ジュリアンが指定した日時は週末の午後7時、場所はアテネ市内にある高級ホテルのスイートルームであった。 約束の時間の10分前にホテルに着いたカノンがフロントで兄の名を告げると、予めそのために待機していたのであろうマネージャーが出てきてカノンに挨拶をし、ジュリアンの待つ最上階のスィートルームへと案内した。 エレベーターが最上階に近づくにつれ、否が応にもカノンの緊張が高まった。 ―――漠然と、もう永遠に会うことはない相手だと思っていた。 カノンの中には常に、世界各地を慰問して歩いているジュリアンに付き従って彼の手助けをしたいという気持ちが強くあったし、本来そうせねばいけない人間は自分であることもわかっていた。 ジュリアンとてカノンの野望達成のために利用されただけの、いわば被害者なのだ。そのジュリアンに償いたい思いはいつも、どんな時でもカノンの中に存在していたが、結局は何をすることもできなかった。いや、してはいけなかった。海皇降臨時代の記憶を全て失っている彼に、自分は絶対に近づいてはいけない人間だったからだ。 それがまさか僅か数ヶ月程度で思いも寄らぬ方向に状況が変わり、こんな形で再会することになろうとは、運命の巡り合わせというのは不思議な、或いは皮肉なものである。 スィートルームの前まで来たところで、カノンは案内をしてくれたマネージャーを「ここまででいい」と丁寧に制し、彼を下がらせた。 マネージャーがエレベーターに乗り、階下へ下りていったことを確認してから、カノンは自らを落ち着かせるように大きく深呼吸をし、意を決してドアホンに手を伸ばした。 ドアホンを押す指が、緊張に微かに震えていた。きっと表情も、不自然に強張っているに違いない。サガのフリを通さなければいけないのだから、こんな風に緊張を表に出していてはいけないのに。 カノンはもう一度、しっかりと自分を落ち着かせるべく深呼吸をした。 間もなく、部屋のドアが内側から静かに開いた。今までとは別の緊張感が走り、カノンは表情を引き締め直したが、直後、中から姿を現した少年を見て、思わず意外そうに目を瞠ってしまった。 何故ならそこに立っていたのが、ジュリアン本人だったからだ。 「ようこそ、サガさん。本日はお呼び立てをしてしまって、申し訳ありませんでした」 無意識のうちにソレントが出てくるものと思っていたカノンは、些か面を食らったような形で呆然としたが、礼儀正しく挨拶をするジュリアンの声に聴覚を刺激され、ハッと我に返った。 「本日はお招きにあずかりまして、光栄です」 カノンも軽く笑顔を作って同じように礼儀正しくジュリアンに一礼をすると、顔を上げ、不躾にならない程度に改めてジュリアンの顔を見直した。 久しぶりに会ったジュリアンは相変わらずの典型的なお坊ちゃんではあったが、それでもカノンが良く知るころの彼よりも随分と大人びて見えた。 あの聖戦からまだ数ヶ月程度しか経っていないが、今のジュリアンからは当時の鼻持ちならない高慢な雰囲気は完全に消え失せており、人間として一回りも二回りも成長したのだということがカノンにもはっきりと見て取れる。 ジュリアン自身が記憶していなくても、あれだけの体験をしたのだから多少なりとも人格が変わるのは当たり前だろうが、カノンにとってジュリアンのその変化は嬉しくもあり、また悲しくもあった。 「こんなところで堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。さぁ、どうぞ」 ジュリアンはドアを広く開けて、中へ入るようカノンを促した。 「失礼します」 カノンはジュリアンに目礼をすると、部屋の中に入った。 ジュリアンの案内でリビングに通されたカノンは、最高級のスィートルームに相応しい、贅をつくした調度の並ぶ広々とした部屋をぐるりと見渡した。 「どうかされましたか?」 何かを探しているような素振りのカノンに、ジュリアンが訝しげに声をかける。 「え? ああ、いえ。今日は……、ソレント君、は?」 海闘士時代の癖で、うっかりソレントのことをセイレーンと呼ぼうとしてしまったカノンは、些か不自然に言葉を切りつつ、ジュリアンにそれを尋ねた。 先刻ジュリアン本人がカノンを出迎えたときからやや不審に思っていたのだが、常にジュリアンの傍らで彼に付き従っているはずのソレントの姿が、今日はどこにも見えないのだ。 「ソレントには今日は家で……と言っても私の家ですが、休んでもらっています。彼だって四六時中私の側にばかりいては、息が詰まってしまうでしょうし、たまには一人の時間も必要でしょう。それに」 ジュリアンはそこで一旦言葉を切ると、右手でソファを指し示し、カノンに座を勧めた。 その勧めに従いカノンがソファに腰を下ろすと、テーブルを挟んだ反対側の正面にジュリアンも腰を下ろした。テーブルの上には冷やされたワインとグラスが二つ用意されており、ジュリアンはワインクーラーからワインを取り出しながら、言葉の先を繋いだ。 「彼も貴方が忙しくしていることはよく知っています。その貴方を仕事以外のことで、しかも私の都合で呼び立てたことが彼に知れたら、私は彼に怒られてしまいます」 くすっ、とジュリアンが笑いを溢すと、直後、ワインのコルクの抜ける音が軽快に響いた。 「それじゃソレント君は、ジュリアン様が今こうして私と会っておられることを知らないのですか?」 「ええ。友人と会って来るとだけしか、彼には言ってはいません」 ジュリアンは短く答えて頷くと、カノンのグラスにワインを注ぎ入れた。 カノンもアイオロスから、ソレントは自分たちと意見を同じくしているということは聞いていた。そしてなるべくサガとジュリアンとを会わせないよう、ソロ家サイドの人間として尽力してくれているとも。 大袈裟に言えばソレントはアイオロス達と共同戦線をはっているわけで、なるほど、そのソレントがこのことを知れば、何とかジュリアンを止めようとしたに違いない。ジュリアンも漠然とであろうがそれを察していたからこそ、半ばソレントに嘘をつくような形でここに来たのだろう。 そうまでしてもジュリアンはサガに、いや、カノンに会いたかったのだ。ジュリアン自身、何故そこまで自分がサガに拘っているのか、何が心に引っ掛かっているのか、現時点ではその理由はまったくわかっていないだろう。そのせいで少なからず、苛ついてもいるはずだった。 その原因は恐らく、ジュリアンの奥底にあるカノンの残像が、記憶の解放を求めて叫び声をあげているからなのではないかとカノンは思う。それがジュリアンを不安に陥れ、或いは駆り立て、結果サガへの執着をますます強めることになっているのだろう。自分の胸の裡に引っ掛かっているものが何なのか、ジュリアンはその答えを見つけだしたいのだ。 いずれは時が解決してくれる。ベストと言える手段ではないが、今はそれを待つしかないのだと、アイオロスはカノンに言った。確かにそれはアイオロスの言う通りであろうが、言い換えればそれはこちらの勝手な都合でもある。 にもかかわらずそれを一方的に、しかも本人の知らぬうちにジュリアンに押し付けていたのだから、わけのわからぬジュリアンが痺れを切らしたのも無理のない話だろう。 時が解決してくれるにしても、きっと長い長い時間がかかったに違いない。その間、少なからずジュリアンも苦しい思いをすることになるだろう。それを思うと、カノンは到底ジュリアンを放っておくことは出来なかった。だから無理を押して、ここまで来たのだ。 もちろんそれによって事態が悪い方向へ転んでしまうリスクもあった。それでもカノンは、今この時を看過することは出来なかった。全てを兄達に委ね、知らぬふりを決め込むことは出来なかった。 全ての罪は、自分にあるのだから―――。 自分の選択が正しかったのかどうか、それは今はまだわからない。だがカノンは、こうしてジュリアンと向きあってみて、改めて思ったのだ。 どんな結果が出ようと決して目を逸らすことなく、今度こそ最後まで責任を果たそうと。 「彼に何か?」 ワインをワインクーラーに戻し、ジュリアンは怪訝そうに小首を傾げてカノンに聞き返した。 「あ、いえ。彼はいつも貴方のお側を離れないようだと、アイオロスから聞いていたもので。それにソロ家の御曹司ともあろう方が、お一人で出歩きになられるとは思わなかったものですから」 「確かに彼にはいつも傍らにいてもらっていますが、1年365日常に一緒というわけではありません。彼には彼の自由もありますし、それは私とて同様です。それに、私は一人で出歩けないほどの箱入り息子ではありませんよ」 やや冗談めかしてそう答えながら、ジュリアンは小さな笑い声を立てた。つられてカノンも、微かに口元を綻ばせる。 正直なところ、ソレントが居なくてホッとした部分もあった。一般人に戻っているジュリアンはともかく、海将軍であるソレントには、微細な小宇宙の違いを感知されて正体を見抜かれてしまう可能性があったからだ。 そうなったからとて、ソレントもこの場では知らぬふりはしてくれただろうが。 「ところで、サガさん」 「はい?」 不意に表情を改め、ジュリアンがカノンを呼んだ。 「いつも出し抜けに失礼なことばかり言って恐縮ですが……今日の貴方はこの前城戸邸でお会いした時と、また少し雰囲気が違っているように思えるのですが、それは私の気のせいでしょうか?」 「えっ?」 カノンは内心で、ギクリとした。 確かに自分は、過日ジュリアンが城戸邸で会ったサガとは別人である。だがサガとカノンが双子であること、尚且つ、双方を知っているものでない限りは別人であると判別をつけることは難しく、一般人であれば尚のこと、その可能性は限りなくゼロに近いはずなのだ。 ジュリアンはカノンとは密接な関係にあったが、その当時の記憶は失われている。そしてサガとの接触はただ一度きりで、しかもさほどの長い時間ではない。二人に近しいものであればどちらがどちらの真似をしていても判別は付けられるだろうが、常識的に考えれば今のジュリアンにはそれは不可能だろう。 そう思ったからこそ、カノンは兄の名を借り、兄のフリをしてここにやってきたのだ。 「そうでしょうか? 自分では分かりませんし、特にあれから何かが変わったということもないと思いますが……」 何気ない風を装いながらカノンは微笑を作ったが、それが僅かに引きつったのがカノン自身にもわかった。ジュリアンにはそれが困惑による苦笑と取れたらしく(実際その通りであったが)、ジュリアンも申し訳なさそうに表情を動かした。 「変なことを言ってすみません。何となくそんな気がしたものですから、つい」 「いえ、ジュリアン様が謝られるようなことではありません」 そう、ジュリアンが謝ることではない。何故なら、ジュリアンの直感は紛うことなく真実を捉えているのだから。 「ただ失礼ついでに皆まで言わせていただければ、この前お会いしたときよりももっと……何と言えばいいのか上手く言葉が見つからないのですが、懐かしさ……に似たものを感じるのです。私は以前から貴方を知っている、あの時以上にそんな気がしてならない」 そう言ってジュリアンは、正面からじっとカノンの目を見据えた。嘘をついている後ろめたさもあり、カノンは思わずジュリアンから目を逸らしてしまいそうになったが、その衝動を懸命に抑えて、カノンは口元に微笑を讚えたままジュリアンの目を真っ直ぐに見つめ返していた。 「でもやっぱり、それは私の気のせいなのでしょうね。あの時貴方にも言われましたが、きっと私は未だに誰かと人違いをしているのでしょう。ただその誰かが誰なのか、この二ヶ月間どんなに考えても思い当たる人物がいないのですが」 カノンが静かに沈黙を守ったことが功を奏したか、ジュリアンは自分でそう結論付けると、自嘲めいた苦笑を洩らし、小さく首を左右に振った。 カノンの胸に、またチクリとした痛みが走った。 「ジュリアン様はきっと以前に、相当私に似た人間とお会いになられてはいるのでしょう。ただそれは、ほんの通りすがりの人間か、もしくは記憶がはっきりと残らないくらい、ジュリアン様が幼なかった頃の話なのかも知れませんよ。だとしたら、思い出せないのも無理もないことだと思います」 我ながら陳腐なことを言っている、とカノンは思ったが、当たり障りなく応じるにはこう言うより他なかった。 「ええ、多分そうなのでしょうね。出来ればそれをはっきりと思い出せればよかったのですが。何か霧の中を彷徨ってでもいるかのようで、思い出せない自分に苛ついたりすることもあるのですよ」 「それであれば尚更、あまりお気になさらぬ方がよろしいかと存じます」 素っ気無くならないように軽く言って、カノンはさり気なく話題を終わりの方へ導いた。 「そうですね。言われてみればその通りだ。気にしたところで始まりませんね」 カノンの言葉に同意して頷くと、ジュリアンは話題を収めてワインを満たしたグラスを持ち上げた。 この話を長引かせずに済んだことに内心で安堵しつつ、カノンもジュリアンに倣ってグラスを持ち上げた。 「いつの間にか、こんな時間になっていたのですね」 壁の時計を見遣り、現在時刻を確かめたカノンは、少し驚いたように目を瞠った。 食事を共にし、その後ワインなどを飲みながら談笑しているうちに、時刻はいつの間にか夜の11時を回っていたのである。 まさかこんな時間になっているとは思わず、カノンは慌ててソファから腰を浮かした。 「遅くまで申し訳ありませんでした、ジュリアン様。私はそろそろ失礼させていただきます」 「お帰りになってしまわれるのですか?」 立ち上がったカノンを見上げ、問い返すように言ったジュリアンの口調と表情には、はっきりとした落胆の色が浮かんでいた。 カノンとしてもジュリアンの現状と、聖戦以降のこの数ヶ月間のことを知ることが出来て有意義な時間ではあったが、さすがにこれ以上の長居は出来なかった。 「ええ、これ以上お邪魔をしていては、日付が変わってしまいますから」 「そう……ですね……」 ジュリアンは明らかに帰って欲しくなさそうな顔はしていたものの、無理に引き止めるような真似はしなかった。 聖戦以前のわがままなお坊ちゃんだった頃のジュリアンであれば、カノンの都合などお構いなしに自分の思う通りにしたであろうが、今のジュリアンはその辺の節度はきちんと守れるようになったようである。 「今日は本当にありがとうございました」 「いえ、こちらこそ。ご多忙の折に無理を言ってお呼び立てしてしまって、すみませんでした」 ジュリアンもソファから立ち上がると、カノンに向かって右手を差し出した。応じてカノンは、差し出された手を握り返した。 「また会っていただけますか?」 それは仕事でという意味ではないことを、カノンは正確に察していた。一瞬躊躇った後、カノンが「はい」と頷きを返すと、ジュリアンの顔は嬉しそうな笑顔に変わった。 「では、失礼します」 ジュリアンに一礼してカノンが踵を返しかけると、 「あ、待って下さい。下までお送りします」 そのカノンを追うようにして、ジュリアンもその場を動いた。 カノンは若い女性でもなければ、ジュリアンより年少者でもない。ジュリアンの気持ちはありがたくもあるが、その度を越した気遣いにはさすがに苦笑いを禁じえないカノンだった。 「大丈夫です、ご心配な……」 やんわりとそれを謝辞しようとカノンがジュリアンの方へ向き直った瞬間、突然ジュリアンの身体がガクリと揺らめいた。 「ジュリアン様!」 崩れ落ちるようにしてソファの方へ倒れこんだジュリアンの元へ、カノンが慌てて駆け寄る。 「ジュリアン様? 大丈夫ですか?」 カノンはソファに片手をついて身体を支えるようにして座り込んでいるジュリアンの側に屈み、その顔を覗き込んだ。貧血でも起こしたのか、ジュリアンの顔色はすっかりと血の気を失って青ざめていた。 「すみません、大丈夫です……」 間もなく閉じていた瞼をゆっくり開けると、ジュリアンはそう言いながら力のない微笑みをカノンに向けた。 「調子に乗って少し飲みすぎてしまったようです。足に来てしまったみたいで……みっともない姿をお見せしてしまって、失礼しました」 「いいえ」 カノンは小さく首を左右に振った。 今にして思えば確かに今日のジュリアンは、酒を飲むピッチが早かったような気がする。ジュリアンが平然としていたのであまり心配もせず、制止もしなかったのだが、ワインなどの場合は後になって、しかも急激に酔いが回ってきたりするのはよくあることだ。そのことをすっかり失念していた自分も、不注意であった。 「すみません」 自分の失態が情けないのか、ジュリアンはカノンから目を逸らすと、より一層の小声でカノンに詫びた。 「謝ることはありません。私ももう少し気をつけていればよかったのですから。でも今晩はもうお休みになられたほうがよろしいでしょう。私の肩に捕まって下さい、寝室にまいりましょう」 更に口調をやわらげてカノンが言うと、ジュリアンが緩慢な動作で伏せていた顔を上げた。カノンは無言で頷いて、ジュリアンを促した。ジュリアンも素直に頷くと、カノンの方へ手を伸ばし、その肩を借りて立ち上がった。 だが一歩歩いた途端、またジュリアンの身体がガクリと揺らいだ。完全に足に来ているらしく、膝から下に力が入らないらしい。前のめりに落ちそうになったジュリアンは反射的にカノンにしがみつき、カノンは慌ててそのジュリアンの身体を抱き留めて倒れるのを防いだ。 「大丈夫ですか?」 カノンがジュリアンの顔を覗き込むと、先刻にもましてジュリアンの顔が青ざめていた。青ざめているというよりも、すっかり色を失って白くなっていると言ったほうが近いだろう。『大丈夫』ではないことは一目瞭然だった。 これはおぶるか抱き上げるかしてベッドまで運ばねばダメそうだなとカノンが考えていると、カノンにしがみついたまま前後に回されていたジュリアンの腕に、不意に力が込められた。 「ジュリアン様?」 その腕から、いやジュリアンの全身から、小刻みな震えがカノンに伝わってきた。一体どうしたのかと訝しんだカノンがジュリアンの名を呼んだが、ジュリアンは返答もせず、色を失った顔は緊張したように強張っていた。 「ジュリアンさ……」 「……違う……」 カノンがもう一度名を呼ぼうとした時、蚊の鳴くような、微かなジュリアンの声がそれを遮った。 「え?」 「違う……貴方は、貴方はサガじゃない……」 ジュリアンの口から突然飛びだしてきた予想だにしなかった言葉に、カノンは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。 「ジュリアン様……突然何をおっしゃるのですか?」 心臓があり得ないくらいの速度で鼓動していた。その余波で震えそうになる声を全身の力を使って整え、カノンは懸命に平静を装ってジュリアンに尋ね返した。 「私はサガですよ。でなければ、誰だというのです?」 「いえ、いいえ!」 ジュリアンの腕に、更に強い力が込められた。カノンにしっかりと抱きつくような形で、ジュリアンは激しく首を左右に振った。 「貴方はサガじゃない。私にはわかる……いえ、今わかったのです。それがどうしてなのか、その理由はわかりません。でも貴方がサガじゃないことだけはわかる。そして……」 ジュリアンがゆっくりと顔を上げ、カノンの瞳を見据えた。不規則に揺らめく海色の瞳の奥には、確信の光が宿っていた。 「私は貴方を知っています。そう、私が知っていたのはサガじゃない、サガに似た人でもない、貴方だ……」 カノン自分の胸の内壁一面に、氷水のような冷たい汗が流れ落ちるのを感じていた。 ジュリアンはサガに双子の弟がいることを知らない。そして小宇宙を感じ取ることも出来ない。自分がサガと入れ替わっていると気取られることは、万に一つもないだろうとカノンは思っていたが、それでもここまで細心の注意を払ってサガのふりをしてきた。 それがまさか、こんなことで―――。 「ご冗談を、ジュリアン様。私はサガです、別人などではありません。それに先にも申しました通り、私は過去にジュリアン様と面識はないのです」 だがここは、何としても嘘を押し通すしかなかった。カノンは無理矢理笑顔を作って、子供に言い聞かせるような口調でジュリアンに言った。 だがジュリアンは、またも激しく首を左右に振った。 「いいえ、私は貴方を知っています。貴方が誰なのか名前すらわからない、どこで会ったのかも思い出せない。でも私は貴方のことをよく知っている、よく知っていたはずです、それは間違いないんだ!」 悲痛な声を張り上げたジュリアンに、カノンはすぐに返す言葉を見つけられず、思わず唇を噛んだ。 そんなカノンにジュリアンは、すがりつくように、そして必死に何かを思い出そうとするように、強く抱きついた。 「わからない……貴方の名前も何もかも……。一体貴方と私がどこで会っているのか、どんな関係だったのか……」 ジュリアンの手がカノンのシャツを強く掴み、明確な答えを求めてカノンを見上げた。必死にそれを求めるジュリアンに、だがカノンは何も答えてやることはできなかった。 「こうしていても、何も思い出せない。でも私は……わたし、は……」 切れてしまっている記憶の糸を、懸命に辿ろうとしているかのような切迫した様子でカノンを見上げていたジュリアンの顔が、不意に苦悶に歪んだ。 「ジュリアン様?」 「うっ……」 突然低い呻き声をあげて、ジュリアンは両手で頭を押さえ込んだ。そしてジュリアンの体はそのままずるずると、床に崩れ落ちた。 「どうして何も思い出せないんだ……どうして……」 胸の奥と、頭の片隅からは、絶えず何かを訴えかけるシグナルが出ていた。それは見る見る間に大きくなっていくのに、頭の中はどこまでいっても空っぽだった、真っ白だった、何も見えても聞こえてもこなかった。ジュリアンが考えれば考えるほど、記憶を探ろうとすればするほど、脳髄の中心が痺れて頭が酷く痛んだ。 「もう考えるのはおやめください、ジュリアン様……」 カノンも床に身を屈め、蹲るジュリアンの肩にそっと手を置いた。そうしながらカノンの胸の奥も、ありえない音を立てて軋んでいた。 「いいえ、このままで済ますことはできない、したくない! だって私はっ……」 弾かれたように顔を上げたジュリアンが、そこで不自然に言葉を切った。ピタリと動きが止まり、目がまるで焦点を失ったかのように空を彷徨い始めた。 「ジュリアン様?」 様子が急変したジュリアンに、カノンは不安げに声をかけた。 「ジュリアン様、どうなさったのですか?」 何も答えず、空を彷徨わせたままカノンと視線すら合わせないジュリアンに、カノンの不安はますます大きくなった。 「目……が……」 「え?」 「目が、見え……ない……」 「えっ!?」 今度はカノンの背筋に、冷たいものが走った。 「目が見えないとは、どういうことなのです? ジュリアン様!」 「突然頭の中で何かが弾けて……その途端に目の前が真っ暗に……なって……」 真正面にカノンがいるにも関わらず、ジュリアンの目は彼の姿を探すかのように動いていた。彼の目はカノンの姿を捉えていなかった、本当に目が見えなくなっているのだ。 「ジュリアン様、しっかりしてください。何も、何も見えないのですか?!」 「何も……見えません、真っ暗で、何……も……」 段々と声が擦れるとともに、ジュリアンの体が大きく前に傾いだ。 「ジュリアン様!」 カノンは咄嗟に手を出し、ジュリアンを抱き留めた。 「ジュリアン様! ジュリアン様!」 床に倒れ込む寸前、カノンに抱き取られたジュリアンは、だがその時既に意識を手放していた。 |
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