「うわ、降ってきやがった!」 今日の仕事を終え帰宅の途についていたアイオロスとサガは、磨羯宮〜人馬宮へと続く階段の途中で、突然の大雨に見舞われた。 大粒の水滴がポツンとアイオロスの額に落ち、反射的にアイオロスが鉄灰色の厚い雲が覆った空を見上げると、ポツポツと降り始めていた雨が瞬く間にその勢いを増し、僅か一分後には激しい豪雨となったのである。 「マジかよ?!、こりゃたまらん、サガ、人馬宮まで走るぞ!」 周囲を打ち付ける雨音にかき消されないよう、アイオロスは大きな声を張り上げて自分のやや後方にいるサガに言うと、それとほぼ同時にその場を蹴って走り始めた。 そのアイオロスを追うようにして、サガも走りだす。二人はバシャバシャと小さな水飛沫をあげながら、人馬宮へ向かって一直線に長い階段を駆け降りた。 まだ磨羯宮から人馬宮へ半分も降りてはいなかったが、その長い階段も黄金聖闘士たる二人が走ればあっと言う間の距離である。間もなく、眼下にあった人馬宮がほぼ正面に見え始めた頃、 「もう少しだ、サガ!」 走りながらサガを振り返り、そう怒鳴ったアイオロスの姿が、突然サガの視界からフッと消えた。 「アイオロス?!」 サガはアイオロスの名を呼んだのと、バシャンッ!という物凄い水音が響いたのは、ほぼ同時だった。 何事が起きたかと、一瞬状況の飲み込めなかったサガだが、自分の僅か2メートル程度前を走っていたアイオロスが、更に数メートル先の、階段を降りきったところで尻餅を付いているのを見て、ようやく事の次第を理解した。 アイオロスは雨水の流れる階段で足を滑らせ、階段から転げ落ちたのである。 「アイオロス!」 サガが慌てて駆け寄ると、アイオロスはその場所で尻餅をついたまま、したたかぶつけたらしい腰を擦りつつ、その痛みに顔をしかめていた。 「まったく、何をしてるんだ」 「いや、何をしてるんだって言われても……滑って転んじまっただけなんだが……あいてててっ!」 アイオロスはその場を立ち上がろうとしたが、ぶつけた腰と右足とに鋭い痛みが走り、思わずまたその場へとへたり込んだ。 それでなくとも激しい雨の中、もう全身は殆ど余すところなく濡れていた上に、不測の事態とはいえものの見事に水溜まりの上にすっ転んでしまったアイオロスの全身は、見るも無残な有様であった。 「大丈夫か?」 サガはアイオロスを助け起こし、肩を貸して何とかアイオロスを立ち上がらせた。 「とにかく、中に入ろう」 容赦なく打ち付けてくる雨粒と、濡れ鼠のアイオロスのおかげで、サガの全身ももうびしょ濡れであった。濡れた衣服の纏わりつく感触が、サガの不快感を大きく刺激した。とにかく早く人馬宮の中に入って、濡れた体をきれいに拭かなければ……。サガはアイオロスを抱え、急ぎ人馬宮の中へと入った。 「黄金聖闘士ともあろう者が情けない……」 アイオロスに服を借りて着替え、タオルでまだ湿っている髪を拭きながら、サガは目の前のソファに俯せで寝転んでいるアイオロスに、呆れた視線を向けていた。 とりあえず汚れた服を着替えさせ、体を拭いてここへ寝かせたのだが、アイオロスは思いのほか腰を強く打ち付けたらしく、オマケに階段でコケた時に足首も挫いたようで、今は満足に起き上がることも出来ない状態であった。 「そんなこと言ったって、仕方ないだろう」 サガと同じく湿った頭に無造作にタオルを乗せたまま、アイオロスはブツブツと文句を言った。 「いくら雨水に足を取られたとはいえ、自分の宮の目の前で階段から転げ落ちたなんて、恥ずかしくて他人には言えんぞ」 「言う気なんか毛頭ありません」 ソファの肘掛けに顎をもたせ掛け、アイオロスは不貞腐れたように吐き捨てた。くすっ、とサガは忍び笑いを溢し、アイオロスが横になっているソファの傍らに腰を落とした。 「どこが痛む?」 「……腰と、右足首……」 短く問われたアイオロスは、同じく短く答えを返す。 「ここか?」 「痛ててっ!、そう、そこ!!」 サガに腰に触れられると、アイオロスが痛みに顔をしかめつつ頷いた。 サガは様子を伺うように、そのアイオロスの腰をあまり刺激しないようにそっと触っていたが、 「わかった。今治してやるから、少しの間じっとしていろ」 と言って瞳を閉じ、アイオロスの腰にヒーリングを施した。サガの癒しの小宇宙がそこから暖かく広がり、その心地よさにアイオロスは痛みを忘れてゆったりとした気分に浸った。 見る見る間に痛みが抜けていき、腰が軽くなっていくと、間もなくサガの手がそこから離れ、今度は足首に移動した。 足首にも同じようにヒーリングを施してもらうと、やはりズキズキと痛んでいた足首からどんどんと痛みが抜け、10分が経過する頃にはアイオロスの怪我はすっかりと治っていた。 「はぁ〜、助かった、サンキュー、サガ」 元気になったアイオロスは勢い良くソファの上に身を起こすと、ん〜〜〜っと一回大きく伸びをしてから、改めてソファに座り直し、サガと向きあった。 「いやぁ、まいったまいった。酷い目に遭った」 アイオロスは照れ隠しに笑い声を立てたが、サガの方は相も変らず呆れ顔のままアイオロスを見上げ 「お前が不注意なだけだろう。まったく、子供じゃあるまいし……ちゃんと前を見て走ってないからだぞ」 「子供だろうと大人だろうと、コケるときはコケるさ」 アイオロスはすっかりと開き直っており、ますますサガを呆れさせた。 「それにしてもいきなり降りだしたなぁ……。しかもあっという間に土砂降りだ」 いいながらアイオロスが窓の方へ目を遣ると、先刻よりも更に勢いを増した雨が、強く窓ガラスを叩いていた。 「気候が不安定な時期だからな。増してここは山間部だし、こんなことはよくあることさ」 サガも窓の方に視線を移し、窓に打ち付けた雨が滝のように流れていく様を、何とは無しに見つめていた。 俗に山の気候は変わりやすいと言うが、サガの言うように山間部にある聖域十二宮の天候は、特に気紛れであった。 今日のように何の前触れもなくいきなり豪雨が降ってくるなんてことも、よくあることなのだ。 「ま、それはわかってるけどさ」 アイオロスとてギリシア生まれのギリシア育ち、しかもこれまでの人生の3分の2をここ聖域で、半分を十二宮で過ごしているのだ。そのことはよく知っているし、今まで何度となく同じ目に遭ってはいる。最も、こんな風に見事に無様にコケたのは初めてであるが。 しかもよりにもよってそれがサガの前でとは……。転んじまったモンは仕方ない、と開き直ってはいるものの、やはりサガの目の前でというのは情けなかったし恥ずかしかったし格好悪くてバツも悪かった。 「これからはせいぜい、気をつけることだな」 小さな笑い声とともにサガに言われ、アイオロスは視線を窓からサガの方へと戻した。 アイオロスにヒーリングを施すため、サガは床に腰を下ろしており、ちょうどソファに普通に座っているアイオロスからは完全に見下ろす形になる。視線をサガに戻した瞬間、着崩した大きめのシャツの間からサガの素肌が見え、思わずアイオロスは息を飲んだ。 元々アイオロスは、筋肉質でしっかりした体躯を持つサガより、更に筋骨逞しい。当然、服のサイズもサガより一回り大きく、例えかっちりした服であってもサガが着るとゆとりが出てしまうのだから、ゆったりとしたラフな服など着たらこうなるのは当たり前のことであった。 普段であれば、サガがこういったいわゆる一般人仕様の衣服を着用することは、聖域の外に出るとき以外はまず滅多にあることではない。 今晩は不測の事態に見舞われ、サガ的には致し方なくということなのだろうが、それでもこんな風に軽く羽織ってボタンを止めた程度の着崩した格好でいるのは、恐らくすぐに入浴するつもりでいるからなのだろう。 「なぁ、サガ……今日はこのままウチに泊まっていってくれるだろう?」 何の脈絡もない唐突なアイオロスのその言葉に、サガはビックリして目を瞠った。 「いや……風呂を借りたら帰るつもりだが……」 「どうして?」 即座にまた問い返され、サガは瞬間、返す言葉に詰まった。 「どうして……と言われても……」 自分の家に帰るのに、なぜどうしてと問われなければならないのだろうか?と、サガは思っていた。 「こんな大雨の中、しかもこんな夜に無理して帰ることはないだろう。危ないじゃないか!」 「……言っておくが私は子供ではないし、女性でもない。その心配は無用だと思うのだが……」 何を言いだすかと思えば……と、サガはまたもや呆れ顔を浮かべた。自分はか弱い子供でもなければ女性でもければ一般人でもない。大雨の夜道を歩くのが危ないだの何だの言われる方が、むしろ滑稽であった。 「無用の心配なんかじゃないさ。私みたいに転んだりしたらどうする!」 「それこそ一番無用な心配だ。私は雨道で転げるほど、ドジではない」 ピシャリと言い放つと、さすがにアイオロスも鼻白んだ。 「何だってそんなに双児宮に帰りたいんだよ?。……またカノンか?」 それ以外に考えられないが、一応アイオロスが聞き返してみると、サガは黙ったまま頷きもしなかったが、それはつまり肯定の意味であった。やっぱりな……と、アイオロスは内心で肩を落とす。 不満であるのはありありと見て取れたが、それでもとりあえずアイオロスも納得したものと思ったサガは、ホッと安堵の小さな吐息をついたのだが、やはりそう簡単に引き下がるアイオロスではなかった。 「ウチで風呂に入ったって、帰り道でまた雨泥水が跳ね返って汚れるだけだぞ。多分、この雨はそう簡単には止まない」 確かにアイオロスの言う通り、この雨は簡単には止みそうもない。 そして人馬宮から双児宮までは、6つの宮を経て長い階段を降りなければならない。となると恐らく双児宮に着くころには、傘を差していても横から吹き込んでくる雨と地面に溜まる水の跳ね返りとで、少なからず汚れることは間違いなかった。 「そんなことはわかっている。家に帰ったら風呂に入り直すのだから、別段それはそれで構わんさ。ここではこの不快感さえ流させてもらえば、それでいいのだから」 だがそれもサガにはあっさりと躱され、アイオロスはまたも鼻白んだ。 元々サガはここで長風呂をするつもりはなく、全身雨水でずぶ濡れになった後の不快感を、とりあえず熱い湯で流せればそれでいいのだ。ゆっくりと風呂に浸かるのは、自宅に帰ってからで充分なのである。 アイオロスは『不満』『不服』と満面に描いて仏頂面をしていたが、今度こそこれ以上は何も言わないだろうと安心してサガがその場を立ち上がりかけたとき、アイオロスがいきなり無言のままでサガの腕を掴んだ。そして目にも止まらぬ早さでその腕を引っ張ると、サガを膝で半立ちにさせた状態で、その身をすっぽりと抱き込んだのである。 アイオロスの余りの早業に、抗う間もなくあっさりと抱き込まれてしまったサガは、アイオロスの腕の中で目を丸くしてパチクリとそれを瞬かせた。 「アイオロス!、お前一体何をするんだ!」 2〜3秒ほどが経過した後に現状を理解したサガは、アイオロスから離れようと腕の中で身動いた。 「なぁ、サガ……今晩は帰らないでくれよ」 もがくサガの身体を雑作もなく抱き込んで、アイオロスはサガの耳元に囁いた。 「帰る!」 「帰さない!」 きっぱり短く言い放って、アイオロスは更に強くサガの身体を抱き締めた。 「子供みたいな駄々を捏ねるな!」 「駄々なんか捏ねてない!。カノンはもう子供じゃないんだから、そんなに過保護にすることないだろう!。たまにはカノンのことより、私のことを優先に考えてくれ!」 それが駄々を捏ねていると言うのだ!……と言おうとしたサガの唇を、些か強引にアイオロスが唇で塞いだ。その不意打ち攻撃に、また不覚にも一瞬、サガの頭の中が真っ白になり、全身の動きがピタリと止まった。 「……それに私は怪我をしたんだし、今晩くらいついててくれてもいいだろう?」 唇を放したアイオロスは、呆然と見開かれているサガの目を覗き込みながら、ニッコリと微笑んだ。 「なっ!、何が怪我人だ!。たった今、治してやったばかりだろう!!」 我に返ったサガが思わず怒鳴り声に近い声を張り上げると、アイオロスはますます楽しそうにニッコニコと笑い、 「怪我は治ったけど……雨に濡れたせいか寒くてな。このままだと風邪を引いてしまう。だからさ……」 アイオロスが皆まで言わないうちに、サガの視界が反転した。えっ?!とサガが思ったときには、上空真正面にアイオロスのライトブルーの瞳があった。アイオロスはその瞳に悪戯っぽい光をたたえて、サガのコバルトブルーの瞳を映し返していた。アイオロスはサガを抱き込んだまま、素早く器用にくるんと体勢を入れ替えて、サガの身体をソファに組み敷いたのである。 「暖めてくれよ、サガ……」 アイオロスの唇が、今度は軽くサガの額に触れた。 「寒いならっ……風呂に入ればいいだろう!」 いくら雨に濡れたからとはいえ、この時期の雨で体が冷えきるということはないはずだ。まったく、言っていることが目茶苦茶である。だが聞いているサガには支離滅裂かつ無茶苦茶なことであっても、言っている方のアイオロスにとっては大真面目で、筋の通っていることなのである。 サガはアイオロスの胸を押し返そうとしたが、上手く身体を抑え込まれていて思うように力が入らず、アイオロスはびくともしなかった。 「風呂じゃダーメ。冷えきった体を暖めるには、人の体温が一番なんだよ」 今度はサガの頬にキスを落としながら、アイオロスの手は早くもシャツのボタンを外しにかかっていた。 寒い、冷えきったと言っている割に、アイオロスの暖かな体温は衣服を通してさえもしっかりとサガに伝わってきていて、アイオロスがサガを帰したくないばかりに我がままを言っているのであろうことは、明白であった。アイオロスは時々カノンに張りあって、こんな子供みたいな我がままを言い始めるのだ。 「バカ、やめろっ!。私にはこんなことしてる暇はっ……」 頬から耳へと移動した唇に耳朶を甘噛みされ、サガの身体がブルッと震えた。 「カノンがウチで待ってるから?」 「そっ、そうだ……」 そのままアイオロスが耳元で聞き返すと、サガは小さく頷いた。 「後で電話するなり、小宇宙で連絡するなりすればいいだろう。今日は帰らないって」 何が何でも、どうあってもアイオロスはサガを帰したくないようだった。 「だが……」 「カノンだってもし一人でいるのが淋しければ、ミロを呼ぶなり何なりするだろ。心配はいらない」 もしカノンが聞いていたら、それこそ問答無用で張り倒されたであろうが、幸いここにはカノンはいない。なのでアイオロスも思ったことをそのまま口に出来るのだ。 勝手なことを言うアイオロスにサガは呆気にとられて言葉を失ったが、アイオロスはサガの様子を気にも止めず……と言うより、大人しくなったサガに気を良くして、サガの唇に口付けた。 「アイオロスっ!」 サガは口先で抗ったが、その声は弱々しかった。 もちろん、やめろと言われて素直にやめるアイオロスではない。サガの抵抗をむしろ嬉しそうに楽しそうに眺めつつ、はだけたシャツの合間からするりと手を滑り込ませ、サガの素肌に直に触れる。 「先にっ……風呂、入らせろ……」 この時点でサガは、遂にアイオロスに陥落した。もうこうなってしまっては、アイオロスを言い含めるのは無理に等しいと諦めたからだ。だが帰るのを諦めたことと、ここでこのまま行為に及ぶこととは、また別の話であった。 「風呂は終わってからでいいじゃないか」 心も身体も準備万端、すっかりその気のアイオロスは、当たり前だがサガを放す気は毛頭無かった。 「雨に濡れて気持ち悪いと言っただろう!」 キッと眉間を寄せて、サガはアイオロスに言った。そう、何が嫌って、雨に濡らされた不快感がまだ身体に纏わりついているこの状態で行為に及ぶことが、サガは嫌なのである。 サガの潔癖症はアイオロスもよく知っているが、そのアイオロスですら時折呆れずにいられなくなるときがある。正に今がそうであった。 いくら雨に濡れたからとは言っても、もうぐっしょり水を含んだ衣服は脱ぎ、身体も髪もきちんと拭いて着替えているのだから、問題などなかろうにとアイオロスなどは思うのだが、サガにとってはそうではないらしい。アイオロスは無意識のうちに、小さな溜息をついた。 「大丈夫だ!。そんなもの、私が拭い去ってやるから」 ならば風呂場に連れていって、浴槽の中で……とも一瞬考えたアイオロスだったが、残念ながらそこまですら忍耐力が持ちそうもなかった。 ここはサガにこれ以上四の五の言わせず、強引に一気に突っ走るが吉と判断したアイオロスは、サガの抵抗の意志を一言の元に跳ね除けると、再三呆気に取られているサガに構わず、その素肌に手と唇とを滑らせた。 サガはそれでもアイオロスから離れようともがいたが、それも僅かな時間だけであった。 サガの意志に反して身体は確実にアイオロスに反応し、やがてアイオロスの言った通り、身体に残る不快感など気にしている余裕などなくなり、更に窓に激しく打ち付ける雨音すらサガの耳に入ってこなくなったのである。 この後しばらく人馬宮のリビングでは、雨音と甘い吐息とが混ざり合って、絶妙のハーモニーを奏でることになったのだった。 そしてそれから約一時間後。 『今晩は帰らないから……』という心なしか弱々しい兄からの小宇宙通信を受け取ったカノンが、自宮で大激怒したことは言うまでもない。 無論、アイオロスが引き止めているであろう事を察したからこその大激怒であったわけだが、これより後、外の雨嵐に負けず劣らずの低気圧カノン嵐の被害を一身に被る羽目になったのが、やっぱりミロであったことも、併せて付け加えておこう。 END
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