アイオリアがようやく処女宮にやって来たのは、アイオロスが帰って程なくした頃だった。
バースデーケーキとプレゼントを携えて戻ってきたアイオリアは、リビングボードに飾られていたピンクの薔薇の花束を見つけて目を丸め、「この薔薇どうしたの?」とシャカに尋ねた。
「つい先程アイオロスが来て私にくれた。誕生日プレゼントだそうだ」
「アイオロス兄さんが? お前に誕生日プレゼント!? え、何で!?」
誰かからの誕生日プレゼントだろうということはわかっていたのだが、贈り主がまさか自分の兄だとは思わず、アイオリアは更に目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。
「アイオロスが私に誕生日プレゼントをくれる理由など一つしかあるまい。弟であるアイオリア、お前を気遣ってのことだ」
「オレを気遣ってのことって、え? あの兄さんが!?」
「ああ。アイオロスは私にこれからもお前のことを頼む、とそう言っていた。表面上は何事もなかったかのように振舞ってはいるが、アイオロスなりにこの十三年間のことを気にしていたようだな。それでこの十三年間の礼と、ついでにこれから先のことを私に頼みに来たようだ。わざわざ誕生日プレゼントを片手にな」
それを聞いたアイオリアは何とも言えぬ複雑な表情で微苦笑を浮かべ、やれやれと言いたげに肩を竦める。
「これまで礼はともかくとして、これからのことを頼みに来たって子供じゃあるまいし……。ていうか、気に掛けるポイントと何よりタイミングが決定的にズレてるんだよな、兄さんは」
シャカはアイオロスと交わした会話の詳細を、敢えてアイオリアには語らなかった。
アイオロスがシャカに明かしてくれた彼自身の胸の内を、アイオリア本人にどれだけ明かしているのかはわからないし詮索するつもりもない。だがアイオリアもこの十三年間ずっと抱えていたのであろう不満や思いの丈をアイオロス本人に直接ぶつけているようだし、兄弟間のコミュニケーションでそれなりに昇華していることであろうと察したからである。
「そう言ってやるな。アイオロスは十三年も死んでいたのだぞ? 感覚が多少ずれてしまうのは致し方あるまい」
珍しくアイオロスを擁護するシャカに、アイオリアは意外そうに目を丸めた。だがそのことについては特に言及もせず、多少なんて程度じゃないんだけどなとは思いつつも「まぁな」とだけ応じて小さく笑って見せた。
「それにしても随分と見事な薔薇だよな、どこで買ってきたんだろう? うちの兄さんこういうことには関心なくて、全然詳しくなかったはずなんだけど」
アイオリアは豪奢なピンクの薔薇に改めて視線を移し、小首を傾げながら率直な疑問を口にした。
アイオロスが現世に再生を受けてから、まだ然程の月日は経っていない。肉体自体は実年齢の27歳で生き返ってはいても、空白の十三年分の人生経験が自動的に加味されるわけでは当然なく、この短期間で性格気質興味の対象が変化したとも思えない。
その兄がどこでどうやってこんな見事な薔薇を調達してきたのか、アイオリアは不思議でならなかった。
「買ってきたわけではなく、アフロディーテに頼んで彼のところからもらってきたそうだ。この薔薇を選んだのももちろんアフロディーテで、アイオロスは彼に丸投げしただけということらしいな」
「アフロディーテのところの薔薇って、えっ? 双魚宮って赤と白と黒の薔薇しかないんじゃないのか?」
「私もそう思っていたしアイオロスも同様だったようだが、実際にはもっと様々な色や品種の薔薇を育てているそうだ」
「へぇ〜、それは知らなかったな」
親密な関係ではなかったとはいえアフロディーテともそれなりに長い付き合いだというのに、今の今まで全く知らなかった意外な事実にアイオリアは感嘆交じりの声を上げた。
「それにしても、一番割を食ったのは勝手に一方的に丸投げされたアフロディーテだろうな。本当に迷惑な話だ」
アフロディーテのところの薔薇と聞いて納得はできたものの、それゆえにとんだ迷惑をかけられてしまったのであろうアフロティーテに対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになるアイオリアであった。
「その件については私もアイオロスに物申したのだが、これだけ見事な薔薇はギリシャ中どころか世界中を探してもないだろうからしょうがない、と言うのが彼の言い分だ。それを言われてしまうと私も返す言葉がない。アイオロスはアフロディーテにはきちんと謝礼もしたから大丈夫だ、と気軽に言ってはいたがな」
「きちんと謝礼をしたかどうかは正直怪しいが、でもこれだけ見事な薔薇は世界中のどこを探してもないだろうということについては同意かな。正直、花の良し悪しなんかよくわからないオレですら、見ていて溜息をついてしまうほどに見事だからな」
アイオリアのその言葉に、シャカも黙って頷いた。
「思いもかけず兄さんに先を越された上に、こんな見事な薔薇の前だと見劣りするような気がするけど……」
やや唐突に、そして若干気まずそうに言いながら、アイオリアは持参したケーキの箱をテーブルの上に置いてからシャカの方に向き直った。
「誕生日おめでとう」
先んじていた兄に出鼻を挫かれたような形になってしまったが、ようやく本来の目的を思い出したアイオリアは、祝福の言葉とともにプレゼントをシャカに差し出した。
その気配を感知したシャカは閉じていた瞼をゆっくりと開き、アイオリアの手の中の小箱を視界に収めるとフッとその眦を下げ、
「ありがとう」
返礼しながら彼の手からそれを受け取った。
片手にちょうど乗るくらいの大きさの綺麗にラッピングされた小箱を興味深げに眺めてから、シャカは「開けてもいいか?」とアイオリアに許可を求めた。
アイオリアが笑顔で「どうぞ」と承諾したのを確認してから、シャカはもらったばかりのプレゼントのリボンを紐解いた。その中にはジュエリーボックスが収められていて、それを開くと中には金色の鎖に濃い青色の宝石を誂えたアクセサリーが煌めきを放っていた。
形状的に見てネックレスか? と思いながらボックスから取り出してみると、ネックレスにしては明らかに鎖が短い。
となると、
「これは……ブレスレット、か?」
鎖の長さ的にそうとしか考えられなかったが、アイオリアはシャカの問いに首を横に振り、
「いや、ブレスレットじゃなく足につける方だ。えっと、アンクレット」
「アンクレット?」
それをなぜ私に? と言外に問いかけてくるシャカに、アイオリアは照れながら答えた。
「お前はここ聖域に来てから殆ど母国に帰ることがなかったし、黄金聖闘士である以上これからもその頻度は変わらないだろう。だから誕生日プレゼントにせめてお前の母国に因んだものを贈りたいと思って、色々調べたんだ。それでインドの人は日常的に足にアクセサリーをつけると知ってな。お前普段は裸足でいることが多いし、きっと似合うだろうと思ってそれを……」
言いながらアイオリアは、シャカが手にしているアンクレットに視線を向けた。
「それでその、調べている時に9月の誕生石がサファイアだということも知ったんでな、せっかくだからと思って、それを入れて作ってもらったんだ」
アイオリアは明言はしなかったが、作ってもらったということはつまりわざわざオーダーしたということなのだろう。
なるほどこの濃い青色の石はサファイアかと、シャカは目前に翳したそれをしげしげと眺めた。
華奢な金色の鎖にサファイアを誂えたシンプルかつ繊細なデザインのアンクレットは、確かにシャカの足によく似合うはずである。
だが――
シャカは思わずプッと小さく吹き出すと、堪えきれずにくすくすと笑い始めた。
え? 何で笑うの? もしかして気に入らなかった!? とアイオリアが狼狽えていると、一頻り笑ったシャカはアイオリアに、彼が調べきれなかった真実を告げた。
「確かに私の母国インドでは日常的に足……に限らずではあるが、アクセサリーを付ける文化風習がある。だがそれは女性の話だ、しかも主に既婚のな」
「えっ!?」
アイオリアが目を大きく見開き絶句する。
そのアイオリアにまるで追い打ちをかけるかのように、シャカが言葉を継いだ。
「それから諸説あるが、足輪は元は奴隷の足枷が起源であることから、隷属させるという意味合いもあるという話も聞いたことがある」
「え……っ!?」
アイオリアの顔色が見る見る間になくなっていくのを見たシャカは、またしても彼にしては珍しく非常に楽しげな笑い声を立てた。
だがとても楽しげなシャカとは対照的に、決まりが悪そうに身を縮めていたのはアイオリアである。
「ごめん、まさか女性の、しかも既婚者が身に付ける物だなんて思わなくて……しかもそんな由来があったなんてことも全然知らなくて……もっときちんと調べればよかったな、本当にすまん」
「別に謝ることはなかろう」
ようやく笑いが治ったシャカが、意気消沈しているアイオリアを慰撫するように言った。
「私は女性ではないし、もちろんお前に隷属しているつもりもない。だがアイオリア、私がお前のものであるという事実に変わりはないのだから、お前から贈られる分にはあながち間違いでもない。そうだろう?」
「シャカ……」
「ありがとう、大切にする」
シャカはそう言うと、自分の左足首にアイオリアから贈られたアンクレットを着けた。
少し日焼けしたシャカの細い足首に金と青の華奢なデザインのアンクレットはよく映えて、アイオリアの目を楽しませ気持ちを潤わせた
「思っていた通り……いや、思っていた以上によく似合うな」
「当たり前だ」
いつもの彼らしい態度で自信満々に言ってからシャカは、ふと表情を改め唐突にアイオリアに問いかけた。
「何年前だったか……私はお前に問うたことがあったな。『お前は私のことが好きなのであろう?』と」
「ああ、あったな」
その時にアイオリアは初めて自分の片恋ではなかったことを知った。そうしてシャカと想いを通わせ現在の関係に至っているわけだが、あの時はあまりに唐突すぎてただただ面食らっただけだったことを思い出し、アイオリアは小さな笑いを零した。
尤もそんな唐突なところは今も昔も変わっていないがな――と心の中で呟きながら。
「この状況で今更問うまでもないかも知れぬが、改めて問いたい。アイオリア、お前は私のことが好きなのであろう?」
そう問いかけながらあの時と同様の返答を予測していたシャカだったが、意外にもアイオリアから返ってきた答えは「いや」という否定形であった。
さすがに驚いてシャカが目を丸めると、アイオリアはそんなシャカを見る目を優しく細め、
「『好き』なんて感情はとっくに超越したよ。だから厳密には違う、今はお前を愛している」
自分がこんな歯の浮くようなセリフをさらりと言えたことにアイオリア自身も驚いていたが、どうやらシャカの方もそれ以上に驚いたようである。
丸めた目を大きく見開きほんのりと頬を朱に染めて自分の顔を凝視しているシャカを見て、アイオリアはますます相好を崩した。
シャカがこんな表情を見せるのは、自分にだけ。そんなシャカのことが可愛くて愛おしくて堪らなかった。
シャカはアイオリア以外には決して見せることのないという表情を浮かべたまましばし硬直していたが、やがてアイオリアと同様相好を崩すと、今度は胸倉を引き寄せるような乱暴な真似はせずにふわりと彼の首に両腕を回し、
「……私もだ」
昔と全く同じ答えを返して微笑み、そして同じようにアイオリアの唇に自分の唇を重ねたのだった。