無人の廊下に、秒針が時を刻む音がやけに大きく響き渡っていた。 カノンが半ば茫然とその時計を見上げると、時刻は間もなく午前1時を差そうかとしているところだった。 ジュリアンをこの病院に運び込んでから、そろそろ一時間が過ぎようとしている。連絡を受けて駆け付けたソレントは、未だ病室から出てきてはいない。 病室の中へ入るわけにはいかず、かといってこの場を去ることなどできず、カノンは無人の廊下に一人立ち尽くしたまま、祈るような思いで病室のドアが開くのを待っていた。 完全に自分の落度だった―――。 まさか自分の身体に触れたことで、完全にではないにせよ、ジュリアンの奥底の記憶を蘇らせてしまうことになろうとは思ってもみなかった。 言動には十分注意をしたつもりだった。最初ジュリアンに会ったときに、「雰囲気が違う」と言われてからは、尚更だった。 だがそれ以降はジュリアンに変わった様子は全く見られず、時間が経つに連れてカノンの中に安心感が強まるとともに、無意識のうちに油断が生まれてしまっていたのだ。 確かに自分は、ジュリアンと身体の関係があった。幾度も幾度も、この身体をジュリアンに抱かせた。ジュリアンが自分の身体をどれだけ寵愛していたか、それもよくわかっていた。自分の方からそうなるように仕向けたのだから、それは当たり前の話だった。 自分たちの間には、少なくともカノンの方には余計な感情など一切なかったが、それでも誰よりも密接な関係であったことは紛れもない事実だ。 だが自分とサガは、髪の毛の先から爪先までにとどまらず、遺伝子レベルまで全く同じものを共有する一卵性双生児である。生半可なことで判別をつけるのは、絶対に不可能なはずだと無意識のうちに思い込んでいた。 その結果、サガが、アイオロスが、そしてソレントが恐れていた最悪の事態を招いてしまったのである。 『お前が思っている以上に、彼はお前の残像に固執している。何故だかわかるか? 当時の彼が、本気でお前のことを愛していたからだ』 アイオロスに言われたことが、この時まざまざとカノンの脳裏に蘇ってきていた。 わかっている、とカノンは答えた。そうなるように仕掛けたのも自分なのだから、それは充分に理解しているつもりだった。 だがそれは間違っていた。 わかっていた、理解していたのではない。わかっている、理解していると思い込んでいただけに過ぎなかった。 ジュリアンの自分への想いの強さを、そして自分が彼に対して犯した罪の大きさと深さを、カノンは完全に見誤っていた。今になってようやく、本当の意味でカノンはそれを思い知らされたのだ。 カノンは自分の浅はかな行動を、砂を噛むような思いで悔やんだ。それと同時に、罪悪感がカノンの胸を内側から食い破るかのような勢いで膨張していった。 いたたまれぬ思いに苛まれ、カノンは自らの拳を白い壁に打ち付けた。 直後、カチャッとドアノブの回る小さな金属音が、カノンの耳に届いた。 弾かれたようにカノンが顔を上げると、間もなく病室の中からソレントが出てきた。病室を出たソレントはすぐにカノンを見つけると、静かにカノンの元へ歩み寄った。 「ジュリアン様は?」 目の前に立ったソレントに、内心の動揺をひた隠しにしながら、カノンはジュリアンの容体を尋ねた。 「今は落ち着いて眠っておられます。突然視力を失ったのも、精神的なものが原因だそうです。少しすれば、徐々に回復してくるでしょうとのことでした」 「そう……か……」 カノンは心の底から、安堵の溜息をついた。 「一体どういうことなのか説明していただけますか? サガ。いいえ、カノン」 だがホッとしたのも束の間だった。ソレントの言葉に、カノンは再び全身に緊張を漲らせた。 気付いていたのか? と問い返す代わりに改めてソレントの顔を見返すと、それを正確に諒解してソレントは言葉を繋いだ。 「電話の時点ではわかりませんでしたけどね。会った瞬間にすぐにわかりましたよ。私はこれでも海将軍、しかも一時は貴方と同じ旗の下に居た身です、気付かないわけがないでしょう?」 それはソレントの言う通りであり、またカノンもそうなるかも知れぬことは覚悟はしていた。 今更下手なごまかしをしても意味はなく、またその気もなかったカノンは、無言でソレントの言葉を肯定した。 「何故貴方が、ジュリアン様と会っていたのですか?」 ソレントの口調は静かだったが、そこには言い逃れは許さないという厳しさがこめられていた。 数秒ほど黙り込んだ後、カノンは小さく吐息をし、重い口を開いた。 「三日前、ジュリアンからサガに電話があったんだ。どうしても一度、個人的に会って話がしたいとな」 「サガがそれを、貴方に話したのですか?」 「いや、その電話自体を取ったのがオレだったんだ。ちょうどサガが不在の時にかかってきた電話だったんでな」 「では貴方がそのままサガのふりをして、最後までジュリアン様に応対したというわけですか」 頭のよいソレントは、すぐに事の次第を察した。カノンは、ああ、と短く応じて頷いた。 「ジュリアン様が、あれからずっとサガに拘っておられたことは承知していましたが……」 ジュリアンは当然のごとく真相も、そしてそれに伴いサガ達とソレントの間で交わされていた密約も知らない。 だがジュリアンは、自身の心の片隅にある小さな疑問にも似たそれを解消したかったのだろう。 城戸邸で面識を得て以来、ジュリアンは事あるごとにサガに会いたがっていた。だが水面下で連帯していたサガ達とソレントが、さり気なくそれを阻んでいたのである。 無論、そのこともジュリアンの知るところではなかったが、それでも薄々とながらも何かに感づいていたのだろう。 だからこそジュリアンはソレントに内緒で、自分で直接サガに電話をかけてきたのだ。 「それで貴方が、貴方の判断でジュリアン様と会うことを了承したと?」 「ああ」 「サガとアイオロスには内緒でですか?」 「いや、二人とも全部知ってる。すぐにオレが話した」 カノンが答えた瞬間、ソレントの両の眉尻が勢いよく跳ね上がった。 「知ってたって、それじゃ二人はこのことを知ってて、貴方をジュリアン様に会いに来させたというのですか!? そんな無責任な!」 「大声を上げるな。病室の中にまで聞こえたらどうする」 思わず声を張り上げたソレントを、静かにカノンが窘めた。確かにそれはその通りで、ソレントは取り乱した自分を落ち着かせるべく小さく深呼吸をしてから、改めてカノンに向き直った。 「一体どういうことなんです? 万が一にも貴方を思い出すようなことがあってはならないからと、サガをジュリアン様に会わせないようにしようと強く望んだのはそちらなのですよ! それなのに……せめてサガが来てくれるならまだしも、何故よりにもよって貴方本人を来させたのです!? 何故止めてくれなかったのですか! アイオロスとサガは何をしてたのですか!」 ソレントの声は低くなったが、言葉に含まれる険は一層鋭さを増していた。 「誤解しないでくれ、セイレーン。アイオロスもサガももちろん反対したし、さんざん止められたよ。オレがそれを、強引に押し切ったんだ」 「何故そんなことを……」 「自分がやり残したことだからな。自分の手で片付けたかったんだ。最も、ポセイドンであった時の記憶を失っているジュリアンに余計なことを話すわけにはいかなかったから、サガの名だけは借りねばならなかったが」 「今のジュリアン様であれば、貴方とサガの判別はつけられない。そう考えての、故意犯というわけですか?」 「簡潔に言えば、そういうことになるだろうな」 あっさりと認めたカノンにソレントはまたカッとなったが、辛うじて激発するのを抑えて、更にカノンを問い詰めた。 「こうなる危険性を、アイオロスとサガは貴方に話さなかったのですか?」 「話したさ、それこそ嫌というほど言われたよ」 「その危険性を承知していながら、何故ジュリアン様に会ったりしたのですか!? 貴方の軽率な行動が、こんな事態を招いてしまったのですよ!」 「わかってる。そのことを否定するつもりはないし、言い逃れをするつもりもない。非は全てオレにある」 そう言ってカノンは、ソレントから視線を外した。更に何かを言い募ろうとして、だがソレントは開きかけた口を閉じた。 一切の言い訳をせず、自らの非を認めて瞳を伏せるカノンの姿が、例えようもなく痛々しく見えたからだ。 こんなカノンを見るのは、ソレントも初めてだった。 ソレントの知っているカノンは、野心家で冷徹で、およそ人の情などというものを感じさせない人だった。他人が傷つこうが何しようが、平然と無関心でいられる人だった。こんな風に、率直に自分の非を認めるような人ではなかった。 だが今ソレントの目の前にいるカノンは、少なからずジュリアンのことで心を痛めている。そんなカノンの姿に、ソレントは戸惑いを覚えずにはいられなかったのだ。 「貴方は、一体どこまでジュリアン様を傷つければ気が済むのですか?」 だからと言ってあっさりとカノンを許すわけにはいかなかった。今回の件で、またもジュリアンが傷ついたことは動かしようのない事実だからだ。 ジュリアンの奥底に眠っていたカノンへの想いに、決して触れてはいけなかったものに、あろうことかカノン本人が直に触れ、刺激し、不完全ながらもそれを呼び起こしまったのだ。 不完全に蘇ってしまった記憶がジュリアンの中にある記憶の空洞と入り交じり、せめぎ合いぶつかり合って弾け、まるで電気のヒューズが跳ね飛んだ時のようにジュリアンの意識を飛ばしてしまったのだろう。 ジュリアンが突如視力を失ってしまったのは、その余波であったに違いない。 「すまない……」 カノンには一言も返す言葉はなかった。 「貴方が招いたこの最悪の結果を、どうするおつもりですか?」 「責任はとる」 アイオロスとサガにも明言したのと同様、カノンはソレントに向かっても明言した。 自分で引き起こした事態の始末は、自分でつける覚悟はもちろん最初から出来ている。 だが―― 「どうやって責任をとるというのです? 責任を取って女神の元を、お兄さんの元を離れて、ジュリアン様の元へお戻りになられますか? ジュリアン様はきっとそれをお望みになると思いますよ」 「それは……」 ソレントの問い返しはますます容赦なくカノンを追い詰め、案の定、カノンは即答できずに返答を詰まらせた。 「今の貴方に、それをしろと言っても無理な話でしょう。ならば尚更、具体的にどう責任を取っていただけるのか、はっきりしていただかねばなりません」 カノンは今度こそ、本当に言葉を失った。 ソレントの言っていることは完全に的を射ており、カノンに反論する余地は微塵もなかったからだ。 ソレントは、それ以上カノンを問い詰めはしなかった。ただ黙ってカノンの返答を待っていたが、それが逆にとてつもなく大きな重圧をカノンに与えていた。 一分が一時間にも感じられるような、鉛のように重い沈黙が、この時二人の上にのし掛かった。 その沈黙を破ったのは、カノンでもソレントでもなく、再び内側から回された病室のドアノブの金属音だった。 「ソレント様」 中から出てきたのは、医師の診察を補佐している看護士であった。 彼女はソレントの元へ歩み寄ると、カノンに向かって目礼をしてからソレントに言った。 「ジュリアン様が目を覚まされました」 ジュリアンの意識が戻ったと聞き、ソレントの表情とカノンの表情が、微妙に異なる方向へ動いた。 「わかりました、すぐに行きます」 ソレントが言うと看護士は頷き、同時にソレントを促すように病室の方へ踵を返した。 「ここで待っていてください」 ソレントは早口でカノンにそう言い置くと、看護士についてジュリアンの病室へ戻っていった。 間もなく、バタンと病室のドアが締められる音が廊下に響き、一人そこに残ったカノンは、一気に脱力した全身を支えるように、力なく壁に背を凭せかけた。 ソレントが病室に入ると、医師は「とにかくゆっくり休むことが肝心ですから」とジュリアンとソレントに念を押し、看護士とともに退室していった。 「ソレント、心配をかけてすみませんでした」 ベッドの横の椅子にソレントが腰を下ろすと、ジュリアンはソレントの方へ顔を向け、申し訳なさそうに詫びた。 ジュリアンの目はしっかりと開いていたが、その瞳は未だ焦点が定まらずに不安定に揺れており、ジュリアンの視力が回復していないことを物語っていた。 「いいえ、ジュリアン様」 静かに答えながら、ソレントは首を左右に振った。 「それにこんな夜中に、迷惑をかけてしまって……」 「私は貴方にお仕えしている身なのですよ。迷惑だなんて、そんな風におっしゃらないで下さい」 「ありがとう……」 きっぱりとそう言い切ったソレントに向かって、ジュリアンが力なく微笑んだ。 「でも私はもう一つ、貴方に謝らなければいけない。勝手なことをして、すみませんでした」 それは自分に半ば嘘をつくような形で、サガと……いやカノンと会ったことを詫びているのだろう。 揚げ句こんな事態となり、ジュリアンがソレントに対して少なからず負い目を感じる気持ちはわかるのだが、とは言えそれはジュリアンがソレントに謝る筋のものでもなく、ソレントもそのことは十分に承知していた。 「ジュリアン様が謝られることなど、何もないのですよ。どうぞそんなことはお気に病まず、今はとにかくゆっくりとお休みになってください。先生もそうおっしゃっていたでしょう?」 ソレントはジュリアンと同い年だが、時折控え目にだが年長者のように振る舞わねばならないときがある。 ジュリアン自身無意識ではあったが、ジュリアンがソレントに精神的にかなり依存している部分があったからだ。 ジュリアンはソレントの言葉に頷いたが、すぐに表情を曇らせ、 「ソレント……彼は……?」 やや遠慮がちに、ソレントにそう尋ねた。 「サガ……いえ、本当の名前は何て言うんでしょうね? 彼はどうしていますか?」 記憶は戻っていないようだが、ジュリアンは完全に、つい先刻まで自分の目の前に立っていた相手がサガではないことを確信しているようだった。 迂闊なことは言えないが、下手に否定をしても最早無意味だということを、ソレントは悟った。 「外におられます」 余計なことは一切言わず、ソレントは必要最低限の事実を短くジュリアンに伝えた。 「そうですか」 そう答えながら、ジュリアンは今現在光を失っている瞳を天井へと向けた。 「ソレント」 「……はい」 「彼に会わせてもらえませんか?」 数秒の沈黙の後、ジュリアンの口から出てきた言葉は、ソレントの予想通りのものだった。 「ですが、ジュリアン様……」 「貴方が何を心配しているのか、何となくですがわかるつもりです。でも私はもう大丈夫。わがままばかり言って申し訳ないが、彼がいるのであれば、彼と会わせて下さい」 出来れば今はカノンとジュリアンを会わせたくはなかった。 だが、ソレントにはジュリアンのこの頼みを拒むことは出来なかった。 「わかりました」 複雑な思いを押し殺し、ソレントは静かに椅子から立ち上がった。 再びソレントが病室を出ると、カノンは先刻とほぼ同じ場所に、背を壁に凭せかけて立っていた。 「ジュリアン様が、貴方に会いたいそうです」 ソレントは表情を消し、事務的な口調でカノンにそう告げた。 「ジュリアン様が?」 「はい。会っていただけますね?」 語尾に確認の意味をこめた疑問符はつけられていたが、それはあくまで形式上のものだった。 ソレントの物言いはどこまでも事務的で落ち着いていたが、その中には拒否することは許さないという強い響きがこもっていた。 「いいのか?」 「ジュリアン様がそう強くお望みなのです。この期に及んで私がとやかく言う権利はありません」 ソレントは殊更ジュリアンの意志である旨を強調した。 「……わかった」 僅かな間を置いた後、カノンは短く答えて頷くと、まるで大きな重石がついているかの如く重くなった足を、ジュリアンの病室へと向けた。 「私はここで待っています。恐らく、その方がいいでしょうから……」 カノンがソレントの脇を擦り抜けると、ソレントは正面を見据えたまま、自分の背後にいるカノンの背に向かって言った。 瞬間、ピタリとカノンの足が止まった。 「……すまない、セイレーン……」 カノンもソレントの背に向かってそう言い残し、ゆっくりとジュリアンの病室へと向かっていった。 病室の前に立ち、一瞬の間を置いた後にドアをノックすると、すぐに中から入室を促す小さな声が帰ってきた。 躊躇いがちにそのドアを開いたカノンの視界に真っ先に飛び込んできたのは、白いベッドの上に横たわるジュリアンの姿だった。 その光景は予想通りのものではあったが、それだけに痛いほどにカノンの胸を締めつけた。 カノンが音もなくベッドの傍らに立つと、その気配を察したジュリアンが天井に向けていた視線をカノンの方へ転じたが、光を失っているその視線は微妙にカノンからは外れていた。 「こんなことになってしまって、申し訳ありません」 ソレントの時と同様、ジュリアンの口から開口一番に飛び出してきたのは、倒れて迷惑をかけたことへのカノンに対しての謝罪の言葉だった。 「貴方が謝るようなことではありません、ジュリアン様……」 本当に謝らねばいけないのはジュリアンではない、自分なのだ。 だがこのような事態を招く誘因となった事実を知らないジュリアンに、カノンは詫びることすら出来ない。 「私が急に倒れたりしたので、さぞ驚かれたでしょう。ここに運んでくれたのも、ソレントに連絡をしてくれたのも貴方だと聞きました。こちらからお呼び立てしたのに、こんなご迷惑をおかけすることになってしまって、心苦しく思っています」 「そのことはどうぞお気になさらずに……」 「それに、とんだ醜態を見せてしまった。お恥ずかしい限りです」 「いいえ、そのようなことはございません……本当に、どうかお気になさいませんよう……」 歯切れの悪い、曖昧な返答しかカノンは返せなかった。 そんな今の状況がどうしようもなく歯痒く、辛く、もどかしく、自分自身への怒りは募るばかりだった。 「今はもう何時になっているのでしょうか? 貴方も帰れなくなってしまったのではありませんか? よろしければ家のものに命じて、ご自宅まで送らせていただきますが」 「私のことなら大丈夫です。ジュリアン様のお許しがいただけるのであれば、今晩はこのままここにとどまらせていただきたく思います」 カノンが言うと、ジュリアンは見えない目を驚いたように瞠った。 「ご迷惑なのではありませんか?」 「いいえ」 間髪入れずにカノンが答えると、ジュリアンは遠慮がちに、それでいて嬉しそうに口元を微かに綻ばせた。 「ありがとう……」 今の自分には何もできない。ただジュリアンがそれを望んでくれるのなら、せめて今晩一晩だけでもずっとジュリアンの側についていようと、カノンは病室に入る前の短い時間で決意していたのだ。 「わがままばかりで申し訳ないが、今晩は貴方の言葉に甘えさせてください」 「はい、ジュリアン様」 カノンが即答して頷くと、今度はジュリアンがはっきりとした笑顔を作った。 「それならばどうぞ座って下さい。立ちっぱなしでは疲れるでしょう?」 目は見えなくとも気配でそれがわかるようで、ジュリアンはくすりと笑いながらカノンに座を勧めた。 その勧めに従い、カノンはついさっきまでソレントが使っていた椅子に腰を下ろした。 「……1つだけ、聞かせていただけませんか?」 カノンが椅子に腰掛けると、数秒の間を置いてジュリアンが再び口を開いた。 「はい?」 同意を含めてカノンが短く問い返すと、ジュリアンはまた数秒黙った後に言った。 「貴方の本当の名前を」 それは単刀直入な問いであったが、カノンは驚きも動じもしなかった。既に予測していたことでもあり、覚悟していたことでもあったからだ。 「……カノンと申します、ジュリアン様」 最後の躊躇いのカーテンを開け、カノンは遂にジュリアンに自分の本当の名を名乗った。 「カノン……」 噛みしめるように、ジュリアンがその名を反芻した。記憶の中のどこかに刻まれているのであろうその名を探っているようにも見えたが、やはり見つけることは出来なかったらしい。 やがてジュリアンは枕の上で小さく首を左右に振ると、気を取り直したようにカノンに新たな問いを投げ掛けた。 「それでは、サガは貴方の?」 「サガは私の双子の兄でございます」 「双子の……どうりで見分けがつかなかったはずだ」 ジュリアンが小さな声を立てて笑った。 「申し訳ありません、ジュリアン様……」 カノンは初めて、ジュリアンの前で謝罪の言葉を口にした。 ジュリアンにとっては今回のこと、つまりサガと偽って自分の正体を隠し、ジュリアンを騙していたことのみを謝罪しているように聞こえているだろうが、その短い言葉の中にはカノンが決して口には出来ない数々の思いが込められていた。 だがジュリアンは、謝罪は不要だと言わんばかりに枕に預けた頭を左右に振り、 「何か深い事情があるのでしょう?」 確認を求めるように問い返しながら、またくすりと笑った。 「ジュリアン様……」 「わかっています。いえ、何となくわかるような気がします。それは私が知らない方がいいことなのだということも」 カノンは答えなかった。いや、答えられなかった。何と答えていいのか、聡明なカノンにもその答えが見つからなかったからだ。 だがジュリアンはカノンの沈黙をそのまま肯定と受取り、言葉の先を繋げた。 「ソレントも貴方のことは知っているのでしょう? そしてきっと事情も知っているのでしょうね。今にして思えば、彼も少し様子がおかしいところがありましたから」 「ジュリアン様、彼は……」 「ああ、誤解しないで下さい、ソレントを責めているわけではありません。もちろんそのつもりもありません。彼は彼なりに、私の為を思ってしてくれたことでしょう。それは十分理解しています。そして彼だけではなく、サガも、アイオロスも、そして貴方も同じなのだということも」 焦点の合わない瞳は不安定に揺れていたが、その奥にはしっかりとした意思を感じさせる力強い光が宿っていた。 「私は間違いなく貴方を知っている。でもそれは思い出してはいけない、思い出さない方がいいことなのでしょう。少なくとも、今の私にとっては。だからソレントも、サガも、アイオロスも、貴方のことを必死で隠そうとしたのですね」 ジュリアンの口調は半ば自分に言い聞かせているようであった。 だがカノンはそれを否定することも、そして肯定することも出来なかった。ただただ黙ってジュリアンの言葉を聞いていることしか、カノンには出来なかったのだ。 「貴方と私の間に何があったのか、それはわからない。今でもその糸口すら見つけられない。気にならないといえば嘘にはなりますが、でも思い出さない方がいいことなら、私はもうこれ以上過去を詮索しようとは思いません。ですから……」 ジュリアンが毛布の中から静かに右手を出し、それをカノンの方へ差し出した。 カノンは一瞬躊躇った後、両手で包み込むように、そっとその手を取った。 「ですからどうか、今度は私の前から姿を消さないでください。自分勝手なことばかり言って申し訳ありませんが、どうか……お願いします」 ジュリアンの手に力がこもり、しっかりとカノンの手を握り返した。 恐らくはジュリアンの奥底に眠る記憶が、カノンを再び失うことを危惧しているのだろう。カノンにそう懇願するジュリアンの姿はいまだかつてカノンが見たこともないほどに弱々しく、そして悲痛であった。 「……ジュリアン……様……」 それ以上は声が震えて、はい、と言う短い返事すら、言葉にすることが出来なかった。 だがそれをジュリアンに気取られてはいけない。返事の代わりに、カノンは一層強い力でジュリアンの手を握り返した。 カノンの意を諒解したのか、ジュリアンは安堵したように微かに口元を綻ばせた後、静かに瞼を閉じた。 ―――この日、カノンは初めてジュリアンのために涙を流した。 |
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