ジュリアンの病室のドアが再び内側から開かれたのは、東の空がうっすらと白み始めた時刻だった。 廊下のソファに座ったまままんじりともせずに夜を明かしたソレントは、ドアが開くと同時に弾かれたようにそこから腰をあげた。 中から出てきたのは、カノンだった。 「すまなかったな、セイレーン。こんなところで何時間も待たせてしまって……」 カノンはソレントに歩み寄ると、落ち着いた口調でソレントに詫びた。 カノンの顔にははっきりとした疲労の色が浮かんでいたが、それでも表情は、少なくともジュリアンの病室に入る以前よりは明るさを取り戻しているようにソレントには見えた。 「いえ……」 ソレントは一回だけ首を左右に振った。 不安も心配もあったが、ここで待つことを選択したのは自分である。自分が立ち会うよりも、二人きりで話をさせたほうがいいだろうと思ったからだが、その判断はどうやら間違ってはいなかったようだ。 「ところでジュリアン様は?」 気を取り直してソレントがジュリアンの様子を確認すると、カノンはすぐに頷いて答えた。 「大丈夫、容体は安定してるよ。ずっと眠っている」 「そうですか」 よかった、と、ソレントはホッと息を吐きだした。 「セイレーン、疲れているところ申し訳ないのだが、もう一つだけ頼みたいことがあるんだ。構わないだろうか?」 「はい、何でしょうか?」 礼儀正しく返答しながら、こんな物言いをする人ではなかったのに……と、ソレントはぼんやり考えていた。 「オレはこれから双児宮に帰ってくる。その間、すまないがジュリアンを頼む」 「双児宮へ?」 少し驚いたようにソレントが目を瞠ると、カノンはまた即座に頷き 「ああ。サガとアイオロスに……事情を説明してくる。多分、二人とも心配して寝ずにオレの帰りを待っていると思うから」 それはカノンにとっては、想像に難くないことであった。きっと二人して双児宮で、一睡もせずにカノンの帰宅を待っているに違いない。 せめて何かしらの形で一報入れることが出来ていればよかったが、カノンの方にもとてもそんな余裕はなく、夜が明けようかという今の今まで放置することになってしまったのだ。 それに事は電話で話せば済むような問題でもない。ここは一度双児宮に戻り、きちんと事情を二人に説明する必要性があった。 「心配しなくていい、ちゃんと戻ってくる」 無言のまま自分を見つめているソレントに、カノンは苦笑を向けた。 「……お願いします」 ジュリアンがそれを望んでいるのであろうことは、ソレントにもわかっている。そしてカノンも――一時的にかも知れないが―――ジュリアンのその望みを受け入れてくれるつもりでいるようだ。 複雑な思いも不安もあったが、それらの私情を全て押し殺し、ソレントは小さくカノンに頭を下げた。 「それじゃ、もう少しの間ここを頼む。なるべく早くに戻るようにするから」 「わかりました。その前にカノン、私からも一つだけお願いがあるのですが」 「何だ?」 短く聞き返したカノンの表情が、僅かに強張っているのがソレントにはわかった。 ソレントは思わず内心で苦笑を洩らし、 「くれぐれも、ジュリアン様の前で私を『セイレーン』と呼ばないように気をつけて下さい。どうも貴方は、すっかりそれが癖になっているようですから」 言いながらソレントは、初めてカノンに向かって笑って見せた。 「あ、ああ、そうだな。十分気をつける」 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした後、カノンはソレントにつられるような形で笑顔を作った。 双児宮に戻ると、カノンが予想していた通り、アイオロスとサガが二人でカノンの帰宅を待っていた。 「カノン!」 カノンがリビングに入ると、待ちかねていたアイオロスが勢い良くソファから立ち上がり、カノンの元へ駆け寄った。 「お前、一体どうしたんだ? 何の連絡もよこさずにこんな時間まで……」 「ごめん、アイオロス。ちょっと色々あって連絡できなかったんだ」 アイオロスはカノンを咎めているわけではない、ただただ心配しているだけなのだ。カノンもそれがよくわかっていたから、まずは心配をかけたことを素直にアイオロスに詫びた。 そしてカノンはアイオロスの目がほんのりと充血していることに気付き、やはり二人とも昨夜は一睡もしていないのだということを確信した。 「兄さんも……心配かけてごめん……」 アイオロスにやや遅れて自分の側に来たサガにも、カノンは同じように詫びた。そんな弟に向かって、サガは無言で小さく首を左右に振った。誰よりも深く強い絆で結ばれている双子の兄弟、例え事情はわからなくとも、カノンの苦しいその心情だけは、しっかりとサガに伝わっていたのだ。 「事情は今から説明するよ。疲れてるところ悪いけど、話終えるのに少し時間がかかると思う。構わないか?」 「私達は構わんが、お前の方こそ疲れているんじゃないのか? 顔色が悪いぞ、少し休んでからにしたらどうだ?」 相当に気を揉んでいただろうに、アイオロスはそれでもカノンを気遣った。それだけ今のカノンは、誰の目から見てもはっきりとした疲労が顕になっていた。 「サンキュ。でもすぐにジュリアンのところに戻らなきゃいけないから」 「ジュリアンのところに戻るって、お前……」 カノンはアイオロスの気遣いをやんわりと謝絶すると、力のない微笑みを浮かべた。 こんなカノンを見るのはアイオロスは初めてで、それ以上何と言っていいのか、言葉を見つけることが出来なかった。 「わかった、それではお前の話を聞こう」 少しして、そう決断したのはサガだった。 「サガ」 いいのか? と問い掛けるように振り返ったアイオロスにサガは黙って頷きを返し、 「でもコーヒーくらいは淹れよう。それぐらいの時間はあるだろう? カノン?」 そう問い返しながら、弟の方へ優しい眼差しを向ける。 「うん。ありがとう、サガ……」 それが兄の、今出来る精一杯の気遣いなのだということに、もちろんカノンは気付いていた。 アイオロスと兄のそんな優しさがカノンの胸に痛いほどに染み渡り、感謝と申し訳ない気持ちとが膨らんで、内側からカノンの胸を圧迫したのだった。 カノンの話が終わる頃には、サガが淹れたコーヒーはすっかり冷めきってしまっていた。 「ごめん……アイオロスにもサガにも、あれだけ気をつけろと言われてたのに……」 先刻以上に濃い疲労の色を滲ませて、カノンは両膝の上に肘をつき、組んだ指の上に額を乗せてうな垂れた。 「謝ることはない。こうなる危険性をわかっていて、それでもお前を行かせてしまった私達にも責任はあるんだ。お前だけが責任を感じることじゃない」 これはアイオロスとサガが、一番恐れていた最悪の結果である。こうなることを危惧していたからこそ、二人は強固にカノンがジュリアンに会うことに反対していたのだ。 だがアイオロスは、カノンを責めなかった。責めるつもりもなかった。カノンには気休めにしか聞こえていなかったろうが、これは正真正銘アイオロスの本心であった。 自分も、サガも、そのことを十分に承知していながら、それでもカノンの悲壮とも言える熱意に負け、カノンを止めることが出来なかったのだ。強引に止めようと思えば、止めることは出来た。だからそうしなかった自分たちにも、間違いなく責任の一端はあるのである。 だがここで責任の所在ばかりを言い合ったところで埒は明かない。 アイオロスは短い吐息を一つついてから、気を取り直して先を続けた。 「済んでしまったことを悔やんでも仕方がない。これからのことを考えねばな」 「ああ……」 顔を伏せたまま、カノンもアイオロスの言うことに頷いた。 「とにもかくにも、まずは彼の体のことが最優先だが……。どうなんだ? 彼の容体は。大丈夫なのか?」 「精神的なものだから、気を落ち着けてゆっくり休んでさえいれば回復するそうだ。でも多分、短くても4〜5日は入院することになるとは思うけど」 口には出さなかったが、ジュリアンが順調に回復するか否か、それは自分の出方次第にもよることをカノンは理解していた。 「そうか、それならよかったが……それじゃその間お前はずっとジュリアンの側についているつもりなのか?」 「ああ、ジュリアンがあんなことになったのは、オレのせいだからな。せめて退院するまでは、しっかりあいつについててやるのが義務だと思ってる」 そうだな……と、アイオロスも独り言のように呟いて、カノンの言うことに同意した。 本音を言えば積極的に賛成しているわけではなかったが、ここで引き止める方がカノンにとって酷であることを、アイオロスもわかっていたからだ。 「だがなカノン、そこまではいいとしてもその後はどうする?」 「その後?」 「ああ、そうだ。不完全な形なのはせめてもの救いだが、それでも彼はお前のことを思い出してしまった。となると、容易にはお前のことを離してはくれんだろう」 ジュリアンが療養している間はともかく、それ以降のことがアイオロスには気がかりだった。 ジュリアンがどれだけカノンの残像を追い求めていたか、アイオロスもよく知っている。例え記憶の再生が不完全であっても、過去の自分がカノンを愛していたことにジュリアンが気づくのは、そう先の話ではないはずだ。或いはもう、気付いているのかも知れない。 朧げだった残像がはっきりとした形をなし、そして実体までもが自分の目の前に現れた今、ジュリアンは再び掴んだカノンのその手をそう簡単には放してくれないだろう。 最終的に放してくれることになったとしても、その時にはジュリアンもカノンも、また心に相当な傷を負うことになるに違いないのだ。アイオロスはそれが心配で仕方がなかった。 「それは……」 それ以上は言葉が続かず、カノンはまたも沈黙を余儀なくされることになった。 わざと考えないようにしていたが、恐らくはアイオロスの言う通りになるであろう事はカノンにも予想がついていたからだ。 「お前には酷なことを言うようだが、これは避けては通れん問題だ。私が言わなくてもお前自身よくわかっていると思うが、敢えて言うぞ。ジュリアンとお前、双方が傷つかずに済めば一番いいが、正直、それは無理な話だろう。ジュリアンかお前のどちらか、或いは双方が傷を受けることは避けられん。いずれにせよ、行動の選択肢はかなり限られてこざるを得んぞ」 「ああ、わかってる」 視線をテーブルの上に落としたまま、カノンは力なく頷いた。 選択肢が限られてくると言うよりは、二者択一しかないと言っても過言ではない。そのことはカノンも、アイオロスも、サガも、口には出さないまでも十二分に理解はしていた。 「これだけはやりたくはなかったが……」 それぞれの主観的に長かった沈黙の時を破ったのは、ここまで何も言わずにずっとカノンとアイオロスの話に耳を傾けていたサガだった。 サガの静かな声が耳に届くと同時に、カノンとアイオロスの視線がサガの方へと転じられ、サガは交互に二人の顔を見遣った後、やや躊躇いがちに重い口を開いた。 「ジュリアンの記憶を、今一度消すしかないかも知れん」 この場を取り巻く空気に、瞬間鋭い緊張が走った。 「ジュリアンの記憶を消すって、サガ、お前……」 無論、それがサガに可能であることは、アイオロスももちろんよくわかっている。 人の精神を操る技を持つサガにとって、普通の人間となったジュリアンの記憶を操作することなど、確かに簡単な話であろう。 だが――― 「本当は人為的に彼の記憶を消すような真似は、私もしたくない。だから出来ればこれだけは避けたかったのだが、こうなってしまうと致し方ないかも知れん」 サガ自身が言明したように、出来ればこの方法だけは選択したくはなかった。これは本当に最悪の状況に陥った時に使うべき、最後の最後の手段だとサガは思っていたからだ。 その気持ちに今も変わりはなく、そんなことをせずに済んでくれればと願ってサガは今までずっとこれを自分の胸の内だけに止めておいたのである。 だがそんな願いも虚しく、最悪とまではいかないにせよ、これを選択肢に入れざるを得ない事態になってしまったことは確かだった。 そしてサガにそれが出来るということは、つまりはカノンにも同様の事が出来るということだ。 カノンは何も言わないが、その手段を考えていないでもなかっただろう。ただやはりサガと同じように、出来ることなら使いたくはない手段であるに違いない。アイオロスにもそれがわかったし、ということは言うまでもなくサガにもわかっているはずである。 「お前にそれをやれとは言わん。その時は、私がやる」 サガとて心が痛まないではない。それでもカノンが感じているであろう心の痛みに比べれば、ずっとずっと軽いものであるはずだった。 「ありがとう、兄さん……」 こみ上げてくる感情を懸命に抑え、カノンは喉の奥から声を絞りだした。 「でも……どうしてもそうしなければいけなくなったら、オレがやる。いや、オレがやらなきゃいけないことだから……」 「カノン」 先だってサガとアイオロスの前で断言したように、全ての責任を取らねばならないのは自分なのだ。誰に頼ることも出来ないし、頼ってはいけないし、頼るつもりもなかった。例え兄が、それを望んでくれたとしても。 「ただ結論はもう少しだけ待って欲しい。せめてジュリアンが回復して退院するまでは、それまではあいつの望み通りにあいつの側に居たいと思う。勝手なことばかり言って本当にすまないと思ってる。でも今は結論は出せない、ごめん」 カノンは深々と、サガとアイオロスに頭を下げた。 「顔を上げなさい、カノン」 即座に、サガの柔らかな声が返ってくる。応じてカノンがゆっくりと顔を上げると、優しい微笑みを湛えたサガが、やはり優しい瞳でカノンを見つめていた。 「焦らすつもりはない。お前自身が納得のいく結論を見つけるまで、よく考えるといい」 「サガ……」 「だがなカノン、何でも一人で背負い込もうとするな。私達も出来る限りの協力はする、したいと思っている。だからもし私達に出来ることがあれば、その時には迷わず相談して欲しい。いいね」 やんわりと無茶だけはしないように弟を制して、サガはカノンに向かって笑みを深めて見せた。 「………うん」 再び顔を伏せたカノンは擦れる声で短く返事をし、そのまま二度、三度と頷きを返した。だが落とした視線を上げることだけは出来なかった。 目と目を合わせてしまったら今度こそ本当にサガに縋り付いてしまいそうで、この時カノンはまともにサガの顔を見ることができなかったのである。 |
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