この日、教皇シオンより呼び出しを受けたアイオロスは、シオンとの謁見が終わるが早いか、一つの重大な決意を胸にやや急ぎ足で自分とサガの執務室へと戻った。
急ぎ戻りはしたものの、だがアイオロスはすぐに部屋には入らずに、執務室のドアの前で大きく深呼吸をした。
自分の執務室に入るだけだというのに、何故深呼吸をして気を落ち着ける必要があるのか甚だ疑問だが、今のアイオロスはそうせずにはおれぬくらい緊張に極みにあったのだ。
その極度の緊張の原因が今彼が胸に秘めている決意にあることは、もはや言うまでもない。
そうやって何とか気持ちを整え引き締め直してから、アイオロスは意を決したようにドアを開き中へと入った。
「お帰り、アイオロス」
中で仕事をしていたサガが、その手を止めて笑顔でアイオロスを迎え入れた。
「……ただいま」
ぎこちない笑顔を返しながら、アイオロスは自分のデスクではなくサガのデスクの方へと足を進めた。
間もなくデスクを挟んで正面に立ったアイオロスに、サガは少しだけ怪訝そうにしながら問いかけた。
「教皇様のご用事は何だったのだ?」
「あ、うん……」
問われたアイオロスは、だが曖昧に言葉を濁しただけで明確な返答をせず、ますます訝しく思ったサガは「何か良くない話なのか?」と眉間を寄せて聞き返した。
アイオロスは「いや、良くない話というわけではないよ」とその懸念をはっきり否定してから、また一転して怖ず怖ずとした様子でサガを呼んだ。
「サガ……あの……」
「うん?」
「今教皇から、正式に次期教皇への打診を受けてきた」
それを聞いたサガは一瞬だけ表情を閃かせたが、すぐに穏やかな表情で「そうか」と応じて微笑んで見せた。
「それで?」
「うん?」
「もちろん受諾して来たのだろう?」
断る理由などないはずなのでその場で受諾したものとサガは信じて疑っていなかったのだが、念のため確認を求めて聞き返してみると、
「いや、まだだ。答えは保留にしてある」
予想外の返答に、サガの目が丸くなる。
「何故?」
短く問い返すとアイオロスはうん……と歯切れ悪く呟き、数秒の間をおいてから再び口を開いた。
「返事をする前に、どうしてもはっきりしておかなければいけないことがあって……」
「ほう?」
サガがまたしても訝しげに首を傾げると、アイオロスは背筋を伸ばしてサガに向き直り、短い深呼吸をしてから改まった口調でサガの名を呼んだ。
名を呼ばれたサガはいきなり居住まいを正し畏まった様子のアイオロスにつられるように、「はい」と短く返答をした。
するとアイオロスはもう一度深く息を吸い込み、
「オレと結婚してくれ!」
覚悟を決めたと同時に一気にサガにプロポーズをし、その勢いで肺に残った酸素をも一気に吐き出した。
突然のプロポーズにサガは思わず目を瞠り、息を飲んで絶句した。
サガはその状態でしばし無言のままアイオロスの顔を凝視していたが、程なくして気を取り直し「何故今?」と聞き返した。
「いや、その、正式に教皇に就任するならやっぱりきちんと身を固めてからにした方がいいかと思って、それで……」
アイオロスの返答を聞いたサガは、やれやれとでも言いたげに苦笑し、
「教皇になるからといって、無理に身を固める必要などあるまい。現にシオン様は教皇の座に就かれた時も、そして今も独身でおられるわけだしな」
「それはそうなんだけど、でもオレは……オレは自分が次期教皇に指名されたその時には、きちんとサガと結婚してけじめをつけてからその座に就くと、ずっとそう心に決めてきた」
さすがに14歳で指名された時にはどうしようと思っていたのだが、それはさすがにサガには言えない今にして思うと非常に間の抜けた話である。
裏を返せばアイオロスは、ほんの子供の頃から長きに渡ってこの決意を胸に秘めていたということになるのだが、それもまた別の話であり、今殊更に言うようなことではない。
「それではお前は、私が結婚を断ったら教皇の座には就かぬとでも言うつもりなのか?」
淡々とした様子のサガに重ねて問われ、アイオロスは鼻白んだ。
もちろんアイオロスはそんな脅迫めいたことなど微塵も考えてはいなかったが、サガにそう受け取られても仕方がない言い方ではあったかも知れない。
「断りはしないよ、しないけど、でも……」
困惑を露わにアイオロスが返答を詰まらせたところで、サガがプッと小さく吹き出し、くすくすと楽しそうに笑い始めた。
「すまん、少し意地悪が過ぎたな」
少ししてサガは笑いを収めると、ペンをデスクの上に置き、静かに立ち上がった。
ゆっくりとデスクを回り込み、改めてアイオロスと至近距離で真正面に向き合ったサガは、先刻のアイオロス同様居住まいを正し、十センチほど低い位置から確りと彼の瞳を見つめ、
「不束者ですがよろしくお願いします」
畏まった口調で、それでもはっきりと受諾の意を伝え、そしてほんのり頬を赤らめて気恥ずかしげに微笑んで見せた。
長い間ずっと望み続けてきた、その望み通りの返答を得られたアイオロスは、半瞬程の自失の後、胸の奥底から一気に湧き上がってきた幸福感と喜びに破顔した。
やったー! と大きな声を上げ、まるで子供のように全身で喜びを表すアイオロスをサガは若干呆れつつ優しく暖かな気持ちで見守っていたが、やがてアイオロスはその勢いのままサガの身体を抱き寄せ、しなやかな髪の感触を頬で楽しみながら耳元に唇を寄せ囁きかけた。
「ありがとう、サガ……二人で一緒に必ず、絶対に、幸せになろう」
「……うん」
アイオロスの肩口に顔を埋め、サガは小さく、だが確りと頷いたのだった。