ジュリアンが目を覚ます前に、カノンはひっそりと病室を抜け、テレポートで双児宮へ戻った。
朝靄の残るこの時間、各宮の主達もまだ眠りから覚めてはおらず、十二宮はいつも以上にひっそりと静まり返っていた。
力のない足取りで白羊宮、金牛宮を抜け自宮へ帰り着いたカノンは、同様に静まり返っている自宮の私室の前で重い吐息を一つ溢してから、物音を立てないようにして中に入った。
結局昨夜も何の連絡を入れることも出来なかったので、或いはサガはまた一睡もせずに自分を待っているのではないかとカノンは懸念したが、その予想に反してリビングは無人だった。
ちゃんと寝てくれたんだ、と安堵して、カノンは疲弊した身体をソファに沈めた。サガに話さなければならないことはあるが、眠っているところをわざわざ起こす必要もない。
どうせあと1時間もせずにサガは起きてくるだろう、それまで少し休みながら待っていればいい……そう思って緩く両の瞼を閉じたとき、私室の奥からドアの開閉する音が聞こえてきた。
閉じた瞳を開け、カノンは音のした方向へと振り向いた。

「サガ……」

そうして間もなく、サガがリビングへと入ってきた。

「おはよう。ごめん、もしかしてオレが帰って来た気配で、目を覚ましちゃった?」

「いや」

カノンの問いに首を振ると、サガはゆっくりとカノンの方へ歩み寄った。

「それじゃもしかして、ずっと起きてオレを待ってたの?」

そうして隣に腰をかけたサガに、カノンは重ねて問うた。サガは自室から出てきたようだし、パジャマを着ているところを見るとわざわざ起きて待っていたという風でもなかったが。

「起きて待っていたと言うより、眠れなかったと言った方が正解だな」

さらりとサガは答えたが、起きていたにせよ眠れなかったにせよ、その原因は自分にあることに間違いはない。

「ごめん……また心配かけて……」

つい一週間前も、同じようなことでサガに心配をかけてしまったばかりだ。まったく進歩のない自分に、カノンは腹立たしさすら覚えていた。

「せめて一言でいいから連絡を入れてくれと、一週間前に言ったばかりだろう?」

サガの言葉はともかく、口調は決してカノンを窘めているものではなかった。
むしろ冗談めかしている風にも聞こえたが、それだけに尚のこと申し訳なさが募る。

「ごめん………」

カノンは、ただその一言を繰り返すことしか出来なかった。

「まぁ、起きていたのは私の勝手だ。お前ももう子供じゃないのだし、放っておいてよかろうと思ったのだが、どうも性分でな。困ったものだ」

自分自身に呆れたようなことを言って、サガはくすっと小さく笑った。
確かにサガが心配性なのは昔からだ。そのサガの性分をよくわかっているくせに、自分はいつもいつまでもサガに心配をかけるようなことばかりをしてしまう。心苦しくて、息が詰まってしまいそうだった。

「だが起きていてよかったようだな。私に何か話したいことがあるのだろう? カノン」

カノンが次の言葉を見つけられずに黙り込んでいると、それを察したのか、サガがその先端を開いてくれた。驚いたように目を瞠り、カノンは思わずサガの顔を凝視したが

「ははは、やっぱサガには隠し事は出来ないや」

やがて力のない乾いた笑い声を立て、遠回しにそれを肯定した。

「……決心がついたのか?」

そして当然、サガにはその話の内容の見当もついていた。ついていたというよりも、これ以外にはあり得なかった。余計なことは一切言わず、サガは核心を突いたその一言でカノンに聞き返した。

「うん……」

カノンは頷き、サガから外した視線を自分の膝元に落とし、ほんの一瞬だけ間を作った。そして

「ジュリアンのところへ行く」

再びその視線をサガへと戻し、真っ直ぐにサガの瞳を見つめ返しながら、はっきりとその決意を表明した。声こそ小さかったものの口調は力強く、その言葉にもカノンの瞳にも迷いは微塵も残っていなかった。

「そうか」

サガはこうなるであろうことも予測していたのか、驚くことも動ずることもなく、ただいつも通りの穏やかな声で相槌を打っただけだった。
そこから十数秒ほど沈黙をした後、サガは再び口を開いた。

「ジュリアンの記憶を消さなかったのか?」

それは問いではなく、確認だった。
サガはカノンの決断に異を唱えているわけでは決してない。ただはっきりと、カノンの口から聞いておきたかったのだ。

「消せなかった……」

ゆるゆると、カノンの頭が左右に振られた。

「一度はそうしようと思った。でもやっぱり出来なかった……」

つい先刻カノンは、一度はジュリアンの記憶を消そうと試みた。その時点ではカノンは、もう一つの道の方を選択していたのだ。

―――だがカノンは、その道を進むことが出来なかった。

確かにジュリアンの記憶を消すことが、誰が傷つくこともない一番平和な手段だったかも知れない。いや、誰も傷つかないと言うのには語弊がある。少なくともここに至るまでの段階で、ジュリアンは既に傷を負ってしまっているのだから。
だから傷つけないというよりはむしろ、負わせた傷ごと忘れさせてしまうと言った方が正しいだろう。
いずれにしても、自覚無自覚を問わず、ジュリアンとカノンの双方が受ける傷が最小限で済んだであろうことは間違いはない。
自分のことはともかく、やはりそれが一番ジュリアンの為だと一度は決意をしたカノンだったが、ジュリアンの記憶を消そうとしたその瞬間にカノンはもう一つのことに気付いたのだ。
そう、もっともらしく理由をこじつけたところで、結局はジュリアンの為ではなく、自分がそこから逃げる為の方便に過ぎないのだということに―――。
自分のことを忘れさせてしまえば、自分の存在が今度こそジュリアンの中から完璧に消え去ってしまえば、ジュリアンを苦しませずに済む。そして自分は今のこの満たされた生活を失わずに済む……。カノンはずっとそう考えていたのだ。
だが自分の意識がはっきりとその思惑を自覚した時に、カノンは初めて、ジュリアンの為と言いながらも結局は自分本位にしか物を考えていなかったのだということに気付かされたのだ。
それと気付いてしまったカノンにはもう、ジュリアンの記憶を消すことなど到底出来なかったのである。

「何が一番あいつの為になるかって、それだけを考えてたつもりだった。でもそうじゃなかった。オレはそれを言い訳にして、自分が逃げることを考えてたんだ。最低だよな、ホント」

サガに向けてそう言いながら、カノンは自分自身を嘲笑した。サガはそんな弟を、痛ましげに黙って見つめていた。

「客観的に見ても、あいつの記憶を消してしまうのが、双方にとって一番楽で無難な方法だってことはわかってる。余計なことを考えないでそうしちまった方が、結果的にはあいつの為にもいいのかも知れない。でもさ、あいつ泣きそうになりながらオレに言ったんだよ……自分の側に居てくれって、自分の側から離れないでくれって、だから……」

カノンは一度そこで言葉を切り、昂ぶりかけている自らの気持ちを落ち着かせるように短い吐息を溢した。

「今のあいつがそれを望んでくれるのなら、それを受け入れたいと思った。そしてあいつがそれを望んでくれる限り、あいつがオレの存在を必要としてくれる限り、ずっとあいつの側に居続けようと、そう思った。そうしなきゃいけないって、思ったんだ。あいつはもうただの一人の人間だ。だからオレが海闘士に戻るとかそういうことじゃなくて、オレも一人の人間として、あいつの側であいつに仕えたいと思う。それが今オレに出来る最大限の償いだから……」

ジュリアンが自分の存在を必要としてくれていること、これだけは動かしようのない事実だった。
ジュリアンは恐らく、自分がどんなに愛してもカノンからは同様の愛は返ってこないであろうことに、薄々気付いている。だがそれでもジュリアンは、カノンに傍らに居て欲しいと望んでいるのだ。
それならば、例えそれが罪の意識からくる代償行為であったとしても、ジュリアンのその望みを受け入れることこそが己が取るべき責任であろうと、カノンは意を決したのだった。

「最後までわがまま勝手ばかりで、ごめん、兄さん。でもそのわがまま勝手を許して欲しい……ごめん……」

だがそれは同時に、罪深い自分を許し、聖闘士として認めてくれた女神の慈悲に対する背信に値するかも知れないことだった。
女神だけではない、自分を仲間として受け入れてくれた黄金聖闘士達、そしてアイオロスや兄をも裏切る行為かも知れない。もう二度とこの場所へ、兄の元へ戻ってくることは出来なくなるかも知れない。
それでもカノンは、ジュリアンの元へ行くことを選んだのである。

「何を謝ることがある? お前がそう決意したのなら、その通りにすればいい。私に遠慮することなど何もないのだぞ」

サガは自分に向かって下げた頭を上げるよう、カノンを促した。応じてカノンが顔を上げると、全く同じ蒼の瞳が三度正対し、全く同じ姿の互いを映し出していた。

「他の誰でもないお前の人生だ。お前自身が信じて決めた道だ、お前の思う通りに進めばいい。私達はお前が正しい道を選んだことを信じて、ずっと見守っているよ」

「サガ……」

サガは微笑みを湛えたまま、カノンにしっかりと頷きを返した。

「ありがとう、そして本当にごめん」

「だからもう謝ることはないと言っているであろう?」

この短時間でカノンの口から一生分の『ごめん』を聞いたような気がして、サガは思わず苦笑をした。つられてカノンも、微苦笑を浮べる。
だがサガからもカノンからも、その苦笑はすぐに消えた。

「もう、すぐに行ってしまうのか?」

「うん。今日の10時にジュリアンが退院するから、出来ればそれまでには……」

「そうか」

相槌を返しながら、サガはリビングボードの上の時計へ視線を転じた。時刻は午前5時をほんの少しだけ回っていた。

「ならばそれまでの間、少し休むといい。お前も昨夜は一睡もしていないのだろう」

「まぁね。でもそうも言ってられないよ、これから日本に行ってくるつもりだから」

「日本? 女神のところへか?」

「ああ。女神に事情をお話しして、お詫びをして来なきゃ。せっかくお許しをいただいて、聖闘士として認めていただいたっていうのに、またその御恩を仇で返そうとしてるんだからな」

そう言ってカノンは、一度消した笑顔を無理に作り直した。

「そのことならば案ずることはない。余計なことかも知れんと思ったが、女神には私とアイオロスから事情の全てをお話してある。こうなる可能性も含めてな」

「えっ?」

「女神もお前の思う通りにすればいいとおっしゃって下さった。だから大丈夫、女神のお許しはいただいてあるよ、安心しなさい」

「サガ……そんなことまで……」

大きく目を見開いたまま自分を凝視するカノンに、サガは今度は照れ臭そうな笑みを唇の端に浮べた。

「ただ時々は十二宮にも、そして日本の城戸邸にも顔を出すようにとおっしゃっておられた。だから女神のところには、お前の状況が落ち着いてから改めてご挨拶に伺うといい」

「うん……」

沙織の深い情けと優しさが、そして兄の思いやりが切ないほどにカノンの心に染み入った。それが涙になって、目から溢れだしてしまいそうになるくらいに。

「でもアイオロスには、ちゃんと話をしていかなきゃ。あいつ、いつも何時頃起きるかな?」

その涙を懸命に堪え、カノンは努めて明るくサガに問いかけた。

「アイオロスなら、あと一時間もすれば起きて黙っていても下りてくるだろう。あいつも昨夜はお前のことが気掛かりだったらしくて、後ろ髪を引かれるようにして帰っていったからな」

「そっか、あいつにも散々心配かけちまったなぁ……よく謝っていかないと。それから」

「それから?」

「サガのことも、よく頼んでいかないといけないしな」

カノンの言葉にサガはきょとんと目を丸めた後、今度は呆れたように眉間を寄せ

「別に私のことなどどうでもいい。それに何故アイオロスに私のことを頼む必要があるんだ? 私は子供ではないぞ」

「オレだってこれでもサガのこと心配してるんだ。今まではオレが側に居れたけど、これからはそうじゃないからさ。その分アイオロスに、よろしく頼んでおかないとと思ってね」

「何をバカなことを。弟に心配されるほど、私は落ちぶれてはおらんぞ」

心底嫌そうに顔をしかめるサガに、カノンは思わず声を立てて笑った。サガは面白くもなさそうに憮然としていたが、やがて諦めたようにやれやれと肩を竦め、溜息を漏らした。
そうしてひとしきり笑った後、カノンは突然サガの肩に頭を落とし、

「なぁサガ……アイオロスが来るまで、ここでこうしててもいいか?」

と、甘えるように言った。

「ああ」

サガは即座に頷くと、子供の頃よくそうしてやったように、そっと優しくカノンの髪を撫でた。
その温もりを懐かしく感じながら、カノンは静かに瞳を閉じ、一番安心の出来る兄の傍らでほんの束の間の休息に身を委ねたのだった。


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