◆ 囁 - voice -

幼い黄金聖闘士訓練生達の指導を終えたサガは、宿舎に戻り今日の報告書を書いていた。
もう一人の指導者たるアイオロスは、夕飯前に候補生六人を風呂に入れている。

訓練を終えてもサガ達年長者がやらねばならぬ仕事は山積みで、この報告書を書き終えてものんびりと休憩を取っている暇などないに等しかった。
サガが報告書作成を急いでいると、背後でカチャッとドアが開く音がした。
誰だ? と思ってサガが振り向くと、

「アイオリア……?」

風呂に行ったはずのアイオリアが、開いたドアからひょこっと顔を覗かせていた。
顔や服が土砂で汚れたままであるところを見るに、まだ風呂に入っていないことは一目瞭然である。

「アイオロスやみんなとお風呂に入りに行ったはずだろう? どうしたんだい?」

サガがアイオリアに問いかけると、アイオリアは少しモジモジした様子で小さく「うん……」と答えてから、小走りにサガの元へ駆け寄ってきた。
自分に何か用事でもあるのだろうか? と、サガは掛けていた椅子から立ち上がり、アイオリアの前に屈み込んでもう一度尋ねた。

「どうしたの?」

「サガ、あのね……」

言いながらアイオリアがサガを手招いた。
耳を貸せ、と言っているのだと理解したサガは、前屈みになってアイオリアの方に耳を傾ける。
アイオリアは両手で自分の口元を覆い、サガに耳打ちをした。

「あのね、アイオロス兄さんね……」

「うん?」

「アイオロス兄さんね、サガのことが大好きなんだよ」

アイオリアはサガの耳元から顔を離すと、サガに向かってニコッと無邪気に笑って見せた。
予想もしていなかったことを突然言われたサガは、ほんの一瞬だけ面食らったように目を瞠ったが、すぐにその表情を和らげ笑みを浮かべた。

「そうなのか、それは嬉しいな」

もちろんサガは、アイオロス本人の口からはっきりと自分への好意を告げられている。
だがそんなことを知る由のないアイオリアの、純真無垢な気持ちからくる言動がいちいち可愛らしくて、サガは相好を崩さずにはおれなかった。

「それでね、サガ」

「うん?」

「兄さんはサガのことが大好きだけど……サガは兄さんのこと、好き?」

穢れのない大きな緑の瞳で真っ直ぐに見上げながらそう問いかけてきたアイオリアに、サガはまたしても面食らったように息を飲んだが、

「ああ、もちろんだよ。私もアイオロスのことが大好きだ」

一片の迷いも見せることなくはっきりと答え、サガは穏やかに微笑んでアイオリアの柔らかな髪を撫でた。

「本当? サガも兄さんのこと好き?」

「ああ、大好きだよ」

今度は間髪入れずに即答すると、アイオリアは喜色を満面に浮かべサガに飛びついた。
アイオリアの小さな体を抱き留め、サガはあやすようにその背をぽんぽんと叩いた。

「ねぇねぇ、それじゃあサガは、これからもずっと兄さんと仲良くしてくれる?」

「うん」

「ずっと兄さんと一緒にいてあげてくれる?」

「うん」

「兄さんと、それとオレ達とも一緒にいてくれる?」

「うん」

「約束してくれる?」

「うん」

矢継ぎ早なアイオリアの問いに、サガは笑顔で頷きを返した。
やったー! と全身で喜びを露わにし、アイオリアがギュッとサガにしがみついた。
そんなアイオリアの体を更に強く抱き締めながら、サガは少しだけ切なげに表情を曇らせた。
自分達の行く先に待ち受けているもの、それは地上を我が物にせんとする神々との熾烈な戦い、聖戦である。
そう遠くない未来にこの地上に降臨するであろう戦女神アテナを守護し奉り、命をかけてこの地上を守る−ーそう運命を定められて自分達はこの世に生を受けた。

そしてその聖戦においては、恐らく大半の者が命を落とすことになるであろう。つまり自分も、アイオロスも、そしてアイオリアも、生き残れる保証はどこにもないということなのである。
アテナの聖闘士としての宿星の元に生を受けた以上、それはどうあっても避けられぬ運命――つまるところ自分達を待つ未来は、率直に言って明るいものではないということなのだ。

ゆえに、たった今アイオリアと交わしたばかりのほんのささやかなこの約束が、実は守ることが非常に困難であることをサガはよくわかっていた。
だがまだ幼いアイオリアにそんなことを理解せよと言っても無理であろうし、その必要もないだろう。
アイオリアもいずれ自分に定められた運命と、課せられた責務をはっきりと自覚し、理解をする日が来る。その時に彼が今交わしたばかりの約束をどう思うかはわからないし、逆にすぐに忘れ去ってしまうかも知れないが、その日が来るまでのほんの短い間、或いはたとえこの一瞬だけであったとしても、未来に希望を持つことは決して悪いことではないとサガは思う。

「いつの間にか居なくなったと思ったら、ここにいたのかアイオリア」

不意にそう声をかけられ、サガとアイオリアは同時に出入口の方に視線を転じた。

そこには今しがたまで話題に上っていたアイオロスがいて、二人の様子を見ながら呆れたような苦笑を浮かべている。

「アイオロス……」

「兄さん!」

アイオリアはサガから離れると兄の元へ駆け寄り、嬉しそうにその足許に纏わり付いた。

「黙って脱衣所から居なくなったからどこに行ったかと探しに来たら……ダメだろ、勝手にウロチョロしちゃ」

軽くアイオリアを叱りながら、アイオロスは優しく弟の頭を撫でた。

「こんなところでこっそりとサガを独り占めして……何を話していたんだ?」

アイオロスの問いにアイオリアはすぐには答えず、何故かサガの方に振り返った。

サガは無言で微笑み、アイオリアに向かって頷きを返す。それを見てアイオリアもニコッと微笑み返すと、

「後で教えてあげる! きっと兄さん、すごい喜ぶと思うよ!」

「へぇ?」

弟の何やら意味ありげな返答にアイオロスは興味深げに目を瞠ったが、それ以上は何も聞かず、わんぱく坊主を見つめる目を優しく細めてくしゃくしゃとアイオリアの頭をかき混ぜた。

「ほら、さっさと風呂に入っちまわないと。晩飯いつまで経っても食えないぞ」

「はーい!」

元気に答えると、アイオリアは自分からアイオロスと手を繋ぎ、サガに向かって手を振った。

「サガ」

「うん?」

「すまんが手が空いたらこっちも手伝ってくれるか? この通りチビ共がちょこまかして全然じっとしてくれないから、オレ一人で全員を風呂に入れるのは一苦労だ」

アイオロスが眉尻を下げてサガに助太刀を頼むと、サガはプッと小さく吹き出し、

「ああ、わかった。この仕事を終わらせたらすぐに行くから、それまで何とか頑張ってくれ」

やや冗談めかしてそう応じ、一足先に二人を浴室へ送り出した。

さて、そういうことなら急がないと……とサガがデスクに戻りかけた次の瞬間、

"オマ……ハ……ク、ダ……サガ……オマ……ソ……ャアク……ケシ……ダ……"

「何……だ?」

声が……聞こえた。
地の底から響くような……怖気立つほど低く、冷たい声……。
どこから? とサガはおもわず周囲を見渡した。
だが違う、外から聞こえてきたのではない……内側の奥深いところから重く響いてきたような……内側……そう自分自身の中から……。
まさか、そんなことがあるはずがない――サガは小さく首を左右に振り、その考えを払拭すると、気のせいだと自分に言い聞かせ、強いて気を取り直し仕事に戻った。

心の中に、言い知れぬ不安を覚えながら――。


サガの裡に生まれていた邪悪な存在。
その邪悪な存在が遂に蠢き始めた、正にその瞬間であった。
だがサガが自分の裡に在るもう一人の自分に気づくのは、もう少しだけ先の話である。

 
END
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「エピソードゼロ」1話を読んだ時に居ても立っても居られず、思いつくままに書きました。



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