その日以降、サガとミロの親密度は深くなる一方であった。カノンとケンカしてるにも関らず、ミロはしょっちゅう双児宮に来てはカノンを無視してサガにくっついているし、サガもサガでそんなミロを可愛がって何くれとなく世話をしている。しかも昨日など、天蠍宮にまで赴いて炊事洗濯などのミロの身の回りの世話をしていたのだから、さすがにこれにはカノンも驚いた。 いや、元々サガはミロには甘く、小さい頃からミロを実の弟と言うか我が子のように可愛がってはいたのだが、最近の2人の間は今までのそれとは微妙に何かが変わっているようにカノンには見えた。 最も、だからと言ってカノンにはミロに謝ろうなどと言う気は毛頭なかった。元々自分が悪いなどとはこれっぽっちも思っていなかったし、どうせミロがこれ見よがしにサガに甘えて見せて、自分にあてつけてるだけだろうと高を括ってもいたのだ。とは言え、勝手にしやがれ知ったこっちゃない的スタンスで無視を決め込みつつも、実は内心では面白くない思いがあるのも事実だった。お陰でここ数日、カノンの機嫌は好転する兆しすら見つからない状態であった。 「カノン、ちょっといいか?」 今日の仕事を終え、カノンが教皇宮を出ようとしたところで、これまた仕事を終えたばかりらしいアイオロスに呼び止められた。 「何だよ?」 元よりカノンはアイオロスに対してはあまり愛想は良くない。今日はそれに不機嫌も重なっているから、アイオロスを振り返ったカノンの顔ははっきり言って凶悪そのものであった。 「ちょっとこっちこっち!」 だがアイオロスはそんなカノンの様子にはお構いなしに、カノンの手を強引に引っ張ってすぐ側の控室にカノンを連れ込んだ。 「何すんだよ!?」 部屋に入るなり、カノンがアイオロスの手を振り払った。 「カノン、最近サガがおかしいんだ!」 「はぁ?!」 カノンが強烈に睨みつけてもアイオロスは全く動じることなく、何の前置きもせずにいきなり話を切り出した。 「サガがミロをやたらと可愛がってるんだ!」 「……んなの、今に始まったこっちゃねえだろう……」 自分よりよっぽどサガの『親バカ』ぶりを見てきているくせに、今頃になって何を言い出すんだか……と、カノンは冷たい視線をアイオロスに送った。 「いや、違う。今までとは微妙に何かが違うんだ!」 カノンの言葉にぶんぶんと首を振りながらアイオロスが言うと、カノンの表情も僅かに変化した。自分が感じていた違和感を、どうやらアイオロスも感じ取っていたようである。 「確かにサガは昔からミロに甘い。けど最近のは度を越してる!。私のことなどそっちのけで、ミロにばかり構っているんだ!。さすがに今までこんなことはなかったんだぞ!!」 何だ、こいつヤキモチ妬いてやがるのか……と、カノンは呆れながらアイオロスの顔を見た。 「お前、バカじゃねーの?。ミロ相手にヤキモチなんか妬いてんじゃねーよ。あいつはオレにあてつけたい一心でサガに引っ付いてるだけで、別に変なことになんかなりゃしな……」 「バカはお前の方だ!」 カノンの言葉を遮って、アイオロスが大声を張り上げ、いきなりガッとカノンの両肩を掴んだ。ビックリしてカノンが言葉を詰まらせる。 「お前、ミロがどんなにサガのことが好きで、サガを慕っているか知ってるよな?。そしてサガがミロのこと、可愛くて仕方ないってことも知ってるよな?」 「……そ、それは……まぁ……」 アイオロスの迫力に完璧に気圧されたカノンは、途切れ途切れにそう答えるのが精一杯だった。 「ミロだってもう、外見は立派な大人だ。あいつがチビだった頃とはワケが違う!。その気になればサガと恋愛だって出来るんだ!」 「ちょ、ちょっと待てよ、アイオロス……」 かなり思考を飛躍させているアイオロスを、カノンが慌てて制した。 「お前、それはいくら何でもぶっ飛びすぎだっつの。そりゃま、ミロの方はともかくとして、サガがミロなんか相手にするワケ……」 「わからんぞ。サガは泣き落としに弱いしな。それに年だって関係ない。何しろ双子のお前がちゃんとミロと恋愛を成立させてるんだ、サガだってもしかしたら……」 いくら双子だからってそんなことまで一緒くたにして考えるんじゃねえよ……と思いっきり呆れつつ、泣き落としに弱いと言う部分は否定できないカノンは、さすがにちょっとだけ焦りを覚え始めた。 「大体、お前がミロとケンカなんかするから悪いんだぞ!。お前がしっかりミロの手綱引いときゃこんなことには……」 「うるせえよ!、あれはミロが悪いんだ!。それとその言葉、そっくりそのまま返してやる!。てめえがしっかり兄貴を捕まえてねえのも悪いんだろが!。人のせいにすんな!」 カノンとアイオロスは、お互いに責任をなすりつけあって睨み合う。 「今日、サガはどうしてる?」 しばらく無言で睨み合い、すわ千日戦争かと思われた2人だったが、その重苦しい沈黙と緊張感を破ったのはアイオロスの方だった。 今日はサガは仕事は休みである。なので当然、アイオロスはサガとは顔を合わせていない。 「知るかよ。朝に顔合わせてそれっきりなんだから」 「ミロは?」 「それも知るか!。今日は会ってもねえんだ!」 「また一緒にいるんじゃないのか?!、あの2人は」 「あー、そーかもねっ!」 投げやりに言って、カノンはアイオロスからぶいっと顔を背けた。 「そうかもね、じゃない!。何を落ち着いてるんだ、お前はっ!」 実際カノンは落ち着いてなどいなかったのだが、一応表面上だけは動じていないフリをしていたのである。 「じゃ、どうしろっつんだよ?!」 既に先走り状態がトップギアに入っているアイオロスに、カノンは苛立ち紛れの怒鳴り声をあげた。 「もう放ってはおけん!。来いっ!!」 アイオロスは乱暴にカノンの腕を掴んで有無を言わせず引っ張り、光速で教皇宮をすっ飛びだした。 「ちょっと、アイオロスっ……」 文句を言おうとするカノンを無視して、アイオロスはカノンを引っ張って走りながら、首尾よく事が進んでいることにニヤリとほくそ笑んだ。 もちろんこれは全て、サガやミロと示し合わせてのアイオロスの芝居である。 目下のところのカノンの反応を見るかぎり、サガに対してヤキモチを妬いているのか、それともミロになのかの判断はつきづらかったが、確実な手応えをアイオロスは感じ取っていた。 とにかく、さっさと2人を仲直りさせてサガとの平穏な日常を取り戻したいアイオロスは、エンジン全開でラストスパートに入ったのである。 「サガ……ごめんね……」 天蠍宮のリビングで、サガの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、不意にミロが正面に座るサガに神妙な面持ちで詫びた。 「どうした?、いきなり……」 今の今まで笑って話していたミロが、急にしゅんとなってしまったのを見て、サガが心配そうに尋ね返した。 「いや、今回のことではスッゲー色々迷惑かけちゃって。アイオロスにも……」 日に日に頭が冷えてきていたミロは、それと同時に自分の我が侭がサガとアイオロスに多大な迷惑をかけているのだと言うことを強く自覚し始めていた。 個人的には今でも自分だけが悪いとは思っていないし、少しはカノンに思い知らせてやりたいと言う気持ちも残っている。だが冷静に考えてみればここまで大騒ぎにするようなことでもなく、サガ達にまでいらぬ心配や迷惑をかけるようなことでもなかったはずだ。 また今回はいつになくケンカ状態が長引いてしまっているが為、実のところミロの精神状態の方が限界に近くなってきていた。こんなことなら素直にカノンに頭下げちまえばよかったかな……なんて弱気すら、ミロの中で顔を出し始めていたのである。と言っても、ここまで来たらもう引っ込みがつくはずもないのだが。 「別に迷惑だなんて思ってはいない。と言うよりもう慣れている。気にするな、お前らしくもない」 ミロの内心をほぼ正確に洞察したサガは、わざと軽く応じてミロに笑顔を向けた。 「ありがとう、サガ……」 思えば幼い頃から自分はサガには迷惑と面倒をかけ通しだ。それでもサガは、いつも嫌な顔1つせずに自分の我が侭を聞き、面倒を見てくれる。実の弟であるカノンと同じように、いや、或いはそれ以上に。 ミロはコーヒーカップをテーブルの上に置くと、立ち上がってサガの隣に移動した。 「でもさ、サガ……オレ、ほんのちょっとだけ嬉しかったりもするんだ。こうして遠慮なくサガに甘えられるの、久しぶりだし」 他人から見ればそうは見えなくても、ミロはミロなり少しは遠慮をしていたのである。それはもちろん、カノンを慮ってのことだった。 「もう私に甘えて嬉しいような年でもないだろう?」 散々甘えさせてる自分のことはすっかり棚上げして、サガが苦笑した。ミロの実年齢を意識しての言葉だったのだが、実際に自分がミロを20歳の大人としてなど見ていないことを、サガは全く自覚していなかったのである。 「幾つになったって嬉しいモンは嬉しいさ」 肉親の愛情に縁の薄かったミロにとって、サガは兄弟であり親であった。いつまでも甘えていたい気持ちは、抜けないのである。 「カノンとケンカしたお陰……ってのが、ちょっと複雑だけどね」 言いながらミロはちょっと照れ臭げにえへへ、と笑った。 「それならもう少しカノンと喧嘩しているか?」 珍しくサガが意地悪してそう聞いてみると、ミロは困ったように表情を歪めて、 「……それは勘弁……」 と、小さな声で呟いた。あまりに素直なミロの反応に、サガは込み上げてくる笑いを押さえることが出来なかった。 「……そろそろアイオロスがカノンを連れてくる頃だろう。上手く仲直りが出来るといいな」 ひとしきり笑った後、真顔に戻ってサガが言うと、ミロは笑顔にならない笑顔を作ってこくん、と頷いた。 双魚宮〜宝瓶宮〜磨羯宮〜人馬宮を抜け、天蠍宮に入ったところで、アイオロスがピタリと止まった。アイオロスに引っ張られてその後ろを走らされていたカノンは、てっきりこのまま双児宮まで走り抜けるものと思っていて、突然止まったアイオロスの動きに対応できず、勢い余って思いっきりアイオロスの背に突っ込んでしまった。 「……ってぇ〜……」 射手座の聖衣の羽根がモロに顔面にヒットして、カノンはその痛みに思わず呻いた。 「てめっ、止まるなら止まるって言えよっ!!」 「……サガの小宇宙だ……」 カノンの文句など、アイオロスの耳には入らなかった。アイオロスは表情を固めて、カノンを振り返り 「サガの小宇宙を感じる!。サガはここにいるんだ!」 言われてカノンも小宇宙を研ぎ澄ませると、確かに天蠍宮の私室の中にサガの小宇宙を感じることが出来た。もちろん、ミロの小宇宙も至近距離にある。 「また家政夫しに来てんのか……」 呆れたようにカノンが呟くと、アイオロスの顔が瞬時に険しくなった。 「何が家政夫だ!。サガは私の妻になる人間だぞ!」 「勝手に決めんな!、バカ!!」 ドサクサ紛れのアイオロスの言葉を、カノンは一蹴した。 「とにかく入るぞ!」 言うなりアイオロスはまたカノンを引っ張り、壊しそうな勢いで天蠍宮私室のドアを大きく開け放った。 「来たな……」 アイオロスとカノンの小宇宙が天蠍宮に入ってきたのを感じて、サガが呟いた。そして間もなく、バターンッと言う物凄い音がリビングにまで響き渡ってきた。 もう少し丁寧に扉を開けられんのか!とアイオロスの乱暴さにサガが眉間を寄せた瞬間、いきなり隣のミロがソファから立ち上がり、サガの正面に立つと無言のままサガの両肩に手をかけた。サガがえっ?と思ったときにはもう、ミロの顔は目の前至近距離の位置にあった。 アイオロスとカノンがリビングに踏み込んだと同時に、目の中に飛び込んできた光景に2人は驚愕し、目を剥いたままその場で硬直した。 2人の視界に入ったもの、それは2人に背を向けて座っているサガと、その正面からサガの顔に顔を重ねているミロの姿であった。 これは……誰がどこからどの角度でどう見ても、何をしているのか一目瞭然であった。 「サッ……」 アイオロスの全身から、血の気が一気に引いた。そしてカノンは……血が引くどころか逆流して一気に頭に血が上ったのである。 次の瞬間、カノンの手から青白い衝撃波が放たれた。ミロは咄嗟に後ろに跳んでそれを避けようとしたが、サガは微動だにせず、振り向きもせずにそれをいとも簡単に片手で受け止め手の中で消失させた。 「人の宮の中で、いきなり攻撃を仕掛けるな。天蠍宮が壊れたらどうする 」 サガがソファから立ち上がり、ゆっくりとカノンの方を振り返って静かに言った。呆然と佇むアイオロスと対照的に、カノンは目を血走らせて肩を震わせていた。 「何してんだ、てめぇらっ!!」 構えを解いて怒鳴るなり、カノンはミロではなくサガに詰め寄った。 「サガっ!、これは一体どう言うことだよ?!」 「何がだ?」 「何がだ?、じゃねえっ!。今ミロと何してたんだよっ!!」 カノンがサガの胸倉を掴む。 「見ての通りだが?」 だがサガは顔色一つ変えることなく、冷静な口調で言って返した。その落ち着きぶりがカノンには開き直りに映り、カノンの怒りがエスカレートした。 「見ての通りって……ミロのこと誘惑してやがったのか?!」 サガの胸倉掴んだ手に、カノンが更に力を込める。だが相変わらずサガは落ち着き払ったまま、胸倉を掴むカノンの手を取って、これまた力づくでそれを外した。 「別に誘惑などしてはおらん」 「嘘つけっ!。今、ミロとキスしてやがっただろう!。しっかり見たんだからな!、言い逃れは通用しねえぞ!。お前がミロ誘惑して、そうするよう仕向けたんじゃないのかッ?!」 でなければ、そんな事態に陥るわけはないのだ。完全にそうと決めつけたカノンが問い詰めると、サガは余裕の表情を見せてフッと小さく笑った。またカノンの頭に、カッと血が上る。 「サガには……サガにはアイオロスがいるだろう!。それなのに何でミロとこんなことっ……」 脳裏にまざまざと先刻のシーンが浮かび上がり、カノンは言葉を詰まらせた。 「見損なったぞ、サガっ!。ミロなんか誘惑して楽しいのかよっ!。そりゃこいつはバカだし単純だし、サガのこと慕ってっからコロッと引っ掛かるよ!、猫の子騙すより簡単だよ!。でもなぁっ、ミロはな、ミロはサガのオモチャじゃねーんだぞっ!。ミロはオレの……オレの大事なっ……」 「カノンっ!!」 カノンがそこまでを一気に捲し立てた途端、横からいきなりミロが飛び込んできてカノンに抱きついた。と、言うより物凄い勢いでミロが突っ込んできたので、抱きつかれたと言うよりはタックルされたと言う感じで、無防備無警戒だったカノンはそれをモロに受け、ミロと縺れあったまま派手に床に転げてしまった。 「なっ……?!」 一瞬何が起こったか事態が飲み込めず、カノンは床に転がったまま目を白黒させた。 「カノン〜〜〜!!」 ミロはそんなカノンをしっかりと抱いたまま、嬉しそうにその身を擦り寄せている。 「なっ、ちょっ……と、一体これはどー言う……」 仰向けに倒されたまま、まだわけがわからずにカノンがサガを見上げると、サガは今までの挑発的とも取れる表情を一転させて、カノンとミロを見下ろしながらくすくすと楽しげな笑い声を立てていた。 「サ、サガぁ?!」 情けない声でカノンがサガの名を呼ぶと、サガはカノンの脇にしゃがみ込み、 「全く、わかってはいたがお前の意地っ張りは筋金入りだな。こうでもしなきゃ素直になれないのだからな。そんなにミロのことが大切なら、少しは態度や言葉にしてやりなさい」 いつもと同じ優しく穏やかな口調で言って、柔らかく微笑んだ。 「えっ?!……てことは、つまり、その……」 頭の中でぐちゃぐちゃに縺れた糸が次第に解け始め、ようやくカノンにも事の次第が理解でき始めた。 「それじゃ、サガ……」 「言っておくが、私には弟の恋人を横取りする悪趣味はないよ」 からかうようにそう言って、サガはカノンの額を軽く小突いた。 「じゃ、アイオロスもグルか?!」 カノンは首の角度を変えて、アイオロスの方を見た。リビングの入口のところに立ったままのアイオロスは、未だ複雑な表情のまま、カノンに向かって微笑を返した。 「てことは、お前もかっ?!」 懸命に身体を捩って、自分に抱きついているミロにそう問い質すカノンであったが、ミロはそんなこと聞いちゃいなかった。 全てが3人組んでの謀だったのだと完全に理解したカノンは、大マヌケにもまんまとそれに引っ掛かってしまった自分に唖然呆然とした。 「これに懲りて下らない喧嘩はやめなさい。本当にお前達はいつまで経っても世話が焼けるな」 言っても無駄だとわかっていながら、やはり言わずにはおれないサガであった。サガにそう言われて、茫然自失状態に居たカノンがハッと我に返る。と同時に、つい今し方までとは違う怒りが込み上げてきて、カノンはサガを睨みつけた。 「るせ!。そーゆーのを余計なお世話っつーんだよ!。何だよ、ミロに泣きつかれて勝手にお節介やいたクセに!。オレは仲裁してくれなんて頼んだ覚えはないぞ!。こんなくそくだらねえ芝居打ちやがって!」 最も、無様に床に転がり、ミロに横から抱え込まれている状態なので、どんなに凄んで見せても迫力の欠片もないのは言うまでもないが。それでもめげずにカノンはサガに悪態をついたが、 「そのくだらない芝居にものの見事に引っ掛かったのは、どこのどいつだ?」 そんなものがサガに通用するわけもなく、逆に痛いところを的確に突かれて、カノンは絶句した。 「カノン、お前は少しは素直になる努力をしなさい。そしてミロはもう少し、大人になる努力をすることだな」 そしてサガは続けて2人にそう言い置くと、スッと立ち上がり微苦笑を残して2人の側から離れた。 「行くぞ、アイオロス」 そしてサガはまだ突っ立ったままだったアイオロスを促して、もう2人の方を振り向きもせずにさっさとリビングを出ていった。 「お、おいコラっ、ちょっと待て!、サガ!!。まだ話は終わってねぇ!。ちょっ、サガっ!、兄さんってば、ちょっとぉ〜!!」 文句の言い足りないカノンがサガを引き止めたが、当然それは無視され、間もなく天蠍宮の玄関のドアが開閉する音が虚しくカノンのサガを呼び止める声に重なった。 天蠍宮の私室を出たところで、サガは大きく疲労と安堵の溜息をついた。さすがサガと言えども、精神的に疲れを覚えずにはいられなかったのだ。まぁ、思惑通りに事が進んだので、万事上手く収まりそうではあるが。 「アイオロス、お前にも色々と迷惑かけてすまなかった。ありがと……」 「サガっ!」 今回の件の礼を述べようとサガがアイオロスを振り返ると、鬼のような形相をしたアイオロスにいきなりその両肩をガシッと捕まれた。 「わ、私は聞いてない……いや、許可してないぞ!」 「………何をだ?」 きょとんとアイオロスを見たまま、サガが聞き返す。 「キスだ!、ミロとキス!!。私は……そんなことまでするとは聞いてないぞ!。ちょっと仲の良さげなところを見せつけるだけだって、言ってたじゃないか!!。キスまでする必要はなかったろう!。いくら何でもやり過ぎだ!」 ここまでじわじわと攻めてきて、今日でダメ押しと言う計画ではあったが、サガとミロのキスシーンを見せつけるなどと言うシナリオではもちろんなかった。にもかかわらず、天蠍宮に入った途端、サガとミロがキスしているところが視界に飛び込んできたのでは、パニクるなと言う方が無理な話である。 カノンが先に激発したのが幸いして、アイオロスは辛うじてその場で取り乱さずにはすんだものの、今になって怒りがどんどん込み上げてきている有様だった。 焦りまくり怒りまくりののアイオロスを、サガは更に目を真ん丸くして見ていたが、やがて 「勘違いするな。キスなんかしていない」 あっさりとそれを否定して、小さく笑った。 「えっ?、だ……って……」 「あれは、お前達の位置からそう見えるような格好をしていただけだ」 サガの返答に、今度はアイオロスがきょとんとした目をサガに向けた。 「……じゃ、キスしてたわけじゃ……」 「当たり前だろう」 「なぁ〜んだ、よかったぁ〜……」 アイオロスの体から、一気に力が抜けた。 「でもそれならそうと事前に言っておいてくれ。マジで焦った、心臓止まるかと思ったんだぞ」 大袈裟な……とサガは思ったが、アイオロスの方は結構真剣であった。 「事前に言うも何も……あれはお前達が入ってくるタイミングを見計らっての、ミロのアドリブだったんだ。私だって知らなかったんだから、教えられるわけもなかろう」 そう、実はビックリしたのはサガも同じだったのである。 「何だ、そうか……。でもほんっとにキスしてるように見えたからな〜、びびったよ」 殊更大袈裟にホッと息を吐きだして、アイオロスは安堵して見せた。だが…… 「そうは見えるだろうな。厳密に言えば、ここにミロの唇が当たってたから」 落ち着いたところに追い撃ちをかけるように(もちろん本人にその自覚はない)さらりとそう言って、サガは自分の唇のすぐ脇を指差した。 「なっ、何ぃ〜〜〜?!、それって超ニアミスじゃないかッ!!。あっんの野郎、ドサクサに紛れて〜〜〜!!!」 一旦落ち着いたアイオロスが、またわなわなと怒りに肩を震わせた。 「別に頬にちょっと唇が触れたくらいで、目くじら立てることもないだろう。お前も大人げないぞ」 欧米では頬にキスなど挨拶代わりである。この程度で怒る方がどうかしていると、サガは呆れ半分でアイオロスを窘めた。そう言われるとアイオロスもさすがに返す言葉がなく、不満そうに口の中でだけブツブツと文句を言うことしか出来なかった。 「とにかくカノンとミロも上手く仲直りできそうだし、まずは一安心てところだろうな。協力してくれてありがとう、アイオロス」 これ以上言い合うに値しないことなので、サガはまだ仏頂面をしてブツブツと文句を言っているアイオロスに向かって、晴れやかな笑顔を向けて先ほど中断された礼の続きを言った。 「い……いや、その、うん、まぁ、よかったな、うん」 結局、アイオロスもサガのこの天使のような笑顔には激弱であった。この笑顔で全てが吹っ飛んで幸せになってしまうのだから、ある意味非常にお手軽な奴かも知れなかった。 「それじゃあ帰ろう。あ、そうだ良かったら家に寄っていくか?。腹が減ったろう?、すぐに食事の支度を……」 「あ、ちょっと待ってくれ、サガ!」 双児宮へ帰ろうとしたサガを、アイオロスが慌てて引き止めた。 「帰るなら今日はこっち」 いつの間にかサガの腕をちゃっかり掴んで、アイオロスは天蠍宮の上、自分の宮である人馬宮を指差した。 「えっ?」 何で?と言う目をサガがアイオロスに向けると、 「どうせもう、今日はカノンは帰ってこないだろうし……それに1週間もあいつらに振り回されたあげく、お前をミロに独り占めさせてやってたんだ。これから1週間は、私がお前を独り占めしてもいいだろう?」 まるでミロに感化でもされてしまったかのように、アイオロスが子供じみた我が侭を口にして、ちょっと切なげに瞳を揺らしてサガを見た。 カノンが居ないのだから双児宮に行っても良かったのだが、1週間思うようにサガと触れ合えなかったその反動からか、より自由の利く、誰の邪魔も入らない自分の宮で、サガとゆっくりと時を過ごしたいアイオロスであった。 サガはちょっと困ったような顔でしばらくアイオロスを見ていたが、 「やれやれ。お前もあいつらに劣らず我が侭だな……」 やがて表情を和らげると、呆れたようにそう言って苦笑して見せた。渋々を装ってはいるサガであったが、それは即ちOKと言う意味である。内心は表面と必ずしもイコールではない。何だかんだ言っても、最初からサガにはアイオロスを拒む気など毛頭ないのだ。 すぐにそれを理解したアイオロスは思わず目を輝かせ、善は急げとばかりに掴んだままのサガの手を嬉しそうに引いて、人馬宮への帰路についたのだった。 「ったく、大体お前がバカみたいに騒ぎ立てるからこんなことになるんだぞっ!」 一方、天蠍宮の中では、ミロ、サガ、アイオロスの策略に見事にしてやられたカノンが、騒ぎの根源となったミロを取っ捉まえて、説教モードに入っていた。視点を変えれば説教というよりは八つ当たりで、もちろん自分のことは全て棚の上に上げている。 「元はと言や、お前が酔っ払いの奇行と戯言を真に受けて、オレにケンカふっかけて来たのが悪いんじゃねぇかっ!。素直に謝ってくりゃいいものを、何でこんなことにまで発展しちまうんだよ?!」 案の定、アフロディーテはあの夜自分がミロに熱烈濃厚に迫っていたことなど、きれいさっぱり忘れていたのである。それが元でミロとカノンが喧嘩をしたとシュラから聞いたアフロディーテが、2日ほど経ってからカノンのところに一応謝りに来たことでカノンはそれを知ったのだが、その瞬間カノンは「そら見たことか」と心の中でミロに向かって毒づいていた。それによってますます自分は悪くないと言う確信を得たカノンは、自分から謝る必要性など1ミクロンも見出せず、サガとミロが自分の目の前で異常に仲良くしている様を横目で見ながら、とにかくミロが謝りを入れてくるのを待っていたのだ。それがまさかこんな事態になろうとは……。 余談だが、アフロディーテが詫びを入れたのはカノンにだけであった。やはりミロに対してはカノンより遥かにバツが悪かったと言うのがあったようだが、それより以前にアフロディーテの年長者としてのプライドが強くそれを邪魔をしたようである。またカノンに素直に詫びた理由の1つには、兄・サガに対して体裁を取り繕うと言う意味合いも大きかったことも事実であった。 「それにしてもサガもサガだ!。アイオロスは……まぁ、あいつはサガの言いなりだから放っておくとして、何だってお前の口車に乗ってこんな馬鹿げたことに手ぇ貸したんだか!。呆れてモノも言えねえぜ」 この計画自体の言い出しっぺはアイオロスであるのだが、もちろんカノンはそんなこと知る由もなかった。 「だって……」 とりあえずここまでおとなしくカノンの文句を聞いていたミロが、ちょっと遠慮気味に口を開いた。 「オレ、本当に悔しかったんだ。確かにさ、アフロディーテは酔っ払ってたけど、でも……あんな風にされてんの見て、カノンが平気な顔してんの見たらさ……もしかしてカノンはオレのことなんて何とも思ってないんじゃないかって、そう思えちゃって……」 「バカ。そー言うのを短絡思考っつーんだ!。何ですぐにそっち方面に考えを直結させるんだよ?」 本気と冗談の区別くらいつけられなくてどうする?と言うのがカノンの言い分であるのだが、仮にもしアフロディーテが本気でミロに迫っていたとしても、やはりカノンは動じなかったであろう。これは本人も全くの無自覚であったが、アフロディーテ相手には絶対にミロの心は揺らがないというほぼ絶対の自信が、本人ですら知らないうちにカノンの中にあったからだった。正にそれは以前、アイオロスが洞察した通りだったのである。 「もし立場が反対だったら……オレ絶対イヤだから。カノンがもし、オレの目の前であんなことされたらって思ったら、オレ、カノンみたいに平然となんかしてられねーもん」 「それはお前がガキだからだ!」 「ガキで結構!。イヤなもんはイヤだ」 「開き直ってんじゃねえ、このバカ!」 ポコッとカノンがミロの頭を殴った。 「だってカノンは全然そう言うこと言ってくれないし、滅多に態度にも出してくれないから、時々わかんなくなって不安になるんだよ!。あんなことあったら、特にさ……」 「だから、時と場所だっつってんだろ?。あそこは飲みの席!、相手は酔っ払い!、マジになる必要がどこにあるって、何度言わせんだ!」 「カノンはそうでもオレにとってはそうじゃなかったんだってば!」 「あ〜、もうっ!。それで何か?、そんなオレの態度に不安覚えたお前はそれをサガに訴えて、サガに泣き落としでもして頼み込んで、オレを試すような真似したってのかよ?」 「別にサガに泣き落としたわけでも頼み込んだわけでもないけど、何つーかこれは成り行きで……」 はぁ〜……っと、カノンは大きな溜息をついた。 「ったく、冗談じゃねえよ。たかが酔っ払いのおフザケが、何でこんなことになるんだよ。大体サガもミロに甘い、甘すぎ!。こんな下らないことに、何で手なんか貸すんだよ。お節介もいいとこだぜ。オレ達の事は放っときゃいいのに、いらんことまで世話やきやがって!!」 別に騙されたと言うほどの事でもないのだが、終わってみればあんな単純な作戦にコロッと引っ掛かってしまった自分が非常に情けなく、またその場の勢いとは言え非常に醜態を晒した上に、普段だったら絶対に言わないであろうこっ恥ずかしいことまで思いっきり口にしてしまった二重三重の失態が悔しくて悔しくて堪らないカノンは、同じ文句をブツブツと繰り返した。 「お前が荒れまくってサガに心配かけたのも原因の1つなんだぜ。サガ、それを心配して色々力になってくれたんだ。文句言うのは筋違いだろ?」 「バッカ野郎!。その大元の原因作ったのはてめーだってこと、忘れてんじゃねぇぞ!」 今度は逆にミロに説教じみたことを言われ、キレたカノンは声を張り上げた。 「それはわかってるって。でもさ、1つ言っていい?」 「んだよっ?!」 「オレさ、今スッゲー嬉しいんだよね」 「はぁ〜?!」 「だってさ、初めてだもん。カノンがあんな風に言ってくれたの。しかもサガを相手に……だぜ」 あんまり嬉しそうな笑顔で幸せそうにミロがそんなことを言うものだから、思わずカノンは喉まで出かかっていた悪態を飲み込んでしまった。 「正直言って、あんなことしたらサガにじゃなくてオレにヤキモチ妬くんじゃないかって思ってた。カノンがどんなにサガのこと大事か知ってるつもりだし。きっとオレにサガ取られると思って、食ってかかってくるって思ってたよ」 言いながらミロが苦笑した。 「……オレはそこまでブラコンじゃない……」 非常に面白くなさそうにカノンは小声で呟いたが、それは偏に本人の無自覚から来る言葉であった。この場に他の黄金聖闘士が同席していたら、皆きっと異口同音に言っただろう。それは嘘だ、と。 「それがさ、サガに向かってヤキモチ妬いてくれたんだぜ。オレの事誘惑したのか?!ってカノンがサガに詰め寄ってるの見たとき、オレ、マジで涙出そうになるくらい嬉しかったんだ」 自分の恥ずかしい台詞を再現され、カノンは照れ臭さと恥ずかしさとバツの悪さに顔を赤くし、不貞腐れ気味にぷいっとミロから顔を背けた。 「試すような真似したのは悪かったけど……でもオレ、目に見える何かが欲しかったんだ。耳に聞こえる言葉が欲しかったんだ。でないと、わかんないからさ……」 ミロは背けられたままのカノンの横顔に向かって、言葉を繋いでいった。 「あん時はマジであったま来てさ、勢いでカノンとケンカしちゃったけど、ホントはちょっと後悔してた。それと同時に、こんなことになったのもアフロディーテのせいだ!って、真剣に怒ってたけど、でも今はアフロディーテに感謝してるよ。あれがあったからこそ、今日があるんだもんな」 「……バカ!。お前はいいかも知んねーけど、オレはいい迷惑だ!」 更に耳までを赤くして、カノンは忌々しげに呟いた。 「こんなこと言ったらまたカノン怒らせるかもだけど、オレ、ホントに嬉しいんだ、今。だってさ、サガだぜ、サガ!。カノンがあのサガにヤキモチ妬いてくれたんだぜ。やっとオレ、自信ついた。これから先、もう誰に何されても平気だもんね〜」 言うなりミロは、カノンの身体を引き寄せて抱き締めた。 「バッカ、放せよ!」 カノンはミロから離れようと腕の中でもがいたが、ミロはカノンを放さなかった。 「試したことはゴメン、謝る。サガにまで迷惑かけちゃったことも謝る、ゴメン。でも嬉しかった、本当に……ありがとう」 ミロはカノンの耳元に唇を寄せて、そっと囁いた。暴れていたカノンの動きが、ピタリと止まる。自分の中にあった怒気が、急激に萎んでいくのがわかる。そしてそれは、瞬く間に消えてなくなってしまった。してやられたな……とカノンは思ったが、不思議ともう悔しいとかそう言う感情はなかった。 それに、本当のことを言うとケンカしたままの状態にそろそろ耐えきれなくなっていたのは、カノンも同じだったのだ。意地っ張りな性格がここでも災いして、絶対にそれを認めたくなかっただけで……。 「……もう、2度とこんなことすんじゃねーぞ……」 無言の数秒が流れた後、乱暴にカノンが言った。 「うん……」 「同じ手には、絶対引っ掛かんねーからな!覚えとけ」 「うん……」 「それから……今日言ったこと、もう口に出しては言わねえからな!。絶対に忘れんじゃねーぞ……」 「……うん……」 ミロは頷きながら、きゅっとカノンを抱く手に力を込めた。そしてミロはそうやってカノンを抱き締めたまま、そっとカノンの唇に自らの唇を重ね合わせた。カノンも素直にそれを受け容れる。1週間ぶりのキスであった。 「あっ、そうだ……」 少ししてミロがカノンの唇を解放すると、カノンが不意に思い出したように声をあげた。 「……どうした?」 カノンの挙動にミロが怪訝そうに聞き返すと、カノンはキッとミロを睨み返し、 「お前、さっきサガとキスしたろ!」 今更ながらにそのことを思い出して、カノンはミロを更にきつく睨みつけた。 「はっ?」 ミロはマヌケな声をあげた後、プッと吹き出して 「ああ、さっきのあれか。大丈夫、キスなんてしてないよ、唇にはね」 楽しげにケラケラと笑いつつ、そう答えた。 「唇には……?」 その一言を聞き止め、カノンが眉間を寄せた。 「カノンとアイオロスの目の前で、ホントにサガにキスなんかするわけないだろ?。もちろん、そう見えるような格好はしてたんだけど。そんでもって、ここにちょっと触れただけ」 そう言いながら、ミロはカノンの唇のすぐ横を指差した。 「……一応、それもキスって言うんじゃないのか?」 いずれにせよ、ドサクサ紛れにほんのちょっとチュッとやったのは事実のようで、怒るようなことではないと思いつつも、ちょっと面白くないカノンであった。 「サガとは小さい頃からこれくらいのことはしょっ中してたよ、挨拶みたいなモン。カノンとしてるキスとは全然違うんだから、安心してくれ」 ミロは悪びれる様子も見せずに、あっけらかんと言い放った。同じだったら大問題だ!とカノンは思ったが、ミロはそんなことわかってもいないようなので、言うだけ無駄と諦めてカノンは小さな溜息だけをついた。そんなカノンを、ミロがまた嬉しそうに抱き締める。 「ね〜、カノンちゃん」 直後、緊張感のない呼び方でミロがカノンを呼んだ。 「ちゃんづけはやめろ。……何だよ?」 「そろそろ、聖衣だけでも脱がない?。ちょっとゴツくてさ、抱き心地悪いんだけど……」 完全にいつもの調子に戻ったミロが、ニッコリと満面に笑みを浮かべてカノンに言う。そのあまりの見事な立ち直りと気持ちの切り替えの早さにカノンは呆れたが、カノンはミロのこの笑顔に弱かった。いつもこの明るい笑顔を向けられると、カノンは何も言えなくなってしまうのだ。オレもサガのこと言えねえやと、カノンは心の中で自嘲した。 「じゃ、服貸せ。オレ、今日上は何も着てねんだよ」 抱き心地が悪いと文句を言いつつもしっかり自分にくっついてるミロを、カノンは軽く窘めて引き離したが、その顔には穏やかな笑顔が戻っていた。 |
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