「なぁサガ、キスしてもいいか?」
風呂から上がってリビングに戻るなり突然カノンにそんなことを問われたサガは、面を食らって絶句し、その場に立ち尽くした。
「……いきなり何を言い出すかと思えば……」
唖然としたまま無言の時を数秒ほど流してから、サガはバカかお前はとでも言いたげにあからさまにカノンに白い目を向けて溜息をついた。
「何って、オレはただサガにキスしたいなって思ったから、していいか? って聞いてるだけなんだけど。いい?」
だがカノンはサガの白い目などものともせず、ニコニコと笑いながら同じ問いを繰り返した。
サガは明らかに胡散臭そうに眉を顰めると、
「バカかお前は」
今度ははっきりと口に出してそう言った。
「あ、酷い。バカ呼ばわりはないだろ」
「バカだからバカだと言ったんだ」
突然何の前触れもなくいきなりキスしていいかだのキスしたいだのわけのわからないことを言われたら、よほどのバカップルでもない限り「はぁ!?」となるし、「何考えてんだ? こいつは」と怪訝に思うのはごくごく普通の反応というものであろう。
だがカノンの方は何故サガにバカ呼ばわりされたのかが本気でわからないらしく、不思議そうに小首を傾げながらまるで見当外れのことを言った
「別に風呂場に乱入したわけでもないし、出て来るまで大人しく待ってたんだからいいと思うけどな」
それを聞いたサガは、ますます呆れてカノンの顔を凝視した。
「いい?」
自分を凝視して呆けているサガに、カノンは三たび笑顔でキスの許可を求めた。
どうやらカノンはこの全く噛み合っていない会話の流れを何とも思わないどころか、噛み合っていないことに気付いてもいないらしい。
「いいも何も……何故突然そんなことを聞く? 今まで私の意思や都合などお構い無しだったくせに」
風呂場に乱入云々はこの際置いておくとして、これまでカノンがこんな風に事前にサガの意思を確認したことは一度もない。
いちいち確認するようなことでもないしそんな間柄ではないからというのがカノンの言い分で、平素は今サガが口にしたようにサガの都合などほぼ全くお構い無しで自分の気の向くままに行動しているのである。
具体的に言うと、サガを抱き締めたいと思えば抱き締める、キスをしたいと思えばキスをする。当然サガには何も言わずに、だ。
つまり今日のカノンのこの『許可を求める』という行為は、明らかにいつもの彼らしくないのである。
そんなカノンに対してサガが身構えてしまったのも、ある意味当然のことであった。。
「何でって、何も言わずにするとサガがいっつも怒るからだよ。怒るだけじゃなく、殴ることだってあるじゃん」
結構痛いんだぜ、あれとカノンが文句を言うと、サガは厭味ったらしい溜息をついた後に、
「それはお前が時と場所というものを弁えないからだ!」
一転して叱責の声を張り上げた。
確かにカノンの言う通りサガはカノンが懐いて来ると大抵邪険に扱っているが、それはカノンが人目や場所柄というものを全く気にせずいつも通り――つまり自分の気が向くに任せて行動するからなのである。
屋外だろうが公衆の面前だろうがお構い無しに抱きついて来たりキスしたりしようとするのだから、サガとしては堪ったものではない。
怒ったり殴ったりするのはある意味当然のことであり、文句を言われる筋合いなどこれっぽっちもなかった。
「だからサガがそう言うから、こうしてちゃんと時と場所を弁えるようにしたんじゃないか」
「私が言っているのはそういうことではなくてだな……」
サガは大きな脱力感に襲われ、また溜息をついた。
そんなサガをカノンは不思議そうにきょとんと目を丸めて見ている。
その様子から察するに、どうやらこの弟は根本的な部分に決定的に食い違いが生じているのだということにまるで気がついていないらしい。
「あのなカノン、ここは自宅だぞ?」
「わかってるよ」
「私達以外には誰もおらぬのだぞ?」
「それもわかってるけど」
「自分達の家の中で、誰も見ていないところでそんなことを聞いてどうするのだ? 無意味以外の何物でもなかろう」
何故こんなことをいちいち説明してやらねばいけないのか、サガは疑問に思わずにはおれなかった。
もっとも万が一にも自宅以外の人目のある場所でこんなことを聞かれる方がよほど困るのだが――。
許可を取るとか取らないとか以前に、人目があろうがなかろうが家の外だろうが中だろうが恥ずかしい行動は慎めと、要はサガはそれが言いたいのである。
「ならウチの中なら無許可でもOK? したくなったらいつしてもいいってこと?」
「だからそんなことは言ってない!」
目を輝かせながら自分の言葉をまた明後日の方向へ解釈する弟に、サガは今度は目眩と頭痛を覚えた。
どこをどうしてどうすればそういう解釈になるのか、サガには本気でわからなかった。
「何をカリカリしてんだよ? で? いいの? 悪いの? どっち?」
ハテナマークを飛ばしまくって三度聞き返して来るカノンに、サガは今日一番の大きく深い溜息をついた。
カリカリしたくてしてるわけではないし、そもそも原因は他ならぬカノンにあるというのに、その辺のことはやっぱり全然これっぽっちもわかっていないらしい。
「だめだと言ったらどうするつもりだ? 素直に諦めるのか?」
今度はサガがそう聞き返しながら、カノンに冷ややかな目を向ける。
嫌だと言ったところで諦めるようなタマじゃないことはサガも承知していたが、だからと言ってあっさりうんと頷くのははっきり癪に障るのだ。
問われたカノンは、腕組みをしてわざとらしく考え込むような素振りを見せてから、
「……それもヤダな……」
ボソリとそう呟いた後、上目遣いでサガの顔を見た。
それはカノンがサガに甘えたり、何かをねだる時にする仕草であり表情だった。
カノン本人は全くの無意識でやっていることであったが、その仕草や表情は子供のときから全く変わっていない。
サガはやれやれと苦笑しながら、小さく肩を竦めた。
「最初から私の意思に従う気など欠片もないくせに、柄でもないことをするな。時間の無駄だ」
「確かにそれはお兄様のおっしゃる通り……」
降参、とばかりにカノンが軽く両手を上げてみせた。
「ていうか、事前に許可を求めたところでサガがすんなり『うん』て言ってくれるわけないもんな」
兄の性格的に考えれば、人前だろうが人気のないところだろうがそんなことは関係ない。
色好い返事を返してくれること自体が、そもそもありえなかったのである。
ほんのちょっとでもそれを期待した自分が間抜けだったとしか言いようがない。
「ホント、柄でもないことするもんじゃない。うん、やっぱりオレは自分の思った通りに行動するのが一番だな」
独り言のようにそう呟いて一人で勝手に納得するが早いか、カノンはサガの身体を抱き寄せ、風のような素早さで自らの唇をサガの唇に重ねた。
サガの目が驚愕で三たび丸く見開かれる。
まさかこんな速攻が来るとは思わず、完全に油断していたサガの頭の中が一瞬にして真っ白になった。
軽く重ねられただけの唇は意外にもほんの数秒で離れたが、それとほぼ同時に身体を抱くカノンの腕に一層の力がこめられた。
唖然呆然状態だったサガが一気に我に返り、カノンの腕の中で怒声を張り上げた。
「おい! 私は『いい』と言った覚えはないぞ!」
カノンはそんなサガの様子を楽しむかのように微笑を浮かべ、
「時間の無駄だって言ったのはサガだぜ? だからオレは言われたことを素直に反省して、時間の無駄遣いをやめたんですけど」
「それとこれとは意味が違う!」
「違わないよ。どうせ結果は同じなんだもん、余計な押し問答するだけ時間の無駄なことに変わりはない」
全く悪びれることなくしれっと言いい放った。
「そういうのを屁理屈と言うんだぞ」
「そっかぁ? むしろ理にかなってると思うけど」
「どこがだ? どこをどう考えてもお前の言動は滅茶苦茶じゃないか!」
カノンの言動は矛盾だらけとしか言いようがなく、はっきり言ってサガにはわけがわからなかった。
カノン的には一貫性があるのだろうが、サガからしてみればそんなものはないに等しく、まるで狐につまれたような気分になってしまうくらいだった。
「そんなことないって。ホントに細かいことにごちゃごちゃうるさいなぁ、サガは。神経質すぎるんだよ」
「お前が無神経すぎるんだ!」
見目形は言うに及ばず遺伝子レベルまで全く同じものを有するはずのこの双子の兄弟は、だが性格は正反対と言っていいほど異なっていた。
それこそ常日頃から他人に『足して2で割ればちょうどいいのに』と言われるほど、極端に。
「いいじゃん。やっちまったもんは仕方ないし、誰の目を憚る必要もないんだからさ。気にしない気にしない」
半ば以上強引にだが、望みを果たしたカノンは満ち足りた表情で楽しげに笑い声を溢した。
「……本当にお前はどこまでも自分勝手でわけのわからん奴だな」
気紛れが服を着て歩いているかのようにコロコロ目紛しく言動を変える――しかも自分に全て都合のいい方に――弟に、ついていけんとばかりにサガはこの日一番の大きな溜息を吐き出した。
素行不良で手に負えなかった昔に比べれば遥かにマシとはいえ、今度はカノンのこのペースについていけずに振り回されている有様で、我ながら情けないとしか言いようがない。
あからさまに呆れ果てているサガの様子などお構い無しに、カノンは尚もサガに甘えるようにしっかりとサガを抱き締め、その髪に頬をすり寄せた。
「何を懐いている?」
「ん? サガあったかいな〜って思って」
「当たり前だろう、風呂から上がったばかりなんだ」
「それにいい匂いするな〜って」
「それも当たり前だが、使っているものが同じなのだからお前と同じ匂いがしているはずだぞ」
同じ風呂に入り同じ石鹸やらシャンプーやらを使っているのだから、カノンだって基本的に同じ香りを身に纏っているはずなのに、何を悦に入ってるんだかと思わずにはいられない。
それともカノンの嗅覚がおかしくて、全く違い匂いに変換されているとでもいうのだろうか?。
「オレはオレ、サガはサガ。全然違うよ」
「……何が違うのか私にはさっぱりわからん」
こうなると嗅覚云々以前に、感覚そのものがズレているとしか思えなかった。
やはりこれ以上は何を言ったところで平行線を辿る一方で、どう転んでも時間の無駄にしかならないだろうと、この時点でサガは正論を説くことを完全に諦めた——というより匙を投げたのだった。
「カノン」
「ん?」
「今日のところはお前の悪ふざけも大目に見てやる。だが今日だけだぞ、いいな」
うんわかった! とカノンは即答したものの、恐らく右の耳から左の耳へ抜けているあろうことはサガにもわかっていた。
大体口で言ってこの言動が改まるくらいなら、とっくの昔に改まっているはずなのだ。
何しろサガは、これまで幾度となく同じようなことを言って来たのだから。
最も、カノンだけが悪いというわけでもない。
何だかんだと言いながらも、結局カノンのやることをこうして済し崩し的に許してしまっている自分も悪いのだ。
せめて人前や人目につく場所でだけは常識と良識を持って行動して欲しいと切に思うのだが、その裏にカノンの単純ならざる感情が隠されていることがわかっているだけに、やはり強く咎めることが出来なかった。
そんな自分のどうしようもない甘さも、サガはもちろん自覚している。
「サガ」
「何だ?」
「……大好きだぜ」
ともすれば軽い冗談にしか聞こえないこの一言は、かつては口にすることはおろか心の中で呟くことすら出来なかった一言だった。
だが単純すぎるほど単純なこの一言には、カノンのサガに対する言葉にはしきれない数多の感情が凝縮されている。
それはカノン自身が長い間憎しみの裏側に封じ込め続けて来た、純粋で真剣なサガへの想いそのものだった。
「ああ……」
くすっ、とサガは小さな忍び笑いを溢し、静かに両腕をカノンの背に回した。
とことん自分はカノンに甘い――と思うのだが、一番大きな理由がそれだけではないこともサガはちゃんとわかっている。
「……わかってる」
そう、恐らく自分も同じくらい、カノンのことが大好きで堪らないからなのだということを――。