「お前は一体、何を考えているのだ?」
殆ど有無を言わせずにここまで連れてこられたサガは、自分のほんの少しだけ前方に立っているカノンの背に向かって、半ば呆れたようにそう問い掛けた。全く、何を考えていきなりこんな夜分にこんなところまで自分を引っ張ってきたのか、ここに来てもサガにはやはりカノンの意図が見えなかった。憮然とするサガとは対照的に、カノンは涼しい顔で、海から吹いてくる潮風に心地よさそうに身を委ねていた。 「カノン?」 もう一度呼び掛けると、カノンはやっとサガの方を振り返った。 「なぁ、サガ……覚えてるか?」 「……何をだ?」 「子供の頃……サガにここに連れてきてもらったよな。夜に人目を避けて、こっそりとさ……」 カノンから投げ返されたその問いに、サガは驚いたように表情を動かした。 「カノン……お前……」 「覚えてる?」 念を押すようにしてカノンに問われ、サガは黙って頷いた。それを見たカノンが、嬉しそうな笑顔を浮かべる。 「そっか、覚えてたか。忘れられてるかと思ってたけど」 「……忘れるわけなかろう……」 ボソリとそう答えると、サガはカノンの真横に並んでカノンの横顔を見遣った。 「お前こそ、何故急にそんなことを思い出したのだ?」 サガはサガで、カノンの方こそとっくにそんなことは忘れていると思っていた。それだけに、今になってカノンが急にそれを言い出したことに、サガも意外の感を拭えなかったのだ。 「思い出したって言うか……さっき、夢見たんだ」 「夢?」 「そ。あの日の夢」 言いながらカノンは、横目でチラリとサガを見遣った。 「双児宮に来てからは、ガキの頃の夢を見ることなんてなかったんだけどね。何で急に見ちゃったんだろうなぁ〜」 どこか暢気な様子でそう言って、カノンは夜空を仰いだ。そんな弟の横顔を、サガは複雑な思いで見つめる。双児宮に来てから……と言うことは、それより以前にはよく子供の頃の夢などを見ていたと言うことなのだろう。当時のカノンの心情を察すると、胸の片隅にチクリとした痛みを覚えるサガだった。 「でもさ、あん時はよくわかんなかったけど、今にして思えばサガ、随分とデカイ博打をうったもんだな。もしオレを連れ出してるところを見つかってたら、タダじゃすまなかったろうに……」 数秒の沈黙の後、不意にカノンがサガの方へ顔を向けて言った。あの時はまだ小さくて、しかもサガほど物分かりのよくなかったカノンは、当時サガがあの結界の中から自分を連れ出すのがどんなに危険なことだったのか、あまりよく理解をしていなかった。だが今ならわかる。あの時サガが自分のために、どれほどの危険を押してその禁を破ってくれたのかと言うことが。もしあれが見つかっていたら、自分はおろか恐らくはサガの命すら危うかっただろう。サガにはそれがわかっていたはずで、それでも尚、サガは自分の願いを叶えるためにその危ない橋を渡ってくれたのだ。 「……あの時の私には……それくらいしかお前にしてやれることがなかったからな……」 生きていくためとは言え、理不尽な隠棲を強いられたカノンに対し、あの時のサガは余りに無力だった。カノンが淋しさを訴えているとき、悲しくて泣いているとき、傍らに居てやることさえできなかった。ただただカノンに我慢だけを強いることしか出来なかった自分が、当時カノンにしてやれる唯一にして最大のことだったのだ。 小さな声で呟くように言いながら瞳を伏せる兄の横顔を、カノンも複雑な思いで見つめていた。 その時の兄の気持ちを、苦悩を自分がもう少しわかってやることができていれば、もしかしたら自分たち兄弟にはまた違った人生があったのかも知れない。少なくともあんなにも長い間、互いを憎み合いながら生きるようなことにはならなかっただろう。今更後悔しても仕方のないことではあるが……。 「それに、あの当時のお前はまだ素直で可愛かったからな。何とかしてやりたいと、私も一生懸命になれたんだろうな」 カノンのそんな内心を察してか否か、不意にサガが珍しく冗談めかしてそんなことを言って、くすっと笑いを溢した。 「………そりゃ、あん時はオレだって、まだせいぜい5〜6歳かそこらのガキだったんだ。いくら何でもそんな頃からヒネくれてるわきゃないだろう……」 いきなりサガに『あの頃は可愛かった』などと言われて、カノンは胸の辺りがむず痒くなった。カノンが5歳か6歳の当時と言うことは、兄とは言え双子であるサガも同い年なのだが、その辺りのことは2人揃ってすっかり失念しているようで、そのやり取りは年の離れた兄弟か、親子のものに近かった。 「その1年後くらいには、手のつけられない悪童になったがな」 だが当時一心にサガを慕い、可愛かったカノンも、その僅か1年後にはサガの手に余るほどのとんでもない悪ガキに変貌を遂げていた。それはサガが、ちょうど双子座の黄金聖闘士になったかならないかくらいの頃であったろうか。それもカノンの淋しさの裏返しだろうとしばらくは大目に見ていたサガも、良くなるどころか日に日に悪くなるカノンの素行にどれほど手を焼かされたことだろうか。それでも不遇な人生を歩まされているカノンに対する負い目から、サガはカノンの起こした数々の事件を揉み消し、結果としてカノンの悪事の手助けをしていた。それがますますカノンを増長させ、救いようのない悪道へと身を落とさせてしまったのだ。 そんなカノンが、よく改心して真当な道を歩み始めてくれたものだと、サガは感慨深く思わずにはいられなかった。無論、ここに至るまでの道のりは、つらく険しいものではあったけれど。 「オレのことばっか言うけど、兄さんだってあの頃は無条件に優しかったんだぜ。ホントにオレのこと、大事にしてくれてたもんな。今とはえらい違いだぜ」 「この年になって、無条件で弟を甘やかすバカがどこにいる?」 そうは言ったものの、実のところサガは今でも充分カノンを甘やかしていると思っている。と言うより、自覚している。はっきり言ってこれ以上どこをどうやって甘やかせ、優しくしろと言うのか、むしろサガの方がカノンに聞きたい気分だった。 「ま、いいけどさぁ……」 だがその返答は予測していたのか、カノンは苦笑混じりに溜息をついただけで、それ以上そのことについては何も言わなかった。 「とにかくさ、せっかく海に来たんだし……泳ごうぜ」 そしてまた表情を一変させて唐突に言うなり、カノンは履いてきたスニーカーを脱ぎ捨てて、波打ち際へと走り出した。 「おい、カノン!。服のまま海に入るな!」 カノンの足が水に浸かったのを見て、サガが慌てて声を上げる。 「平気平気、帰りはテレポートで帰りゃいいんだし、服ぐらい濡れたってどってことねーよ。それとも素っ裸になった方がいいか?」 だがカノンはそれを全く意に介さず、からかうようにサガにそう言い置くと、結局Tシャツにジーンズ姿のままで構わずどんどん海に入っていった。 「カノン、危ないぞ!。もう溺れても助けてやらんからな!」 「何言ってんだよ、オレは13年も海闘士やってたんだぞ!。海はオレの庭みたいなモンなんだ、溺れるわけねーじゃん!」 カノンは着衣のまま勢い良く海に飛び込むと、気持ちよさそうに泳ぎ始めた。 「まったく……まるで子供だな……」 水飛沫をあげて楽しそうに泳いでいるカノンを呆れながら見つめているサガだが、口元には微かな笑みが浮かんでいた。 「サガぁ〜!、サガも入って来いよ!。気持ちいいぜ!」 少ししてカノンが水の中から、海岸に突っ立ったままのサガに向かって手を振った。 「私はいい。お前1人で気が済むまで泳いでなさい」 少し声を張り上げて、海岸からサガが答える。もうカノンは服も何もずぶ濡れだし、すっかり童心に返ってしまっているようなので、この際気が済むまで泳がせて遊ばせてから連れて帰ろうと、サガは諦め半分で腹を決めていた。 「何言ってんだよぉ!。せっかく一緒に来たのに、オレ1人なんてつまんねーじゃん!」 文句を言いながら、カノンが海の中から海岸へと引き返してきた。そうは言われても、サガに言わせればカノンに有無を言わせずに引っ張ってこられただけで、遊ぶつもりで来たわけでも何でもない。つまらないと言われても困るのである。 「なぁ、一緒に入ろうぜ」 だが海から上がってきたカノンは、渋るサガの手をびしょ濡れの手で掴んで引っ張り、サガを海へ引きずり込もうとした。 「よさないか、カノン。私には服を着たまま水遊びをする趣味はない!」 カノンが引っ張るのと反対方向に重力をかけて、サガは海に入るのを拒んだ。 「なら脱げば?」 あっけらかんと言って、カノンは濡れた手をサガのローブにかけた。 「バカ!、誰がこんなところで全裸になどなるか!」 頬を赤らめながら、サガはローブにかけられたカノンの手を払った。 「ならこのまま入ろうぜ」 「嫌だと言っているだろう!」 「そんなに服が濡れるのが嫌なわけ?。それなら……」 いたずらっ子の笑いを閃かせて、カノンは全身ずぶ濡れの状態でいきなりサガに抱きついた。 「うわっ!、バカ!、何をする?!」 サガに抱きついたカノンは、そのままギューッとサガを抱き締める。たっぷり海水を含んでしまったカノンの着衣から、サガの着衣に瞬く間にその水が滲みこんで来て、その何とも言えぬ感覚にサガは思わず顔を歪めた。 「ホラ、これでもうサガの服も濡れちゃったぜ。こうなったら同じなんだからさ、入ろうぜ」 カノンはやっとサガの体を離し、ニッコリと満面に笑みを浮かべると、再びサガの手を掴んで海の方へと引っ張った。 「だから……そう言うことではなくてだな……」 それでも負けじとサガが反対方向へ重力をかける。 「何がそう言うことじゃないんだよ?」 「だからっ……」 言いかけてサガは、そのまま口を噤んだ。 「だから、何?」 容赦なくカノンがその先の言葉を促すと、サガは小さく口をパクパクさせていたが、やがて 「………私が泳ぎが苦手なことは……お前も知っているであろう………」 言いづらそうにそう吐き捨てると、サガはプイッとカノンから顔を背けた。 聖闘士と言えども人間。人間たるもの得手不得手の1つや2つあるのは当たり前だが、意外にも双子座の黄金聖闘士たるサガは、子供の頃より泳ぎが苦手であった。まるっきりのカナヅチと言うわけではもちろんないし、水が怖いと言うわけでもないのだが、どうにもこうにも泳ぎだけは苦手なのである。 サガとカノンが人目を避けて初めてこの海へ来た時、サガがカノンが波に飲まれて溺れかけるまで自ら進んで海に入ろうとしなかったのも、それが原因であったからだ。 「あ〜、そっか、そう言えばそうだった……」 そのことをすっかり忘れていた……と言うよりも、大人になるまでの間にとっくにそれを克服していると思っていたカノンは、些か拍子抜けしたように呟いた。余談であるが、サガが泳ぎが不得手であることを知っているのは、カノンと恋人であるアイオロスだけだった。 「でも大丈夫!。もしサガが溺れたらオレが助けてやるから、心配すんなって!」 カノンが黙り込んでしまったので、やっと諦めたかとサガが安心しかけた矢先、カノンは思いついたようにそう言って、ポンと手を叩いた。 「……泳ぎは苦手だが、いくら何でも溺れたりはせんぞ!」 一応これでも黄金聖闘士である。仮にまるっきりのカナヅチであったにしても、水に溺れたりなどするわけがない。サガは思わず憮然とした。 「だったら尚のこと、何の心配もいらねーじゃん」 さっきから四の五のうるさいサガに思わずカノンは苦笑いをしたが、とにもかくにもこれでは埒があかないので、カノンは強硬策に出ることにした。 「うわっ!」 カノンは一瞬の隙をついてサガの腰を掴んで体ごとを引き寄せると、そのままサガの体を抱き上げ、何と問答無用で海に放り込んだのである。 派手な水音と、高い水飛沫を上げて、サガの体が海に沈む。それと同時に、カノンも走って海の中へと戻っていった。 「カノンっ!!」 程なくしてサガが水中から顔を出し、投げ込まれた勢いで飲んでしまった海水にむせながら、カノンを怒鳴った。 「入っちゃうと結構気持ちいいだろ?」 遅れて入ってきたにも関わらず、カノンはあっと言う間にサガの隣に来ていた。 「何が気持ちいいものか!。服が水を吸って、却って気持ちが悪い!」 「ああ、そんなの最初だけ最初だけ。すぐに気にならなくなるから」 当然サガは声を大にして文句をつけたのだが、カノンは悪びれもせずにそう応じて声を立てて笑った。 「まったくお前はどうして……」 「小言はまた今度!。もうここまできちまったモンは文句言ってもしゃあないだろ?」 説教に変化しそうなサガの言葉の先を強引に封じ込めて、カノンは水面を軽く弾いてその飛沫をサガの顔にかけた。 「こらっ!、カノ……」 かけられた飛沫が目に入り、サガが一瞬顔を背けているうちに、カノンはスイスイと泳いでサガの側から離れていた。 「まったく……しょうがない奴だな……」 それでもさほどサガからは離れず、泳いだり浮かんだりしながら水と戯れているカノンを呆れつつも優しい瞳で見つめながら、サガはびしょ濡れになって顔に張り付いた青銀の髪を鬱陶しげにかき上げた。 そして結局サガもそのまま完全にカノンのペースに乗せられて、初めて2人で海に来たあの日と同様、一晩中そこで水と波と一緒に戯れていたのだった。
そうとは知らない2人は、翌々日に出勤するなり教皇・シオンに呼びだされ、「黄金聖闘士が2人揃って真夜中に、しかも服を着たまま海に入って遊び呆けるとは何事か!。海水浴なら日中にせよ!、水着もきちんと着用するように!」と叱られ、ついでに互いの恋人からは「海に行くなら何で一緒に連れてってくれなかったんだ!」と拗ねられ、散々な目にあうことになった。 それでも2人の夏の夜の1日は、幼かったあの日の思い出と同じく、楽しい思い出の1つとして2人の中に深く刻み込まれることになったのだった。 |
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END
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