「サガ、海に連れてって」
3日ぶりに聖域から弟の待つ家に帰宅したサガは、突然のカノンのその頼みに、驚いて目を丸くした。 「えっ?」 「海!、海に行きたいんだ!。連れてって、サガ!」 カノンはサガに縋るようにしがみついて、必死にそう訴えた。 「どうしたの?、カノン。急に海に行きたいだなんて……」 今までそんなことを一度も言ったことがないのに、何故急にそんなことを言い出したのか?。サガにはそれがわからず、カノンにその理由を問い返した。 「だって……夏になったら海で泳げるんでしょう?。みんな、お父さんやお母さんや兄弟と一緒に海に行くんだって、本に書いてあったんだ」 言われてサガがテーブルの方へ視線を移すと、テーブルの上と床とに数冊の本が散乱していた。カノンがサガの帰りを待っている間に、読んでいたものであろう。 「だから、ボクもサガと一緒に海に行きたい!。連れてって、ねぇ、連れてって」 サガにしがみつき、サガの服の裾を掴んで揺さぶりながら連れてってとねだるカノンを、サガは困ったように見つめた。 「カノン……」 連れていってやりたい……サガは心の底からそう思ったが、だがそれは叶えてやれぬ願いであった。 「カノン……ごめんね……連れていってあげたいけど……それはできないんだよ」 「何で?!、どうして?!」 兄に頼みを拒絶されたカノンは、その兄と同じ大きな蒼い瞳を潤ませた。 「僕達2人が一緒にいるところを……誰かに見られたらダメなんだ。教皇さまに怒られるんだ。それは何度も言っているよね?」 サガは黄金聖闘士の候補生として聖域へ上げられたが、その双子の弟であるカノンは、それ故に存在を隠匿されねばならなくなった。カノンの存在が他者に知れること、それは即座にカノンの死とサガの破滅へと繋がることになる。だからどんなことがあっても、絶対にカノンの存在を白日の下に晒すことはできない。だからこんな些細な願いをすら、叶えてやることが出来ないのだ。 隠棲を強制されたカノンは、兄であるサガとすら常に共に在ることを許されず、行動の自由をほぼ完全に奪われていた。辛うじてカノンに自由が許されている行動範囲は、この小さな家の中と、家を囲っている狭い結界の内側、そこだけであった。余程のことがない限り、カノンはここから出ることは出来ない。増してサガと一緒になど、言語道断であった。 「……ボク達、兄弟なのに……どうして一緒にいちゃいけないの?。どうしてサガと海に行っちゃいけないの?。どうしてボクは、ずっとここでこうして1人でいなきゃいけないの?」 遂にカノンの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ちた。両親も既に亡く、カノンにとっては双子の兄・サガだけが唯一無二の肉親であり心の拠り所だった。だがその兄も日に日に聖域にいる時間の方が長くなり、カノンはここでこうして独りぼっちの時間と淋しさとを持て余すようになっていた。 「カノン……ごめんね。でも僕達は……僕達が生きて行くためには、それを守らなきゃいけないんだ。我慢して……」 サガにとっては、一番つらいカノンの問い掛けだった。カノンの気持ちは痛いほどわかる。だがそれでもこうするより他、自分とカノンが生き残っていく術が無いのである。弟であるカノンを守れるのは、兄の自分しかいない。幼いながらもサガはそれを理解し、必死に弟を守ろうとしていた。だからつらくても、カノンに我慢を促すことしか出来なかった。だが、ただ我慢を強いられるだけのカノンに、それが理解できないのもまた無理もないことであった。 「イヤだ!。サガはボクのお兄ちゃんなのに、どうしていっつもボクを1人にするの?。どうしていっつも我慢しなさいばっかりなの?。ボクはサガと一緒に海に行きたい!。サガと一緒に遊びたい!、サガと……」 カノンはサガにしがみついて、わんわんと声を上げて泣き始めた。泣きじゃくるカノンを、だがサガはただ無言で抱き締めてやることしか出来なかった。
自分と同じ声で名前を呼ばれ、軽く体を揺さぶられて、カノンは目を覚ました。 「サガ?」 目を開けると、そこにはサガの笑顔があった。まだ完全に開かない目をゴシゴシと擦って、カノンは窓の外に目を遣った。どうやら泣き疲れて眠ってしまったようで、その間に夜になってしまっていたらしい。 「カノン……海に行こう」 寝惚け眼をまだゴシゴシと擦っている弟の手を掴んでそれを止めてから、サガは優しくカノンに言った。 「えっ?」 直後、カノンの目がパッチリと大きく見開かれた。 「海?」 「そう、海だよ」 笑顔のまま答えるサガに向かって、カノンは大きく見開いた目をパチクリと瞬かせた。 「海……連れてってくれるの?」 サガが頷くと、見る見る間にカノンの表情が明るくなった。 「ホントに?、ホントに連れてってくれるの?、サガ!」 「うん、本当だよ。もう真っ暗になったから、きっと誰にも見つからないさ。だから一緒に行こう」 サガが手を差し出すと、カノンは寝かされていたソファから飛び降りて、大喜びでサガの手を握った。サガも嬉しそうに笑ってはいたが、その笑顔とは裏腹に内心は恐怖と緊張でいっぱいであった。そう、これはサガの、一大決心をした大きな賭けであったのだ。 確かに昼間に比べて夜間の方が人目にはつきにくい。だが、だからと言って絶対に第三者に見つからないと言う保証はどこにもなかった。それに例え夜の闇に紛れてとは言え、カノンを無断でこの結界の外へ連れ出したことが教皇に知れれば、サガもただではすまないだろう。厳罰に処されることは間違いなかったが、それでも、その数多の危険性を押しても、サガはカノンの願いを叶えてやりたいと思った。それが不遇な運命を生きることを強制された弟に、今の自分がしてやれる唯一のことだとサガは思い、禁を破る決意をしたのだった。 「さぁ、行こう」 小さく深呼吸をして自分を落ち着かせてから、サガは自分だけが通ることを許されている結界の出入口を通り、カノンを外へと連れ出したのだった。
人目を避けるために森を通って回り道をし、ようやく海岸に辿り着いた2人だったが、広大な海は夜の色に完全に同化しており、更にその闇色を濃くしていた。真っ暗な中、打ち寄せる波の音だけが2人の周りを取り巻いていた。 カノンにとっては、物心着いてから初めての海である。本当は陽の光が燦々と降り注ぐ元で、この広大な海をみせてやりたかった。だがこれが、今のサガがカノンにしてやれる精一杯のことだったのだ。 「よく目を凝らして見てごらん、カノン」 サガに言われてカノンが懸命に目を凝らすと、やがて暗さに慣れた目が数メートル先の波打ち際を捉えた。寄せては返す波の白い泡が、次第にはっきりと見え始め、カノンは嬉しそうな表情を閃かせた。 「海だ!、ホントに海だ!」 繋いでいたサガの手を放し、カノンは一直線に波打ち際に駆け寄った。 「カノン!」 サガが慌ててカノンの後を追う。カノンは目にも止まらぬ早さで波打ち際まで行くと、靴も脱がずにそのままバシャバシャと海へ入っていった。 「カノン!」 「サガぁ〜、水がね、水がすごく冷たくて、気持ちいいよ!」 膝まで海水に浸かったところで、カノンはサガの方へ振り向き、手を振った。 「カノン!、危ないからそれ以上行っちゃダメだよ!」 波打ち際で立ち止まり、サガはカノンに向かって言った。カノンもサガと同等の小宇宙を有してはいるが、聖闘士になるべく訓練を受けているサガと違い、カノンはまだそれを活かす術を知らない。言わば、カノンの小宇宙は現段階では潜在的な能力に過ぎず、今は普通の子供と何ら変りはない状態だった。そんなカノンが夜の海で溺れたりしたら、命を落としかねない。だがそんなサガの心配をよそに、カノンは更に沖へ行こうとした。 「カノン!、ダメだよ!。そこから先に行っちゃダメだ!、危ないよ!、戻っておいで!」 サガが懸命にカノンを呼び止めると、やっとカノンは立ち止まって再びサガの方を振り向いた。既にカノンの体は、腰のあたりまで海水に浸かっていた。 「大丈夫だよ、サガもおいでよ〜!……うわっ!」 カノンがサガに気を取られているところへ、突然やや大きめの波が後ろからカノンを飲み込んだ。 「カノン!」 カノンの姿が波に飲まれて一瞬のうちに消え、焦ったサガも着衣のまま大急ぎで海に入った。 「カノン!、カノン!!」 波と砂とに足を囚われながら、やっとカノンが波に飲まれた場所まで来たサガは、大きな声で弟の名前を呼んだ。 「カノン……どうしよう……」 サガは必死で弟の姿を探したが、カノンの姿は見当たらなかった。まさかあのまま沖まで攫われてしまったんじゃ……そんな不安がサガの胸を過ったその時…… 1メートルほど先に、何かがプカリと浮くような形で姿を現した。サガがそれに気づいたと同時に、水の中からカノンが顔を出したのだ。最初に浮かんできたように見えたのは、カノンの頭だったらしい。 「カノン!!」 サガは波をかき分けて、急いでカノンの元へ行った。 「サガ!」 間もなく側に来た兄に、カノンは嬉しそうに抱きついた。 「だから危ないって言っただろう?。大丈夫か?」 波に飲まれて全身ずぶ濡れになった弟を抱き締めながら、サガはホッと安堵の吐息を漏らした。 「うん!、大丈夫だよ!。でもビックリしたぁ〜!」 そう言いながらもカノンは、サガの腕の中でケラケラと楽しそうに笑っていた。 「海はね、湖や池と違って波が急に高くなったり大きくなったりするから……気をつけなきゃダメだよ」 「うん、ごめんなさい」 サガに注意され、カノンは素直に謝った。 「それじゃ、もっと浅いところに行こうね」 「うん」
少しだけ大人しくなったカノンの手を引いて、サガは膝位置くらいの浅瀬に移動した。昼間であればもう少し自由にさせてやってもいいのだが、こんな夜中ではここまでが限界である。元々、サガよりやんちゃな性格のカノンには物足りないであろうことはわかっていたが、それでも海に連れてきてもらえたことで満足していたらしいカノンは文句もそれ以上のわがままも言わず、その浅瀬で一晩中、それはそれは楽しげに波と戯れていたのだった。 |
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