どうして気づくことができなかったのか――?
決して自ら望んだことではない。だがそれでも13年もの長きに渡り、側近としてすぐ傍に仕えていながら何故――?
双子座のサガの墓前で、こんな自責と自問を繰り返すのは果たしてこれで何度目になるのか? もはやミロ自身にもわからなくなっていた。
決して答えの出ない自問、そして深くなるばかりの悔恨と自責の念。
13年の時を経て、女神アテナが本来在るべきここ聖域に戻り、ようやく本来の姿を取り戻した。だがそれは同時に、避けることのできない聖戦へのカウトダウンが始まったことを意味する。
全聖闘士が一丸となって戦わねばならない、決して負けることのできぬ聖なる戦。地上の命運を懸けたその聖戦を目前に控え、いつまでも過去を悔いているばかりではいけないことはわかっている。
しっかりと前を向き、確固たる正義の元に圧倒的強さを持って先頭に立って戦わねばならない。それが黄金聖闘士としての責務であり、使命――。
それは理解しているし、黄金聖闘士としての責務も使命も疎かにしているつもりはない。常に強く、昂然とあることを己に課し、間違っても誰かに弱みを見せたり弱音を吐いてみせたりすることもない。
だがそれでも何かの折、ふとした拍子に心に小さな空洞ができたような感覚に襲われ、どうにも気持ちを落ち着けられぬことがことがある。そんな時にミロの足が向いてしまうのが、この場所だった。
サガは幼かったミロにとって先輩というよりも兄のような、親のような、そんな存在だった。尊敬もしていたし憧れてもいたし誰よりも慕っていた。
だから13年前、サガが聖域から忽然と姿を消した時、ミロは涙と声が枯れ果てるまで泣いた。泣いて泣いて泣き疲れ、嘆き疲れて何もかもがどうでもよくなってしまったそんな折、ミロは突然教皇からの呼び出しを受け、側近として自分に仕えるよう命じられたのである。
それはミロからすれば正に青天の霹靂としか言いようのない出来事だった。もちろん自分が望んだことでも志願したことでもないが、だからと言ってその命令を拒否する理由もない。半ば自暴自棄になりかけていた時期でもあり、何よりあれこれ考えるのが面倒臭いという理由でミロは唯々諾々とその命を受諾し、以来13年間側近として教皇に使えてきたのである。
その教皇の正体こそが、他でもないサガ本人であることを知らぬままに――。
折を見つけては探し続け、いずれきっと帰ってくると信じていた人は、ずっと自分のすぐ傍にいた。にも拘らず、自分は最後の最後までその存在にも真実にも気付くことができなかった。
駆逐されることのなかったサガの善の心は、きっと幾度となく自分に『気付いてくれ』『そして自分を止めてくれ』とサインを送っていたに違いない。
それなのに――。
今更悔いてどうなるものでもないことも、もちろんわかってはいる。だが頭と理性がそれをわかってはいても、感情面でどうしても割り切れぬものが、振り切ることのできぬ後悔が、今もこうしてミロを責め苛み続けているのだ。
「ずっとオレのことを傍に置いておいたくせに、どうして最後まで何も言ってくれなかったんだよ? サガ……」
日を追うごとにサガの中の悪の人格の支配力が強固になっていったのであろうことは想像に難くないが、それでも、例え僅かながらでも善の人格が顕出していたその時に、何故何も言ってくれなかったのか? サガにとって自分はそんなにも頼りのない存在だったのか?。
今更言ったところで詮無いことだし、何故だと繰り返し問うたところで当たり前だが答えが得られるようなことでもない。無意味なことをしているとミロ自身虚しく思わないでもなかったが、一方でこうすることによって精神の均衡を保っている部分が少なからずあることもぼんやりとだが自覚していた。
要するに、本人に届かないことなどわかってはいても、せめて恨み言の一つや二つ溢さなければやっていられないということである。
それからしばしの間、身動きもせずじっとサガの墓石を見つめていたミロは、ふと背後に人の気配を感じて振り返った。
「シャカ……」
そこに立っていたのは、白い花を手にしたシャカであった。
予想だにしていなかった人間の出現に驚き、ミロが思わず「どうしてお前がこんなところに?」と尋ねると、
「妙なことを聞く男だな。墓所を訪れる理由など一つしかなかろう」
シャカは呆れたようにそう答えて微苦笑した。
「墓参りか? サガの」
「サガだけではないがな」
シュラとカミュのところへは先に行って来た、と付け加えてからシャカはミロのすぐ隣に並び、
「私が二人の墓に参った時、既に彼らの墓前には花が手向けられていたからな。お前が来ているのだろうと見当はついていた」
そう言ってから膝を折り、先の二人と同じようにサガの墓前にミロが手向けた花の横に、自らが持参した白い花を手向けた。
「その花は?」
見たこともないその花の正体をミロがシャカに尋ねた。
「沙羅双樹の花だ」
「沙羅双樹の花?」
初めて見る花だな……と、ミロは墓前に手向けられたその白い花に改めて興味深げな視線を向ける。
「処女宮の沙羅双樹の園で、ちょうど美しく咲き誇っていてな」
シャカがそう補足すると、ミロはシャカの方へ視線を戻してから
「沙羅双樹の園、か。オレは噂だけしか聞いたことがなかったが、本当にあるのだな……」
処女宮にあるという沙羅双樹の園は、同じ黄金聖闘士であるミロですら噂に聞いたことがあるという程度で、実際に目の当たりにしたことはない。ミロのみならず実際に見た者は誰一人としておらず、実在しているのかさえ怪しいとすら囁かれていたのだが、ミロにとっては事の真偽は正直どうでもいいことで、今の今までそんな話を聞いたことすら忘れていたくらいであった。
だがこうして沙羅双樹の花があるということは、沙羅双樹の園も実在しているという証に他ならない。
「そのようなものはない、と思っていたか?」
「ないと決めつけていたわけではないが、実際にこの目で見たわけでもなかったからな。懐疑的な部分が若干あったことは否定しない」
そう言って肩を竦めてから、ミロはすぐに言葉を継いだ。
「なぁ、それじゃあ今度オレにも見せてくれよ、その沙羅双樹の園ってやつ」
「見せてやっても良いが、あそこは私の死に場所だぞ」
興味津々の様子のミロに対しシャカは何でもない事のようにサラリと答えたが、それを聞いたミロの方は表情を一変させ、思わず「えっ?」と短く声を詰まらせた。
「沙羅双樹の園は私の死に場所だと言ったのだ。つまりそれは、私と共に沙羅双樹の園に入った者の死に場所にもなるということを意味する」
シャカの口調はどこまでも淡々としていたが、話している内容は決して穏やかなものではなく、ミロは顔を強張らせて聞き返した。
「……そんな物騒な場所だったのか?」
今の今まで噂レベルでしか沙羅双樹の園の話を聞いたことのないミロがその存在意義を知っているはずもなく、いきなり死に場所だの何だの言われて驚くな戸惑うなという方が無理な話である。
「私は物騒な場所とは思っておらぬが、気軽に他者の目に触れさせたり足を踏み入れさせていい場所でもなかろうな。だからミロ、お前が私と共に死ぬ覚悟があるのというのならいつでも沙羅双樹の園を見せてやることはできるが……」
本気とも冗談ともつかぬ口調でシャカは言ったが、彼がこんな物言いをすること自体極めて珍しいことであった。
「あ、いや、そういうことならいい、遠慮しておく」
やや引き気味にミロが言うと、シャカはくすっと小さな笑いを零した。
その様子からやはり冗談の成分の方が多かったのだということはわかったが、恐らくシャカがそこを『死に場所』と定めていることは事実なのだろう。つまりシャカにとって沙羅双樹の園は神聖な場所であることに違いはなく、他人が物見遊山的に見物したり足を踏み入れていいようなところではないということである。
ミロが首を左右に振ったのを見てから、シャカはサガの墓石に向き直り、静かに手を合わせた。
墓前で手を合わせるという習慣のないミロは、そんなシャカの様子を不思議そうにかつ興味深く見つめていたが、少ししてシャカもミロのそんな視線に気づき、
「お前には馴染みがないかも知れぬが、私の母国では墓前で手を合わせるのが墓参りのごく一般的な習慣だ」
これが自国の墓参りのやり方であることを簡単に説明した。
「へぇ、そうなんだ」
他国の文化風習をとやかく言う気はないミロはシャカのその簡素な説明で素直に納得し、それ以上のことは何も言わずにさりげなく話題を変えた。
「でもまさかお前とこんな所で鉢合わせるなんて思ってもみなかったな」
「意外か?」
「そうだな、意外といえば意外だな」
「何故?」
短く問いを重ねてくるシャカに、ミロはやや訝しげにしつつも律儀に答えを返していった。
「お前普段あんまり処女宮から出て来ないし、しかも自分で『慈悲の心がない』なんて言っちゃうような奴だし」
「そんな人間が仲間の墓参りに来るとは思わなかった、と、つまりはそう言いたいわけだな?」
言いながらシャカは小さな笑いを零した。
「仲間……か……。へぇ、お前でもちゃんと仲間意識はあったんだ、カミュ達に対しても……」
またしても意外そうにミロが言うと、シャカは少しだけ不愉快そうに眉間を寄せたものの、口に出しては「随分な言われようだな」と言っただけであった。
「それに……」
「うん?」
「カミュ達はともかく、サガは大罪人だ。聖域にとってもオレ達にとっても、決して許すことのできない……な」
その大罪人の墓参りにお前が来るなんて……と絞り出すように言いながら、ミロは視線をサガの墓石の方へと転じた。
シャカはそんなミロの横顔を興味深げに見つめた後、静かにミロに問いかけた。
「サガが決して許すことのできぬ大罪を犯した者と言うのならばミロ、お前は何故その大罪人の墓に足繁く訪れているのだ?」
問われたミロはハッとしたようにシャカを見た後、幾つかの感情が綯交ぜになったような複雑な表情を浮かべ、「知っていたのか……」と呟くように言って口を噤んだ。
シャカは一つ頷き、
「サガの起こした内乱が終決して以降、ずっとお前の様子がおかしかったことには気づいていた。私だけではない、ムウやアルデバラン、アイオリアも恐らくな」
「そうだったんだ……」
普通にしてたつもりだったんだけどな、とミロは力なく笑った。
「確かにお前のことをよく知らぬ者の目から見れば、特に変わったところは見受けられなかったであろうな。だが古くからお前を、お前とサガのことをよく知る私達の目をごまかすことはできぬ」
「確かにその通りだ」
シャカの言葉を全面的に肯定して自嘲を向けたミロは、やがてふと何かに気づいたように表情を動かしてからシャカに問いかけた。
「なぁシャカ」
「うん?」
「もしかして今日お前がここに来たのって、オレを心配したから後を追ってきた……とか?」
ミロが尋ねるとシャカはプッと小さく吹き出し、あっさりとそれを否定した。
「残念ながらそれは違うな、私はそこまでお人好しではない。今日お前とここで鉢合わせたのは、本当に単なる偶然だ」
「……だよな」
はははっ……と乾いた笑いを零してから、ミロは再びシャカに問いかけた。
「それじゃ本当にただの墓参りで?」
「私は先刻からそうだと言っているはずだが?」
何を聞いていたのだお前は? とでも言いたげにやや呆れ気味に眉間を寄せたシャカは、「お前ほどではないかも知れぬが……」と言いながら目を瞑ったままの視線をサガの墓へと向けた。
「私とてサガに世話になった身だ、彼に対して特別な思いもある」
「えっ?」
およそシャカの口から出てきたとは思えぬその言葉に、ミロは詰まらせたような驚きの声をあげた。
「サガは私達下の者にはとても優しかったし、可愛がってくれた。厳しい面ももちろんあったが、私もそんなサガのことが大好きだった……」
まるで過去に想いを馳せるように、噛み締めるように語るシャカの横顔を、ミロは新たな驚きを得たような表情で凝視した。
何故なら、ほんの幼い頃からそれなりに長い付き合いのある自分すら、こんな様子のシャカなど一度たりとも見たことがなかったからである。
「シャカ……」
「だがその中でもサガが一番可愛がっていたのはミロ、お前だったな」
シャカはミロの方に向き直ると、そう言ってくすりと笑いを零した。
「そうかな? そんなこともないと思うけど……」
幼い頃、誰よりもサガにベッタリだったという自覚はミロにもあるが、だからと言って自分が特別彼に可愛がられていたという実感はない。
「贔屓と言うつもりはないし思っているわけではないが、サガが誰よりもお前を気にかけていたことは事実だ」
それに不平不満を持っていたわけでもないので、そのことをとやかく言うつもりは毛頭なく、シャカは単純に客観的事実を述べているだけであった。
「それは単にオレが一番やんちゃで危なっかしかったから、サガが放っておけなくて何くれとなく構ってたって言うか、手がかかってたってだけの話じゃないのか?」
「そうだな、その可能性は私も否定せぬ」
「いや、そこは嘘でもいいから否定してくれよ」
自分で言ったこととはいえ、こうもあっさり肯定されてしまうと複雑な心境にならざるを得ない。
「今となってはサガの真意を確かめる術はない。ゆえに推察の域は出ないが、サガは表向き聖域から自分の存在を消し去った後も、お前に対して何かしらの気がかり、或いは思うところがあったのだろうな。だからこそ、お前をずっと傍に置いていた……」
反逆者の弟としてこの13年間常に聖域中央の監視下に置かれていたも同然のアイオリアはともかく、自分とムウ、アルデバラン、カミュの四人は聖域中央からの干渉も比較的緩く、行動の自由が許されていた。だから聖域を出て弟子を取ろうが何をしようが、不問に付されてきた。
そんな中、何故かミロだけは教皇――に扮したサガ直々の命により側近に召し上げられたのである。
聖域の最高権力者によってある意味行動の自由を制限されたのは、特殊な事情のあるアイオリアを除いてはミロだけ。ともなれば、サガが何かしら明確な意図を持ってミロを自分の傍に置いていたのであろうことは想像に難くなかった。
「……ずっと傍にいながら、オレは最後の最後までその正体に気づくことはできなかったがな」
ポツリと吐き捨てるように言ったミロのその言葉から、シャカは彼の強い悔恨の念を感取した。だがシャカは敢えて何も言わず、ミロの次の言葉を待った。
「得体の知れぬ人だとはずっと思っていた。恐ろしく冷徹で、底知れぬ強大な小宇宙を持っていて、とても危険な御人だと無意識に感じ取っていた。でも……」
「でも?」
「時々そんな教皇から暖かく穏やかで優しい小宇宙を感じることができたり、大きくて深い愛情のようなものが垣間見える時があったんだ。会う度にそんな風に印象がガラリと変わる――最初のうちは戸惑うばかりだったけど、そのうちに慣れた。だから側近として仕えてはいたが、オレの中で教皇は最後まで正体不明の謎の御人のままだった。最も今にして思えば、全く相反する人格が一つの身体の中にいたのだからな、印象がコロコロと猫の目のように変わったところで、何ら不思議はなかったわけだが」
教皇から時折感じられるその暖かく穏やかで優しさと愛に満ちた小宇宙に、ミロは懐かしさのようなものを感じていた。だから教皇に不審を抱きつつもその傍から離れることができなかったのだ。
これも真相が詳らかにされた今になってようやくわかったことではあるが、教皇から時折感じる優しさや愛に満ちた小宇宙に奇妙な懐かしさを覚えたのは、それが幼き頃から自分を慈しんでくれたサガのものだったからであろう。物心ついた頃から慣れ親しんできたサガの小宇宙に、何故気づくことができなかったのか? ミロはそれを悔いずにはおれなかったのである。そしてその後悔は、日に日に深くなる一方であった。
「デスマスクやアフロディーテ、そしてシュラは教皇の正体がサガであると知った上で仕えていた。側近として仕えていた人間で、そのことを知らなかったのはオレだけだった。とは言え、気づける機会なんかそれこそいくらでもあったんだ。それなのに結局オレは最後までその正体に気付けなかったし、見抜くこともできなかった。自分で自分が情けなくもなる」
本当はこんな泣き言を他人に聞かせたくはなかった。しかもサガの墓前で。
だがそんな気持ちとは裏腹に、シャカとこうして向き合って話しているうちに、今まで誰に言うこともなかった胸の裡に秘めていた様々な思いがごくごく自然に口をついて出てきてしまったのである。別に心境に変化が生じたわけでもないのに、どうしてなのかシャカに向かって心情を吐露している現状がミロ自身不思議でならなかった。
黙ってミロの話を聞いていたシャカは、何かを考えるようにまた数秒ほどの間を置いた後、
「正体を見抜けなかった……か、それを言われると私も耳が痛い。教皇の正体がサガであると見抜けなかったのはお前だけではない、私とて同じなのだからな。つまり私の目も相当な節穴、ということになろうな」
明らかに冗談めかした軽い口調でミロに言った。
「へぇ、お前でも耳が痛いなんてことがあるんだ?」
シャカがこんな物言いをするのは極めて珍しく、ミロはまたしても彼の意外な一面に驚かされたが、それがシャカなりの自分に対する気遣いであることも察し、同じような軽い調子でそう応じた。
「このようなことを言うと言い訳に聞こえるかも知れぬが……」
そんな前置きをしてから、シャカはすぐに言葉を継いだ。
「もう一人のサガは我々の全く知らぬ人間であり、紛うことなき悪であった。だがそれでも彼には彼なりの正義があり、その正義は主人格であるサガの持つ正義と異にして同のものだった」
「異にして同?」
訝しげに聞き返したミロに向かってシャカは一つ頷き、
「方向性や手段は違っても、現世に蔓延る邪悪やポセイドン、ハーデス等オリンポスの神々の手からこの地上を守りたいという正義だ。強い信念に基づくその正義感は、サガの二つの人格の根源で共有されていた。つまり相反する人格の中に、同一の正義が宿っていたということになる」
同じ正義を根元に成立する二つの人格――だから見誤ってしまったのか、シャカですらも……とミロは心の中で呟いた。
シャカ自身は決して口にはすまいが、一目で人間の善悪を見極めることができるシャカが教皇の正体がサガであることに気づくことができず、教皇こそが正義と信じて全面的に従っていたのは、サガの善悪双方の人格が共有していた正義を見抜いていたからこそだったのだろう。
しかもシャカは先の内乱で一輝を助け彼を教皇の間に向かわせる際に、教皇の助命を頼んだとも聞いている。それもやはりサガの根源或いは中核を成していたその正義を見抜いていたからこそであろう。つまりシャカの人の本質を見極める目にやはり狂いはなく、正しかったのだということである。
そこまで理解した時、今までとはまた違った感情がミロの胸の中を去来した。
「ずっと変わらず正義の心を持ち続けていたはずなのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろうな……」
辛く、悲しく、やるせない、何とも形容のし難い、ただ胸を重苦しくするだけの感情を持て余したかのように、ミロがポツリとそんな呟きを漏らした。
「一点の曇りをすら許さぬ強い正義感が、己が身を破滅に導くこともある……」
「え?」
「サガは常に強く正しく在り続けること、そして清廉潔白であることを己に課してきた。それゆえに、自らの裡に生まれてしまった小さな闇を直視することが出来なかった。薄々その存在に気づいていながら許すことも受け入れることもできず、自身の奥深いところに無理矢理押し込め蓋をしていたのであろうな。そうしているうちにいずれ自然淘汰される、サガはそう考えていたのかも知れない。だが強引に封印したその闇は自然淘汰されることなどなく、時日を重ねて次第に成長を遂げ、それと共に著しく歪んでいった」
「……その結果が現在いまというわけか」
ミロの言葉は抽象的ではあったが、的確にシャカの言わんとしていることを捉えていた。
「清廉潔白であるよりも清濁併せ呑む方が、結局は正しく在り続けられるのかも知れぬ。皮肉なことではあるがな……」
確かにそれはシャカの言う通りなのかも知れないとミロも思う。
強すぎた正義感が、清らかすぎた心が、サガの身を滅ぼした――それが悲しい現実なのである。
ミロはシャカの言葉によって、今ようやくそれをはっきりと理解することができた。同時に、その現実に真正面から向き合わねばならない覚悟も。
自分の胸裏で明確な区切りがついた次の瞬間、ミロの瞳から一雫の涙が零れ、静かに頬を伝い落ちた。
刹那、自分が涙を流していることに気づいたミロは慌ててその涙を拭ったが、一度決壊してしまった涙腺からは次々と涙が溢れ出て来て止まるところを知らない。
シャカの前であるという気まずさも手伝い、何とか止めようとミロは必死に掌で涙を拭い続けたが、程なくしてシャカがやんわりとミロのその手を掴んで動きを制止した。
ミロが涙で濡れた薄青色の瞳をシャカに向けると、シャカは色調の違う青の瞳で真っ直ぐにミロの瞳を捉えたまま、無言で静かにミロの金色の髪を撫でた。しなやかに髪を滑るシャカのその手はとても優しく温かく、そしてほんのりとした懐かしさをミロに感じさせた。
「耐える必要のない時は無理に耐えようとしなくていい。自分の感情の流れる方向に素直に身を任せることも、時には必要だ」
そう言ってシャカはミロに向かって穏やかに微笑んで見せる。だがシャカのその言葉が、行動がミロの涙の勢いに拍車をかけることにもなった。
飛躍的に勢いを増した涙で視界が歪み、シャカの慈愛に満ちたその笑顔はミロの瞳には正しく映っていなかったが、シャカの言わんとしていることもその裏にある想いも、全部ミロの心の中に直接届いていた。
ミロは強く固く瞳を閉じるなり、シャカの視線から逃れるかのように彼の肩口に顔を埋めた。
それは泣き顔を見られたくはない、だがもう少しだけシャカの優しさと暖かさに触れていたい――そんな異なる気持ちが複雑に融合した末に無意識のうちにとってしまった行動であった。
シャカはミロのその突然の行動に驚くこともなく、声を殺し小さく肩を震わせて泣くミロの髪を、ただ黙って静かに優しく撫で続けた。
親が泣く子をあやす時のように、どこまでも優しく――