今日の仕事を終え自宮に帰宅したサガは、ちょうど私室の入口の前で宮の反対側、つまり金牛宮側から双児宮へ入ってきた童虎と行き会った。
「おお、サガ、今帰りか?」
童虎が気さくに声をかけると、サガは笑顔で「はい」と返事をして目礼した。
「もしや童虎も今聖域へお戻りになられたのですか? シオン教皇より、童虎は三日ほど前から五老峰に行かれていると聞いておりましたが……」
「うむ、そうなんじゃがのう……」
歯切れ悪く答えながら溜息を零した童虎に、サガはおや? と表情を動かし、
「どうかなさったのですか?」
「いや、本当はもうしばらく五老峰でゆっくりしてくるつもりだったのじゃが、シオンの奴にさっさと帰ってこい! と呼び戻されてのう……」
そう答えながら童虎は、うんざりしたように大きな溜息をついた。
なるほど、そういうことだったのかと、サガは思わず小さく噴き出した。
「教皇も童虎が聖域にいないとお寂しいのでしょう。これまで243年もの長きに渡り、離れておいでだったのですからね」
「いい歳をして寂しいだなどと宣うタマではなかろう。シオンのアレはただのわがままじゃ」
殊更素っ気なく言い放った童虎だったが、それが照れ隠しであることくらいサガにもわかる。
サガがこみ上げてきた笑いを懸命に抑え込んでいると、童虎は再び口を開き、
「もうハーデス軍の魔星を監視する必要もないのだから長らく十二宮を不在にするな、ライブラの黄金聖闘士として天秤宮の守護に専念せよ、などともっともらしいことを言うておったが、ハーデス軍の監視の必要がないというなら天秤宮を守護する必要もなかろうに、教皇のくせに矛盾したことを言うものじゃ。大方、自分が仕事をしておるのにワシだけのんびりとしているのが許せない、腹が立つから呼び戻してこき使ってくれるとでも思うておるのじゃろうな。本当にわがままなジジィじゃ」
童虎のぶちまける不満を聞いて、教皇シオンはやっぱり寂しがっているだけだし、童虎もちゃんとそれをわかっているのだということをサガは理解したが、もちろん口に出しては何も言わず、童虎にわからぬよう忍笑いを零すにとどめておいた。
「確かにシオン教皇は日々何かとお忙しくしておいでですからね。私も他の者も全力でサポートをしているつもりではおりますが、やはり我々よりも盟友たる童虎に常に右腕として自分の傍にいて助けてほしいとお考えなのでしょう。教皇のお気持ちもわかります」
「何じゃ? お主はシオンの肩を持つのか?」
「肩を持つ、というわけではございません。単にお気持ちが少しわかるだけです」
そう言ってサガはクスッと笑った。
「ふむ、なればシオンをさっさと勇退させてただのジジイに戻らせるに限るな。そうすればワシが彼奴の八つ当たり気味のわがままに振り回されることもなくなるじゃろうて。サガよ」
「はい?」
「そういうことじゃから、お主からもアイオロスに早よう教皇になるよう言うてくれ。シオンが教皇をやっておる限り、お主らはいいかも知れんがワシが割を食うてかなわんからな」
そうなったらそうなったで仕事以外のことでシオンに振り回されるだけのような気はするが、確かにいつまでもシオンに教皇を押し付けておくわけにもいかないという点においては童虎の言うことは一理ある。
アイオロスは教皇就任をできるだけ先に延ばしたいらしくのらりくらりと躱しているが、そろそろ覚悟を決めさせないといけない頃合いなのかも知れないと、サガは思った。
「わかりました、その旨は私からもアイオロスによく申し伝えておきましょう。それはそれとして童虎」
「うん?」
「こちらにお戻りになられたのであれば、すぐに教皇のところにお顔出しせねばなりますまい。きっと首を長くして待っておられることと思います、急がれた方がよろしいのではありませんか?」
「面倒臭いのう……」
さして面倒とも思っていない様子で言って、童虎はサガに軽く手を挙げて歩き出した。
サガも童虎に一礼で応じそのまま私室に入ろうとしたのだが、ドアノブに手をかけようとしたところで童虎に呼び止められた。
「ああ、そうじゃ、サガよ」
「はい?」
サガが振り返ると、童虎は再びサガの元へ戻ってきて唐突にこう尋ねた。
「そう言えばずっとお主に言いたくて言えぬことがあったことを思い出した。いい機会じゃ、言うても良いか?」
「……はい」
嫌だと言える場面ではないが、それ以上に童虎の言う「ずっと言いたくて言えなかったこと」が一体何なのかと単純に興味をひかれ、サガは訝しげに眉間を寄せつつ首を縦に振った。
童虎は「うむ」と満足そうに頷いてから一呼吸置き、改めてサガに向き直ると、
「このバカもんが!」
と声を大きくしてサガを一喝した。
開口一番『馬鹿呼ばわり』されたサガの目が、限界まで拡大し真ん丸くなる。
は? 何故? いきなり? 馬鹿? えっ? ……とサガは大いに混乱していたが、混乱しすぎて言葉も出なければ身動きすら取れず、間の抜けた顔で硬直したまま童虎の顔を見返すことしか出来なかった。
「その顔は全く訳がわかっておらぬ顔じゃのう……」
やれやれ……と言いたげに肩を竦める童虎にサガはますます困惑を深め、わけがわからぬまま「すみません……」と一言絞り出すのが精一杯の有様だった。
「13年前、己の中の悪の心に負けあんな邪悪な別人格を生み出し、後に聖域を混乱に陥れ無用の戦禍を巻き起こし、流れる必要のなかった血を流させた元凶はお主であろう、サガよ」
言われてようやくハッとしたようにサガが表情を動かした。
「身に覚えがない、とは言わさぬぞ」
にやり、と唇の端を持ち上げる童虎に、サガは力のない声で「申しません……」と答えた。
それを聞いて童虎は満足そうに頷き、
「ワシはほれ、長いことずーーーっと身動き一つ取れず、言いたいことも言えずに黙っておらねばならなかったからのう……そのストレスたるや生半可なものではなかったのでな」
「お察しいたします……」
些か的外れな返答と自分で思わないでもなかったが、他に何とも返しようがないのだから仕方がない。
「それ故に13年もの長きに渡り――まぁワシにとっては言う程長い時間でもなかったが、とにかくずっとこの一言を言えず我慢してきたからのう。アスガルドでの戦いの時にはこのようなことを言える状況ではなかったし、ようやく言えてスッキリしたわ」
そう言って童虎は高らかに楽しげな笑い声をたてたが、笑えないのはもちろんサガの方である。
サガは童虎の前に膝をつき、
「仰る通り、私は13年前に己の邪悪に負け、聖域を混乱させ無用の内乱で多くの者に無駄な血を流させました張本人です。その罪は一生涯をかけて償う所存にございますが、死して詫びよ……と申されるのであれば喜んでこの命を持って贖う覚悟」
自らが密かに抱き続けていた覚悟を表明し、童虎に向かって恭しく頭を垂れた。
だが今度は童虎が目を丸くする番であった。
童虎は自分の前に跪き、深く頭をさげるサガに向かってやれやれと言ったように肩を竦め、
「サガよ……お主は既にもう死んだであろう? しかも3度も。今更お主の命など差し出されたところで、償いになどなるはずあるまい」
そう言って呆れたように苦笑した。
身も蓋もない、とは正にこういうことであろう。サガには返す言葉など一つもなかった。
「ワシは別にお主に罪を償えなどと言いたいわけではない。ただ単に長年言うに言えずにいたことを言いたかった、それだけじゃ」
その長年言いたかった一言が「バカ!」なのかよ……と。もし他の者がこの場にいたら心の中でツッコミの一つや二つ入れたであろうが、当然サガにそんな余裕があるわけもなく、ただただ恐縮する余り頭が下がっていく一方であった。
だがその時、童虎の手がフッと自分の頭に置かれた感覚で、サガは驚いて顔を上げた。
童虎と目が合うと、童虎は穏やかに微笑みながら頷き、サガの頭を優しく撫でながら言った。
「アテナがお許しになったとは言え、確かにお主ら兄弟が犯した罪は途轍もなく大きい。一度や二度死んだ程度で購えるものでもなかろう。ワシにもお主のその気持ちはわかるゆえ、罪の意識を捨てろとは言わぬ。じゃが、それに雁字搦めになる必要もなかろうとも思うておる」
「童虎……」
童虎はニッ! と無邪気な笑みを深めると、今度はやや乱暴にくしゃくしゃとかき混ぜるようにサガの髪を撫でまわした。
「せっかく新たな生を与えられたのじゃ、お主もそしてカノンも、これからの人生で少しずつ犯した罪を償っていけばよい。命を持って償うばかりが贖罪ではない、生きてこそできる罪滅ぼしというものもあるのじゃからな。そうではないか?」
ん? と同意を求めるように童虎は小首を傾げて見せる。
童虎のその笑顔を見た瞬間にサガの心の中の重石が外れ、全身から一気に力が抜けていった。
同時に強張っていたサガの表情がフッと和らぎ、やがてその唇に微かな笑みが浮かぶ。
「……この歳になってこんな風に人に頭を撫でてもらうなんて思ってもみませんでした」
「子ども扱いされているようで嫌か?」
「いいえ」
サガは微笑を浮かべたまま、小さく首を左右に振った。
「まぁワシから見ればお主などまだまだケツの青い小童じゃからな、子供と同じようなものじゃ」
「そうですね」
ここでようやくサガが笑い声を零した。
「ありがとうございます……老師……」
「馬鹿モン、童虎と呼べと言うておるじゃろう」
優しく叱りながら、童虎がこつんとサガの頭を叩いた。
「はい。ありがとうございます、童虎」
「別にお主に礼を言われるようなことはしておらぬがな」
言いながら最後にもう一度コツンとサガの頭を小突いてから、童虎は徐ろに踵を返した。
「さて、今度こそ行くとするか。ああ、そうじゃ、うまい酒を土産に買うてきたのでな、明日にでも皆で飲むとしよう。お主から皆に声をかけておいてくれぬか?」
「はい、承知いたしました」
「うむ、頼んだぞ」
言い置いて童虎はサガに手を振り、その場を後にしていった。
サガは静かに立ち上がると、離れていく童虎の背中に向かってもう一度深々と頭を下げた。