◆heartwarming time
「こんちは〜」

安息日のこの日、サガとアイオロスが双児宮のリビングで寛いでいるところへ、いつもの能天気な調子でミロが現れた。
既に双児宮が勝手知ったる何とやらになっているミロは、中に入るのにわざわざ玄関をノックしたりはしない。
まるで自分の家のような気軽さでこうやって入って来るのだが、いつもの事なのでこの宮の主も気にもしていなければ何を言う事もなかった。

「おう、ミロ」

「あ、アイオロスもう来てたんだ、随分早いね。それとも昨夜泊まったの?」

アイオロスに問い返しながら、ミロはジャケットを脱ぎ、それを無造作にソファの背凭れに放り投げた。

「早いも何も、お前なぁ、今何時だと思ってんだ? 昼もとっくに過ぎちまってるんだぞ」

自分の隣にドカッと腰掛けたミロに、アイオロスが思いっきり呆れながら言った。
アイオロスの言う通り時刻はとっくに正午を回り、もうそろそろ午後1時を差そうとしているところである。
早いなどと言われるような時間ではない。

「あ、もうそんな時間になってた? 起きてすぐにここ来たから、わかってなかったよ」

「起きてすぐって、いくら安息日だからって寝坊するにも程があるだろう」

「いいじゃん、休みの日くらい思う存分寝たってさ。ところでカノン居る?」

まったく悪びれる事なくそう答えてから、ミロは目の前に座っているサガに視線を移しながら尋ねた。

「カノンもまだ寝ているよ。よくはわからんがゲームをやってたらしくて、朝方まで起きていたみたいだからな」

「ああ、それ多分、こないだオレが貸したゲームだよ。何だ、カノンまだクリアできてないんだ」

あはははっ、とミロは楽し気な笑い声をたてた後、

「カノンのことは怒らないの? アイオロス。寝坊するにも程があるって」

再びアイオロスに向き直り、意地悪っぽく聞き返した。

「怒りたくても起きて来てもいないんじゃ、どうしようもないだろうが」

チラリとミロを一瞥して、面白くなさそうにアイオロスが言った。
とは言ってもこれは建前八割に本音二割といったところだろう。
カノンが起きてこないなら起きてこないで、その分アイオロスはサガと二人きりの時間を存分に謳歌できるのだから、何ら支障があるわけではないのである。
むしろその方がありがたいに違いない。

「カノンと何か約束でもしているのか? ミロ」

憮然とするアイオロスに笑いを誘われながらも、サガはそれを押さえてミロに聞き返した。

「ううん、別に約束なんかしてないけど、起きたらいい天気だったからさ。カノンとどっか行こうかなって思って、誘いに来ただけ」

「そうか、それならばカノンを起こして来よう」

「あ、いいよ。寝てるとこ起こすと機嫌悪くなるだろ、あいつ。自力で起きて来るまで待ってるから」

腰を浮かしかけたサガをミロは慌てて止めたが、

「大丈夫だ。さすがにこれだけ寝ればもう充分だろうし、それにいい加減起こさねばと思っていたところだしな」

待っていなさい、と言い残して、サガはリビングを出て行った。

「せっかくサガと二人でのんびりしてたのに……」

邪魔しやがって……とでも言いたげに、アイオロスがミロに冷ややかな目を向ける。
だがミロは気にした風もなく、

「オレが来なくたって、そのうちカノンが起きてくるんだから結果は同じだろ。カノン起きて来たら連れてすぐに出ていくから、文句言わないでくれよな。ていうか、カノン連れ出してやるんだから礼を言われてもいいくらいだと思うけど?」

いけしゃあしゃあと図々しい事を言いながら、顔に落ちかかる豊かな髪の毛を、鬱陶し気にかきあげた。
何が礼を言えだ……と眉を顰めていたアイオロスは、ふとミロのその動作を目に止めると、思い出したように表情を動かし、

「なぁ、ミロ」

「ん?」

「そう言えば前から一度聞いてみたいと思って忘れてたんだが……」

「何?」

小首を傾げて、ミロが短く聞き返す。

「いや、カノンがさ」

「カノン?」

「ああ。カノンさ、何て言うか、お前の髪をよく触ってるよな。あれ、何で?」

すぐに忘れるくらいなのだからものすごく気になって仕方がなかったというわけではないのだが、ふと気がつくとカノンがミロの髪の毛を弄っていたというところを、これまでアイオロスは度々目撃している。度々というよりも、頻繁にと言ってもいいかも知れない。
それが何となくというレベルで気になっていたことを、アイオロスは今のミロの動作を見て思い出したのである。

ミロは、ああ、と頷いて自分の髪を一房掴むと、

「カノン、オレの髪触るの好きなんだよね。柔らかくて量が多くてふわふわしてっから、触り心地よくて気に入ってるみたい」

言いながら、猫のしっぽを弄ぶような手つきで、掴んだ髪を動かして見せた。

「カノンがそう言ったのか?」

「まさか。そんなこと、あのカノンが口が裂けたって言うわけないだろ。でもわかるんだよ何となく。触り方とかでね。第一そうじゃなかったら、そんな頻繁に人の髪を触ったりするわけないじゃん。しかも半分以上は、無意識にやってる事だぜ」

「無意識? そうなのか?」

意外そうに聞き返すアイオロスに、ミロは頷いて、

「特に手持ち無沙汰になってくると、知らず知らずのうちに手が伸びるみたいだね。何か言うと照れて怒りだすから、オレは知らんぷりしてるけど。それにオレだって悪い気しないし」

悪い気がしないどころか、むしろはっきりと嬉しいのだが、そこまではミロも口にはしなかった。

「へぇ〜……。まぁ確かにお前の髪は柔らかいけどな」

その事はアイオロスもよく知っている。
小さな頃からミロの面倒を見て来て、頭を撫でたり小突いたりした事は、それこそ数知れないくらいあるからだ。
だが言うまでもなくそれと意識して触ってたりしたわけではないので、そこまで考えが及ぶはずもなく、アイオロスは意外そうに目を瞬かせた。

「でもあのカノンが、無意識のうちに触っちまうくらい気に入ってるとは思わなかったよ。てことはカノンにとってお前の髪の毛ってのは、触り心地の良い毛布とかぬいぐるみみたいなモンなのかね?」

「何だよそれ? 失礼な事言うなよな」

カノンの愛情の証とでも言ってくれるならまだしも、毛布やぬいぐるみと一緒にされてはさすがにミロも不本意だ。
あからさまにムスッとした顔で不満を露にしたミロだったが、アイオロスは気に止める様子も見せずにおもむろに手を伸ばすと、むんずとミロの髪の毛を掴んで引っ張った。

「痛ててててっ! ちょっ、何すんだよアイオロスっ!?」

完全に無防備無警戒だったミロは、髪の毛と一緒にあっけなく身体も引き寄せられ、気づいた時には半ば倒れ込むような形でアイオロスに寄りかかっていた。

「あ〜、ホント柔らかくてふわふわだなー。お前の髪、こんなに触り心地良かったっけ?」

アイオロスはそんなミロを片手で抱えこみながら、もう片方の手でミロの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「アイオロス、これでも一応髪の毛ちゃんと梳かして来たんだから、あんまぐしゃぐしゃにしないでくれよ!」

「ああ、わかったわかった」

と言いつつ、相変わらずアイオロスはぐりぐりと乱暴な手つきでミロの頭を撫でている。

「うん、こりゃいいや、気持ちいい、何か和む。なるほど、これじゃカノンも気に入るわけだ。カノンの気持ちがよくわかるような気がするよ」

「……そりゃどーも」

褒められてるのだろうが、今イチ素直に喜べないミロであった。
一方のアイオロスは、新しいおもちゃを手に入れた時の子供のような様子で、ミロの頭を撫でている。
今更ながらに相当その触り心地が気に入ったらしいが、ミロとしては非常に複雑な心境であった。

「っつーかお前、髪の毛の触り心地もいいが、何か抱えてるとすごい温ったかいな」

少ししてふと気づいたように言うと、アイオロスはよいしょっ! とミロの大きな身体をしっかりと抱え直し――というより抱き込み、

「お〜、こりゃいいや。すっげー温ったかい! お前居れば暖房いらないじゃないか」

と、嬉しそうな声を上げた。

「毛布だのぬいぐるみだのの次は、湯たんぽ扱いかよ!」

しっかりと抱き込まれた腕の中でミロは思わず文句を垂れたが、アイオロスはしれっとした様子で言葉を継いだ。

「いや、湯たんぽっていうより、どっちかってーと犬とか猫とか抱っこしてる感覚に近いな。あったかいし毛はモコモコしてるし。ちょっと筋肉硬くてサイズがでかすぎるけど」

「……それはそれで、スッゲー失礼な言われ様なんですけど」

その台詞、そっくりそのまま返してやるとミロは思った。
自分よりアイオロスの方が10cm以上も背が高く、体格も一際逞しい。筋肉が硬いと言いたいのは、抱きかかえられてるミロだって同じなのである。
ムスッとミロは唇を尖らせたが、後ろから抱え込んでいる形のアイオロスにはミロのそんな表情は見えなかった。
最も、見えたとしても気にも止めないだろうが。

「てかさ、何でオレ、こんなところでアイオロスに抱っこされてなきゃいけないワケ?」

自分はただ単に恋人を迎えに来ただけなのに、何でその恋人の兄の恋人に抱きかかえられてなきゃならないんだろう? と、ミロはこの現状を本気で不思議に思った。

「単なる成り行きだ、気にするな」

「気にするよ!」

小さな頃ならいざ知らず、20歳にもなって、しかもこんなに立派に育ってから、何故こんな風に他人に抱っこされてなきゃいけないのか? これがカノンなら大喜びなのだが、相手がアイオロスでは本当に子供かペット扱いされてるみたいで面白くないミロだった。
いや、みたいではなく、完全に子供扱い&ペット扱いのコンボを食らっていることに間違いはない。
それがわかるから、余計に不愉快なのである。

「言っておくが私だって、サガ以外の人間を抱っこするのは主義に反するんだからな」

「なら離してよ……」

自分理論で勝手なことを言うアイオロスに、ミロは思い切り脱力して大きな溜息をついた。

「ちょっと寒いなーって思ってたとこだったんだ。お前抱えてると温かいから、もう少しこのまま大人しくしてろ」

「寒いなら暖房つけてもらうなり、上着着るなり、それこそサガを抱っこするなりすればいいじゃないか。何でオレなんだよ? オレはアイオロスの暖房器具じゃない!」

「サガは席外しちまっただろ、お前のせいで」

屁理屈だとミロは思ったが、事実である事に変わりはなかったので、すぐには何も言い返せなかった。
明らかに湯たんぽ兼ペット代わりにされているのは気に食わないが、多分、これ以上は何を言っても無駄だろうと、ミロは早々にささやかな抵抗を諦めた。
長い――と言い切るには微妙だが、小さい頃からの付き合いでアイオロスの性格はわかっているし、何よりアイオロスもミロにとって実兄同然の存在。
どこをどうしたって逆らい切れない事は、ミロ自身よくわかっているからである。

「あ、そうだ、いい事教えてあげようか? アイオロス」

切り替えの早さも取り柄の一つであるミロは、さっさと気を取り直すとアイオロスに体重を完全に預け、首を後ろに傾けてそれをアイオロスの肩口にちょこんと乗せた。
アイオロスの首筋と頬に、ミロの柔らかな猫っ毛がふわりとかかる。
その感触は大層擽ったくもあり、非常に心地よくもあった。

「何だ?」

上目遣いで自分を見上げるミロを軽く見下ろす形で視線を合わせ、アイオロスが尋ねる。

「カノンだけじゃなくてサガもね、オレの髪の毛の感触好きなんだぜ。よくオレの髪、撫でてるだろ?」

そう言ってミロは、ニヤリと唇の端を持ち上げた。
その勝ち誇ったような笑みに、アイオロスは僅かに眉を顰めて、

「だから何だよ?」

と、わざと素っ気なく聞き返した。
確かにサガも――今はカノンほどではないが――気がつけばミロの髪を撫でている、なんてことがあるのは事実だ。
だがそれはミロが小さい頃からずっとで、昨日今日の話ではない。

「ん? 羨ましいだろ〜って思ってさ」

「バーカ、羨ましくなんかねーよ。何でそんなことで羨ましがらなくちゃいけないんだ?」

「だってサガはアイオロスに、そんなことしてくれないだろ?」

ミロの問い返しに不覚にもアイオロスは返す言葉を見失い、絶句した。
つまりそれはミロの言う事が、図星をついたということである。
ミロがまた唇の端に意地悪な笑みを浮かべた。

「やっぱりね」

「それがどうした! 子供じゃあるまいし、頭ナデナデしてもらったって嬉しくも何ともないだろうが」

「あ、無理してる。本当は羨ましくてたまんないくせに」

「羨ましくなんかないっつってんだろ! 何でそうなるんだ!」

叱責混じりに言いながら、アイオロスはミロの頬をムニュッと抓った。

「痛いっ! 乱暴な事するなよ、アイオロス!」

「お前が下らん事言うからだろう!」

自業自得だ! とアイオロスは言ったが、それによってミロはやはりアイオロスがヤキモチを妬いているのだということを確信した。
もっとからかってやろうとミロが悪戯心を起こしたその時、

「…………何をしているんだ? お前達」

背後から、聞き慣れた声が響いて来た。
その声に反応してすぐにアイオロスが振り向き、ミロもアイオロスの肩口で首を捻って声のした方向へ視線を向ける。
二人の視線の先には、きょとんと目を丸め、ポカンとしているサガが立っていた。

「サガ」

サガがこんな間の抜けた様子を見せる事は珍しかったが、それは無理もない話だろう。
用事を済ませて戻って来たら、ソファの上でアイオロスとミロがピタリと密着して戯れ合っていた(少なくともサガにはそうとしか見えなかった)のだから、目も丸くなれば唖然とするのも当然の事だ。

「アイオロスがオレに乱暴するんだ。サガ、助けてよ」

これみよがしに眉尻を垂れ下げ、情けない声を出してミロがサガに助けを求める。
だがその表情と助けを求める言葉とは裏腹に、口調はのんびりと落ち着いていて、本気で困惑しているようにはとても見えなかった。

「何が乱暴だ、人聞きの悪い事言うなっつってるだろこのバカ!」

アイオロスは声を荒げ、ミロの頬を強い力でムニュッと抓った。
痛いっ!! と、ミロの本物の悲鳴が上がる。

「やめないか、アイオロス」

慌てて駆け寄ったサガが止めに入ると、アイオロスは憮然としたままミロの頬から手を離した。
――が、頬から手を離しただけで、ミロの事は未だしっかり抱えたままである。

「こいつは事を大袈裟に言っているだけだ。乱暴なんかしてないし、そんなことするつもりなんかこれっぽっちもないからな。こいつの言う事は信用せんでくれ」

「これを乱暴と言わずして何て言うんだよっ!?」

抓ったり叩いたり、どこからどうみても立派に乱暴である。
思いっきりミロが抗議の声をあげたが、アイオロスはきれいさっぱり無視をした。

「ちょっとした成り行きでこいつの髪撫でたら、あんまり柔らかくてふわふわしてて触り心地が良かったもんで、ついこう……な」

曖昧に言葉を濁しつつ、最後につまり猫を抱っこしてるのと同じようなモンだと付け加えてアイオロスは笑ったが、サガはどんな顔をしていいのかわからなかった。
アイオロスが嘘を言っているわけではない事がわかっているので、なおさらである。
だがアイオロスの気持ちは、正直わからないでもない。
確かにミロの髪の毛はふわふわで柔らかくて、触っていると大層気持ちがいいことをサガもよく知っているからだ。
ミロ自身がほんの少し前アイオロスに言っていた通り、サガも実はミロの髪の毛の感触が好きなのである。

「だから人を猫扱いすんなって言って……」

「耳元でうるさい! おとなしくしてろ」

どこからどう見ても勝手な事を言っているのはアイオロスの方なのだが、言うまでもなく当の本人にその自覚は皆無である。
文句を言うなら離してやれとサガも思ったが、それを口に出すより前にアイオロスが先に口を開いた。

「それはそうと随分早かったな。カノン、今日はすんなり起きたのか?」

相変わらず何事もなかったかのように、アイオロスはサガに尋ねた。

「あ、ああ。と言うより、部屋から出て来なかっただけで、もう起きてはいたみたいだよ。今支度をしているから、もうすぐここに来るだろう」

「なるほど。道理でお前が戻って来るのが早いと思ったよ」

あはははっ、とアイオロスは声を立てて笑った。
カノンが非常に寝起きが悪い事は、アイオロスもよく知っている。カノンを起こすのにサガが苦労している様を、一再ならず見ているからだ。
もしカノンがまだ眠りの世界に居たのだとすれば、こんな短時間であっさりと起きるわけがない。
だが元々起きていたのなら、サガが思っていた以上に早くここに戻って来た事にも納得できるのである。

「アイオロスがサガ独り占めにして勝手に二人の世界作ってたから、カノンも遠慮して出て来れなかったんじゃねーの?」

ミロは思いっきり皮肉を言ったのだが、やはりアイオロスにこの程度の皮肉など通じるわけがない。

「あいつがそんな遠慮をするようなタマかよ」

アイオロスはそれを一笑に付すと、なぁサガ? と真後ろに立っているサガに同意を求めた。
だが同意を求められたところで何とも答えようがなく、サガは沈黙している事しか出来なかった。

そんな風に互いに文句やら悪態やらついている割に、アイオロスにミロを離す気配はなく、またミロの方もアイオロスにしっかり上半身を凭せかけて完全に寛いでいる状態で、これまた離れようとしている気配はない。
ミロが本気で嫌がっているのなら、体格差があるとはいえ逃げることは容易いはずだからだ。
言ってる事とやってる事が正反対で、離れたいのか離れたくないのかどっちだ? と、サガがツッコミを入れたくなったのも無理はない。
正直、最初に見た時はサガですらドキッとした程、今の二人の体勢は、特に後ろから見ると『誤解をしてください』と言わんがばかりに危ない図なのだが、当の本人達にその自覚はまるでないようで、二人の鈍感さというかお気楽さ加減に呆れずにはおれないサガだった。
反面、目の前の二人に十数年前の姿が重なり、懐かしさについ口元が綻んでしまうのを止める事が出来なかった。

第三者が見たら恐らく――いや間違いなく異様な光景だろうが、やかましくもそれなりに和やかな雰囲気が三人を取り巻き、双児宮のリビングにはとても平和な時間が流れていた。
だが僅かにその一分後――

「痛てーーっ!!!」

ミロの悲鳴が響くと当時に、アイオロスに凭れかかっていた上半身がものすごい勢いで反対側に引っ張られた。
何事だ!? とばかりにアイオロスとサガが弾かれたように視線を転じると、いつの間に来たのやら、サガの隣にはミロの髪の毛を力一杯引っ掴んだカノンが、怒気を露にした仏頂面で立っていた。

「カノン!?」

「い、いつの間に!?」

ミロもアイオロスも、サガですらカノンがすぐ傍らに来ていた事に気付いていなかった。
無論カノンが完全に気配を殺していたからだろうが、それにしても家の中でテレポートでもして来たのかと思うほどの素早さに、アイオロスもサガもただただ唖然とする一方だった。

カノンはポカーンと自分を見上げているアイオロスを鋭い眼光で一睨みすると、

「双児宮(ウチ)で堂々と浮気とは、てめえら随分いい度胸してるじゃないか」

凄みを効かせた低い声で言いながら、掴んだミロの髪を更にギリギリと引っ張った。

「痛てっ、痛てててっ!」

「や、やめなさいカノン!」

再びミロの悲鳴が響き、慌てたサガがカノンを制止するが、カノンは掴んだミロの髪を離そうとしなかった。

「痛たたたたっ! ご、誤解だよ、カノン、オレがアイオロスと浮気なんかするわけないだろっ!」

「何が誤解だ、べったりと寄り添って抱き合ってやがったくせに!」

「寄り添ってるようには見えたかも知れないけど、抱き合ってなんかいないってば! アイオロスが有無を言わせず、一方的にオレを抱え込んでただけだよっ!」

「何だと!?」

カノンはこれ以上ないほど眼光を鋭くして、アイオロスを睨みつけた。

「だからお前は、そういう人聞きの悪い亊言うなっつの。ますます変に誤解されるだけだろうが」

だがカノンにどんなにきつく睨まれてもアイオロスは全く動じず、痛い痛いと悲鳴を上げているミロの頭を追い討ちをかけるようにポカリと小突いてから、

「あのなお前、何でオレがミロと浮気なんかしなきゃいけないんだよ。オレがこんな色気もクソももない小僧相手に、まかり間違っても浮気心なんか起こすと思うか?」

はぁ〜とこれみよがしに大きな溜息をついて、アイオロスは肩を竦めてみせる。
その色気もクソもない小僧は、目の前で頭から湯気を立てそうな勢いで怒っているカノンの恋人であり、アイオロスの言い草はあんまりと言えばあんまりであったが、その辺の気遣いやデリカシーをアイオロスに期待しても無駄というものであった。

「暖をとるのにちょうど良かったのと、思いの外髪の毛の触り心地が良かったから、猫代わりに抱えてただけだよ。ただそれだけの話なのに、何でいきなり浮気の嫌疑をかけられなきゃいかんのだ?」

憮然としてアイオロスは言ったが、あの状況を見ればカノンでなくとも同じ誤解をしただろう。はっきり言って、責められる義理などないのはカノンの方だ。
傍目にはそれほど危なく見えていたという事なのだが、サガと同様かそれ以上にミロを子供としか見ていないアイオロスには、そんな誤解を受ける事自体が心外もいいところで、何でそうなるんだと真剣に疑問だったのである。
なので当然、アイオロスにはこれっぽっちも悪びれた様子はなかった。

「ほら、これでわかっただろ!? とにかく離してくれ、痛いよ」

色気がないだの何だの、アイオロスに失礼な事を言われたミロは、だがその暴言は綺麗に聞き流していた。
というよりカノンの迫力に押されていたのと、髪を掴まれて強く引っ張られているその痛みで、そもそも耳にすら入ってなかったというのが正解だった。
とにかくカノンの誤解を解いてくれ、そうすれば自分も解放されるという、その一心だったのである。

「ミロを離してやれ、カノン。そのままじゃミロの髪の毛がゴソッと抜けて、1ユーロハゲになっちまうぞ」

1ユーロハゲどころか、テニスボールハゲくらいには軽くなるだろうというくらいの量を、カノンはしっかり掴んでいる。
まかり間違ってそれを引っこ抜いたりしたら、大変な事になるだろう。

「せっかくふわふわしてて触り心地のいい髪の毛なのに、抜けちまったら勿体ないだろ」

そういう問題じゃないだろうとサガは思ったが、アイオロスの言動を窘めようとしたその時、渋々と言った様子ながらカノンが掴んでいたミロの髪を離した。
おや? と言いたげに、サガとアイオロスがまた同時に表情を動かす。
いつものカノンであれば、こんな風にあっさりとアイオロスの言う事など聞いたりはしない。例え非が自分にあったとしても頑として譲らず、喧々囂々の言い合いになるのが常なのである。
多分今日もそのパターンになるだろうと、アイオロスもサガも無意識のうちに身構えていたのだが、その予測に反してカノンの方があっさりと引いたのである。
浮気の嫌疑が晴れて落ち着いたからだろうか?  と二人が思った次の瞬間、目にも止まらぬ早さでカノンの右手が翻り、ソファの上のクッションがアイオロスめがけてものすごい勢いで投げつけられた。

「うわっ!!」

完全に油断していたアイオロスは、不覚にもそれを避ける事が出来ず、モロに顔面で受け止める羽目になった。
聖闘士だからよかったようなものの、一般人だったら下手したら即死ものである。

「カノンっ!」

一瞬固まった後にサガが叱責の声を張り上げると、カノンは「ふん」と不機嫌丸出しに吐き捨て、

「行くぞミロっ!」

乱暴にミロの腕を取ると、ものすごい力でそれを引っ張ってソファから立ち上がらせる。
そして間を置かずに踵を返すと、無理矢理引き摺るような形でミロを伴って歩き始めた。

「ちょ……っと、行くってどこへ!?」

カノンの後ろ頭に向かってミロが問いかける。

「知るか! 出かけるからってんで迎えに来たのはお前だろうが!」

「それはそうだけど……って、上着上着っ!」

脱ぎ捨てた上着を取る暇すら、カノンはミロに与えてくれなかった。
大急ぎでサガがミロの上着を念動力で飛ばす。
季節はまだ冬、上着なしで外になど出ようものなら、黄金聖闘士と言えども風邪をひいてしまう――かも知れない。
サガの機転で無事ミロの手には上着は渡ったが、カノンは相変わらず振り向きもしなければ歩を止める事もせず、ミロをぐいぐい引っ張ってリビングを出て行ってしまった。
そして間もなく、荒々しく開閉された玄関の音がリビングにまで響いて来た。

「ってぇ〜……あんにゃろう、人の顔面に思いっきりこんなモンぶつけやがって」

顔面を抑えつつ、ぶつけられたクッション片手にアイオロスが忌々し気に呟く。
厳密に言えば思いっきりではないのだろうが、少なくともアイオロスが痛みを感じるくらいの強さで投げつけられた事は確かだ。
呆気に取られた状態で二人が出て行った後の出入り口を眺めていたサガは、アイオロスのその声で我に返り、再び視線をアイオロスの方へ戻した。

「お前がミロに変なちょっかいかけたあげく、カノンの癇に障るようなことを言ったのが悪いんだろう」

「オレのせいかよ!?」

「そうだ。弟だから庇うわけではないが、あの状況ではカノンが怒るのも当然だ」

カノンの早とちりもあったが、アイオロスの言動が余計にカノンを激高させたことも事実だった。
サガはそれを冷静に指摘したのだが、アイオロスは眉間を寄せて首を傾げ、

「別に怒るようなことでもないだろう。変なちょっかいって言うけどな、オレは別にミロにイタズラしようとしたわけでも襲おうとしたわけでもな……」

ここまで言ってから、アイオロスは不意に何かに気付いたように不自然に言葉を切った。

「なぁサガ……」

「うん?」

「これってさぁ、もしかしてカノンの奴、オレにヤキモチ妬いたってことなのか?」

「……もしかしなくても、それ以外あり得んだろう」

今頃になって何を、と、サガはまたもや呆れ顔を作った。
だがアイオロスはサガのその厭味混じりの返答や、微妙な反応を気にした風もなく、

「へぇ〜」

と目を丸くして、感心したように声をあげた。

「あのカノンが、ミロの事でオレにヤキモチをねぇ〜。それは珍しいと言うか、ちょっと驚きだな」

「何を驚く事がある? ミロはカノンの恋人なんだぞ。ヤキモチの一つくらい妬くのは当たり前だと思うが?」

サガはアイオロスの隣に移動し、ソファに腰を落としながら嗜めつつそう尋ね返した。
サガの場合、幼い頃からミロを良く知っているせいか、立派に成長した今となっても気持ちのどこかに『まだ子供』という意識があり、そういう目で見てしまっている部分がある。
それだけにミロ相手に危機感を抱いたりはしないのだが、カノンからすれば全然話が違って来るだろう。ヤキモチの一つや二つ妬くのは、当たり前の事だ。
だがどうにもこうにも、アイオロスにはその辺の事がわかっていないらしい。

「いや、お前の事ではさんっざんヤキモチ妬かれるから慣れてるんだが、ミロの事でヤキモチ妬かれた事なんて一度もなかったからな。しかもあの程度の事でだぜ? 驚くなって方が無理だよ」

「お前にとっては『あの程度』かも知れんが、傍目から見れば少なからず誤解を受けても仕方がないような状況だったということだ。見た瞬間に、カノンの頭に血が上ったくらいだったんだからな」

「あいつ短気だからな」

どこまでも悪びれずに言って、アイオロスは笑った。

「それにしても、カノンも可愛いところあるじゃん。いっつもミロを尻に敷いて虐げてるだけだと思ってたけど、あんな事でヤキモチ妬くほどミロの事が好きなんだな、あいつ」

「好きな相手でなければ、恋人付き合いなどするわけがあるまい」

「それはそうだけど、どうもあいつら二人見てると、恋人同士っつーより飼い主とペットみたいな感じに見えて仕方がないもんで、つい……な」

「失礼なことを言ってやるな。またカノンに怒られて、クッション投げつけられても知らんぞ」

「本人になんか言うわけないだろ、こんなこと」

こればかりはさすがに失礼なことを言っているという自覚はあるらしい。
自覚があったところで根本的に考えが改まらなければ、いずれまた同じようなことが繰り返されるのだろうが。

「お前の目にどう映っているかはともかく、素直に口や態度に出さないだけで、カノンはミロの事を誰よりも大事に思ってるんだよ。だからこれに懲りて、もうミロにあんなちょっかいはかけん事だな」

「はいはい、わかりました。……って、何でオレがサガにまで怒られなきゃならないんだよ」

ブツブツと聞こえよがしの文句を言いながら、アイオロスは軽く唇を尖らせた。
その言い草も仕草も妙に子供っぽくて、サガは思わず吹き出しそうになってしまった。
直後、アイオロスはすぐに表情を改めると、

「でもさー、ミロの奴には感謝されてもおかしくないよな」

「何故だ?」

「だってカノンが自分の事でオレに怒って、ヤキモチを妬く現場をつぶさに見られたわけだからな。ミロとしちゃ嬉しいだろ、愛されてる証拠を目の当たりに出来たようなモンなんだからさ。でもそれって元を質せばオレのお陰でもあるってことじゃん。感謝の一つくらいはしてもらっても、罰は当たらん」

「お前はまた何を勝手な事を……」

何を言い出すかと思えば――まったくこの男の思考回路は、とことんお気楽に出来上がっているらしい。
サガが何とも言えない微妙な表情で溜息をついていると、

「ところで」

アイオロスは不意に姿勢を正し、サガに向き直るようにして座り直した。
そうしてサガの目を覗き込むようにしてジッと見つめる。

「何だ?」

「お前は?」

「は?」

「だからお前は?」

アイオロスに何を問われているのかわからなくて、今度はサガが小首を傾げる。
アイオロスはサガの答えを待っているかのようにそのまましばらく黙っていたが、やがてサガが自分の質問の意味を理解していないのだと言う事を察し、言葉を接いだ。

「お前はヤキモチ妬いてくれないのか?」

予想だにしていなかったその幼稚な問いに、サガは今度こそ本格的な呆れ顔を作ってアイオロスを見返した。
普通だったらからかわれてでもいるのかと邪推するところだが、アイオロスの場合、特にこんな風に冗談めかしている時の方がその本気度が高いのである。
長く深く密度の濃い付き合いをして来たサガは、そのことをよく知っている。
だからこそ、呆れずにはおれないのである。

「ヤキモチなど妬くわけなかろう。相手はミロだぞ」

それはミロに魅力がないからとか色気がないからとか、そういう意味のことでは決してない。
自分にとってミロは後輩であると同時に、弟のような、時には息子のような存在であり、それは即ちアイオロスにとっても同じと言う事なのである。
確かに最初見た時には僅かに一瞬ドキリとしたことも事実だが、根底にほぼ絶対的な安心感がある以上、ヤキモチなど妬くわけもなかった。

「全然?」

「全然」

「本当に?」

「本当に」

「これっぽっちも?」

「これっぽっちも」

アイオロスの立て続けの問いに、鸚鵡返しで即座に否定をして、その都度サガは首を左右に振ってみせた。
アイオロスは逞しい眉尻を情けなく垂れ下げ、がっかりとした表情を浮かべ、

「ちぇっ、少しくらいヤキモチ妬いてくれてもいいじゃないか」

「冗談じゃない。バカも休み休み言え」

不満を露にするアイオロスに、サガは冷たく言い放った。

「大体、十何年も前から嫌と言うほど見慣れている光景に、今更ヤキモチを妬くほど私は心の狭い人間ではない」

「あー、まぁ、そう言われてみればそうかぁ……」

当時を知らないカノンはともかく、確かにサガからすれば幾度も目にして来た光景だ。
ただその時より、自分とミロ――特にミロの方が飛躍的に――サイズが大きくなったと言うだけで、他は何ら変わりがないのである。

「残念。たまにはお前にヤキモチ妬かせてみたかったんだがな」

やっぱミロじゃダメか、と半ばボヤきながら、アイオロスはサガを抱き寄せる。
何となくその動きを予測していないでもなかったのだが、他に人目があるわけでもないので、サガは逆いもせずにアイオロスのするがままに任せた。

「ならばそういう相手を見つければよかろう?」

「それはちょっと難しいっつか、無理な相談だな」

からかうような口調のサガに対し、アイオロスはやや真剣にそう答えた。
十二宮でそんな相手を見つけるのは無理だし、対象を聖域全体に広げてみたところで結果は同じと言うよりむしろ可能性が低くなるだけだ。
アイオロスの行動範囲はそこまでが限界なので、必然的に無理という結論に達する事しか出来ないのである。
諦めの溜息をつくとともに、お門違いとわかっていても、ほんのちょっとだけミロが羨ましく思えてしまうアイオロスだった。

かなり本気でがっかりしている様子のアイオロスに、サガはくすりと小さな忍び笑いを零した。
アイオロスはサガがヤキモチを妬かないのは、単純に『ヤキモチを妬くような相手が居ないから』と理解したようだが、それだけが理由と言うわけではない。
と言うよりむしろ、相手が居る居ないは関係ないのである。
口に出しては言わなかったし、今後も胸に秘めたまま、恐らく絶対に口にすることはないだろうが、本当の理由はただ一つ。
アイオロスが自分を裏切ることは決してないと、サガ自身がわかっているからである。
ともすれば自惚れと取られるかも知れない。
だがアイオロスの人柄が、誠意が、率直さが、一片の疑いをも抱かせる事なくサガにそれを信じさせてくれるのだ。
サガはアイオロスを全面的に信頼している。そしてこれから先も、その信頼が揺るぐ事はないだろう。
だからヤキモチを妬く理由も必要も、サガには最初からこれっぽっちもないのである。

「それにしてもさ」

「うん?」

「ミロの奴もあったかいし髪の毛柔らかいし、抱き心地悪くはなかったが……」

悪くないどころか、かなり気に入って抱え込んでいたくせにとサガは思ったが、敢えて口は挟まなかった。
アイオロスはサガの青銀の髪に手を滑らせながら、再び口を開いた。

「やっぱりお前の抱き心地が一番だな、最高だ」

照れもせずにそう言って、アイオロスはしっかりとサガを抱き直し、今度はその髪に愛おし気に頬をすり寄せる。
同時にサガの頬が、熱を帯びて紅くなった。
アイオロスがこんな歯の浮くようなことを恥ずかし気もなく言うのはいつもの事で、いい加減サガも慣れきったというより諦めきっているが、それでも言われるたびに気恥ずかしさを覚えずにはいられない。
まぁ、今は二人きりだから別段構いはしないが――。
サガは苦笑混じりの吐息をつき、

「ならばこれからは、私だけにしておくんだな。そうすれば余計な騒ぎにはならん」

悪戯っぽく言って、さり気なくアイオロスの肩口に深く顔を埋めた。
サガは全くの無意識だったが、これはほぼ殺し文句に近く、しかもアイオロスには強烈に嬉しい不意打ちとなった。
アイオロスは盛大に気を良くすると、全身で大きく頷いて、更に強く――サガですら一瞬息が詰まるくらいに――その身体を抱き締めたのだった。

post script
ただ単純にアイオロスにミロを抱っこさせたかっただけです。
これももう過去に何度かやってはいますけど、ロス×ミロ書きたい欲求があるとかそういうことではございません(笑)。
書きたかったのはあくまでロス×サガとミロ×カノなんですが、単にミロを猫っ可愛がりしたい病が高じてくると、無性にこういうことがしたくなるみたいです。
ミロの髪の毛はふわふわで絶対に柔らかい! 極上の手触りなはずだ! モフらせろ! というのがサイト開設当初からの一貫した私の主張と言うか妄想ですので、可哀想な子だと思って暖かい目で見守ってやってください。

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