番外編
「ん?」
カノンが教皇宮へ向かって十二宮の階段を上がっていると、自分とは反対に二つの人影が下りて来るのが見えた。
アイオリアとシャカである。
「おはよう、カノン」
「おはよう」
ちょうど巨蟹宮と獅子宮の中間あたりで、カノンは仲睦まじいカップルと行き合い爽やかに朝の挨拶を受けた。
「おはよう。何だ? 2人で街にでも出かけるのか?」
挨拶を返しながらカノンが尋ねると、カノン目線でだらしなく頬を緩ませながらアイオリアがカノンに問い返して来た。
「そうだけど、どうしてわかったんだ?」
「そんな格好してれば嫌でもわかる」
思いきり苦笑しながらカノンが答えると、アイオリアは「あ、なるほど」と頷き、シャカはわかっているようないないような様子で小さく首を傾げた。
そんなシャカを見てカノンが、ん? というように目を瞠り、
「ていうか、アイオリアはともかくシャカ……」
「うん?」
「お前、その服どうしたの?」
物珍しいものを見る目をシャカの全身にザッと走らせ、少し驚いたようなと言うか訝し気な様子でそう尋ねた。
何故なら今目の前にいるシャカはカノンが見たことのない服、具体的に言うと薄い緑のシャツに細身のブラックデニムに白のジャケットという一般社会に居る極々普通の20歳の青年らしい服を着ていたからである。
そのシャカの隣にいるアイオリアの方は、白いTシャツにカーキのカーゴパンツにネイビーのジャケットというこれまた極々普通の20歳の青年らしい服装だったのだが、これが彼が街に出る際の一張羅だと言うことはカノンも知っていて、既に何度か見ている上にこの格好のアイオリアと同行したこともある。
だがシャカがこんな『一般人のような普通の服装』をしているところを見たのは、正真正銘今が初めてであった。
「この服か? これは先日ミロと街に出た際、彼に言われて買ったのだが……」
何かおかしいところでもあるのか? というシャカの問いにカノンは再び微苦笑しながら首を左右に振り、
「お前が見たこともない普通の服を着てたから驚いただけだけど、ついでにもう一つ聞いてもいいか? シャカ」
「何だね?」
「その服、お前が自分で選んだの?」
カノンが更に問うとシャカは瞑っていた目を開き、自分で自分の服装を見直してからカノンに答えた。
「いや、これはミロが全部選んでくれた。元々は違う服を着ていたのだが、それを見てミロが何故か自分が見立ててやるから買い直せと言い出したのでな。私はそれに従ったまでだ」
「元々は違う服? 買い直せ? え? 買い直せって言われたってどういうこと?」
自分同様シャカも聖域圏外に出る時の服はこれ一着しか持っていないものと何の疑いもなく信じていたアイオリアが、目を丸めてシャカに聞き返した。
だがシャカが答えようとしたその時、カノンの楽しげな笑い声がそれを遮った。
「そうか、やっぱりミロが選んだのか、その服」
「やっぱり? え? それってどういう……」
話が交錯して何が何やらわけがわからなくなったアイオリアがハテナマークを量産していると、その様子が更にカノンの笑いのツボを刺激したようで、しばらくの間カノンはアイオリアとシャカを見て非常に楽しそうに声を立てて笑っていた。
アイオリアはますます首を捻り、シャカは笑われていることに不愉快な気分になりながらもアイオリア同様首を捻っていたのだが、一頻り笑ってからカノンは漸くそれを収めると不意にシャカの肩に手を置き、
「よかったな。ちゃんと似合ってるぜ、その服」
何がよかったなのかさっぱりわからなかったが、似合っていると言われて悪い気がしないのはこのシャカとて同じである。
明らかにムッとしてた表情が和らいだのを見てカノンは更に二度、ポンポンとシャカの肩を叩いてからアイオリアに向き直り、そして言った。
「お前もよかったな。ミロに感謝しとけよ」
「は?」
またしても目を丸めてアイオリアがマヌケな声を上げると、カノンは更に意味ありげに笑ってから2人の横を擦り抜け、
「それじゃあな、良いバレンタインを」
振り向き様にそう言い置いて、さっさと階段を昇って行ってしまったのだった。
「……ミロに感謝しとけって、え? どう言う意味だろう? シャカにこの服を選んでくれたことに感謝しとけってことだよな?」
「さぁ? 私にはわからぬな」
素っ気なくそう答えるなり、シャカは呆然としているアイオリアを置いて階段を下り始めた。
「ちょ……っと待てよシャカ!」
アイオリアが慌ててその後を追う。
機嫌を損ねていると言うわけではないようだが、興味もないので話を引っ張る気もないのだろう。シャカは振り返りもせず、真っ直ぐ前だけを見て階段を下りて行った。
アイオリアがシャカに追いつき、肩を並べた頃を見計らってカノンが振り向く。再び仲良く並んで遠ざかって行く2人の背をしばし見送った後にカノンは自分のスマホを取り出し、とあるファイルを開けてまたしても楽しげに笑い始めた。
「さすがにミロが見かねて世話を焼いたか……。ま、確かにこれを見たら放っておけるわけないもんな」
カノンのスマホには、イタリアで最初に買ったあのコーディネイトもへったくれもないド派手な服を着て、真剣にチョコレートを選んでいるシャカの写真が表示されていた。
何故カノンがこの写真を持っているのかというと、実はこの翌日にデスマスクが事の次第を面白可笑しく伝えるメールに添付してカノンに送りつけて来ていたからである。
この写真を見た瞬間にはさすがにカノンも驚愕して目を剥いて絶句したのだが、普通の服を買えと嗾けた張本人のデスマスクはシャカがこんなトンでもな服を選んだにも拘らず「まぁシャカがそうそう街になんか出るわけもないし、買ったはいいけどこの服着るのも今回限りだと思うぞ。そう考えるとこの写真は貴重だぞレアだぞある意味お宝だな!」と完全に他人事で無責任なことをメールに書いて来ていて、カノンもその時はそんなものかと思ったものだが……。
「確かにこの一回限りにはなりそうだな」
理由は違うものの、『今回限り』と言うデスマスクの予想はどうやら当たりそうである。
このメールから後のことは何も知らなかったが、頭のいいカノンはさっきシャカに「ミロと街に出た時に彼に言われて買った」と服がまともな物に変わった経緯を聞いた時点で、シャカがこの服を着てミロのところに行き、彼に街へ連れて行けと頼んだのであろうと容易に察しをつけることが出来た。
そしてこんな格好で現れたシャカを見てミロがドン引きしたであろうことは想像に難くないし、同時に力一杯買い替えを勧めたのであろうことも間違いないだろうし、シャカのセンスに問題ありと判断してトータルコーディネイトを買って出たのも無理はないというところまでほぼ正確に読み取っていたのである。
つまり結果的に完全他人事で面白がっていたデスマスクの尻拭いをミロがした形になった――ということなのだろう。もしかしたらあいつが一番大変な目に遭ったのかもな、と心の中で呟いてカノンは小さく肩を竦めた。
チョコレート選びに全神経を集中していたシャカはこんな写真を撮られていたことにまるで気付いてはおらず、それがカノンの手に渡っていることももちろん知らない。だからカノンが今日シャカが着ていた極々普通の無難な服を見て驚きを示した理由にもまるで見当がつかなかったのだろうし、アイオリアはと言えばあの様子からしてこの服そのものの存在すら知らないに違いない。
もしミロが世話を焼かず、至極無難なあの服をシャカに買わせていなかったら果たしてどうなっていたかな? という意地悪な興味も湧いて来たが、大した時間も要さずにあのアイオリアのことだから気にもせず平気でシャカを連れて歩いただろうなという結論に達した。
そもそもアイオリアが今日着ていた服も、実はミロに選んでもらって彼に言われるがままに買ったものなのだから、根っこの部分は恐らくアイオリアもシャカと大差ないと言って良さそうだからある。
「ホント、何から何までお似合いのカップルなのかもな、あの2人。ま、とりあえずお幸せに……ってとこか」
そう言ってもう一度肩を竦めてからカノンはスマホをしまい、再び十二宮の階段を昇り始めた。
余談だがデスマスクのメールには『オレはほんのガキの頃からシャカを知ってるが、あいつのことただの一度たりとも可愛いと思ったことはなかった。だが今回、初めて素直にあいつのことを可愛いなんて思っちまった……不覚にも……』とも書かれていた。
そのメールを読んだ時には添付画像の超インパクトも相俟って「シャカを可愛い? 何言ってんだこいつ目と頭大丈夫か?」と盛大に眉を顰めつつ心配したものだが、今日の2人の様子を見てほんの少しだけだがその時のデスマスクの心境がわかったような気がするカノンだった。