翌日。

寝室のドアをノックする音で、カノンは目を覚ました。

重い瞼を開いた瞬間に、見慣れたものと違う大理石の天井が視界に入ってきて、カノンはおや?と目をぱちくりとさせた。

『ああ、そっか……』

海底神殿に来てたんだっけ……と、数秒後に思い出して、思わずふぅ、と大きく吐息した。よくよく考えたらここでの生活の方が双児宮での生活より長いわけで、見慣れていると言えばこの部屋の天上の方が遥かに見慣れているはずなのだが、たった数ヶ月で違和感しか覚えるようになるとは不思議なものである。

カノンがベッドに寝転んだままボケッとしていると、再び寝室のドアがノックされた。

「おう、入っていいぞ」

億劫そうに身を起こしながら、カノンはドアの外の誰かに向かって声を投げた。そしてすぐにそのドアが開かれると、鱗衣を纏ったアイザックが控えめに一礼して寝室の中に入ってきた。

「おはようございます、シードラゴン……と言っても、もう昼ですけど」

「え?、ウソ?!、マジかよ?」

カノンが柱時計に目をやると、時計の針は正午を半分近く回っていた。

「うわ、やっべ〜、超寝過ごした!」

昨夜就寝したのは日付が変わる前だったというのに、ノンストップで12時間以上も爆睡してしまうとは……。参ったなぁ、と呟きながら、カノンは寝癖のついた青銀の髪をかき上げた。

「悪ぃ、お前もしかして朝からずっと待ってたのか?」

北大西洋の結界を朝イチで張り替えるから、と、アイザックを呼び寄せておいたのは、自分である。朝イチと言っても午前10時なのだが、カノンにとってはこれでも充分朝イチのレベルである。

「いえ、一度戻りました」

アイザックが苦笑混じりに微笑した。昨日から数回、アイザックの笑い顔は見ているが、以前と比べてマシにはなったにせよ、やはりそれは14歳の少年のものとは思えないほど、変に大人びているようにカノンには見えた。

「何だ、起こしてくれりゃ良かったのに」

筋違いな文句を言いながら、カノンは欠伸をした。

「起こしました。けどウンともスンとも反応なくて……」

「あ、そりゃ重ね重ね失礼……」

カノンも自分の寝起きの悪さを自覚しているので、即座にアイザックの言うことを信じてバツ悪そうに詫びた。熟睡しているときの自分は叩いても蹴っても擽っても、そう簡単には起きない。ドアをノックした程度で起きれるわけがないのである。もちろん、威張れることではないのだが。

それでも双児宮でサガと生活するようになってからは、サガがちゃんと起こしてくれるようになった分だけ、随分と規則正しく真面目な生活をするようにはなっていたのだが、それでも寝起きの良し悪しというものは持って生まれた本質のようなもので、その基本形は容易には変わらないらしい。

「いえ、オレの方は別に」

さして気を悪くしてる風でもなくアイザックが言うと、ああ、そう?とカノンも軽く応じながらベッドから降りた。

「急いで着替えるからよ、ちっと待ってろ」

「それじゃオレ、柱のところで待ってますから」

「おう、わかった、すぐに行くよ」

カノンの返事を確認して、アイザックは寝室を出ていった。





「シードラゴン、何ですか?、その格好」

アイザックが予測していたよりも早く、カノンは北大西洋の柱に姿を現したが、その格好を見てアイザックは目を丸くした。

「何って……別に昨日と同じだけど?。変か?」

カノンは昨日ここに来たときに着ていた服、Tシャツとジーンズと言う軽装でやってきたのである。

「変とかそう言うことじゃなくて……これから結界外してもらうんですよ?」

「わかってるよ」

「それなのにそんな軽装で……危ないじゃないですか!」

アイザックが初めて、声を大きくした。

「別に結界外すだけだろ?。大したことするわけじゃねーし、危なくも何ともねえよ」

「何を言ってるんです!、もし結界を外した瞬間に、外界から何かが飛び込んできたらどうするんです?」

「それだって高が知れてるだろ?。大丈夫だよ、それくらいはな」

青ざめるアイザックとは対照的に、カノンの方はどこまでも気楽に構えていた。

「にしても、危ないことに変わりはないじゃないですか」

「……んなこと言ったってしょーがねえだろう?。いくら何でもここで聖衣呼びだすわけにゃいかねえんだからよ」

食い下がるアイザックに、カノンが困ったように眉間を寄せた。

「シードラゴンの鱗衣があるでしょう?。すぐにそれを纏ってください」

「アホ!あれはもうオレんじゃねえんだ。纏えるわけねーだろう」

間髪入れずに呆れたようにカノンに言われ、アイザックは一瞬、返す言葉に詰まった。

「……それこそ何を言ってるんです?。あの鱗衣は貴方のものでしょう」

「こないだまではな。でもオレはもう海龍返上しちまったから、あれを纏うわけにゃいかねんだよ」

「そんな……」

あっさりと言ってのけたカノンに、アイザックが何とも言い難い複雑な表情を向ける。何か言うべき言葉を探しているようだったが、どうやら上手く見つからないらしい。アイザックの片方だけの瞳に浮かぶ微妙な色合いの光で、カノンはそれを察した。

「ま、あんま細かいこと気にすんなって」

あくまでも軽く言い放つと、カノンはアイザックに背を向け、小宇宙を高め始めた。瞬く間に強大に膨れ上がっていくカノンの小宇宙に、アイザックは思わず息を飲んだ。

やがて、一条の閃光が上空を走り、周囲の空気が僅かに震えた。と同時に、言葉にしがたい違和感が、アイザックの身に纏わりつく。

「おい!」

振り返ったカノンに呼ばれ、アイザックがハッと我に返った。カノンの小宇宙の強大さを、初めて直に感じたアイザックは、完璧にそれに気圧されて呆然としていたのである。

「結界取っ払ったぞ。早く新しい結界張んな」

親指でくいくいと上空を指しながら、カノンが言った。アイザックがぎょっとしたように、片目を見開く。

「えっ……?、取ったって、もう?」

「ああ」

あっさりと頷かれ、アイザックはますます目を丸くした。

「……オレ達が総掛かりになってもダメだったのに、たった数秒でですか?!」

「別に驚くこっちゃねーだろ。オレが張った結界だぜ。自分で作ったモン外すのに、自分が苦労してどうするよ」

苦笑いしながらカノンが言うと、アイザックは片目をパチクリと瞬かせた。そう言われてみればその通りではあるが、とかくこのエリアの結界には手を焼かされた記憶がくっきりと刻み込まれているだけに、アイザックとしては非常に複雑な思いがあった。カノン本人はまるで朝飯前だとでも言わんばかりだが(実際、そう言っているのだが)、アイザックにとってはカノンの実力のほどがどれだけのものかを、改めて思い知ったような、そんな気持ちだった。

「ポカンと口開けて人の顔見てねえで、さっさと新しい結界張れば?」

カノン的には大したことをしたわけでもないので、驚かれることの方がよっぽど不思議だったが、どのみちそんなことは言っても仕方のないことなので、唖然としているアイザックを呆れ半分でそう促した。

「あっ!、は、はい!」

言われて自分の職務を思い出したアイザックは、大慌てで結界の外れた北大西洋の柱の周りに、新たな結界を敷いたのだった。久方ぶりに結界が安定し、北大西洋の柱に独特の静寂と穏やかな空気とが広がった。

「やれやれ、1コ片付いたな。これからはここもよろしく頼むぜ、クラーケン」

アイザックの背後から、カノンがポンッとアイザックの頭を叩いた。反射的に振り向くと、カノンが柔らかな微笑みを自分に向けていた。今まで見たこともなかったそんなカノンの笑顔に、アイザックの心臓の音が一瞬だけ跳ね上がった。

「は、はい……」

アイザックは完全に上の空で、力なくそう一言返答するのが精一杯だった。

「さ〜てと。飯食ってからシーホースんとこ行くか」

ここに来た一番の目的が片付いたカノンは、言うが早いかとっとと踵を返し、足取りも軽く階段を降りていった。それに少し遅れて、アイザックがカノンを追いかける。

「シードラゴン、バイアンと話が終わったら、どうするつもりなんですか?」

カノンに追いついたアイザックが、横に並んでカノンに話かける。

「あ?。決まってんだろ、聖域に帰るんだよ」

「ここへは……戻る気はないんですか?」

「ああ」

間髪入れずに、カノンが答えた。

「ソレントは……貴方にここに帰ってきてもらえるよう頼んだ、って言ってましたけど……」

「ああ、まぁ頼まれたっつーか、何つーか……それらしいことは確かに言われたけどな。そう言ってくれんのはありがたいけど、断ったよ」

「……そうですか……」

そのままアイザックは黙り込んだ。元々アイザックも、聖闘士になるべく修業をしていた身だ。その時に、聖闘士の存在意義と言うものを、骨身に染みて叩き込まれている。紆余曲折を経て結局は海闘士になったものの、聖闘士の何たるかを身をもって知っているアイザックとしては、カノンの気持ちが何となくだがわかるような気がしていた。またアイザックもカノン同様に、一時は地上を、女神を、そして聖闘士の存在そのものを見限っていた時期がある。それだけに、アイザックはカノンと思いを共有できる部分があるような気がしていた。無論それはほんの一部に過ぎないであろうが、これが他の海闘士とアイザックとの、大きな違いだった。

「なぁ、クラーケン」

「はい?」

「お前さ……本当はオレに聞きたいこと、あんじゃないの?」

唐突なカノンの問いに、だがアイザックはギクリとした。カノンに自分の内心にある、もう1つのことをズバリと言い当てられたからである。

「…………はい」

何故わかった?などと無意味なことを聞き返すつもりはなかった。自分で言うのも何だが、それをあからさまに言動に出していたわけではない。だがカノンには、自分の言動のどこかしらからそれを察することができたのだろう。アイザックは無条件にそれを確信することが出来た。

「お前の師匠達と、キグナスのこと……だろ?」

「はい」

今度は間を置かず、アイザックがはっきりと頷いた。アイザックの返答を受けて、カノンはカミュ達の近況を話始めた。

「みんな元気にしてるよ。カミュは宝瓶宮で、水晶聖闘士はシベリアで静かに暮らしてるし、キグナスは日本の女神のところで、城戸邸を警護しながら、普通の学生やってるよ。キグナスはよく宝瓶宮に来てるし、シベリアにもしょっ中帰ってるけどな」

「そうですか……」

「……3人とも、お前のこと心配してるぞ」

「えっ?」

アイザックが軽く目を見張り、声を詰まらせた。

「ずっと……お前の無事を祈ってたんだ、カミュも、水晶聖闘士も。キグナスからお前の話を聞いて、涙流して喜んでたらしいぜ。例え海闘士に転身していても、生きていてくれただけでよかったって」

言いながらカノンが、チラリと横目でアイザックを見る。アイザックは何とも言えぬ複雑な表情でカノンを見上げ、その目が話の先を促していた。

「ま、あいつらもオレに気ぃ使ってるらしくてよ。オレにはお前のこと、全然聞いてこないんだけどな。本当は聞きたくて堪らないくせに、遠慮してんのが見え見えなんだぜ、笑っちゃうよな」

アイザックの表情は、明らかに戸惑いの色が強かったが、それだけではなかった。アイザック自身がそれを明確に自覚しているかどうかは別にして、恐らくは自分の師達や兄弟弟子がそれほどまでに自分を心配してくれていたのだとは思わなかったのだろう。それを純粋に嬉しく思う気持ちがアイザックの中にほんの少し芽生えたようで、それがアイザックの表情に微妙に異なる色を混ぜ込んでいるのであろう。その顔は、カノンが恐らくは初めて見るであろう、アイザックの14歳の少年らしい顔だった。

「と言ってもまぁ、それを聞かれたところで正直、オレもお前のことなんて全然わかってねぇからな。ろくなこたぁ、言ってやれねえんだけどよ。そう考えて改めて思ったけど、結構長い間一緒にいたのに、オレってお前の……いや、お前達のことホント何にも知らなかったんだよな」

海闘士を、いや、ポセイドンをすら自分の野望の道具としてしか見なしていなかったカノンは、当然誰とも一個人としての交流は持ったことがなく、最も身近な存在だったはずの海将軍達のことすら何一つ理解していなかった。当時はそれでも良かった。彼らはカノンが地上と海界とを征服するためにだけに必要だった者達であり、ポセイドンへの忠誠心と、黄金聖闘士にも匹敵すると言われたその能力さえあれば充分で、個々人の経歴だの性格などというものは一切関係なかった。だからカノンは彼らを深く知ろうとはしなかったし、決して必要以上に深く接したりはしなかった。どうせ野望が達成されたら、使い捨てる者達だ……と言う意識がカノンにはあったし、特にこのアイザックに関しては聖闘士に縁あるものと言うことで、特に個人的な接触を回避してきた部分もあった。

「それはオレも同じです……シードラゴン。いえ、カノン……」

アイザックはここで初めて、カノンの名前を呼んだ。

「それにオレは貴方のことはずっと、お兄さんのサガだと思ってましたし……。でもサガのことは、ほんの少しだけ、カミュから聞いたことがありましたけど」

「へぇ?、何て?」

「……優しい人だった、と……」

「ふぅ〜ん……」

気のない返事をカノンは返したが、その一言にこめられていたのであろうカミュの心情は、理解できていた。

「でもさ、お前何でオレの……っつか、兄貴の顔知ってたわけ?。やっぱりカミュか?」

「ええ。その時に写真を見せてもらいました。と言っても、正確には水晶聖闘士に見せていたものを、横で見ていただけですけど。サガは十数年前、行方不明になったきりだけど、万一、どこかで見掛けるようなことがあったら知らせて欲しいと、カミュは言っていました。カミュはカミュで、密かにサガの行方を探してはいたようです。これは氷河が来る前の話なので、氷河はこのことを知りませんが……」

「まぁ、あいつもサガにはよく懐いてたって言ってたからなぁ。そっか、探してたんだ、あいつも。でも成程、それで謎が解けたよ……っつか、それ以外にはあり得ないだろうとは思ってたけどね」

アイザックがカミュの弟子である水晶聖闘士の元に弟子入りしたときには、サガはもう既にその姿をくらまし、聖域の最奥で偽りの仮面をつけ、玉座に座っていた。まかり間違っても、アイザックがサガのことを知る機会などなかったはずなのだ。そのアイザックがサガを知っていたと言うことは、カミュが何らかの話をしていたとしか他に考えようはないのである。

「だからオレは……ここに来て初めて貴方に会ったとき、正直言ってビックリしました。カミュが探していた人が、こんなところにいるなんて……と。でも同時に、それじゃ見つからないはずだとも思いましたけど。まさか双子の弟だなんて思いませんでしたから、何の疑いもなくサガだと信じてました。後で聞いて、またビックリしましたよ」

そう言って、アイザックは苦笑めいたものを唇の端に乗せた。

「そりゃな、あの時点じゃカミュだってオレのことは知らなかったんだ。お前以外の誰がオレを見たって、サガだと思うさ。けどお前は何で、その時点でそれをオレに言わなかったんだ?」

「何をです?」

「サガのことを知ってた、ってことをさ。お前、結局オレにはそのこと知らんぷりしたまま、最後の最後でよりにもよってキグナスに『首謀者はサガだ!』ってチクリ入れただろ。ちょっと汚ねえよな」

えっ?、と言葉を詰まらせるアイザックを見て、カノンは楽しげに笑った。汚いなんて言われる筋合いはないのだが、その辺の理不尽さにはアイザックは気付いていなかった。無論、カノンは半分以上は面白がって、アイザックをからかっているだけなのであるが。

「……怖かったんですよ、貴方が」

少し沈黙した後に、言いづらそうにアイザックが答えた。

「はぁ?」

「カミュはサガのことを優しい人だったって言ってたけど……初めて会ったときの貴方の目は、まるで氷で出来た刃のように、冷たく鋭くて、まるで人の温かさとか優しさというものを感じさせなかった。カミュが言ってた人とは、まるで別人のようだと思いました。いえ、結果的には別人だったんですけど、とにかくあの時オレは、貴方が怖かった。貴方には深入りをしちゃいけない……そう直感で感じてたんです」

初めてカノンに会い、その視線に見据えられたときの恐怖感を、アイザックは今でもはっきりと思いだすことが出来る。その瞳から放たれていた強い光は、優しさとか、温かさとか言うものとは対極の位置にあり、アイザックを心底ゾッとさせたのだ。

「そう言われてみりゃそうかもな。よくよく考えりゃ、もしあの時お前がサガのことを知ってるって少しでも匂わせてたら、オレはお前を殺していたかも知れないしな」

あの当時の自分なら、それくらいのことは平気でやっていただろう。少し真面目に省みて、カノンはアイザックの対処が賢明であったことを、改めて実感した。

「オレは多分、本能的に貴方を避けていたんだと思います。貴方がオレ達を知ろうとしなかったのとは別の意味で、オレも貴方のことを知ろうとはしなかった。だから、オレは当時の貴方のことは何も知らない。けど、そんなオレにも、今の貴方は昔の貴方ではない、と言うことだけはよくわかります……」

ソレントと共に久しぶりにこの海底神殿に姿を現したカノンを、だが一目見た瞬間にアイザックは思ったのだ。この人は変わった……と。改心して女神に忠誠を尽くしていると言う話は聞いていたし、自分達が現世に蘇ることが出来たのは半分以上はカノンの働きのお陰であることも承知してはいたが、まさかこんなにもカノンが劇的に変わっているとは思わなかったアイザックである。かつて、一目でアイザックを恐怖に竦み上がらせたあの凍てついた瞳は、打って変わって穏やかな光彩を宿していた。それだけで、カノンの変貌ぶりがどれほどのものか、アイザックにはわかったのである。

「貴方は変わった……信じられないほどに……」

アイザックはカノンを見上げながら、感慨深げにそう呟いて、隻眼を細めた。

「そう……かな……」

確かに自分でも変わったと思う。いや、変わったというより、やっと目を覚まさせてもらったのだと言ったほうが、より正解に近いかも知れなかった。だが面と向かってそんな風に言われると、照れ臭いというかバツが悪いというか、何とも言えぬ気分になるのも事実であった。

「まぁ、過去の経緯が経緯だったから、オレも今まで海底(こっち)には顔も口も出せなくてさ、お前とカミュ達の間の橋渡しをしてやることできなかったけど……」

変わった、変わらない云々の談義はひとまず置いて、カノンは話題を些か強引に引き戻した。

「今回はそういう意味でもいいきっかけになったかもな。これでオレも、お前達の中継役をしてやれそうだし、お前にしてもカミュ達にしても、今までよりはずっと連絡が取りやすくなるだろう」

「カノン……」

一度は袂を分かったとはいえ、元々が強力に結びついていた師弟同士。属する陣営が違っても、互いが互いを思い遣り、気遣う気持ちは全く変わってはいない。

「オレから後でシーホースにも言っといてやるよ。だからこれからは遠慮しないで、お前からもあいつらに連絡してやんな。カミュ達も喜ぶぜ」

カノンがアイザックに優しい微笑みを向ける。

「ありがとうございます、カノン。でも……」

アイザックの表情が、不意に曇った。

「オレは……女神に弓を引き、師に背き、兄弟にも等しい存在だった人間に拳を向けた人間です。今更我が師達や氷河に、会わせる顔などありませんよ」

聖闘士から海闘士へ転身した事情が例え氷河に起因するものだったとしても、自分は言わばそれを言い訳にして傲然と師に背き、仲間をこの手にかけようとしたのである。それは紛れもない事実で、消えざる罪であった。

だが淋しげに顔を伏せたアイザックに、カノンは殊更口調を強めて言った。

「バッカ、お前、そんなこと言ってたら、オレはどうなんだよ?、オレは!。自分で言うのもアホらしいが、ポセイドン擁立してお前等けしかけて、聖域にケンカ売った首謀者はオレだぜ?。そのオレが、今じゃ黄金聖闘士になって堂々と十二宮で暮らしてるんだ。しかもウチの兄貴だって、前教皇……って返り咲いて今も教皇だけど、を殺して聖域乗っ取った元反逆者だぜ?。オレ達に比べりゃ、お前のやったことなんか可愛いモンだって。別にキグナスを殺したわけでもないんだしよ。んな小さいこと気にすんなって」

とても小さなこととも思えないし(確かにカノンの言う通り、カノンやサガが過去にしでかしたことに比べれば、小さいものかも知れないが)、気にするな忘れろと言ってもそう簡単には無理であろうが、それでもカノンは敢えてそれを……この場にいない兄のことまで引き合いに出して……軽く笑い飛ばした。実際問題、そうしなければ前に進まないのである。氷河がアイザックを憎んでるとか、水晶聖闘士やカミュがアイザックのことを全く心配していないとか言うなら話は別だが、そうではないのだ。互いが互いを今でも大切な者として思いあっている以上、彼らの絆は切れてはいないのだ。アイザックの気持ちは無論よくわかるが、それだけにアイザックの方が気持ちに区切りを付け、ある意味で割り切るというか開き直って、自分自身の中にある罪悪感を何かしらの形で昇華させなければ、事態はいつまで経っても変わらないのだ。

「それにいつまでもそんなこと気にされてちゃ、キグナスだっていい迷惑だろう。あいつはお前と、昔と同じような関係を取り戻したいって思ってんだぜ。その気持ちに素直に応えてやったらどうだ?。お前だって、どうせ同じ思いでいるんだろうが」

「カノン……」

アイザックは伏せていた顔を上げて、再び隻眼でカノンを見遣った。

「お!、そうだ、お前さ、今晩……にはちょっと無理そうだが、明日オレが聖域に帰るとき、一緒に行くか?」

「えっ?!」

突然のカノンの提案に、アイザックは隻眼をこれ以上ないくらいに見開いて驚いた。

「うん、それがいい!、そうしろよ!。せっかくの機会だ、これを利用しない手はないぜ。オレが一緒の方がここからも出やすいし、カミュ達にも会いやすいだろう?。いい口実になるじゃん」

「……で、でも……」

確かにカノンの言う通り、カノンの存在はいい口実と言うか、現状を変えるいいきっかけになるだろう。だがあまりに唐突すぎて、アイザックはとてもじゃないがすぐにうん、とは言えなかったのである。それに自分には、北氷洋だけでなく、今後は合わせて北大西洋の柱も守護しなければいけない責務がある。それじゃあ行きましょう!、と、簡単に海底神殿を不在にするわけにもいかないのである。

「ああ、柱のことなら大丈夫だろ。北大西洋は今新しい結界張ったばっかだしよ、心配なら今晩のうちに北氷洋も新しいのに張り替えとけばいいんだし。あとはシーホースにも話通しといてやっからよ、心配すんな」

アイザックの内心をほぼ的確に察して、カノンは先回りしてその心配を制した。別に交戦している相手がいるわけではないし、数日アイザックがここを留守にしたからと言っても支障などあろうはずもない。実際、ソレントにしたって今は大半を地上で過ごしていて南大西洋の柱も実質は主不在の状態が続いているわけだし、北大西洋など今の今まで放置してるに等しい状態でも大丈夫だったのだ。あとは自分の後を引き継いで海将軍筆頭となるバイアンがうんとさえ言ってくれればいいわけだが、これについてもNoと言われる心配はないだろうとカノンは確信していた。

「でも、カノン……」

「バカ、お前、この機会逃したら、今度いつ口実ができるかわかんねーぞ。さっきも言ったけど、オレだってここに頻繁になんか顔出せやしねえし……っつか、もうオレはここでは用無しの存在なんだからそうそう来る理由もねえしよ。余計な心配してないで、一緒に来いよ、な?」

些か強引に言って、カノンはアイザックの肩をポンッと叩いた。

「………はい」

アイザックは数十秒沈黙した後、やっと躊躇いのカーテンを開けて、カノンにはっきりとした頷きを返した。

「よっしゃ!決まり!!。カミュ達も喜ぶぜ!」

言いながらカノンがアイザックにヘッドロックをかける。突然首を締め上げられたアイザックだが、その顔には嬉しそうな、14歳の少年らしい笑顔が浮かんでいた。


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