それから二ヶ月ほどの時が過ぎた。
その間、幾度かジュリアンから会見の申込みがあったが、サガは仕事と理由をつけていずれも欠席をしていた。
無論、カノンにはこのことは全面的に伏せている。カノンが知ったら、やはり心中穏やかでは居られないだろうからと沙織に言われていたこともあるが、敢えてそれを言われずとも、アイオロスもサガも沙織と同じ意見であったからだ。
ジュリアンの気持ちを思うと胸が痛まないではなかったが、これもやがて時が解決してくれることだろう。今は静かに、それを待つしかなかった。

ごく一部の人間の、水面下においてのそんな動きや駆け引きをよそに、聖域としてはごくごく平穏な日々が流れていた。
この日、教皇宮での仕事を終えたカノンは、そろそろ仕事が終わるであろう兄・サガとアイオロスの執務室を訪れた。久しぶりに上がりの時間が合いそうだったので、サガと一緒に帰宅しようと思ったからだ。

「あれ? 何だ、いないのか」

数回ノックしても返答が無く、とりあえず「入るよ」と一声かけて執務室の中に入ったカノンだったが、中にはサガはおろかアイオロスもおらず、もぬけのカラ状態であった。
今日は外出の予定はないと聞いているので、恐らく教皇に呼ばれたか何かで席を外しているだけだろうが、いずれにせよ不在であることに変わりはなく、カノンは拍子抜けしたように肩を落とした。

「どうすっかな……」

カノンは腕組みをし、独り言を呟きながら考えた。
いつから不在にしているかは知らないが、もし教皇に呼ばれているのだとしたら延々長引く可能性が高いわけで、となるとここでボケッと待っているのもバカバカしい。
だがもしちょっと席を外している程度ならもう戻ってくるだろうし、だとしたら少しくらいは待っててもいいかも知れない。

「ったく、どこに行ってるのかメモくらい残しといてくれよな〜」

自分勝手かつ無茶苦茶な文句をブツブツ言いながら、どうするかとカノンが更に迷っていると、突然サガの机の上の電話がけたたましく鳴り響いた。
完全に不意をつかれたのでさすがにカノンもビックリしたが、何となくではあるが無視も出来ず、サガの机に駆けよってみると、電話機の液晶画面はグラード財団の窓口になっている部署の内線番号を表示していた。

どうしようかと3コール分迷った後に、カノンは電話を取った。
サガのふりをしてとりあえず用件だけでも聞いておけばいいだろうと、単純に思ったからだった。

「はい」

カノンが電話に出ると、受話器の向こうから担当の神官の事務的な声が返ってきた。

『サガ様、ジュリアン・ソロ様からお電話ですが、お取り次ぎしてよろしいでしょうか?』

その固有名詞を聞いた瞬間、カノンの全身が凍てついた。
思わず息をのみ、電話口で絶句したカノンは、だが頭の中でその名を反芻していた。

ジュリアン・ソロ―――

何故ジュリアンが、サガに電話を?。
ジュリアンはサガと、面識など無いはずなのに……。
何が何だかわけがわからず、予想だにしていなかった事態にカノンは内心でかなりうろたえていた。
だが動揺する内心とは裏腹に、身体は硬直し、声も出なかった。

『……サガ様?』

電話先の神官は、電話に出たのがサガと信じて疑っていない。
電話の声だけでサガとカノンを判別せよという方が無理な話ではあるが、とにもかくにも一向に返答が返ってこないことに不審を抱くのは当然のことであった。

「……あ……」

兄の名を呼ぶ声に刺激され、やっとカノンの声帯が機能を回復し、掠れた声を絞り出した。

『いかがいたしますか? 折返しということにいたしましょうか?』

サガの(実際はカノンだが)様子が明らかにおかしいことに気付かぬはずはないが、電話先の神官はどこまでも事務的にそう聞き返してきた。

「いや……いい。繋いでくれ」

カノンが電話に出ることを承諾すると、すぐに「かしこまりました」と答えが返り、回線が切り替わる音がした。
その僅かな間にカノンは小さく深呼吸をし、動揺が声にでないよう、懸命に自らを落ち着かせようとした。

『もしもし、サガさん?』

そして直後、よく聞きなれた声が受話器の先から聞こえてきた。
それは間違いなくジュリアンの声であった。

「はい、そうです……」

震えてしまいそうになる声を、カノンは全身の力を使って整えた。
かつて自分が騙し、利用し、そして使い捨てた相手。そのジュリアンと、まさかこんな形で再び言葉を交わず機会が訪れようとは……。
カノンの胸の中に、例えようもなく大きな罪悪感か広がった。

『よかった、やっと貴方と直接お話が出来た。城戸邸でお会いして以来、電話をしてもいつも貴方は不在だったので、もしかしたら避けられているのかとすら思っていました』

「いえ……そんなことは……。申し訳ございません、仕事が忙しかったもので不在がちにしておりまして……」

城戸邸で会った? 一体いつの話だろうか?
サガはよく仕事絡みで日本の城戸邸に呼ばれることが多いが、どうやらその時にジュリアンと面識を得たらしい。
となると考えるまでもなく仕事絡みということになろうが、電話先のジュリアンの様子からして、どうもジュリアンの方はそれで電話をかけてきたのではないようだ。
だが、今ジュリアンにそれを問い質すわけにはいかない。とりあえず、カノンはジュリアンの次の言葉を待った。

『こちらこそ、出し抜けに失礼しました。ところでサガさん、失礼ついでと言ってはなんなのですが……』

「は、はい」

『よろしければ、近々私と会っていただけないでしょうか? 仕事ではなく、個人的に』

「えっ!?」

ジュリアンの申し出に、カノンは虚をつかれた。

『どうしても一度、あなたと会ってゆっくりお話がしたいのです。今日は、それをお願いするために電話をしました』

電話先のジュリアンの声には、どこか切羽詰まってでもいるかのような響きが含まれていた。
カノンの心臓が、ドクリと不自然な音を立てた。

「何故、私と?」

懸命に声調を整えて、カノンは短くジュリアンに聞き返した。

『何故と言われても、正直、私にもわからないのです。ただどうしてもあなたとお会いしたい、それだけなのですが』

ジュリアンの声には、今度ははっきりとした困惑が滲み出ていた。それでカノンには、ジュリアンが言葉が嘘偽りのない本心であることに気付き、同時にその裏にあるものを漠然と察したのだった。

『このような理由では、会っていただけませんか?』

「いえ……いえ、ジュリアン様……」

この時、カノンの心に迷いがなかったと言ったら嘘になる。きっとサガが知れば、猛反対することだろう。自分のことはともかくとしても、ジュリアンの為にはこの申し入れは断ったほうがいいのかも知れないとカノンも思っていた。
何とでも理由をつけて断ることはできる。もしくはとりあえずこの場を濁し、サガに相談をしてから返答することも出来た。
だがそれでもカノンには、ジュリアンの申し入れを拒むことは出来なかった。いや、したくなかったのだ。
カノンは電話口で小さく深呼吸をし、そして今までとは打って変ったようにはっきりと、しっかりとした口調でジュリアンに言った。

「わかりました、お会いいたします。日時と場所は?」




カノンがジュリアンとの電話を切ってから、約20分後。
執務室に戻ってきたアイオロスとサガに、カノンは事の次第を問い質した。
こんな形でジュリアンとのことがカノンに知れるなどとは思ってもいなかった二人は、驚きと戸惑いを隠せなかったが、こうなってしまってはもう隠しおおせるわけもなく、また下手なごまかしも無意味と判断したアイオロスが、カノンに簡潔かつ的確にここに至るまでの事情を説明したのだった。

「どうして今までそれをオレに言ってくれなかったんだ!?」

二ヶ月もの長い間、その事実をまったく知らされなかったことにカノンは愕然とした。

「お前に話したところで、どうなることでもあるまい。今回のことはあくまで、人界におけるグラード財団とソロ家のビジネスの延長線上にある話だ。それに関わっていないお前にわざわざ知らせるようなことでもないだろう」

確かにそれは、アイオロスの言う通りだった。
無論、それだけが理由ではないことはわかっているし、むしろこれが建前でしかないこともわかっていた。
アイオロスやサガを責めるのは筋違いであることもわかっていたが、カノンの理性がアイオロスの言の正しさを認めてはいても、感情はそれについていかなかった。

「だからって……ジュリアンが関わってることなんだぞ! オレが、あいつに対してどんなに……」

「だからこそだ!」

アイオロスが強い口調で、カノンの言葉を遮った。

「だからこそ、お前にジュリアン・ソロのことを知らせるわけにはいかなかった。ジュリアンに対して大きな罪悪感に苛まれているお前がこのことを知れば、事態がどんな方向に転んでいくか容易に想像がつく。女神も、サガも、私も、それがわかっていたからこそ、敢えてこのことをお前に伏せていたんだ」

「でもっ……」

「実際お前は今、こうしてらしくもなく取り乱しているじゃないか」

アイオロスの鋭い指摘に、カノンは返す言葉を詰まらせた。そんなカノンを、サガは痛ましげに見つめている。

「お前の気持ちは私達にだってわかる。お前が常に彼に対して贖罪の念を持っていることも、もちろん知っている。だがそれでもお前を、ジュリアンに関わらせるわけにはいかなかったんだ」

アイオロスは小さく吐息をすると、力なく首を左右に振った後に言葉を繋いだ。

「彼が完全に記憶を失っているのであれば、まだよかった。直接的にしろ間接的にしろ、ある程度の時間が過ぎさえすれば、何かしらの形でお前を関わらせることは不可能なことではなかっただろう。いずれにせよ現時点ではまだ時期尚早だが、いずれはそんな日が来たかも知れない。だが彼は記憶の奥底に、お前の面影を止めている。それは朧げな幻影程度のものだろうが、それでも彼ははっきりとサガの姿に、いや、サガを通してお前の姿に反応したんだ。これ以上、下手に彼の記憶巣を刺激するわけにはいかなかった。万一にも、彼にお前を思い出させるようなことがあってはならなかった。それは他の誰のためでもない、彼自身の為に。だからサガのことも、あの日以来、極力ジュリアンから遠ざけたんだ。そして同様に、そんな彼のことをお前に知らせたくはなかった……」

この話をカノンにするのは、正直、アイオロスにとっても辛いことだった。
事実を知れば、カノンは苦しむ。だから出来ることなら、ずっと隠しておきたかったのだ。カノンの為にも、ジュリアンの為にも。
だが不運な偶然により、それらが全てカノンの知るところになってしまった。
これは皮肉な巡り合わせとしか言えないが、だからこそ尚のこと、この事実をサガの口から話させるわけにはいかなかった。
自分よりも何倍もサガの方が辛かろうし、カノンにとっても酷なことだったからだ。
だからアイオロスは敢えてサガには口を開かせず、全ての事情を自分の口から説明したのだった。

「お前が平静でいられない気持ちはわかる。自分をもどかしく思う気持ちもわかるが、お前は彼に関わっちゃいけない。繰り返すが、その方がお互いの為なんだ。いいな」

口調を少しやわらげて言った後、アイオロスはサガの方へ視線を転じた。

「サガ、今から彼に断りをいれるのも不自然だし、彼も納得してくれんだろう。やむをえん、ここはお前が行って何とか上手く凌いでくれんか?」

「ああ、それはもちろん……」

アイオロスが言うと、サガは即座に頷いた。
元々サガもそのつもりでいたのだが、それより以前にこれしか方法がないからだ。
これまでも幾度かソロ家側から会談の申し入れはあったが、事前にソレントを交えて相談していたように、その場にはサガを出席させなかった。
都度、ジュリアンは明らかに落胆したような様子を見せており、アイオロスも胸の端に痛みを覚えないでもなかったが、今のジュリアンは記憶の奥底に眠るカノンの面影を追うような形でサガに執着を見せているだけで、恐らくそんな状態も長く続くことではないだろうと思っていた。
アイオロスの本意ではなかったが、そうやってなし崩し的にサガをジュリアンから遠ざけていれば、事態は有耶無耶うちに終わるだろうと、いや、有耶無耶にして終わらせようと思っていたのだが、どうやらその見込みは少々甘かったようである。

「待ってくれ」

考え込むようにして黙りこくっていたカノンが、重々しく口を開いた。そしてその声は、微かに震えていた。

「オレが行く……」

「カノン!」

驚いたようにアイオロスがカノンの方へ向き直り、サガもまた同様に驚愕の視線を弟へ向けた。

「オレが行く。ジュリアンのことは……あいつに対しての責任はすべてオレにある。兄弟とは言え、その後始末をサガに任せるわけにはいかない」

「バカ! お前何を言ってるんだ!」

アイオロスは思わず声を荒げ、カノンの両肩を掴んだ。

「私の話を聞いていなかったのか!? そんなこと許せる訳ないだろう!」

「大丈夫、サガのふりして行くから……。今のジュリアンはごく普通の人間だ。小宇宙の違いで、オレとサガを判別することは出来ない」

「確かにそれはそうかも知れない。だが万が一のことがあったらどうするんだ!」

「それでも!」

カノンはアイオロスから視線を外し、それを下に落とすと、アイオロスの言葉を遮るように大きく声を張り上げた。

「それでも、オレが行かなきゃいけないんだ。オレは……オレには今のあいつに、自分の犯した罪に、しっかりと向きあわなきゃいけない義務がある。サガには頼れない、頼っちゃいけないんだ。ごめん、アイオロス……わかってくれ……」

懇願するような、悲痛なカノンの言葉に、アイオロスの怒気にも似た気勢が急速に萎んでいった。

「ジュリアンに余計な刺激を与えるつもりも、余計なことを言うつもりもない。だからサガには頼らないって言ったけど、サガのふりだけはさせてもらわなきゃいけない。それでもオレは自分自身の目で見て、判断して、そして片を付けたい。勝手なことを言っているのはわかってる。お前達が心配してくれてるのもわかってる。でも許して欲しい、オレに行かせてくれ、頼む、アイオロス……」

「カノン……」

今まで見たこともないようなカノンの姿に、アイオロスは継ぐべき言葉をすぐには見つけられなかった。

「取り返しのつかないことにならないとも限らんのだぞ。わかっているのか?」

重苦しい沈黙を30秒ほど流した後、アイオロスが念を押すようにカノンに言った。
カノンは頷き

「責任はとる」

やっと顔を上げ、真っ直ぐにアイオロスを見上げたカノンの瞳には、強い決意の光が宿っていた。
アイオロスも、サガも、もうこれ以上カノンを止めることは出来なかった。


Next Page>>