それから10日ほどが経過した、ある日の夜のことである。

「カノン! カノンはいるか!? 」

サガがキッチンで夕食の後片付けをしていると、シュラが大声でカノンを呼びながら、双児宮に飛び込んできた。

「何事だ? シュラ」

片付けの手を止めてサガがリビングへ出ていくと、シュラはサガの方へ青ざめた顔を向けた。シュラの声しか聞こえなかったので出ていくまで気付かなかったが、その横にはカミュもいて、やはりシュラと同じように青ざめた顔をしていた。

「サガ! カノンは!? 」

2人はサガに駆け寄り、カノンの所在を尋ねる。

「カノンなら風呂に入っている。もう出てくるころだとは思うが、どうしたんだ? 2人揃って血相変えて」

尋常ならざる2人の様子に、サガが眉を顰める。シュラが青い顔をしたまま、口を開きかけたその時、

「何だ何だ、うるせーなぁ……」

濡れた髪を拭き拭き、風呂上がりのカノンがリビングに姿を現した。

「カ、カノンっ!!」

シュラはサガの元からカノンの元へ移動し、真正面に立つやガッ!とカノンの両肩を掴んだ。

「なっ!?  何だ!? 」

シュラの迫力に押され、カノンはぎょっと目を見開いた。

「カノン! ミロが大変なんだっ!!」

「ミロぉ〜? 大変って何がだよ!!」

「ミロが大怪我したんだっ!」

「……えっ……?」

暢気に構えていたカノンの顔色が瞬時に真っ青になり、手にしていたバスタオルがはらりと床に落ちた。

「ミロが怪我!?  どう言うことだ!? 」

すぐに駆け寄ってきたサガが、呆然と言葉を失って立ち尽くしているカノンに代わり、シュラに聞き返した。

「あいつは今日は教皇宮での仕事だったはずだぞ? 一体何で……」

午後からのシフトに入っていたミロと、サガは教皇宮で顔を合わせている。ミロは今日の仕事は7時までだと言っていたから、定時に上がったとしてもまだそんなに時間は経っていない。

「その帰りなんです……」

カミュが震える声で言った。

「帰り? 何があったって言うんだ!? 」

サガがカミュに更にその先を促した。

「教皇宮から双魚宮へ続く階段脇の……崖から転落したんだよ!」

「何だって!? 」

サガが声を張り上げた。

「転落って……そんなバカな、黄金聖闘士が……」

確かに十二宮は外敵から易々と侵入できないよう、全ての宮は断崖絶壁に位置している。その険しさたるや相当なものではあるし、転落防止の柵もついてはいないから、落ちたら例え黄金聖闘士と言えども無傷では済まない。だが、そんなところからそう易々と落ちるようでは、黄金聖闘士など務まろうはずがない。

「何者かに攻撃でも受けたのか!?  いや、まさかそんな……」

外敵があの崖を登って侵入するなど考えられない。となると異界からの侵入と言うことになるが、十二宮の結界は容易く破れるものではないし、特に上に行けば行くほどその力は強くなる。双魚宮から上、教皇宮〜女神神殿のあたりには最も強固な結界が張ってあり、仮に異界からの干渉があったとしてもそう簡単に侵入などできない。第一、そんな不穏な動きがあれば、十二宮内の黄金聖闘士が直ちに異変に気づき集結するはずである。

「何か考え事をして歩いていたらしくて……足を踏み外したみたいなんだ。それで頭を強く打って……」

「重傷なのか!? 」

神妙な面持ちで、こくりとシュラが頷く。カミュは言葉も出ないようで、顔を俯け唇を固く引き結んでいた。

「ミロ、うわ言でカノンの名前を呼んでるんだ。だから……」

シュラがみなまで言うより先に、それまで彫刻のように固まっていたカノンが肩にかけられていたシュラの手を振り払い、無言のまま光速で双児宮を飛び出したのである。

「カノン! 待ちなさい、私も……」

「待ってくれ!サガ!!」

慌ててカノンの後を追おうとしたサガを、シュラとカミュが同時に引き止めた。

「何故止める!? 」

両脇からがっちりと腕を掴まれてその動きを止められたサガは、2人に向かって声を荒げた。

「サガは行かないでくれ。カノンだけでいいんだ!」

「何を言っている! ミロは大怪我をしているのだろう!?  カノンはあまりヒーリングは得意ではないのだ、治しきれるかどうか……」

戦闘能力はほぼサガと同水準を持つカノンだが、人を癒す力……つまりヒーリングはあまり得意とは言えなかった。反してサガは、教皇であるシオンよりもその能力は上と言われているほどである。カノンの手に負えなかった場合は自分がフォローしなければ、ミロの命に関る問題なのだ。ここでおとなしくしてなどいられない。

「違うんだ、待ってくれ! とにかく落ち着いて話を聞いてくれ!」

自分たちを振り払おうとするサガを懸命に押さえつけながら、シュラが必死にサガを制止した。






光速で4つの宮を駆け抜け、カノンは天蠍宮に飛び込んだ。私室の中はし〜んと静まり返っており、当然のことながらリビングにもダイニングにもミロの姿はなかった。

「ミロ……」

言い知れぬ不安がカノンの中でどんどんと大きくなる。ゾクリ、と自分の背筋に寒けが走ったのがわかった。カノンは慌てて、寝室の方へと向かう。

「ミロ!」

バタン!と勢いよく寝室のドアを開け、ミロの名を呼ぶ。中では瀕死の状態のミロが、ベッドで横たわっている……と、無意識のうちに予想していたカノンであったが、

「あれっ? カノン?」

確かにミロはベッドの上にはいた。だがカノンが想像していたように痛々しい姿で横になっていたわけではなく、漫画雑誌を片手にベッドの縁に腰掛け、血相を変えて飛び込んできたカノンをビックリしたように見ていたのである。

「……ミ……ロ?……」

カノンはその場に立ち尽くし、呆然とミロを見た。目の前のミロは大怪我どころか、いつも通りにピンピンしている。カノンは茫然自失状態のまま、フラフラと寝室の中に入っていった。

「どうしたんだよ? お前、パジャマ姿で……しかも髪の毛濡れてんじゃん」

カノンがフラついた足取りで側まで来ると、ミロは様子のおかしいカノンに怪訝そうな視線を向けつつ、腰掛けていたベッドから立ち上がった。そして心配そうに、まだ湿っているカノンの髪に触れる。

「何慌ててんの? 何かあったのか?」

自分をじっと見つめたまま微動だにしないカノンに、ミロが尋ねる。そのいでたちからしても何かあったのは一目瞭然なのだが、何故こんなに大慌てをしたカノンがこんな時間に自分の宮に飛び込んできたのか、ミロには皆目見当がついていなかった。

「ミロ……お前、……怪我は?……」

「怪我ぁ!? 」

呆然としたままのカノンに途切れ途切れにそう聞かれたミロは、素っ頓狂な声を張り上げた。

「怪我って何?」

カノンの言っている意味がわからず、ミロはきょとんとした目をカノンに向ける。

「だって、シュラが……」

「シュラ?」

「シュラとカミュがウチに飛び込んできて……お前が怪我したって……」

「はぁぁぁ〜〜〜!? 」

ミロは先程にも増して素っ頓狂な声をあげた。

「……怪我って、これのこと?」

言いながらミロが長袖のTシャツの袖をたくし上げ、右肘をカノンの目の前に突き出した。そこにはとっくの昔に血も止まったらしい、ちまっとした擦過傷があった。

「これ……は……?」

カノンは目を思いっきり見開いてそのちんまりした擦過傷を見つめ、おずおずとそれを指差しながらミロに聞いた。

「いや、仕事帰りに磨羯宮の通路ですっ転んで擦りむいたんだ。シュラのやつ、通路にワックスがけしたらしくてさ、すっげーツルツル滑るんだもん」

バツ悪そうにそう言って、ミロはいたずらっ子のようにペロッと舌を出した。

「あ! もしかしてヒーリングしにきてくれたわけ? でもこんなの、怪我のうちになんか入らねえよ。舐めときゃ治るし……」

サガと違ってカノンがあまりヒーリングが得意でないことはミロも知っていたが、とは言えこの程度のかすり傷ならカノンにも簡単に治せる。ついでに言うなら治そうと思えばこのくらいの傷は、ミロが自分でだって治せるのだ。放っぽっているのはわざわざこの程度の傷を治すのに、小宇宙を燃やすのが面倒臭いからである。

だがカノンはそれを聞いて、力なく首を左右に振った。

「シュラが……カミュも……お前が双魚宮の上の崖から落ちて、大怪我したって……」

「はぁ!? 」

これまた全然身に覚えの無いことを言われ、ミロは目をぱちくりとさせた。

「いくらオレがドジでも、十二宮の崖から落ちるなんてマヌケなことする訳ないだろ? これでも黄金聖闘士なんだぜ?」

他の人間が聞いていたら、黄金聖闘士が人の宮の通路ですっ転んで擦り傷作るのはマヌケじゃないのか?とツッコミを入れてたとこだろうが、今のカノンはそんなことにツッコミを入れられるような状態ではなかった。もちろん、ミロもそんなことなどきれいさっぱりと頭の中から跳ね除けていた。

「だって、シュラが……カミュも……」

完全に頭の中が混乱しきっているカノンは、うわ言のようにそう繰り返した。

「あいつら何考えて……あっ!」

こんな擦り傷が何で崖から落ちて大怪我に変わるのかミロにも不思議だったが、ここに来てやっとミロはシュラとカミュの意図するところに思い当たった。床に視線を落とし、そのまま考え込むようにして腕を組む。ミロの頭の中に、10日前にシュラとカミュと交わした会話が、まざまざと蘇ってきた。

……2人はカノンを試したのである。

自分が大怪我をしたと聞いて、一体カノンがどんな反応を示すか、そんな行動を取るか……その反応でカノンが自分のことをどう思っているのか探ろうとしたに違いない。

きっとあれ以来、シュラ達はシュラ達なりに、ミロとそしてカノンの行く末を心配していたのだろう。タイミングがいいのか悪いのか、今日ミロが磨羯宮ですっ転んでかすり傷を負ったことが、いい口実というかヒントになり、シュラ達はこの作戦に出たに違いなかった。全てを理解したミロは、1人で2度3度と頷いた。

甚だ人騒がせではあるが、ミロはシュラとカミュの気持ちが素直に嬉しかった。だが何よりも……カノンが自分が怪我をしたと聞いて、こうして取るものも取りあわず血相を変えて来てくれたこと……これが何より嬉しくて、胸が詰まりそうになった。自分のことを心配して、我を忘れてここに駆けつけてくれた……それは即ち、カノンも自分を少なからず特別に思ってくれている何よりの証拠であるのだから。

「カノン……」

ありがとう、と言おうとして顔を上げ、ミロはぎょっと目を見開いた。

「カ、カノンっ……」

そして目の前の光景に、ミロは慌てた。

カノンが……自分を睨みつけたままその蒼い瞳からボロボロと涙を溢していたのである。

「カノン……」

あまりに予想外の出来事に、ミロはおろおろとしながらカノンの名前を呼び、カノンの肩に触れようと手を伸ばした。

「触んなよっ!」

だがカノンは怒声と共にミロの手を叩き返した。瞳からは涙がとめどなく溢れ落ちてきている。

「カノン……」

「バ……ッカ、野郎っ……オレが、オレがどんなに心配したと思っ……」

しゃくりあげるのを堪えようとして、カノンは右手で自分の口元を押さえ込んだ。だが涙は止まらず溢れ出てくる感情も止めることが出来ず、肩を震わせてそのままヘナヘナとその場に崩れ落ちた。

「…………」

初めて見るカノンの涙に、ミロは凍りついたようにその場に立ち尽くした。この意地っ張りで素直じゃないカノンが、溢れる感情のままに涙している。その涙は他の誰でもない、自分のため……自分ただ1人の為だけに流している涙である。

「お前が……大怪我したって聞いて、オレどうしようかって……もし、もしお前に何かあったらって……」

色んな感情が入り乱れて、全く言葉にならなかった。シュラからミロが大怪我をしたと聞いたとき、身の竦む思いだった。頭の中が真っ白になって、胸が締めつけられた。自分の気持ちを伝えてもいないうちに、もし、もしミロの身に万が一のことがあったらと、本当の本当に心の底から恐怖を覚えた。ここに来るまでの間だって気が気じゃなくて、本当に心臓が破裂してしまうんじゃないかと思うくらい、バクバクしていたのだ。

ミロはその場に蹲り、顔を隠して泣き続けるカノンの前にそっとしゃがみ込んだ。カノンは顔を上げようともしなかったが、ミロはもう一度優しくカノンの名を呼び、震える肩にそっと手を置いた。

「ごめん、ごめんね……」

ミロが悪いわけではない。それでもミロはカノンに詫びた。

「ごめんね、カノン……試すような真似して、本当に……ゴメン……」

ミロはそのままそっとカノンの体を抱き締め、カノンの濡れた髪に頬を擦り寄せた。カノンは抱き寄せられたミロの胸に、そっと自分の顔を埋める。

「シュラ達は……オレを心配してくれたんだ。オレが、ずっと悩んでたから……」

自分が一言、気持ちを口にすれば済むことだとミロにはわかっていた。それでも言えなかった。自信が持てなかったのだ、カノンの自分に対する気持ちに……。気持ちを口にすることは容易かった。それでも、言ってしまったら……友達としての関係すらも壊れてしまいそうな危惧を覚えたのだ。だから言えなかった、それが怖くて……。

「でも……こんなこと言ったら怒られるかも知れないけど、オレ今スッゲー嬉しい。カノンが、こうしてオレの為に……オレを心配して来てくれたことが……」

ピクリ、と腕の中のカノンが身じろいだ。

「オレの片思いだって思ってたから言えなかった……怖くて……。みっともないけど、情けないけど、オレ本当に怖かったんだ。言ったらカノンが……オレから離れてっちゃうんじゃないかって……。そんなことになるくらいなら、今のままでいいって。でもそれ、間違いだった。ちゃんと言わなきゃいけなかったんだ。逃げてちゃいけなかった。だから、言うよ……」

今なら言える……いや、今言わなければならないことだった。

「オレ、カノンのこと好きだよ。スッゲー好き、誰よりも好きだ……」

カノンの耳元でしっかりとそう囁いて、ミロはカノンを抱き締める手に力を込めた。

カノンはミロの腕の中で、ミロの胸に顔を埋めたまま微動だにしなかった。ミロの言葉が聞こえているはずなのに、顔も上げず、何も答えず……。

だがミロは待った。カノンを腕の中に収めたまま、1秒が1時間にも思えるような重苦しく長い沈黙の時間の中で、カノンが何かを答えてくれるのをただひたすらに待っていた。

「大バカ……野郎……」

一体どれくらいの時間が経ったのか……。やっとミロの耳に、蚊の鳴くような小さなカノンの声が届いた。

「カノン?」

そしてやっとカノンが、ミロの方に顔を上げた。睫毛はまだ濡れそぼっていたが、瞳からはもう涙は溢れ出てはいなかった。

「遅えんだよ、言うのが! いつまでも待たせやがって……」

カノンの言葉に、ミロが大きく目を瞠った。

「カノ……」

このバカ!鈍感!どあほう!クソガキ! てめーがさっさと気付かねえから、こんなことになるんじゃねぇか!」

はっきり言って、カノンが言っていることは理不尽この上なかった。単なる八つ当たりである。だが今のミロには、そんなことを考えている余裕などこれっぽっちもなかった。

「……待ってた……?」

「たりめーじゃねーか! 何で気付かないんだよっ!」

カノンは怒鳴ったが、それは無理難題と言うものである。

「あはっ、あはははっ……何だよ、オレ、さんざん悩んでバカみてーじゃん……」

今まで自分が思い悩んでいたこと全てが可笑しくなって、ミロは思わず声を立てて笑った。

「そうだよっ! お前がバカ……」

更にミロに八つ当たりをかまそうとしたカノンは、再びその体をきつく抱き締められた。

「バカで悪かったな! でもカノンだって意地が悪いよ……ちゃんと言ってくれなきゃ……わかんないもん」

「言えるかよ、バカ!」

バカを連発しながら、カノンはそろそろとミロの背に手を回した。

「……意地っ張り……」

この期に及んでもまだ変な意地を張り続けるカノンに、ミロは苦笑を漏らした。

「悪かったな! 生まれつきだよ!!」

負けじとカノンが言い返すと、ミロはカノンを抱く手の力を少し緩めた。そして密着させていた体を離すと、カノンのエーゲ海の色のような蒼い瞳を愛おしげに見つめながら、顎をつかんでその顔を僅かに上向かせ、薄く開いた唇に自分の唇を重ね合わせた。