「遠いところを、しかも突然に呼び立ててしまってごめんなさいね、アイオロス、サガ」 沙織はアイオロスとサガの目の前に腰かけながら、突然聖域から二人を日本の城戸邸へ呼び寄せたことを詫びた。 「いえ、お気になさらないでください、女神。ギリシャと日本など、我々にとってはほんの一秒足らずの距離なのですから」 アイオロスは冗談めかしてそう応じながら、沙織のそれ以上の気遣いをやんわり制した。 実際、光速移動が出来、テレポートも使える黄金聖闘士にとっては、物理的な距離などはないに等しい。つまり地球のどこにいようが、すぐ隣にいるも同然なのである。遠路はるばる……などという気遣いは、無用のものであった。 「そう言ってもらえると助かります。ところで、早速なのですが……」 前置きを早々に切り上げ、沙織はアイオロスをサガを日本へ呼んだその用件を切り出した。 「今日貴方達を呼んだのは、グラード財団関係の仕事のことでなの」 「財団関係の?」 「ええ」 アイオロスとサガは現在、聖域の教皇補佐という要職にあるが、それとは別に女神である沙織が総帥を務めるグラード財団の仕事も手伝っている。 もちろんそれはアイオロスとサガだけではなく、言い換えれば聖闘士は全員、聖闘士であると同時にグラード財団の職員として沙織の手足となって働いているわけだが、やはり最高位たる黄金聖闘士は重要な仕事を任されることが多く、アイオロスとサガはその中でも特に重要な案件に携わることが多かった。 今日こうして自分たちが呼ばれたのは、つまりはそういうことなのだろうと、アイオロスもサガも即座に察しがついたが、同時に二人は沙織の様子がいつもに比べて少しおかしいことに気がついた。 「いかがされましたか? 女神」 「え?」 「いえ、いつになく沈んだお顔をなさっているもので、些か気になりまして。どこか体の具合でも?」 「いいえ、そうではないの。ごめんなさい、心配をさせてしまって」 サガの問いに首を左右に振ると、沙織は小さな微笑を浮べて見せた。 だが沙織はその笑顔をすぐに消すと、表情を引き締め直し、改めて口を開いた。 「実はこれから、ジュリアン・ソロが来るのです」 「えっ!?」 「ジュリアン・ソロが……ですか?」 確認を求めてサガがその名を反芻すると、沙織は短く頷いた。 ギリシャの海商王たるソロ家の現在の当主ジュリアン・ソロは、かつて海皇・ポセイドンの憑坐となっていた少年だった。 地上の覇権を欲したポセイドンが、超大な水害を地上にもたらせたのはまだほんの数ヶ月前の話だ。そしてその地上を守ろうとする沙織や星矢達青銅聖闘士と、ポセイドンと海闘士達が激しい戦いを繰り広げたことはまだ記憶に新しいことである。 当時、現世の住人ではなかったアイオロスとサガも、もちろんその事実については熟知している。その戦いが仕組まれたものであったことも、裏で糸を引いていたのがサガの双子の弟・カノンであったことも、それら全てが13年前の事件に起因していたことも……。 「先の海界との聖戦の折、地上は甚大な水害を受けました。彼が今、その水害の復興と慰問のために世界中を渡り歩いていることは貴方達も知っていますね?」 「はい」 「もちろん彼には、ポセイドンの依代となっていた時の記憶はありませんが、地上を襲った水害は紛れもなく彼の手によって引き起こされたもの……。記憶はなくとも、彼の裡には透明な罪悪感が未だ大きく残っています。その罪悪感につき動かされ、彼は身を粉にして世界中を慰問して回っているのです。無論それもソロ家の莫大な財力があったればこそですが、その財力を持ってしてもやはり限界というものはあります」 「つまりジュリアン・ソロは女神に……いえ、グラード財団に災害復興の援助を求めに来るというわけですね?」 アイオロスの簡潔かつ的確な問いに、今度は沙織が黙って頷いた。 「ソロ家の財政が逼迫しているというわけではないけれど、援助は多ければ多いほどいいというのが率直なところでしょう。それに復興支援は、金銭的な問題のみをクリアすればいいというものでもありません。恐らくジュリアンも、グラード財団に単純な融資だけを求めているわけではないと思います」 沙織の言葉に、アイオロスもサガも全面的に同意した。 「具体的な事はこれからジュリアンと話あってみないとわかりませんが、グラード財団としては復興への援助協力は惜しまぬつもりです。元々ソロ家とグラード財団は先々代の頃からいわゆるビジネス・パートナーの間柄にありますし、またそれとは別に、私にはこの地上を守護するものとしての責務がありますから」 アイオロスとサガは、沙織の言葉に黙って頷いた。沙織はそんな二人に微笑を向けた後、すぐに言葉を継いだ。 「貴方達二人をここへ呼んだのは他でもありません。貴方達にもその話し合いの席に同席してもらいたいからです」 だが沙織のその言葉に、アイオロスとサガは同時に無音で息を飲んだ。 「私達も……ですか?」 アイオロスとサガが、沙織の依頼により財団関連業務の大事な会談や商談に同席したことは無論幾度もある。交渉や折衝に入ることもしばしばだ。 だが今回は相手が相手なだけに、些か事情が異なってこよう。沙織に向かってそう聞き返しながら、アイオロスはさり気なく隣に座るサガの様子を伺った。 「ええ。貴方達も知っての通り、ソロ家の本邸はギリシャにあります。ジュリアンが世界中を飛び回ってるとはいえ、活動拠点はやはりギリシャですから、こちらもギリシャに窓口を置いておいた方が何かと都合がいいのです。というよりは、以後の実務レベルは主にそちらにお願いすることが多くなると思うの。その方が先方としてもこちらとしても、効率的かつ合理的ですから」 それは確かに沙織の言う通りで、本来であれば拒否ないし難色を示す理由も道理も二人にはない。 だができればアイオロスは、ジュリアン・ソロと直接の関わりあいは持ちたくはなかった。いや、厳密に言えばそれはアイオロス自身がではなく、サガに彼との関わりあいを持たせたくないのである。 弟であるカノンが彼らに対して犯した罪は測り知れないほどに大きく、サガがそれを我が罪と同様に心に抱え込んでいることをアイオロスは知っている。カノンが彼らに対して抱いているのと同じくらいの罪悪感を、サガもまた彼らに対して抱いているのだ。 いくらジュリアン・ソロ自体に当時の記憶が無くなっているとは言っても、サガが彼らと直接の面識を得たら、心に痛みを覚えないはずはないだろう。 個人的な感情であることは百も承知であったが、やはりサガにつらい思いをさせたくはない。これはアイオロスの、嘘偽りの無い正直な気持ちであった。 「サガにとって酷なお願いになることは、私も承知しております。ただ事情が事情なだけに、多額の金銭が動くことになりますし、他にも色々と複雑な問題が絡んでもくるでしょう。そうなると貴方達以外の者の手には負えない思うの。だからと言って、まさか教皇であるシオンに頼むわけにもいかないし……」 返答に窮しているアイオロスの内心を的確に察し??というよりは、恐らく沙織自身も最初からそのことはわかっていたのだろう。 沙織の表情がいつになく暗く、用件を言い出しづらそうにしていたのはそのためだったのかと、漸くアイオロスも沙織の様子がおかしかった理由に納得がいったのだった。 サガの気持ちを察して尚、それでもサガとアイオロスにしかこの仕事は任せられない。沙織としても苦汁の決断をせざるを得なかったのだろう。 「女神、私のことで余計にお気を煩らわせてしまいまして申し訳ございません」 だがアイオロスが尚も返答できずに黙っていると、サガが表面上はいつもと変わらぬ様子で、沙織に向かって頭を下げた。 「ですが私の事はどうぞお気になさいませんようお願いいたします。むしろこの仕事をお任せいただけるのであれば、私は喜んで勤めさせていただきます」 カノンが彼らに対して犯した罪は、あまりにも大きい。この程度のことではとても贖えはしないが、それでも何も出来ないよりは遥かにマシだった。 元よりサガは少しでも彼らの力になれるのなら、どんなことでもするつもりでいた。 だが自ら彼らに対して接触を持つわけにもいかず、立場上あまり私的な感情で動くことも出来ず、今までは何をすることも出来なかったのだが、漸くその機会を沙織が与えてくれたのだ。むしろサガにとっては??確かに複雑な心境でもあるが??これは願ってもないことだった。断る理由など、どこにもありはしないのだ。 隣のアイオロスが、微かに吐息を漏らしたのがわかる。サガの言葉に安堵しているのだろう。サガは横目で一瞬だけアイオロスを窺い見て、微笑を浮べた。 「ありがとう、サガ。アイオロス、そういうことで構わないかしら?」 「ええ、私の方も異存はございません」 元よりアイオロス個人としては、何ら彼らに対し思うところはないのである。 アイオロスはただひたすらにサガの心情を慮っていたが、そのサガ自身が快諾したともなればアイオロスに否やがあるはずもなかった。 「さっきも言ったけれど、ジュリアン自身にはポセイドンが降臨していたときの記憶は一切ありません。ただ常に彼の傍らにいて彼の補佐をしているソレントは、海闘士七海将軍の一人。言うまでもなく承知のことと思いますが、彼には当時からの記憶は残っています。海界とは既に和平が成立していますし、彼もこちらの事情は承知してくれていますから余計な心配はまったく要りませんが、ただサガの顔を見て一瞬びっくりはすると思うの。でも気にしないであげてくださいね」 言いながら沙織は、柔らかな笑みを二人へと向けた。 アイオロスとサガは思わず顔を見合わせ小さく笑いあうと、再び沙織の方へ向き直り、「はい」と同時に返答をしたのだった。 ジュリアンとソレントが城戸邸に来訪したのは、それからちょうど一時間が過ぎたころであった。 「ミス沙織、この度は突然の訪問で大変失礼いたしました。貴重なお時間を割いていただき、感謝いたします」 執事の案内で応接間に通されたジュリアンは、沙織に向かって上品な物腰で礼儀正しく挨拶をして右手を差し出した。 「よくいらしてくれましたわ、ジュリアン」 差し出された右手を握り返しながら、応じて沙織が微笑んだ。そしてその笑顔をジュリアンのすぐ後方で彼に付き従っているソレントに転じると、ソレントも目顔で挨拶をして頭を下げた。 「挨拶はここまでにしてどうぞこちらへ」 沙織がソファの方へ二人を促すと、二人の視線が同時に沙織が指し示した方へと向けられる。直後、ソレントの表情が明らかなる驚きの色を乗せて、はっきりと動いた。 三人の視線の先にはアイオロスとサガが立っており、ソレントの反応は言うまでもなくサガの顔を見てのものだった。 二人は沙織に言われた通り、それを気にせずに受け流すと、ジュリアン達に向かって深く一礼をした。 「彼らはグラード財団のギリシャ支部を任せている者達で、アイオロスとサガと申します。ギリシャに直接的な窓口を置いておいた方が、双方にとって何かと都合がいいでしょう。以後の実務レベルのことは彼らに一任するつもりでおりますので、今日の話し合いに同席させていただきたく思います」 ソレントの反応は、沙織の予想通りのものであった。 ソレントはサガとは面識はなかったが、カノンに双子の兄がいるという事実は承知しているはずである。サガの名を出せばそれで事情は通じるはずで、案の定、ソレントの表情からは急速に驚きの色が消えていった。そうなるであろうことも、沙織の予想の範囲内のものであった。 だが、沙織の予想と全く違った反応を見せたのは、ジュリアンであった。 ジュリアンは無言のまま、ソレントとはまた異なる驚きの表情――というよりは呆然とした様子で――二人の方を、いや、サガの顔を凝視していたのだ。 沙織の内心に、不安の影が差した。 ジュリアンにはポセイドンが降臨していたときの記憶は、一切残っていないはずだ。そのことに間違いない。聖戦後、初めてジュリアンと顔を合わせた時点で沙織はその確証を得ていた。 ジュリアンは沙織を『城戸沙織』としてしか認識しておらず、彼の沙織に対する態度は、以前の鼻持ちならない部分はすっかりなくなってはいたが、聖戦以前と何ら変わるところはなかった。 それは即ち、ジュリアンがポセイドンであった当時の記憶を完全に失っていることを裏付ける証拠の一つであった。 記憶の残っているソレントが、サガを見て少なからず動じる気配を見せたのは当たり前のことだ。だがジュリアンのこの反応は、完全に沙織の予想からは外れていた。いや、思ってもみないことだった。 何故ならジュリアンにとってサガは、今日ここで初めて会う見ず知らずの人間のはずなのだ。初対面の相手に、こんな反応を示すわけがないのである。 まさか記憶が残っているのでは? ……と、嫌な予感が沙織のみならずサガとアイオロス、そしてソレントの頭をほぼ同時に過ったが、それにしてはジュリアンの様子はおかしかった。 サガの……正確に言えばカノンの顔を知っているソレントが示したリアクションと、ジュリアンの示したリアクションは、明らかに違っていたからだ。 もし本当にジュリアンの中にカノンの記憶がほんの一欠片でも残っているならば、少なからずジュリアンもソレントと同じような反応を示すはずである。 「………どうかしまして? ジュリアン?」 沙織はサガの顔を凝視したまま、半ば硬直しているジュリアンに、努めて平静に声をかけた。 その声にジュリアンはハッとしたように表情を動かすと、 「……あ、いえ……。確かにギリシャの方に直接の窓口を立てていただければ、私共も助かります。ミス沙織、細やかなお気遣いに重ねてお礼を申し上げます」 そう応じながら、ぎこちない笑顔を作って沙織に向けた。 「ただ……すみません、突然このようなことをお聞きするのは失礼ですが、サガ……さん、貴方とは初対面のような気がしないのですが、以前にどこかでお会いしたことはございませんか?」 だがジュリアンはすぐにその笑顔を消すと、再びサガに向き直り、やや遠慮がちにサガに問いかけた。 ジュリアン以外の四人の間に、見えない緊張が走る。 「いいえ、ジュリアン様」 数秒後、その張りつめた空気をサガの穏やかな声が破った。 「私とジュリアン様は、過去に面識を得たことはございません。お会いしたのは本日が初めてでございます」 サガが申し訳なさそうに微笑みながらジュリアンに言ったが、ジュリアンは心持ち眉を顰め、自らの記憶を探るかのようにたっぷり30秒ほども黙り込んだ後、 「ですが私は、貴方と会ったことがあるような気がするのです。どこかで……」 再びじっとサガの顔を凝視しながら、そう言った。だがその『どこか』が、どうしてもジュリアンには思い出せなかった。 間違いなく、自分はこの人を知っている。根拠もなく確信に近いものをジュリアンは持っていたが、どんなに思い返してみても具体的なことは何も思い出せないのだ。 それどころか考えれば考えるほど、頭の中にかかる靄はどんどんと濃くなる一方だった。 サガの顔を見ながら何かを必死に思い出そうとしているジュリアンを、ジュリアン以外の四人は表面上は何食わぬ顔で、内心では緊張に息を飲みながら見守っていた。 「きっと人違いでございましょう。もしかしたらジュリアン様は、過去に私と感じの似たような人間にお会いになったことがあるのかも知れません」 真相を知るサガにとっては苦し紛れに近い言い訳であったが、こう取り繕うことしか出来なかったのである。 沙織とソレントの心配そうな視線がサガに向けられたが、サガは平静を保ち、穏やかな微笑みを崩すことなく澱みのない口調できっぱりと言った。 直後、ジュリアンの顔に今度ははっきりとした落胆の色が浮かび上がった。 「そう……ですか。そう、ですよね……。すみませんでした。どうしてかわからないのですが、どうしても貴方とは初対面のような気がしなかったものですから。でもどこでお会いしたのか、私の方にもまったく記憶にありません。ということは、やはり私の思い違いか、貴方のおっしゃる通り人違いなのでしょう。不躾にジロジロ見てしまって、失礼いたしました」 「いいえ、そういうことはよくあることです。お気になさらないでください」 サガは嘘を言っているわけではない。それどころか正真正銘の事実を言っただけだが、それでも自分に謝るジュリアンを見て、罪悪感に似たものを感じずにはおれなかった。 ジュリアンはサガのことは知らない。だがサガの分身ともいうべき、カノンのことはかつてよく知っていたのだ。ジュリアンの思い違い、人違いと言い切ってしまうことに抵抗を覚えるのは、無理もないことだっただろう。 とは言え、他に手立てが無い以上はこれで押しきってしまうしかなく、サガは心の中でだけそっとジュリアンに嘘をつくことを詫びていた。 完全に納得したかどうか定かではなかったが、ジュリアンがそれ以上深く追及するような真似はせずに引き下がったのを見て、沙織とソレントが同時にホッとしたように表情を緩めたのがサガにはわかった。 真横のアイオロスの表情は見えないが、恐らくはアイオロスも沙織達と同じような表情を浮かべているのであろう。 そしてサガも内心で、大きく安堵の吐息をついたのだった。 「さぁ、こんなところで立ち話は何でしょう。二人とも、お掛けになって」 緊張の糸がほぐれたところで、沙織は再び二人に座を促した。 ジュリアンとソレントはその勧めに従って、ソファに腰を下ろした。続いて沙織が腰掛けたのを確認してから、アイオロスとサガもソファに腰を下ろす。 その時、計ったようなタイミングで応接室にコーヒーが運ばれてきた。5つのコーヒーの香気が立ち上り、5人の人間の間を緩やかにたゆたい始める。 儀礼的に切りだされた当たり障りのない会話は、コーヒーを運んできたメイドが退室をすると同時に終わり、話はいよいよ本題へと切り替わったのだった。 |
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