「まいったな……」

二時間余に及んだジュリアンとの会談を終え、サガと共に別室に引き上げてきたアイオロスは、ネクタイを緩めながらその大きな体躯をソファに沈め、大きく息を吐きだした。
襟の詰まった法衣も苦手だが、スーツにネクタイはもっと苦手だった。
ネクタイを緩め、僅かながらの解放感を得たアイオロスだったが、その表情は全く晴れることはなかった。
反対にかっちりとした服装に慣れているサガは、ネクタイにスーツも全く苦にはならない。ネクタイも緩めず、上着すら脱ぐこともなく平然としていたが、その表情はアイオロス同様に曇っていた。
理由は言うまでもなく、ジュリアン・ソロのことである。

「まさかお前の顔を見て、あんな反応を示すとは思わなかったよ」

「ああ」

アイオロスの言葉に短く頷きながら、立ったままだったサガは静かにアイオロスの隣に腰を下ろした。

「女神としても、予想外のことだったろう。平静を装っておられたが、少なからずの動揺は見て取れたからな」

アイオロスの言葉に、サガは今度は無言のまま頷いた。
沙織が動ずるのも無理はない。沙織は、ジュリアンにポセイドンだった頃の記憶は一切残っていないものと信じていた。
実際それはその通りなのだが、だからこそサガの顔を見た時のジュリアンの反応に驚かずにはおれなかったのだろう。
あの場はサガの機転もあり、ジュリアンの思い違いということでひとまずは落ち着いたが、とはいえジュリアン自身は完全にそれで納得したというわけではないようだった。
実際、会談の最中もジュリアンはちょくちょくサガの顔を窺い見ては、何かを思い出そうとしているかのような素振りを見せていたし、サガのことが気になって仕方がない様子だった。
サガ自身もそのことには気付いていたし、当然アイオロスも沙織も、そして恐らくはジュリアンに同行してきたソレントも気付いていただろう。

「まさかこんなことになるとは女神も思っておられなかったろうが……」

こうなるとわかっていたら、沙織とてサガとジュリアンとを直接対面させるようなことはしなかっただろう。
サガとジュリアンの間に遺恨があるわけではないが、サガの見目形そのものがジュリアンを刺激し、動揺させてしまう材料になりうるのだから。
その危険性がないと判断したからこそ、沙織はサガとアイオロスを今日の会見に同席させたのだ。まさかこんなことになるとは、夢にも思わずに……。

「だが考えてみれば……」

数秒ほど考え込むように沈黙した後、サガはやや重々しく口を開いた。

「ポセイドンが憑依していた時の記憶は消えているとはいっても、その間の出来事の全ては紛れもなく彼自身が体験してきたことだ。しかもポセイドンの覚醒は完全なものではなかったというし、だとすれば彼の目が見て、耳が聞いてきたことが、彼の脳裏の奥底に何かしらの残像を残していたとしても、あながち不思議なことではないのかも知れん」

「確かにそれはそうかも知れんが……」

その可能性が一番強いというよりも、それ以外に考えられないだろうとアイオロスも思う。
だがジュリアンは沙織に対しては何ら不審な反応は見せなかったというし、それはポセイドンが憑依していた当時から傍らに仕えていたソレントに対しても同様だったという話だ。
それが何故サガ……いやサガを通したカノンの姿にだけ、あんなに過敏に反応したのだろうか?。
単純に考えれば、カノンがそれだけジュリアンの中に強烈な何かを残していたということなのだろう。全てを忘れ去ってしまったはずのジュリアンの中に、今なお朧げにでもその姿を止めてしまうほどに……。
それほどまでに二人を強く結びつけていたもの、いや、ジュリアンがカノンに対して強く抱いていたのであろうものは何なのか????そこまで考えて、アイオロスは思考を止めた。いや、止めたというよりは、それ以上考えたくなかったと言ったほうが正解だろう。
導きだされる答えなど、自ずと限られてくるからだ。その答えに辿り着くことを、それをはっきり認識してしまうことを、アイオロスの思考回路は無意識のうちに回避したのだ。

「ただどっちにしろ、ちょっとマズイよな」

困惑を顕にして、アイオロスは眉間を寄せた。余計な詮索は止めたアイオロスだったが、だからと言って現状から目を背けるわけにはいかなかった。
記憶が完全に消えているのなら何ら問題はない。だがほんの僅かにでも、例えそれが輪郭すらはっきりしないごくごく微かなレベルのものであったとしても、サガの言うように彼の裡に何かしらのカノンへの想い、或いは執着のようなものが存在しているのであれば、そのほんの微量の記憶が全ての記憶を呼び起こしてしまうこともありうるだろう。その可能性と危険性をアイオロスは否定することは出来ず、不安と危惧とを抱かずにはおれなかった。
そしてそれは、サガも同様であった。と言うよりも、サガにとってはアイオロスより遥かに深刻な問題である。

「予想外の事態とはいえ、今更こちらとしても引っ込みはつかん。むしろいきなり担当者を変えるような真似をしたら、却って余計な不審を煽るだけだしな。第一、私達以外に適任者もおらんし……」

サガは黙ってアイオロスの言葉に頷いた。
それより以前の問題として、今アイオロスが口にしたように、担当者を変えたくても他に適任者がいないのである。
でなければ事の最初から、アイオロスとサガがこの仕事を沙織から任されるはずがないのだ。
黄金聖闘士だから任せられるという類いのことではないし、現存する黄金聖闘士全員の適性を考慮しても、やはりアイオロスとサガにしかこの仕事はできないだろう。
唯一、カノンであればこの任に耐えられたであろうが、カノンの場合はそもそも適性云々以前の問題。この任に当てることなど、言語道断である。
ほとぼりが冷めてからなら何とでも理由をつけてグラード財団から他の幹部クラスをギリシャへ派遣してもらい、担当を代えることも出来るだろうが、そのほとぼりが冷めるまでにはやはりある程度の時間は必要になってくる。
早急にどうこうできることではなく、今しばらくはアイオロスとサガとでソロ家との折衝を行っていかねばならない。
ソロ家側が別の窓口を立ててくれれば助かるのだが、今現在、先方にもそのつもりはないようだし、こちらからそれを望むのはそもそも筋が違うというものであった。

「今後のソロ家との、特にジュリアン本人との交渉には、なるべく私が出ていくことにしよう。お前は出来る限り、彼の前には姿を見せないようにした方がいい」

あれこれ考えるまでもなく、他に方法はないだろう。
本来であれば内容的に自分よりもサガ向きの仕事であるが、そんなことを言っている場合ではない。

「すまない、アイオロス……」

元はと言えば自分の弟が、更に辿っていけば自分自身が蒔いた種であると言っても過言ではないのだ。
その後始末をアイオロス任せにしてしまうのは甚だ不本意であり、心苦しくもあったが、ここはアイオロスの言葉に甘えるしかなかった。
消極的な対処法ではあるが、結局のところそれが自分たちにとっても、そしてジュリアンにとってもいいだろう。
互いに言葉に出してはそうは言わなかったが、アイオロスとサガの思惑は一致していた。

それきり二人とも黙り込んでしまい、他の会話の糸口を見つけることも出来ずに無言の時を流していると、それを破るかのように部屋のドアがノックされた。

「はい、どうぞ」

応じてアイオロスが入室を促すと、間もなくドアが開いた。そしてそこに姿を現したのはソレントであった。

「失礼します」

礼儀正しく一礼をしてソレントは部屋に入り、ドアを閉めた。アイオロスとサガの間に、今度はごく小さな緊張が走った。

「お寛ぎのところ、お邪魔をして申し訳ありません。今、少しだけお時間をいただいてよろしいでしょうか?」

ソレントはソファに腰掛けたままのアイオロスとサガに、やはり礼儀正しく伺いを立てた。

「もちろん構わないよ。どうぞ」

人好きのする笑顔を浮かべ、アイオロスがソレントに向かいのソファを指し示した。
ソレントはアイオロスに目礼し、その勧めにしたがって二人の正面のソファに腰を下ろした。

「改めてご挨拶をさせていただきます。私は海闘士七海将軍の一人で、南大西洋の柱を守護しておりましたセイレーンのソレントと申します。海将軍としてあなた方の前に立つことは今後もあまりないと思いますが、お見知りおきいただければ幸いです」

「ああ、いや、こちらこそ」

頭を下げるソレントに向かって、アイオロスとサガもつられるようにして頭を下げた。
そんな些か奇妙な挨拶を交わした後、再びソレントと向き直ると、今度はサガが表情を引き締めて口を開いた。

「ソレント君……弟カノンが君達海闘士に対して犯した罪は、死して贖っても贖いきれぬほどに大きなものだ。今更謝って済むことではないし、どんなに謝っても謝りきれるものでもない。そのことは私も十分に承知しているし、今更と虫が良すぎると思われるかも知れないが、弟の罪を私にも詫びさせて欲しい。本当に、すまなかった……」

そうしてサガは今度は、深々とソレントに向かって頭を下げた。
どんなに謝罪をしても、結局それは自分たちの自己満足にしかならないことは承知している。サガが今言ったように、カノンがポセイドンを利用してソレント達海闘士を謀り、結果彼らの殆どを死に至らしめた罪は、サガ自身が犯した罪と同様に決して消えるものではない。
言葉での謝罪が何の意味もなさないことも、サガは知っている。だがそれでもサガはソレントに、そして恐らくは今後も面識を得ることはないであろう海闘士達に、彼を通して頭を下げずにはおれなかった。そしてそんなサガを、アイオロスも黙って見守っていることしか出来なかった。
自分に向かってこれ以上ない程に深く頭を下げるサガに、ソレントは驚いたように目を瞠ったが、すぐに年齢に似合わぬ穏やかで落ち着いた微笑みを浮かべて、首を左右に振った。

「頭を上げてください、サガ様。確かに我々は彼に利用され、結果多くの仲間が傷つき、死に至りもしました。ジュリアン様も、お心に大きな傷を受けられた。私も当時は事の元凶であった彼を憎みもしましたが、でもそれももう済んだことです。いつまでも彼を、憎んだり恨んだりしていても何も始まりはしません。ですから、恨みつらみは忘れました。それに仲間が生き返ることが出来たのは、彼のお陰でもあります。彼が改心し、女神にお仕えしているからこそ、我々海闘士も女神のご加護を受けることが出来たのですから……」

「ソレント君……」

「私以外の海将軍も、私と意見を等しくしております。ですからこの件につきましては、どうかサガ様、貴方もお気に病まれぬようお願いいたします」

「ありがとう……」

ソレントの言葉は、決して気休めなどではなく、正真正銘彼の本心であった。
ソレントの寛大な気持ちと思いやりは、サガにも十二分に伝わった。
彼らに対する罪悪感は消えることはないが、それでも許しを得られた安堵感のようなものがサガの裡に生まれ、それが入り交じって彼の胸を詰まらせた。
精一杯の礼の言葉をサガが絞り出すと、ソレントは好意的な笑みで頷き、そして言葉を継いだ。

「それから私のことはどうぞソレントとお呼びください」

「わかった。それでは私のこともサガと呼んでくれ」

サガとソレントは顔を見合わせ、同時に小さく吹きだした。
残留していた緊張感が一気に霧散し、アイオロスは安心するとともに二人につられるようにして笑みを溢した。

「ところでそのシードラゴ……あ、いえ、カノンはお元気ですか?」

「ああ、お陰様で元気にしているよ」

「そうですか」

そう短く答えながら、ソレントは再びじっとサガの顔を見つめた。

「それにしても双子だとは聞いていましたが、本当にそっくりそのまま瓜二つでいらっしゃるのですね。先ほどはさすがにびっくりいたしました。私は少なからずカノンの事を知ってはおりますが、それでももしあの時貴方のことをカノン本人だと言われたら、何の疑いもなく信じてしまっていたでしょう」

双子とは言っても、一卵性か二卵性かで大きく違ってくる。
目の前のサガとそしてカノンは、一卵性双生児であることは疑いようがなかったが、一卵性であっても見た目にはっきりとした差異が出ていることも珍しくはない。
だがこの双子は、本当に何から何までそっくりそのまま瓜二つで、一方のカノンをよく知るソレントですら見分けることは困難であった。

「見た目だけは確かにね。でも慣れてくるとすぐにわかるよ。サガとカノンは微妙に小宇宙が違うんだ。それに性格もね」

感心と興味とが入り交じったような視線でサガを見ているソレントに、アイオロスが笑いながら言った。

「なるほど」

確かにそうかも知れない、と、サガの小宇宙を感じ取りながらソレントはアイオロスの言葉に同意した。
少なくともソレントが知っているカノンの小宇宙は、こんな風に穏やかで暖かくはなかった。
カノンは触れた者を傷つけずにはおれない両刃の剣のような、鋭くて隙のない小宇宙の持ち主だったのだ。
今現在のカノンのことはソレントもよくは知らないが、それでもサガの方が明らかに物腰は柔らかそうである。

「ところで、ジュリアン様は?」

浮べていた笑顔を不意に収め、やや遠慮がちにソレントに尋ねたのはアイオロスだった。
ソレントの顔からも、笑顔が消えた。

「今、沙織お嬢様……女神とお話になられてます。とは言っても込み入った話ではないようでしたので、恐らく女神はそれを口実に私に座を外す機会を与えてくださったのだと思います」

断定するような言い方は避けたものの、ソレントは沙織の意図を正確に察していた。
先のジュリアンの様子を見てしまっては、沙織とてアイオロス達と同様の危惧を抱かずにはおれないだろう。
事情を承知している者同士で今後の対策を講じる必要があると判断した為か、沙織はごく自然にソレントが一時的に別行動を取れるように取り計らったのだ。
そしてこの時点でアイオロスとサガも、沙織の意を諒解した。

「そうか、ならば率直に聞こう。ソレント、君はさっきのジュリアン様の反応をどう思った?」

元々回りくどいことが嫌いなアイオロスは、今し方までの遠慮がちな態度から一転、宣言通り率直に、単刀直入にソレントにそれを尋ねた。

「驚きました、本当に。率直すぎて素っ気無く思われるかも知れませんが、そうとしか答えられないくらい、私にとっては大きすぎる驚きでした。それは女神も、同様でおられたと思います」

常にジュリアンの傍らで、彼に付き従ってきたソレントには、あの時の、サガの顔を見た瞬間のジュリアンの動揺がどれほどのものだったのか、誰よりもわかっていた。
それだけに、ソレントが受けた衝撃も大きかったのだ。

「女神からお聞き及びと思いますが、ポセイドン様の魂がジュリアン様の中からお出になり、女神によって再び封印された時点で、ジュリアン様はポセイドン様が降臨されていた時の記憶を全て失っています。聖戦後、ジュリアン様がポセイドン様であったことを知る者、その時分に相対していた者、つまり私や女神と会った時にも、あのような反応を示されたことはありませんでした。完全にジュリアン・ソロ様に戻られていたのですから、当然です。ジュリアン様にとって私は初めて会う人間であり、女神はグラード財団総帥の城戸沙織様なのですから。そしてそれは、我々にとって望むべき最良の結果でもあったのです」

アイオロスとサガはソレントの言葉に相槌を打つようにして頷き、ソレントが更に言葉を継ぐのを黙って待った。

「正確にはその後一度だけ、冥界で戦っていた聖闘士達に手を貸すために、ポセイドン様の魂がご自分の意志で目覚め、ジュリアン様の中に一時的に宿られたことがありました。ですがそれも僅か数分の出来事。ポセイドン様の魂はすぐに女神の壷に戻り、再び深い眠りにつかれています。そしてこの数分間の出来事も、ジュリアン様は記憶しておられません」

それはサガ達黄金聖闘士が、嘆きの壁を自らの命と引き換えに粉砕した後の出来事であったが、無論その事実はサガ達も知るところであった。
エリシオンで苦闘する青銅聖闘士達の元に、ポセイドンが黄金聖衣を送り込み、一時的にではあるが彼らを助けた。封印をなされた状態で、現世から遠く離れたエリシオンまで黄金聖衣を送り込めたのは、ポセイドンが神であったからこそできたことである。

「そのジュリアン様がサガ、貴方の……いえ、正確に言えば貴方を通してカノンの姿にだけは敏感に反応した。ジュリアン様の記憶は間違いなく消えているはずなのに、貴方に対してだけは明らかに知っている素振りを見せた。重ねていいますが、今までそんなことは一度たりともなかった。驚くなというほうが無理な話です」

そう言ってソレントはサガに力のない笑顔を向けたが、そこにはやや自嘲めいた色が見え隠れしていた。
そしてそれは同時に、まるでソレントが自分自身の油断と不覚を責めているかのようにも見え、そんなソレントの姿がアイオロスにもサガにも痛々しく見えた。

「今もちょうど話していたところだったんだが、ポセイドン……様の魂が憑依していたとは言っても、先の聖戦はジュリアン様の肉体が体感されたことだ。記憶の最も深い部分に、何かが残っていてもおかしくはない……とね」

ソレントの心情を慮り、些か取ってつけたようにではあったが、アイオロスはポセイドンに「様」と敬称をつけて呼んだ。

「はい、確かにそれは貴方達のおっしゃる通りだと私も思います。というよりも、それ以外にありえないでしょう」

ぎこちない言い回しではあったがソレントはアイオロスのその配慮に素直に感謝し、小さく目礼をしつつアイオロスの言葉に全面的に同意して頷いた。

「思ってもみないことではありましたが、そう考えれば全てにおいて辻褄が合いますし、合点もいくのです。カノンは我々海闘士の筆頭で、一番ポセイドン様……ジュリアン様の身近にいましたし、一番密接な関係であったといえます。それにジュリアン様にとってカノンは、単なる臣下という存在ではありませんでした。我々とは違う特別な……」

そこまで言いさして、ソレントはハッとしたように口を噤んだ。
不自然に切られたソレントの言葉の先を、アイオロスは漠然と、だがほぼ正確に察していた。
それは先刻アイオロスが、故意に導き出さず終いにしてしまった『答え』に他ならないだろう――と。
ソレントが不自然に言葉を切ってしまったことがそれを如実に言い表してしまう結果となったが、ソレントとてもまだ16歳の少年、未熟な面があるのは致し方のない話だった。
一度出してしまった言葉を引っ込めることはできず、かといって上手く話の道筋を戻すこともできず、ソレントは困惑を顕にしたまま沈黙していることしかできなかった。
だが間もなく、その重苦しい沈黙をサガが破った。

「気にしないでくれ、ソレント。私もあれが人を騙したり利用したりする時にどんな手段を弄していたのか、よくわかっているつもりだから……」

はっきりとカノンからそれを聞いたわけではないが、双子という最も強い絆で結ばれているサガに、それがわからぬはずがない。
かつてのカノンは、自らの野望のためにはどんな卑怯卑劣な手段も厭わない人間だった。必要とあれば自分の身体すら、躊躇うことなく武器として使ってきた。
そのカノンがどうやってジュリアンを誑かして来たのか、答えなど考えなくともわかりきっていることだった。

「……すみません」

「いや、君が謝ることではない。むしろ余計な気を使わせてしまって、悪かったね」

ソレントは改めて自分の未熟さを痛感し、思わずサガに詫びたが、そもそも謝罪される筋のものでもなく、逆に変に気を使わせてしまったことを詫びながら、サガはソレントに笑顔を向けた。
ソレントはホッと小さく吐息すると、気を取り直して話の先を続けた。

「既にご承知のことと思いますが、先の聖戦の折、ジュリアン様の中のポセイドン様が完全に目覚めていたのは、そう長い時間ではありませんでした。ペガサスの一矢を頭部に受けるまで、文字通りポセイドン様はジュリアン様の中で半覚醒の状態だったのです。カノンにとってはその方が都合が良かった。いえ、むしろポセイドン様に完全に覚醒されては困ったのです。カノンが必要だったのは、あくまでポセイドン様の御名と、傀儡としてのジュリアン様だけだったのですから」

アイオロスとサガは、ソレントの言葉に重々しく頷いた。
既にとうの昔に承知していることとは言え、やはり当事者のソレントの口から語られる事実は、やはり重く鋭く二人の胸を突いた。

「もちろんジュリアン様ご自身は、覚醒が不完全なものであることに気付いておられませんでした。カノンがそれに気付かせなかったというのが正解ですが、ご本人は無自覚であったにせよ、あの時ジュリアン様の裡には『ジュリアン・ソロ』としての意識の方が実は大きかったはずです。そして恐らく……」

ソレントはそこで一旦言葉を切り、言いづらそうに唇を噛んだ。
或いは何かが胸に詰まって、言葉が出てこないのかも知れない。アイオロスもサガもそれを察して、ただ黙ってソレントが言葉を継ぐのを待った。

「……ジュリアン様は、カノンのことを愛しておられたのだと思います……。ポセイドン様としてではなく、あの時残っていたジュリアン様の、ジュリアン・ソロ様としての意識の部分が、きっと彼を……」

これはアイオロスにも、そしてサガにもわからないことだろう。同じ場所で同じ時間を、そして思惑は違えど同じ目的を共有してきたソレントだからこそ、そして今なおジュリアンに忠誠を誓い、彼に常に付き従っているソレントにだからこそわかる、確信できることだった。
カノンにとってジュリアンは、ただ己が野望を達成する為に必要な道具に過ぎなかった。それを最大限に利用するために、カノンは自分の身体をも使って彼を意のままに操ろうとした。
ジュリアンとの関係はカノンにとっては単なる駆け引きと代償行為にすぎず、そこに余計な感情など微塵も入っていようはずがなかった。
だがジュリアンの方は違ったのだろう。
当時のジュリアンがカノンに異常なほど執心していたことを、一番良く知っているのもソレントだ。
だがその時のソレントは、言い方は悪いがジュリアンはカノンの手管に翻弄されて、逆上せ上がっているだけだと思っていた。いや、正確に言えばつい先刻まで、そう信じて疑っていなかった。
そうではなかったのだと思い知ったのは、やはり先刻のジュリアンの様子を目の当たりにした時だった。
ポセイドンとして体験したことの全てを忘れ去ったはずのジュリアンが、カノンの面影だけは自らの中に、きっと最も奥深い場所に留めていた。カノンのことだけは、完全に忘れ去ることが出来なかったのだ。
つまりそれはジュリアンがカノンを本気で愛していたのだという、その証に他ならないだろう。
もしかしたらジュリアンは、自分がカノンに利用されているだけなのだと言うことを、彼が自分に対してこれっぽっちの愛情も、忠誠も抱いていないのだということを、薄々気付いていたのかも知れない。
だからこそあんなにもカノンに執着し、彼をギリギリまで傍らから離そうとしなかったのではないだろうか? ソレントはそんな気がしてならなかった。
そして今になってその時のジュリアンの切ない思いを垣間見たような気がして、ソレントは胸の端にチクリとした痛みを覚えた。

「それならば尚更……」

数十秒ほどの沈黙の時が流れただろうか。
鉛のごとく重くのし掛かるそれを押し返すようにして破ったのは、アイオロスだった。

「ジュリアン様の記憶巣を、下手に刺激するような真似はできんな」

ソレントの言う通り、少なからずジュリアンがカノンを愛していたのだとしたら、尚のこと万が一にもジュリアンにカノンのことを思い出させるわけにいかないだろう。
それではせっかく塞がった傷が、また大きく口を開けてしまうことになりかねないからだ。
ジュリアンがカノンのことを思いだせば、ジュリアンはまた再びカノンを求めるようになってしまうだろう。
今のカノンは昔のカノンとは違う。
もしジュリアンに請われれば、過去の罪を償いたいという思いから、彼を拒否することはできないだろう。
だがカノンがジュリアンを愛することが出来なければ、結局はまたジュリアンが傷つく羽目になることは目に見えている。
そしてその時は同様に、カノンも大きく傷つくことになるだろう。
そんな事態に陥らせたくはない。それはアイオロスのみならず、サガにもソレントにも共通する思いであった。

「これもちょうど君が来る直前に話していたんだが、今後ソロ家との交渉、特にジュリアン様がいらっしゃる際には、極力サガを同席させないようにしたいと思ってる。消極的な手段だが、とりあえずのところどうもこれしか方法がなさそうなんだ。こちらの勝手ばかりを言って申し訳ないが、了承してもらえるだろうか?」

「はい、わかりました。私もさほど権限を与えられているわけではありませんので限界がありますが、こちらも出来る限り私が出ていくようにいたします」

「ありがとう、ソレント。本当に色々すまない」

二人の厚意と尽力とに甘えることしかできない自分を、サガは歯痒く思った。
だが先刻から話し合っているように、目下のところサガに出来ることは今後極力ジュリアンの前に出ないこと、これだけなのだ。

「いえ、ジュリアン様の為にも、恐らくそれが一番いい方法だと私も思います。ただ……」

そう、それが現状ベストとは言えないまでも、ベターな方法であることに間違いはなかった。
だが理性とは別の感情の部分で、ソレントには異なる思いもあったのだ。

「本音を言えば、私は……」

本心を言いかけて、だがソレントはそこで言葉を飲み込んだ。
そしてソレントは結局それ以上は何を言うこともなかったが、アイオロスもサガも、ソレントが飲み込んだ言葉の先を、漠然とながらも理解していたのだった。


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