カノンの予測した通り、バイアンとの話は夜半近くにまで及び、やはり今夜中に聖域へ帰ることは出来そうもなかった。もう少し簡単に済むかとも思っていたのだが、実際、カノンが海闘士を束ねていたころに彼が掌握していた様々な事項が、カノン自身が漠然と思っていたより遥かに多く、一通りそれを引き継ぐだけで優に半日以上の時間を費やすことになったのだった。

バイアンとの話し合いの中で、カノンは著しく簡略にではあるが正式にバイアンに海将軍筆頭を引き継ぎ、今までカノンが持っていた権限(本人はとっくの昔にそんなものはなくなっていたと思っていたが)を、彼に受け渡した。今後、海底神殿の責任者はバイアンと言うことになり、全てのことが彼の手に委ねられることとなる。最もカノンが今の今まで、むろん故意ではないにせよここを統括する責任を放棄していたので、これまでもバイアンが全てを代行していたわけであるから、別に何らこれまでと変ることがあるわけでもないのだが。まぁ、これも属に言う形式と言うやつで、必要であることには変りはない。面倒臭いことこの上なくもあったが、最後の最後くらいは最低限の責任を果たしてやるのも勤めだろうと、カノンはおとなしくそれに従ったのだった。

いずれにせよ、これで海底神殿における彼の責務は完全になくなったわけで、正直なところ肩の荷が下りたような気分のするカノンだった。

バイアンとの話が全て終わり、カノンが北大西洋の自室……だった場所へ戻ったのは、日付が変るほんの少し手前の時間だった。今からでも聖域に帰れないこともないが、アイザックを連れていかねばならないし、肉体的にと言うよりは精神的に少し疲れてもいたので、今晩もう一晩だけここに泊まることにしたのである。今から帰るのも、明日の午前中に帰るのも、ここまで来たらもう大差はない。そう思ってすっかり寛ぎモードに入ったカノンは、風呂に入ってから1人リビングでのんびりとワインなどを飲んでいた。

その時、私室のドアがノックされた。

こんな深夜に誰だ?と訝しみながら、カノンはソファから立ち上がった。最も海将軍の私室に、しかもこんな真夜中に来れる者など、やはり海将軍の階級を有する者以外にはあり得ないのだが。

カノンが小さくドアを開けると、そこにはソレントが立っていた。

「セイレーン……」

訪問者が判明するとカノンは警戒心を解いて、同時に半分も開けていなかったドアを大きく開けた。

「夜分に突然伺ってすみません」

相変わらず礼儀正しい物腰でソレントは頭を下げたが、口で言うほどには申し訳ないとも思っていないようだった。

「別に構わないよ」

だがカノンは気を悪くした風でもなく、微笑してそう答えた。

「もうお休みでしたか?」

カノンが既にパジャマ姿であることを見止めて、ソレントが聞き返した。

「いや、寝てたら起きてなんかきやしないさ」

図々しいことをしれっと言って、カノンは小さく肩を竦めた。そう言うソレントも、恐らくカノンがまだ起きているであろうと完璧にあたりをつけていたからこそ、こうして訪ねてきたのだろうが。

「そうですか……。こんな夜遅くに申し訳ないんですが、少しお邪魔してよろしいですか?」

「あ、ああ、もちろん……」

カノンはドアを全開にして、ソレントに中に入るよう促した。ソレントをリビングに通し、ソファに座らせると、カノンもその前に腰を落とした。

「悪ぃな、茶も出してやれないで。今これしかなくってよ」

言いながらカノンは、つい今し方まで飲んでいたワインをテーブルの端に寄せた。未成年であるソレントに、さすがにアルコールは勧められないが、かといって他に出してやれるものも今この場にはない。

「いえ、お気遣いなく」

ソレントは笑いながら、小さく手を振った。別に彼はここに、茶飲み話をしに来たわけではないのである。

「で?、どうしたんだ?。こんな時間にお前が来るなんて、急用なんだろう?」

カノンの方も、ソレントがただ何となく世間話をしにここへ来ただけだとは思っていなかった。用件を言うよう促すと、ソレントの表情がやや厳しいものに変った。

「急用……と言うか……。明日になれば貴方は聖域へ帰ってしまうのでしょう?」

「ああ、そのつもりだけど」

「明日では僅かな時間すら取ってもらえそうもなかったので、失礼を承知でこんな時間にお邪魔したのですが……シードラゴン、やはりお気持ちは変りませんか?」

「気持ち……って?」

「海龍の地位を返上し、海将軍筆頭を退くと言うお気持ちに、やはり変りはないのですか?と言うことです」

ソレントの言葉に、カノンはびっくりして思わず目を瞠った。正直それは驚いたからと言うよりも、何を今更という気持ちの方が強かったからであった。

「ああ、変らないけど……」

だが無論カノンはその本音の部分は言葉にはせず、やや曖昧気味に言葉を濁しつつ答えて頷いた。

「何故?」

「何故……って……」

そんなこと、もうさんざん言ったじゃねえか!と内心で思いつつも、やはりこれも言葉には出来ず、カノンはモゴモゴと口篭る。

「そんなに、海闘士であり続けることが嫌なのですか?」

「海闘士であることが嫌とか、そう言う問題じゃなくて……。その、何だ、だから元々ここにオレの席はなかったっつーか何つーか……。本来、オレはここに居て然るべき人間じゃないっつーかさぁ〜……」

これも既にはっきりと言ったことではある。昨日の今日でソレントがそのことを忘れていようはずもないのだが、にもかかわらず何故再びそれを持ちだしてきたのか、ソレントの真意がまるで掴めずカノンは困惑した。

「貴方の言い分は承知してますが、やはり納得がいかないので敢えて言わせていただきます。カノン、貴方は自分はここにいるべき人間ではないと言い切りますが、むしろその逆です。貴方は本来、ここに居て然るべきはずの人間なんです」

「セイレーン……」

「貴方が本来居るべき場所は、貴方が居なければいけない場所は聖域ではない、この海底神殿なんです」

「セイレーン、お前……」

カノンはますます困惑した。ソレントが聖域へ自分を呼びに来た際も確か同じようなことを言っていたが、その時とは微妙に口調の雰囲気が異なるのだ。カノンにもはっきりとはわからないのだが、今のソレントからはあの時には感じなかった何か悲壮感めいたものを感じる。一体何故、ソレントがこれほどまでにカノンがシードラゴンの海闘士であることに拘り続けるのか、その理由がカノンには皆目見当もつかなかったのである。

ソレントの内心を計りかねて、カノンが無言のままソレントを凝視していると、ソレントはまるでいたたまれなくでもなったかのようにカノンから視線を外し、それをテーブルの上に落とした。カノンの知るかぎり、ソレントがカノンに対してこんなはっきりしない表情や態度を向けたのは、これが初めてだった。

「ここにいれば……ポセイドン様が不在な以上、海将軍筆頭の貴方が海闘士の最高指導者、事実上のNo.1です。全てが貴方の思うがままになるんです……何に縛られることもなく……」

視線を落としたまま、途切れ途切れにソレントは言葉を繋いでいくが、発せられる言葉は理路整然を常とする彼からは程遠い、感情に任せただけとしか思えないものであった。

ソレントはこんなことを言うような人間ではなかったはずだ。今、彼が言葉にしていることは、そのまま彼が忌み嫌い続けてきたはずのもの……にも関わらず、ソレントはそれを楯としようとしているのだ。カノンをここに引き止めるために。

何かを企んでいるのか、或いはやはり命を狙ってのことなのか……そう考えれば合点も行くが、ソレントからは一切その気配は感じられず、これも信じ難いことだが彼が本気でカノンにここに留まって欲しいと願っていることが伺い知れるのだ。

何故?……恐らくは誰よりも自分を憎んでいたはずのソレントが、何故こうまで強固に自分を引き止めるのか。何故自分に、海闘士であり続けることを望むのか?。

「セイレーン……」

重苦しい沈黙の数十秒の後、カノンがソレントを呼んだ。ソレントがゆっくりと、顔を上げる。2人の視線が、再び正面からぶつかった。更に数秒の間を置いてから、カノンが静かに口を開いた。

「……かつてのオレは、正に今お前が言った通りのことを望んでいた。それを、いや、それ以上のものを欲して、オレは海皇を蘇らせて利用し、何もかもをこの手の中に収めようとしてた」

そう、以前の自分であれば、正にこの状況は願ったり叶ったりであったろう。聖域で存在を忌避され、隠匿されてた自分が、事実上の海界の支配者になる……あんなにも渇望し、手にしたいと望んでいたものが、今自分の目の前にあり、容易く手に入れることができる状況にある。それはカノン自身にもよくわかっていることだった。だがかつての自分が思い描いていた野望の1つであったそれは、今の自分には最早何の意味も持たないものになっていた。

「その結果、お前達には迷惑をかけた。いや、迷惑なんてレベルじゃない、それこそ死んで詫びても足りないくらいの罪を犯してる。そんなオレを許し、受け容れようとしてくれているお前達の気持ちは嬉しい、本当に嬉しいんだ。でも、ゴメン……今のオレにはもう、何も必要じゃないんだ。海闘士筆頭の地位も、海界の支配権も……。今のオレはただ……」

聖域で、兄の側で、愛する者や仲間達と静かに暮らせればそれでいい。今のカノンはただそれだけを、心の底から願っていた。

「聖域に帰ったって……貴方は単なるサガのスペアだ。いつまで経ってもそれは変らない。ただ存在を公に認められているか否か、それだけの違いで……あそこにいても貴方には、何の実利もありはしないはず。それでも貴方は、あの場所へ帰ると言うのですか?」

ソレントは先だっても同じような問いをカノンに投げていた。だが今日のそれは、過日のそれよりも更に直裁的で辛辣であった。

「ああ」

それでもカノンは動じず、やはり先だってと同じように一分の迷いも見せることなくはっきりと答えて頷いた。そんなカノンの不動の意志に気圧されたように、ソレントは瞬間息を飲んだ。だが……

「…………そんなに………」

間もなくソレントは、喉の奥から声を絞りだすようにして言葉を継いだ。

「そんなに帰りたいんですか?。サガの側に……いいえ……あの人の側に……」

ソレントの瞳に、今までとは違う色の光が揺らめいた。が、僅かに一瞬のことで、カノンはそれを見逃してしまっていた。

「あの人?」

それが誰を指して言っているのかがわからず、カノンが疑問符をつけて聞き返すと、ソレントは何をとぼけているのかとでも言いたげに、皮肉めいた笑みを唇の端に浮かべた。常日頃の明敏な彼であれば、カノンがとぼけているのかそうでないのかの区別くらい、簡単についたであろう。だが今のソレントの精神状態には微妙な影が落ちており、ソレントの冷静な判断力を鈍らせていたのだ。

「……彼ですよ、スコーピオンのミロ」

それでも律義にそう応じて、ソレントはそれと共に冷ややかな視線をカノンに投げた。

「ミロ?。どうしていきなり、ミロが出てくるんだ?」

実のところ、ソレントに本心の一部を言い当てられてはいたのだが、その程度のことではカノンは動じなかった。確かにミロも今頃心配でヤキモキしているであろうことは間違いないし、そのミロの側へ一刻でも早く帰ってやりたいとも思っている。でもだからと言って、それが理由の全てではない。戦いが終わったとはいえ、自分は女神の聖闘士として存在しているわけであって、ミロのために存在しているわけではなく、ミロと一緒に居たいがために聖域に居るわけでも聖域に帰りたがっているわけでもないのだ。聖域が自分のいるべき場所だから、居なければいけない場所だから、帰りたい……いや、帰らなければならないと言うだけの話である。

「しらばっくれなくてもいいですよ。貴方は私に彼のことを『親友』だと言いましたが、それは嘘だ。本当は彼は貴方の『恋人』なんでしょう?。そんなことくらい、すぐにわかりましたよ」

そう言われた途端、カノンの表情が僅かに動き、短く息を飲んだのがわかる。つまりそれは、カノンが間接的にソレントの言ったことを肯定したと言うことで、それによって確証を得たソレントは、冷笑を収めて不快げに眉を寄せた。

「あの時にも思いましたが、貴方らしくもない、随分と下手な嘘をつくようになりましたね。今もそうですよ……以前の貴方であれば、たとえ僅か一瞬でもそんな風に動揺を表に出したりはしなかったでしょう。傲然と平然と、嘘をつき通していたでしょうに……」

ソレントが次々と目の当たりにしてきたカノンの変貌の数々は、彼の改心が正真正銘本物であると言う何よりの証であった。だが驚くべきことに、本来であれば喜んで然るべきはずのその事実に、だがソレントは苦い思いを抱くことしかできなかった。

カノンは少しの沈黙の後、半ば諦めにも似たような小さな吐息を溢した。

「確かにお前の言う通り、あいつ……ミロとオレは、ただの友達同士という関係だけじゃない。でもお前にそれを言わなかったのは、わざわざ言うようなことでもないと思ったからで、別に他意があったわけでも嘘をつこうと思ってたからでもない」

それにミロはカノンにとって、恋人である以前に親友でもあるのだ。そう言う意味ではカノンはソレントに嘘をついたわけではないし、そもそも嘘をつくなんて意識すら、欠片も持ち合わせてなかったのである。

「結局のところ、どう足掻いても私達は勝てないと言うわけですね。サガにも、そしてミロにも……」

数十秒の沈黙の後、些か唐突に独語めいた呟きを漏らして、ソレントは大きく溜息をついた。

「えっ?」

ソレントの言っていることの意味がわからず、カノンは短く声を上げた。そんなカノンに力のない笑みを向け、ソレントは口を開いた。

「私が貴方を訪ねて聖域に行ったとき、貴方はミロと一緒にどこからか帰ってきましたね。その時、貴方は傍らを歩くあの人に笑顔を向けた。何気なく、自然に……。その笑顔を見た時、わかったんですよ……あの人が貴方にとって、どれほど大切な存在であるのかがね。だってあんな笑顔、貴方は一度たりとも私達には向けてくれませんでしたから……」

ポツリ、ポツリとソレントが言葉を紡ぎ始めた。それはまだ直接的な答えにはなっていなかったが、カノンはただ黙ってソレントの次の言葉を待った。

「確かに、貴方と私達とでは真に目的とするところは違っていたかも知れない。貴方にとって、所詮私達は道具にしか過ぎなかったかも知れない。それでも、一部共通する目的を達するために歩を同じくしていた時間は、決して短いとは言えなかったはずです。それだけの時間を貴方は私達と共有してきた……少なくともミロよりは、私達の方が貴方と共に居た時間は長かったはずだ……」

そこで言葉を切ったソレントは、フッと苦笑めいた笑みを溢した。

「……セイレーン……」

「でも結局、あれだけの時間(とき)を共に過ごしてはいても、私達の間には何も残っていなかったんですね。友情も、信頼も、何も……」

ソレントの言葉には、嘲笑めいた響きがあった。反論しようとして、だがカノンはすぐには言葉を見つけることが出来ず、やはり沈黙で答えることしか出来なかった。

「少しはね、期待したんですよ。以前の貴方ならいざ知らず、今の貴方なら私達を仲間と認めてくれるかも知れない、やり直せるかも知れないと。貴方は海闘士に戻ることを拒んだけれど、ここに連れてきさえすればその気が変わるかとも思っていました。だから……本当はその必要もなかったのに、強引に貴方をここに連れてきたんです。でもやはり、それは無理な話でしたね。貴方にとって大切なのは、貴方が選ぶのはやはり私達ではなく聖域……いえ、サガとミロなんですね」

ソレントは諦めたようにそう言って、静かに瞳を伏せた。

「セイレーン……」

確かにソレントの言う通り、今のカノンにとって一番大切なのは聖域だった。だからと言って、ソレント達を認めていないとか、そう言うことではない。

ソレントは自分たちの間には結局何も残ってはいないと言った。そしてカノンも、ここに来るまでずっとそう思ってきた。だがそれは、カノンが彼らのことを云々と言うことではなく、それより以前の問題として彼らが決して自分を認めない、許してはくれないと言う思いが、カノンの中に常に重く存在していたからだ。ソレント達海闘士との関係の修復など、望むべくもないと思ってきた。自分が彼らに対して犯した罪は、本来死しても贖いきれないほどの大罪。平和な世に生まれ変わったとは言っても、彼らには自分に裏切られた記憶が残っているのだ。そんな自分が、彼らに対して何を求められるわけもない。求めることも望むことも許されないと、カノンは思い続けてきた。自分が彼らに対してできることはただ1つ、彼らを不用意に刺激しないこと、彼らに関わらないことだった。そう思ってカノンは、これまで海闘士達との関わりを一切断ってきたのである。

だがまさか、それがこんなことになろうとは思わなかった。海闘士達のためにはその方が良かれと思って取ってきたスタンスが、結果として彼らのプライドを傷つけることになっていたのだと言うことに、カノンは今ようやく気付いたのだった。

「セイレーン、オレは……そんな理由だけでここに残ることを拒んだわけじゃない。お前の言う通り、かつてのオレはお前達を道具として利用することしか考えてなかった。でも今は……オレがお前達のことを『仲間』だなんて、おこがましくて呼べやしないけど、今のオレはお前達のこと、対等の存在だと思ってる。それだけは信じて欲しい」

海闘士だった時分には、確かにカノンはソレント達を仲間とは見なしていなかった。だが今は……聖闘士となり、彼らを『仲間』とは称せなくなったが、彼らを対等の存在として認めていた。陣営が異なって初めて、カノンは海闘士達を大切に思うようになっていたのだ。ここまで来て、今更何を言ったところでそう簡単に信じてはもらえないかも知れないが、今カノンが口にしたことは紛れもないカノンの本心だった。

「皮肉なものですね……『仲間』でなくなって初めて、対等の存在として見てもらえるようになるなんて」

それは嫌みではなく、認めざるを得ない事実に他ならなかった。そしてそれは同時に、ソレントにとっては最後通告にも等しい言葉であった。自分がどんなに求めても、望んでも、カノンをここに止めておくことはできない。改めてそれを思い知らされたも同然だった。

間もなくソレントは静かにソファから立ち上がり、ゆっくりとカノンの側へ移動した。カノンの傍らに立ち、ソレントは座したままのカノンを見下ろした。カノンの深い蒼色の瞳が、やや不審そうな色をたたえてソレントを見上げる。

「本当のことを言うとね、カノン……私は貴方をここから帰すつもりはありませんでした。どんな手を使っても、貴方を閉じ込めてでも、ここに引き止めておくつもりだったんです」

ソレントが初めて、自身の本心を口にした。カノンは少し驚いたように、大きく目を瞠ってソレントを見返した。それを楽しむかのように、ソレントは微笑を溢した。

カノンに足枷を嵌めることなど簡単だった。彼の『罪』を、逆手にとればいいだけの話である。カノン自身が『罪』と認めるそれは、彼の足を止めるに充分な効力を発揮するだろう。無論それが永続的なものではあり得ないこともソレントは理解していたが、それでも……例え一時でもカノンを引き止めておけるのなら、下手をすれば卑怯と罵られるような手段を弄することも厭わなかった。

そうまでしても、ソレントはカノンにこの場所に帰ってきて欲しかった。双子座の黄金聖闘士ではなく、海龍の海闘士として自分達の元へ戻ってきて欲しかったのだ。それが嘘偽りのないソレントの本心であったが、そこにはもう1つ、ソレント自身の個人的な想いも隠されていたのである。

「でもそれも無理な話とわかりました。もう……諦めざるを得ませんね」

そう言ってソレントは、カノンに向けた目を切なげに細めた。

「……セイレーン、1つ聞かせてくれないか?」

「はい?」

半ば呆然とソレントを見上げていたカノンが、やっと口を開いたのは、1分にも及ぶ沈黙の時を流した後のことだった。

「お前、どうしてそんなにオレのことを?。オレが憎くないのか?」

ソレントが自分を許そうとしてくれていることは、カノンにもわかっていた。だが許そうとしていることと、憎しみを消すこととは、必ずしもイコールで結ばれているわけではない。憎しみと言う感情は、そう簡単に消えるものではない。それはカノン自身が、身を以て知っていることだった。

カノンのその問いに、ソレントはすぐには答えを返さなかった。返せなかったのではなく、返さなかったのだ。

確かに最初はソレント自身にも、自分が何故今になってこんなにカノンに固執するのか、よくわかってはいなかった。いや、厳密に言えば聖域に行ったときから、もう茫漠とその理由がわかりかけてはいたのだ。ただそれに気付くきっかけがミロの存在であったが為に、認めたくないと言う気持ちの方が強く邪魔していただけの話だった。

でも今はもう、ソレントは自分自身の気持ちをしっかりと認識できていた。自分が何故、カノンにこんなにも固執したのか?。それは自分がカノンに対し、恋愛感情を抱いているからに他ならない……と。

思えばソレントは、カノンに初めて出会った時から、その美しさに魅了され続けてきた。他者を決して近付けないゾッとするような冷たい雰囲気と、鋭利な刃物のような鋭さ、そして側にいるだけで相手を威嚇するかのような絶大な小宇宙を併せ持つ持つカノンに、ソレントは恐怖を覚えずにはいられなかったが、逆にそれがカノンの美貌を一層際立たせる一因となっていたのも事実だった。

以来ソレントは、冷酷非情で強大な小宇宙を持つカノンを畏怖しながらも、反面でその絶対的な強さとそして美しさとに憧憬の念を抱いていたのだ。

それだけに、カノンの裏切りは許せなかった。生まれて初めて憧れという感情を抱いた相手であるカノンが、自分達を使い捨ての道具として利用していたことを知り、ソレントは例えようもなく大きな怒りと失望を覚え、そしてカノンを心の底から憎んだ。憎むことで、カノンへの想いを昇華させようとしていたのかも知れない。いや、実際それは半ば昇華されかけていたはずだった。

だがカノンと再会を果たした時、カノンがミロに、今まで自分が見たことも無いような笑顔を向けていたのを見た時、昇華されたはずの想いがソレントの胸の内に蘇ってきたのだ。ミロへの嫉妬と共に。

そのことをはっきり自覚したとき、ソレントは悔しさと憤りとを感じた。最も長い時間カノンの側に居たはずの自分達が、どんなに欲しても手に入れられなかったものを、聖域の人間が、いや、ミロがいとも簡単に手に入れている様を見て、ミロを嫉ましく思わずにはいられなかった。そして海闘士であったことなどまるで忘れ去ってでもいるかのようなカノンが、自分達には決して見せなかった笑顔を惜し気もなくミロに向けているカノンが、今までとは別の意味で憎らしく思えたのだ。

だがソレントが何より悔しかったのは……そんな形で、自分の本当の気持ちに気付いてしまったことだった。カノンを憎むことで巧に覆い隠していたそれを、結果としてミロが気付かせてしまったのである。

今になってそれに気付いたソレントは、愕然とした。例えどうあっても、カノンは自分達を選びはしない。カノンが迷うことなく選ぶのは、仲間として認めるのは、一番長く労苦を共にしてきた自分達ではなく、聖域の黄金聖闘士達。そしてその中でも一番大きな存在であるのが、実兄サガと、そしてカノン自身が恐らくは誰よりも大切に思っているであろうミロ。かつて実弟であるカノンを捨てたサガと、出会ってまだ間もないはずのミロが、カノンの裡で最も大きく大切な、何者にも凌ぐことができない存在なのだと言うことを、自分の存在など彼らの足元にも及ばないのだということを、感情と理性の双方で理解した時、ソレントの中に大きな敗北感が生まれた。何もかもが遅すぎたと、思い知らされたのだった。

だがそれでも容易に引き下がることは出来なかった。ソレントの中に生まれた敗北感は、やがて歪んだ独占欲へ転化した。求めて得られないものなら、強引に奪ってしまえばいい……そう考えてソレントはカノンを強引にここへ連れ戻したのだが、やはりそれは根本から間違いだった。結局のところ自らの傷を深くし、絶望感と喪失感を煽る結果にしかならなかったのだから……。

「セイレーン?」

黙ったまま一向に口を開こうとしないソレントに、さすがに焦れたようにカノンが声をかけた。その声に鼓膜を刺激され、ソレントは我に返ったようにカノンの瞳を見返した。

「セイレーン……そう、貴方は一度たりとも私のことを、名前で呼んでくれたことはありませんでしたね……その差違が、事の最初から全てを物語っていたのかも知れません」

「えっ?」

ソレントに言われて、カノンも初めてそのことに気がついた。確かに『セイレーン』と言うのは、言わば彼の海闘士としての地位名称であって、彼個人の名前ではない。今の今までそんなことを意識することなく、当たり前のようにそう呼び続けてきたカノンは、急にそんなことを言われて意味もわからずただ戸惑うだけであったが。

カノンが困ったように表情を動かしたのを見て、ソレントはカノンの内心を見て取り、思わず苦笑を浮かべた。最も、独り言的な部分も多かっただけに、ソレントもそれによって自分の胸の内をカノンにわかってもらおうなどとは、ハナから思ってはいなかったのだが。

「……貴方の言う通り、私は貴方を憎んでいました。殺せるものならこの手で殺してやりたいとすら、思ったこともありました。でも……」

ソレントはまたもやそこで言葉を切ると、真っ直ぐにカノンの目を見据えた。視線が再び正対したとき、ソレントの、最上級の珊瑚を思わせるような濃紅色の瞳の奥が、ゆらりと揺らめいた。その中には青白い高温の炎にも似た色が宿っており、カノンはハッとして息を飲んだ。

「そのまま……憎みきることができれば良かったのかも知れません……そうすれば……」

こんな思いをせずとも済んだだろう……だがソレントは、最後のその一言を飲み込んだ。

「…………」

カノンは無言のまま、ソレントを見上げていた。ソレントは幾つかの感情が綯い交ぜになったような複雑な表情を浮かべていたが、やがてそれを和らげて小さな笑みをカノンに向けると、おもむろに右手をあげてそれをカノンの青銀の髪の中に差し入れた。反射的にカノンは身を後ろに引こうとしたが、それよりソレントの手の方が早く、差し入れた手でカノンの髪を梳き上げると同時に、ソレントはカノンの顔の角度を変えさせた。

『…………えっ……?』

上からゆっくりとソレントの瞳が下りてきて、気がついたときにはソレントの唇が自分の唇に触れ、重ねられていた。瞬間、カノンは自分の身に何が起こったのかわからなかったが、空いていたはずの左手で体を抱き寄せられ、ようやく今の自分の状況が理解できたのである。だがカノンはソレントを跳ね除けることは出来なかった。ソレントの腕に抱かれ、口付けられて、カノンは今初めて……と言うより、ようやくこの12歳年下の少年の『想い』に気付かされたのだった。

「………驚きました?………」

数秒後、カノンの唇を解放したソレントが、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で半硬直しているカノンに、意地悪っぽく問いを向けた。カノンはロボットさながらのぎこちない動きで、こくんと頷いた。

「やっぱり、気付いてくれてなかったんですね」

言いながらもソレントは、自分が些か無茶なことを言っていることは自覚していた。ソレント自身が気付いていなかったものを、カノンに気付いてくれと言っても、それは無理な話であろう。

「……無茶苦茶……言うなよ……」

わかるわけねぇだろう……と、カノンはまだどこか茫洋としながら、力なく言った。

「たかがキスくらいで、茫然自失しないでください。ミロとはこの程度で終わってるわけじゃないんでしょ?」

とんでもないことをしれっと言われ、カノンの顔にカッと朱が走った。確かにそれはその通りだし、今更清純ぶれるような生き方をしてきたわけでもないが、さすがにこの状況でこんなことされたあげくにこんなことを言われたら、平然と受け流せようはずもない。子供のクセに……と言おうとして、だがカノンは喉まで出かかったその言葉をグッと押し込んだ。そんなことを言おうものなら、苦し紛れがバレバレな上に、お決まり過ぎて芸がないと言うものだ。余計バカにされるに決まっている。

赤くしたり青くしたりと忙しく顔色を変えるカノンに、ソレントはたまらず吹きだし、ケラケラと声を立てて笑った。

「全く……昔の貴方だったらとっくに気付いて、これを利用していたでしょうに。本当に貴方は、根本の部分から変ってしまったんですね……」

ようやく笑いを収めて、ソレントはやや呆れ混じりの口調で言った。

「これが……私が貴方に固執した本当の理由です。納得いただけましたか?」

言葉より先に行動で示されたわけだし、ここまで来て納得できないほどカノンもバカではないが、かと言って素直に頷いていいものかどうかも迷いどころであった。

「でも……結局何もかも遅すぎましたね」

せめてもう少し早くに気付いていたら、事態は別の方向へ転んでいただろうか?。そこまで考えて、ソレントはそれ以上思考を進めるのをやめた。そのような仮定は、無意味以外の何物でもないからだ。

「本当は最後まで認めたくはなかったけど……やはり貴方は海龍の海闘士ではなく、双子座の聖闘士としての宿命を背負っている人なんですね。ここに貴方の足を……いえ、心を止めておくことなど、出来るはずもなかった……」

ソレントも最初からそのことはわかっていた。わかっていながら、それでもカノンの持つ宿命を覆したかった。だがそれは、やはり叶わぬ願いだった。カノンが海龍の海闘士であったこと、それ自体が運命の悪戯で、彼本来の宿命はやはり女神の聖闘士として、双子座の星の下に定められているのだ。そしてその定めの下の、同一軌道上に在る最も大きな存在が、サガでありミロであるのだ。とても敵うべくもない相手であることは、ソレントも頭ではわかっていた。だが自身も明言した通り、感情レベルでは最後の最後までそれを認めたくなかったのだ。ソレントは一度瞳を閉じ、何かを振り切るかのように小刻みに頭を振った。

「セイレーン……」

カノンの呼び掛けにソレントは瞳を開け、ぎこちないながらもはっきりした笑顔を作ってカノンに向けた。

「明日は送っては行きませんから、1人で聖域へ帰って下さいね……って、アイザックも一緒に行くんでしたっけ」

「あ、ああ……」

一転してソレントの口調は明るいものになったが、それは彼が努めてそうしているのだと言うことは、カノンにも容易に見て取れた。

「……お元気で……」

「ああ、お前もな……」

それがお互いの、精一杯の別れの挨拶だった。
ソレントは踵を返すと、一度も振り向くことなく部屋を出ていった。バタン、と、玄関の扉の閉まる音が、やけに重々しく、カノンの心の奥底に響き渡った。

「ごめん、セイレーン………」

ソレントが出て言った後の扉に向かい、カノンは無意識のうちにそう呟いていた。







「色々ありがとうございました、シードラゴ……いえ、カノン」

翌日、聖域へ帰るカノンを見送るため、海将軍達は海底神殿の入口に集合していた。ただ1人、ソレントを除いて。

「いや……。これからは、って言うか、これからもだけど、改めてここのことよろしく頼む」

自分の後を引き継いで、正式に海将軍筆頭となったバイアンに、カノンはありきたりな激励を返しながら、無意識のうちに海将軍の面々に視線を走らせていた。

「すみません、ソレントはちょっと取り込み中らしくて、見送りには出れないと……。貴方によろしくと言ってました」

「あ、いや、すまん、そんなつもりじゃなかったんだ。……うん、わかってるから……」

申し訳なさそうにカノンに頭を下げるバイアンに、カノンは慌てて言った。ソレントがこの場に姿を現さないであろう事は、最初からわかっていたカノンである。ただ心のどこかで、ほんの少しだけ期待はしていたのかも知れないが……。

「じゃ、こいつ借りていくな」

カノンは苦いを誤魔化すかのように性急に話を変えて、横のアイザックの頭をポンッと叩いた。

「よろしくお願いします。……アイザック、久しぶりに先生達に会うんだ、こっちは心配いらないから、ゆっくりしてくるといい。ただ聖域の皆さんに、ご迷惑をかけないようにな」

「はい。ありがとう、バイアン」

カノンの口添えで、聖域へ行くことをバイアンに快諾してもらったアイザックは、珍しくはっきりと表情に緊張と喜びとを浮かべていた。一般的に見ればそれでも充分、無表情の部類には入るだろうが。

「それじゃ……な」

「はい。帰り道お気を付けて」

バイアンはカノンに向かって、右手を差し出した。

「サンキュ。もしまた何かあったら……いつでも遠慮なく言ってこいよ」

言いながら、カノンは差し出された手を握り返す。

「ありがとうございます。その時は遠慮なく、頼らせていただきます。直通便も出来ましたしね」

珍しく冗談口で応じながら、バイアンはアイザックを見た。

「直通便っつーより、パシリだな」

同じように冗談で応じて、カノンもアイザックを見遣り、そして笑った。つられて周囲も笑い声をたて、アイザック1人がどこかバツが悪そうに苦笑していた。

「じゃ、またな」

「ええ、また」

再会を期しての挨拶を交わし、カノンは海闘士だった過去の自分に今度こそ本当に別れを告げて、海底神殿を後にした。


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