの手を振り払おうとしたが逆に掴まれた腕を引っ張られ、気がつくとミロの身体は後ろからアイオリアに抱き締められていた。
「バカッ……野郎、放せっつってんだろ!」
ミロは抱き込まれた腕の中でもがいたが、アイオリアはその身体をしっかりと抱き締めて放そうとしなかった。
「はなっ……」
「ごめん」
ミロが力づくで離れようと小宇宙を燃焼させ始めた次の瞬間、耳元でアイオリアがそう囁いた。
ピタリとミロの動きが止まる。
「ごめんなミロ、本当にごめん、オレが悪かった」
ミロの猫毛がアイオリアの頬と鼻先を、そこから仄かに香る優しい香りが鼻腔をそれぞれ擽った。
短気で気が強くてわがままで自分勝手で、でも素直で真っ直ぐで裏表の全くない無邪気な恋人を愛しく思う気持ちがアイオリアの胸郭に充満した。
あんなに腹を立てていたのがまるで嘘のようだと、どこか他人事のようにアイオリアは思う。
「放せ……」
ミロは低く呟いたもののそれは口先だけで、この時点で抵抗の意思自体はほぼ完全に抜けていた。
「すまなかった。いくら何でもオレの無神経が過ぎた、本当に悪かったと思ってる。ごめん」
「…………」
怒りが収まっているわけではなかったが、昨日のようにその怒りをそのままアイオリアにぶつける気には今はなれなかった。
二日酔いのせいで気力が低下しているからかも知れなかったが、不器用に謝罪を繰り返すアイオリアに切ない気持ちを刺激されたからだ。
アイオリアの性格はよくわかっている。生真面目で不器用な性格のアイオリアが、個人的な都合より仕事を優先するのは当然のことだった。
だから自分のわがままが過ぎるのだということは、本当はミロもとっくにわかっている。それとわかってはいても、どうしてもこのわがままだけは聞いて欲しかった。これがミロにとっての譲れない一線だったのである。
互いにほぼ対極の位置にその譲れない線を引いている以上、どちらかが歩み寄らない限りいつまで経っても平行線だということもわかっていないわけではなかった。
だがそれでも自分から歩み寄る気にはどうしてもなれなかったのである。
「ミロ」
背後から抱き締めていた腕の力を緩めると、アイオリアはミロの正面に回り、今度はミロの両肩に静かに手を置いて同じ高さから真っ直ぐにミロの薄青色の瞳を自分の緑色の瞳に映し返した。
「聞いてくれミロ。お前との約束、今度こそちゃんと守ってやれそうだぞ」
「……え?」
驚きを伴って、ミロの瞳が拡大した。
アイオリアのその言葉は、完全にミロの予想から外れていたからだ。
「兄さんがな、8日のシフトを調整してくれるって言ってくれたんだ」
「アイオロスが?」
「ああ。今回は全面的にオレが悪いんだからなって、兄さんにも怒られたよ」
実際は怒られたというほどでもないのだが、それに近かったことは事実である。
言いながらアイオリアは、決まりが悪そうに照れ笑いを浮べた。
「それじゃアイオリア?」
「オレが突っぱねたところで、あの兄さんのことだから勝手にシフト入れ替えちまうだろうしな。だったら素直に最初からはいと言っておいた方がいいからな、オレにとってもさ」
ミロの瞳に浮かんでいた色が、驚きから喜びへと見る見る間に変化していくのがアイオリアにもはっきりとわかった。
あまりに顕著なその変化にアイオリアも苦笑を誘われずにはおれなかったが、ミロのその変化を目の当たりにした途端、アイオリアの中にアイオロスへの本当の意味での感謝の気持ちが生まれたことも事実だった。
「だから8日、お前の誕生日には約束通り一日中一緒にいよう。どこに行きたい? 何が欲しい? その日は一日お前のわがままは何でも……」
聞いてやる、と言おうとしたアイオリアの唇を、ミロの唇が塞いだ。
それは正しく不意打ちで、アイオリアは思わず目を丸くして全身を硬直させた。
「……何もいらないよ」
すぐに唇を離したミロは至近距離でアイオリアの瞳をしっかりと見つめ返し、いつものやんちゃ小僧のような悪戯っぽい表情を閃かせ、
「アイオリアが一緒にいてくれるだけで、それだけでいい」
そう言って今度は飛びつくようにしてアイオリアに抱きついた。
それはつい数分前まで本気で怒って拗ねていた人間と同一人物とは思えないほどの変わり身の早さであった。この場に第三者がいたら、きっとこのミロの余りの変わり身の早さに唖然とすることしか出来なかっただろう。
だが慣れているというよりはそういうところもひっくるめてミロに惚れているアイオリアにとっては、ミロのそんな行動は堪らなく可愛いくて愛しさを募らせるものであった。
喜色満面に飛びついてきたミロをアイオリアも喜色満面で受け止めて、その身体をしっかりと強く抱き締めた。
局地的に大迷惑をかけたミロとアイオリアの喧嘩だったが、その幕切れは拍子抜けしてしまうほどにあっけないものだった。
だがこの二人の場合、それは今に始まったことではない。勢いで大喧嘩をしてはお互い拗ねたり泣いたり喚いたり大騒ぎした後に、ほんの些細なきっかけであっさりと仲直りをしてしまう。ほんの子供の頃からそんなことが幾度となくあったのである。
大人になって二人の関係がただの友達から恋人へと変化を遂げても、その行動パターンだけは変わらずに受け継がれているようであった。
もちろん、当の本人達はどこまでも無自覚ではあったが——。
そして11月8日当日。
アイオロスの計らいで無事に休みをゲットしたアイオリアは、約束通り誕生日の一日をミロと一緒に楽しく幸せに過ごした。
ミロは大喜びだったし、そんなミロにアイオリアも大満足で改めて兄の配慮に心から感謝をしたのだが、その先には思いもかけぬ落とし穴が待ち構えていた。
アイオロスがアイオリアの代役にたてた相手は、何とシャカだったのである。
アイオロスにはもちろん他意はなく、深く考えもせず単純に一番アイオリアと交代しやすかったシフトに入っていたシャカを選んだだけだったのだが、何しろ相手は黄金聖闘士随一の変わり者と言われている人物である。
しかもアイオリアには「職権乱用にならない程度に」と言っていたにも拘らず、アイオロスは殆ど有無を言わせずにシャカのシフトを変えたらしい。
翌日、宿直で出勤した際にその事実を知らされたアイオリアが顔色を失って背中に冷たい汗を垂らしたのは、ある意味では無理もない話であった。
アイオリアがシャカにこの日の『借り』を返すため少なからず奔走させられることになったのは、それから数日の後の話である。
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