そして一週間後。
順調に回復したジュリアンは視力も体力も取り戻して、無事に明日退院の運びとなっていた。
この一週間、カノンはソレントと共に欠かさずジュリアンの病室を見舞った。ジュリアンをここに運び込んだ日以外は泊まり込むことはなかったが、それでも朝から晩まで、文字通りジュリアンにつきっきりで一週間を過したのである。

「入院が長引かなくてよかった。でも無理は禁物ですよ、ジュリアン様。退院してもしばらくはゆっくりと養生なさって下さい」

「わかっています。ソレントにもさんざん言われました。貴方達二人は、揃って判を押したように同じことを言う……私はそんなに聞き分けの悪い人間ではありませんよ」

ソレントはともかく、カノンの口調は言葉遣いこそ丁寧だが明らかに自分を子供扱いしていることが見て取れて、不快ではなかったがちょっと面白くなかった。
28歳のカノンからすれば、12歳も年下の自分など確かに子供にしか見えないだろうが、そうとわかってはいてももう少し対等に見て欲しいという思いがジュリアンにはある。殊更に眉を顰めて見せて、ジュリアンは少し拗ねたようにカノンに答えた。
子供扱いをされてジュリアンが拗ねていることはわかったが、カノンはその程度のことは気にも止めずにさらりと受け流し、そして涼しい顔で言葉を繋いだ。

「ソレントはジュリアン様のことが心配なんです。彼は貴方のことを一番良く知っている人間です、貴方がすぐに無理をなさる人だということもよくわかっている。だから心配で堪らないのでしょう」

「私はそんなに、彼に心配をかけているのでしょうか?」

びっくりしたようにジュリアンはカノンに問い返した。
カノンはほんの少し苦笑の混じった微笑をジュリアンに返すと、

「退院したらすぐにでも慰問の旅を再開したいと、ソレントに言ったそうじゃありませんか。昨日の帰りに彼に聞きました。医者にまだ療養が必要だと言われたばかりの方がそんなことをおっしゃっては、心配するなという方が無理な話でしょう?」

やんわりと少し窘めるように、そう言った。

「それはそうかも知れませんが……」

ジュリアンは明朝退院後、一晩を自宅で過ごした後にスイスの別荘へ療養に行くことになっている。ストレス性の疾患ということで、医師より更なる休養を勧められたからだ。
だがもうすっかり元気になったと確信しているジュリアンは、すぐにでも水害を受けた被災地への慰問を再開したいからと、その転地療養に難色を示していた。結局ソレントに説得されて渋々承知はしたものの、完全に納得したかと言われればそうではないようだと、昨夜ここからの帰途上カノンにその話をしながらソレントは苦笑いをしていたのである。
因みにそのソレントは当然のことながらジュリアンの転地療養に付き添うことになっており、その準備と明日の退院の準備とを整えるために、今晩はカノンより一足先にジュリアンの病室を辞して帰宅していた。
本当はカノンもソレントと一緒に帰るつもりでいたのだが、もう少し居て欲しいとジュリアンに引き止められ、そのままカノンだけが病室に残ったのである。
現在の時刻は既に午後の9時を回っているが、本来午後7時までと定められている面会時間も特別室のジュリアンには関係なかった。

「ジュリアン様のお気持ちもわかりますが、もうしばらくはご自分のお身体の事だけを考えて、ゆっくりと静養されるのがよろしいでしょう。結局はそれが一番の早道になるかと存じますし、ソレントに余計な心配をかけずにすむでしょう」

過日地球上を襲った水害は、ポセイドンに憑依されたジュリアンが引き起こしたものである。当時の記憶は失われても、その罪悪感だけはジュリアンの中に色濃く残り、それがジュリアンを駆り立てているのだということはカノンにもよくわかっていることだが、今しばらくはそれを忘れ、自分のことだけを考えてもいいではないかとカノンは思っていた。
裏で糸を引いていた、またジュリアンをこんな風に追い込んだ張本人の自分がそんなことを思うなど、虫がいいにも程があるが。

「そうですね……」

自分が自分で思っていた以上にソレントに余計な心配をかけていたのだということをカノンに言われて初めて気付いたジュリアンは、神妙な面持ちになって呟くようにそう言いながら頷いた。

「それでなくとも私は今回の件で、ソレントにも貴方にも随分心配をかけてしまっている。それなのにこれ以上心配をかけるような真似をしては、それこそ天罰が当たってしまいますね」

少し考えこむように黙った後、気を取り直したようにジュリアンは顔を上げ、そして冗談めかしたような軽い口調でカノンに言った。

「いえ、私のことは……」

元はと言えばこんな事態を招いた原因の全ては自分にあるのだ。それこそ天罰が当たって然るべきなのはジュリアンではない、自分なのである。
だからこんな風にジュリアンに気遣われる方が、カノンにとっては辛かった。

「ですがカノン、こんなことを言っては本当に天罰が当たってしまうかも知れませんが……」

カノンがそれ以上何も言えずに口を噤んでいると、カノンに笑顔を向けていたジュリアンの表情が再び一変し、そこに暗い影が差した。

「本心の本心を言えばね、カノン、私はもう少しの間ここに入院していたかった。すぐに慰問を再開したいと思う一方で、もうしばらくの間ここに居たいと思っていた。これは嘘偽りのない、今の私の正直な気持ちなんです」

「何故です? 入院生活なんて楽しいものでもないでしょう?」

一般病棟に比べれば、この特別室は確かに快適だろう。病室はちょっとしたホテルのスィートルーム並の設備だし、待遇だって段違いだ。
だがそうは言ってもやはり病院は病院である。独特の閉塞感と圧迫感、そしてどうしたって鼻につく薬の匂いは拭いようがなく、お世辞にも居心地のいい場所とは言えない。カノンだったらこんなところ、一日だって居たくはない。

「ゆっくりお休みになりたいのなら、スイスの別荘の方が何倍も快適ですよ」

強制的に病院に閉じ込められてでもいない限り、気分的にのんびりしていられないというのもあるのかも知れないが、それも気の持ちよう一つであろう。
軽く応じてカノンはくすりと微笑を溢したが、ジュリアンの表情は全く晴れなかった。

「いえ、そういうことではないんです」

ジュリアンは小さく首を左右に振ると、改めてカノンの顔を見つめ直した。

「ここに居れば……ここに居る間だけは、貴方はこうしてずっと私の側に居て下さるでしょう?」

「え?」

思わずカノンは息を飲み、大きく目を瞠ってジュリアンを見返した。

「貴方は私が倒れたことで、罪悪感を感じておられる。それが何故なのか私にはわかりませんし、以前お約束したように詮索するつもりもありません。でも貴方がその罪悪感から、こうしてずっと私についていて下さっているのだということはわかっています。そのことについては申し訳なく思っていますが、それでも私は貴方とこうしていられることが嬉しかったのです」

ジュリアンの瞳が、今までよりはっきりとした熱を湛えて潤んでいることに、カノンは気付いた。
それはかつて海底神殿で、常に自分に向けられていたものと全く同じであった。

「貴方にもソレントにも迷惑をかけました。でも反面で、貴方がいつもこうして私の側に居てくれることが嬉しかった。ここに居るかぎり、貴方はずっと私の側に居てくれる。ですが退院してしまったらそういうわけにはいきません。退院したら、貴方は私の元から離れていってしまう。それを考えたら堪らなくなってしまって……」

ジュリアンはカノンから視線を外し、淋しげに長い睫毛を伏せた。

「バカみたいな話ですが、今私はこのまま時が止まってしまえばいいとすら思っています。貴方が辛い思いをしていることがわかっていても、それでも私は……」

ジュリアンの手が、きつくベッドのシーツを握り込んだ。その手はジュリアンの内心を表すかのごとく、小刻みに震えている。

「ジュリアン様……」

事態はやはりアイオロスが懸念していた通りの、そしてカノンが漠然と予測していた通りの方向へ進んでいた。
ジュリアンはカノンが再び自分の前から消えてしまうことを恐れ、掴んだその手に必死に縋り付いているのだ。
そうなるであろうとわかっていたことでも、いざ現実のものとなると予想していたより遥かに強く胸が締めつけられた。

「一生の別れになるというわけでもございますまいに、何をそんなに悲しそうにしていらっしゃるのです? いつでもお会いできるではありませんか」

努めて明るくカノンは言い、自分の手をそっとジュリアンの手の上に重ねた。

「確かにこの一週間のように毎日というわけには参りませんが、ジュリアン様からのお召しがあれば私はいつでも馳せ参じます」

「カノン」

ジュリアンが緩慢な動作で、伏せていた瞳をあげた。

「お約束いたします。ですから、そのように悲しそうなお顔をなさらないでください」

カノンは濃くも薄くもないジュリアンの碧眼を覗き込み、優しく宥めるようにジュリアンに言った。
ジュリアンの瞳の奥が、ゆらりと不安定に揺らめく。

「……私の元へ……来てはいただけませんか?」

「え?」

それは正に蚊の鳴くような、小さな小さな声だった。
聖闘士であるカノンですら、聴覚を研ぎ澄ませていなければ聞こえない程に。

「私の元へ……来ていただきたいのです。自分勝手なわがままを言っているのは百も承知しています。ですが私は、私は貴方にずっと私の側にいて欲しい、私の側から離れないでいて欲しいのです」

一言一言をまるで絞り出すかのようにして、ジュリアンはカノンに懇願した。
だがカノンは、やはり即答はできなかった。
それがジュリアンの望みであることがわかっていながら、いずれ言われるであろうことはわかっていながら、そしてこれが選択肢うちの、いや、二者択一のうちの一つであることもわかっていながら、それでもカノンは答えられなかった。

「ジュリアン様、それは……」

出来ないという最後の言葉を、カノンは飲み込んだ。
何故ならカノン自身が未だに迷い、悩み、暗中模索を続けているからだ。
この一週間、カノンはずっと悩み、苦しみ、考え続けてきた。自分がどうしたらいいのか、どうするべきなのかを。
だがどんなに考えても答えは見つからず、結局この期に及んでもまだカノンは、自分が選ぶべき道すら決めることが出来ずにいたのだ。
カノンは何も言えず何も出来ず、鉛のように重くのし掛かる無音の時だけが容赦なく流れ続けていた。

「………すみません………」

まるで言語の泉が枯渇してしまったかのように、一言をも発することが出来ずカノンが黙りこくっていると、やがて沈黙に耐え兼ねたか、それとも先に言うべき言葉を探り当てたか、ジュリアンが口を開いて漸くその重苦しい沈黙の時を破った。

「貴方の都合も考えずに、勝手なことばかりを言いました。許して下さい」

少し冷静さを取り戻したか、力がないながらも落ち着いた口調でジュリアンはカノンに詫びた。

「こんなこと、いきなり言われても貴方を困らせるだけだとわかっていた。だから言うまいと思っていたのに……」

自嘲気味に呟いて、ジュリアンは片手をこめかみの辺りに添えた。
それでも言わずにはおれなかったジュリアンの胸の内を正確に察し、カノンは心を痛めた。

「栓無いことを申し上げました。許して下さい」

「いいえ、ジュリアン様」

謝罪は不要だという代わりにカノンはゆっくりと首を左右に振り、そしてはっきりとした笑顔を作った。

「カノン……」

ジュリアンはゆるゆると両腕をあげると、それを静かにカノンの方へ伸ばした。
ジュリアンの手がカノンの肩にかかり、背に回され、気がついたときにはカノンの身体はジュリアンの両腕の中に抱き込まれていた。

「ジュリアン様」

予期していたわけではなかったが、カノンはジュリアンの行動に驚きはせず、身動き一つすることなくされるがままにジュリアンの腕の中にその身を委ねた。

「貴方には何か、守らねばいけない大切なものがある。薄々とですが、そのことには気付いていました。だから私がどんなにそれを望んだところで、貴方は私の元へは来てはくれない。むしろ貴方を苦しめてしまうだけだということはわかっています。でも……」

ジュリアンはカノンを抱く腕に力を込めた。

「最後に一つだけ、あと一つだけわがままを聞いて下さい。今夜はこのままずっと私と一緒にいて下さい、私の側を離れないで下さい……お願いします……」

ジュリアンの声がまるでひび割れたように震えていた。声だけではない、カノンを抱きしめた腕も、いや、ジュリアンの全身がカノンを失ってしまうのではないかという恐怖に打ち震えているのだ。
今のジュリアンにとってそれは既知の、それでいて未知の恐怖であるに違いない。微細なその振動がカノンの肌を突き抜け、痛みを伴って心の奥底を重く揺らした。

カノンは何も言わなかった。そして何も聞き返さなかった。何を言う必要も、何を聞く必要もなかったからだ。
だがこの時、カノンの心の中には一切の戸惑いも躊躇いも迷いもなかった。

沈黙を守り通したまま、カノンは静かに、ゆっくりと、両腕をジュリアンの背に回した。
それがカノンの、答えだった―――。




カーテンの隙間からうっすらと差し込んできた一筋の夜明けの光が、ベッドに半身を起こしているカノンの素肌を柔らかく擽った。
隣で眠るジュリアンを見下ろしながら、カノンはほんの数ヶ月前、太陽の光が差すことのない海底神殿で、幾度かこんな風にして朝を迎えていたことをぼんやりと回想していた。
ジュリアンの寝顔は、あの時と寸分違えるところはない。だが場所も、各々を取り巻く状況も、そして自分たちの関係も、この数ヶ月の間に大きく変化している。それがほんの少しだけ、不思議に思えるような気もしていた。
何より決定的に変わったのは、カノンのジュリアンに対する気持ちだった。
あの時のジュリアンはただの傀儡であり、自分の野望のための道具にすぎなかった。邪悪な心に満たされていたカノンはジュリアンを利用することしか考えておらず、彼を一人の人間としてなど見なしてはいなかった。
だが今は違う。
今は人と人としてジュリアンと向きあい、そして彼を気遣い思いやる気持ちがカノンには生まれていたのだ。
その中で何が一番大きくカノンの胸の内を占めているのかと問われれば、それは『贖罪』という感情だろう。
ジュリアンが一心に自分を愛してくれているようには、自分はジュリアンを愛してはいない。例え彼の愛を受け入れたとしても、それは罪の意識からくる代償行為に過ぎない。
本当にそれでいいのだろうか―――?。
一時的にはそれでもいいだろう。だが時間が経つに連れ、その温度差がいずれ大きな歪みを生じさせることになるかも知れない。そうなれば今以上に、ジュリアンに大きな傷を負わせることになる。ならばいっそのこと、全てを忘れさせた方がいいのかも知れない。
最終的にはどちらがジュリアンの為になるのか、カノンはこの一週間ずっと自問自答を続けてきたが、答えは二転三転し、一向に定まる気配を見せなかった。
だがこれ以上決断を先延ばしにすることは出来ない。
カノンは自らの理性を総動員して数多の感情と残存する迷いとを一気に振り払うと、静かに右手を上げ、そっとその手をジュリアンの頭の上に置いた。


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