ワルハラ宮の広大な庭園の一角に、小さなベンチが一つ置いてあるだけの場所がある。
そこは神闘士・フレースヴェルグのバルドルのお気に入りの場所であった。
神闘士とは言っても、実は『元』がつく。つまり現在のバルドルはもう神闘士ではなかった。何故ならバルドルは邪神ロキが起こした戦いの中で一度命を落とし、その後蘇った折に神闘士を退き一民間人となっていたからである。
厳密には宮廷勤めの身ゆえ民間人というと若干の語弊はあるのだが、とにもかくにも今現在の彼は戦士ではなくごくごく普通の一人の青年であった。
だが神闘士でなくなっても、いやむしろ神闘士でなくなったからの方が、仕事や勉学に追われ文字通り忙殺される日々を送ることが多くなっていた。
そんな慌ただしく多忙な毎日を送るバルドルが一日の中で唯一ホッとできるのは、あまり人目につかぬこの場所で愛犬とのんびりと過ごす僅かな休憩時間だけである。
今日も今日とて遅めの昼休憩をいつも通り愛犬と共に過ごしていると、普段はまず滅多に人が来ないこの場所に誰かが近づいてくる気配を察知した。
戦士ではなくなったとはいえ長年の習性がそう簡単に抜けるわけもなく、その気配で神闘士の誰かではない、だが宮殿に仕える者でもない、明らかに『ここの人間』ではないと瞬時に看破したバルドルは咄嗟に愛犬を足元に匿い、臨戦態勢をとるように身構えた。
だが近づいてくる人間の輪郭がはっきりするにつれ、バルドルの緊張と警戒は予想だにしなかった人間の出現に対する驚きへと変化した。
「シャカ……」
程なくしてバルドルの前に現れたのは、アテナの黄金聖闘士・乙女座のシャカであった。
シャカは先の戦いでバルドルが対峙し、敗れた相手である。
驚きのあまり呆然とするバルドルに向かってシャカは、微笑を浮かべて声をかけた。
「久しいな、バルドル」
「……は、はい、お久しぶりです」
胸の裡に一気に湧き上がって来た数多の感情を抑え、バルドルは努めて平静を保ちながらシャカに頭を下げた。
シャカの姿を認めたその瞬間には驚きが勝り何故シャカがここにいるのか? という疑問が胸中を騒つかせたが、少し落ち着いた今になってバルドルはようやく一つの重要なことを思い出した。
「聖域からアテナがお出でになると聞いてはおりましたが、まさかあなたが一緒とは思いませんでした」
そう、今日はアテナがここアスガルドを公式訪問する日であったのだ。目的はいわば平和協定後の首脳会談、といったところであろうか。
アテナは人界においては、世界的大財閥の当主でもある。そのことを踏まえた上で経済問題なども話し合う予定であると、バルドルも個人的に親交のあるシグムンドより聞き及んではいたのだが、そうは言っても今の自分には直接関わりのないこと。ゆえに敢えて気にしないようにしていたせいか、今の今まですっかりそのことを失念していたのだ。
つまりシャカが今日ここにいる理由など、一つしかない――というわけである。
「アテナの護衛でいらしたのですね?」
バルドルが問うとシャカは名目上はな、と短く肯定してから、
「最初はアイオロスとサガの二人だけが随員の予定だったのだが、何故か直前になって私とアイオリアも加わるよう言われたのでな。そうだな、アテナの護衛に四人の黄金聖闘士が付いてきたと言うより、アテナと聖域の次期教皇、そしてその筆頭補佐役となる三人の要人の護衛に私とアイオリアが付いてきたというような感じか。もっとも、アイオロスとサガに護衛が必要とも思えぬが」
そう思わないとやっていられないとでも言いたげに、シャカは肩を竦めるような仕草を見せた。
獅子座のアイオリア、か……と、バルドルは胸の中でその名を反芻した。刹那、胸の端に針で刺したようなチクリとした痛みが走ったが、バルドルはそれをおくびにも出さず、
「確かに、アテナはともかくアイオロスとサガの二人に護衛が必要とは私も思えませんが、でもそのお陰で私はこうしてあなたとお会いすることができた。あなたにとってはきっと面倒な話だったとは思いますが、あなたを随員に加えて下さったことをアテナに感謝いたします」
そう言って笑顔を見せた。
「面倒と思っているわけではない、いついかなる時でもアテナの意志に従い、アテナをお守りするのが我ら聖闘士の使命だ。ただ……」
「ただ?」
「私もアイオリアも単なる護衛で来たはずが、そのまま会談にまで同席させられたことには少々辟易した」
はっきり冗談とわかる口調でシャカは言い、くすっと笑い声を零した。シャカがこんな冗談口をたたくなど極めて珍しいことなのだが、一度拳を交えただけのバルドルには当然そんなことなどわからない。
「なるほど、あなたはそれでスーツを着用されていたのですね」
改めてシャカの服装を見て、バルドルはようやく合点がいったとばかりに頷いた。
バルドルが遠目とはいえ最初近づいてくる人間がシャカであると判別できなかったのは、シャカがごくごく一般的なベージュのビジネススーツを着ていたからである。
「着ろと言われたから仕方なく着たのだが、少々窮屈でな」
窮屈というのはサイズがという意味ではなく、平素着慣れぬ堅苦しい服だからということであろう。バルドルも普段スーツを着ることは殆どないので、シャカの気持ちはよくわかる。
「ではあなた以外の人達も、皆スーツでいらしているのですか?」
「ああ。戦うわけでもないのに聖衣など着用して行ったらいらぬ誤解や警戒心を招く恐れがあるから避けるようにと、現教皇に言われたのだ。そう言われてしまっては我々としても従うより他にない」
「確かにそれはその通りかも知れませんね」
アスガルド側の人間からすれば、仮に聖衣着用で来られたところで今更誤解をしたり警戒するようなこともないが、常識的に考えれば教皇のその判断は至極妥当なものと言えるだろう。
何しろ聖域とアスガルドは、ついこの間まで敵対していた間柄なのだから。
「会談に同席していたあなたが今ここにいるということは、会談自体はもう終わったのですか?」
「今日のところはな。たった一日程度で全部を話し合えるわけでもないので、幾つかの案件は明日に持ち越すことになったが」
それはそうだろうな、と思いつつ頷きを返してから、バルドルは重ねてシャカに問いかけた。
「アテナやヒルダ様、リフィア様は? どうされているのでしょう?」
「女性同士で積もる話があるからと、フレア殿も交えた四人でご歓談されているようだ。私達四人とアスガルド側の同席者、ジークフリート、シグムンド、フロディの三人は、会談が終わると早々にしばらく自由にしてていいと部屋を追い出された。端的に言うと邪魔者扱いされた、というわけだ」
言いながらシャカは、これも彼にしては多分かなり珍しく、楽しげに声を立てて笑った。
つられるようにして笑ってから、バルドルは改めてシャカに尋ねた。
「それでは追い出されてしまったあなた以外の他の三人は今は?」
「アイオロスとサガはジークフリートとシグムンドと、アイオリアはフロディと、それぞれ宮殿の別室に移動して話をしているようだ。ジークフリートとは此度が初対面だが、フロディやシグムンドとは知己であるからな」
「あなただけ何故こちらへ?」
「うむ、宮殿でお前の居場所を聞いたら、休み時間には大抵ここにいると教えてもらったのでな」
シャカの返答に、バルドルはまたしても大きく目を見開き驚きを露にした。
「ではあなたはわざわざ私に会いに来てくれた、と?」
「わざわざ、というわけでもないが」
遠回しに肯定してからシャカはゆっくりと閉じていた瞼を開き、その視線を彼の足元へ向ける
「その犬が、お前の?」
シャカはバルドルの足元にピッタリとくっついている犬を興味深げに見ながら、確認を求めて彼にそう問いかけた。
「はい。私の愚かさゆえに命を失わせてしまいましたが、ありがたいことにこの子にももう一度新たな生を与えていただくことができました。そうは言いましてもこの通りの老犬なので、さほど長い時間を共に生きられるわけでもないでしょうが……」
今度こそ天寿を迎えるその日までずっと寄り添っていようと思っています、と言ってバルドルは愛犬を見る目を優しく細めた。
「そうか……」
シャカは静かな動作で膝を折って身を屈めると、彼の犬の頭を優しく撫でた。
すると犬は突然元気よく身を起こし、今までぴったりとくっついていたバルドルの足元を離れると、嬉しそうに尻尾を振りながらシャカに飛びついて顔を舐めたり、頭や体を擦り付けたりして戯れつき始めた。
恐らく、いや間違いなくシャカに対し全身で親愛の情を示しているのであろうが、それに焦ったのは飼い主のバルドルである。
「こら、やめなさい! スーツに毛がついてしまうだろう!」
一目で上質とわかるスーツに毛がつくことを恐れ慌てて犬を引き離そうとしたバルドルを、シャカは片手を上げて静かに制止し、
「私は構わぬ、好きなだけ戯れさせてやれば良い」
その言葉通りに嫌な顔一つせず、忙しなく戯れつく犬の相手をしていた。
バルドルは恐縮する一方だったが、それを見て取ったかシャカが犬と戯れながら再び口を開いた。
「お前の犬は随分と人懐こいのだな」
「いえ……確かに大人しい子なので人に吠えついたりすることは殆どありませんが、でも初対面の人にこんな風に懐いたり戯れついたりすることはこれまでは一度もありませんでした」
今日の愛犬の行動は飼い主のバルドルですら見たことがなく、さすがに目を丸くせずにはおれなかった。
「そうなのか?」
とは言うもののシャカはさほど気にしている風もなく、微笑みを浮かべながら楽しげに戯れついてくる犬の相手をし続けていた。
そんな様子を見て相好を崩さずにはおれなかったバルドルだが、ふと、もしかしたら愛犬は飼い主である自分が好意を寄せている相手がシャカであることを見抜き、精一杯の愛想を振りまいているのではないだろうか? と考えた。
幼い頃からずっと自分に寄り添い続けてくれた犬である。胸に秘めたままの恋心を見抜かれていたとしても、何らおかしいことはない。
「バルドル」
それから幾許かの時間が流れ、遊び疲れたのか犬の動きが鈍くなってきたところで、シャカがバルドルに声をかけた。
「……はい?」
「神闘士を退いたそうだな」
「はい……」
シャカに問われたバルドルは頷きを返してから、おいで……とシャカに身を寄せている愛犬を手招きした。
自分の元へ戻ってきた愛犬を撫でながらバルドルは再び口を開き、
「私が神闘士となりえたのは、全て邪神の力――。邪神ロキにより、一切の痛みを感じることのない強靭な体を与えられていたからです。それが失われてしまった今の私に、神闘士たる資格や力量はありません。いえ、元々戦士としての資質も強さも私にはなかったのだと今は思っています。全てが邪神によって一時的に与えられ増強された紛い物に過ぎなかったのだと」
皮肉な話ではありますが……とバルドルは自嘲めいた微笑を浮かべた。
「戦士としての資質や強さと体の強靭さはまた別物であろう。邪神の力によって増幅された部分があったことは否めぬであろうが、バルドル、お前はこのシャカを少なからず苦しめた男。元より戦士の資質や強さがなかったとはとても思えぬ」
「おや? そうですか? 私との戦いにおいてあなたが苦戦した局面があったとは記憶していませんが……。私はあなた相手に大言壮語を吐いたはいいが、実際にはせいぜい一矢報いることができたかどうかというレベルだったはずですからね」
やや冗談めかしはしたが、これが客観的事実であることはバルドル自身が一番よくわかっている。
邪神の力によるものとはいえ、あの時の自分には神闘士筆頭格と言えるほどの実力はあったはずだ。実際シャカとの戦闘中は自分が負けるとは微塵も思っていなかったし、シャカを追い詰めたと思えた場面も何度もあった。
だが終わってみれば自分は、シャカに猫のひっかき傷ほどのダメージすら負わすことができなかった。結果は文字通りシャカの圧勝、これが現実であり動かすことのできない事実である。
シャカは小さく笑っただけでバルドルの言葉を否定も肯定もせず、続けて「それで、今は?」と彼の具体的な現状を尋ねた。
「今はアンドレアス様の後任の宮廷医師の元で、見習いのようなことをしています」
バルドルの返答を聞いたシャカは、ほう、と意外そうな声を上げ、更に彼に問いかけた。
「医師になるのか?」
「はい、そのつもりです。神闘士を退く旨をご報告に上がった時、ヒルダ様やリフィア様からはいわゆる官僚のようなポストをご提示いただいたのですが、勝手ながら私のわがままを通させていただきました。ヒルダ様もリフィア様もご理解ご快諾くださり、今は色々とご支援をいただいております」
「そうか。それでは、いずれは宮廷医師に?」
「いえ、一人前の医師となった暁には、宮廷を下がらせていただくつもりでおります」
「宮廷を下がる?」
シャカが意外そうに問い返すとバルドルは頷き、
「あなたと戦った時に少しお話しましたが、私が生まれ育った村はとても貧しい村でした。当然医師などおらず、病に倒れたものは為す術もなくただ死を待つだけ……そんな村だったのです。私の生まれ故郷は既に民もおらず廃村となっておりますが、悲しいことにこのアスガルドにはまだいくつも医師のいない貧しい村が存在します。だから私は医師のいないそんな村々に赴き、病に苦しむ民を一人でも多く救えたらと考えています。その傍ら、後進を育てていくことができればと……。私一人の力など微々たるものかも知れませんが、それでも無力だった幼い頃よりは誰かの役に立てる。そう信じて自分を奮い立たせています」
そう語るバルドルの瞳には、確固たる決意を秘めた力強い光が宿っていた。シャカは感心というよりも安心したような表情を浮かべ、
「お前ならばきっといい医師になれるだろう。痛みや病に苦しむ者の心に寄り添い、救える医師に」
そう言ってしっかりと頷いてみせた。
「あなたにそんな風に言っていただけるなんて光栄です、シャカ。お陰で自分の選んだ道に間違いはなかったと、自身も持てました。まだまだ長い道のりですが、そういう医師になりたい、なれるよう努力していきます」
バルドルにとってシャカからの励ましは、誰からの励ましよりも心強く嬉しいものであった。
喜びに頬を紅潮させていたバルドルは、だがすぐに表情を改めるとシャカに「あなたは?」と尋ね返した。
シャカは何とも言えぬ表情をごく一瞬だけ垣間見せた後、改めて口を開きバルドルのその問いに答えた。
「私達聖闘士は、聖闘士になるべく運命を定められてこの世に生を受ける。そして命を終えるその瞬間まで、聖闘士で在り続けなければならない。つまり生まれる前から死ぬまで歩むべき道が決まっているのだ。例えこの先、我々が天寿を全うするまでこの戦いのない平和な世が続いたとしても、他の人生を歩むことはできぬ」
他の人生を歩みたいとも思わぬがな……と呟くように言ってシャカは微笑した。
「そうですか……」
自分の命が尽きるまで戦いのない平和な世が続いたとしても――とシャカは言ったが、多分にそれはありえないことだと彼自身が一番よくわかっているのだとバルドルは理解した。
ポセイドン軍、ハーデス軍を退けたとは言え、この地上を我が物にせんと狙っているのはオリンポスの神々だけではない。
そう、まだ記憶に新しいこのアスガルドの邪神・ロキのように――。
戦女神アテナが地上に在り続けるということは即ち、他の神々との戦いは決して避けられぬということでもある。それは同時にアテナを守護し奉り、アテナと共に地上の平和を守るべく宿命を背負ってこの時代に生を受けた聖闘士達が、戦のない平和な人生を送ることなど事実上不可能であるということも意味するのだ。
戦士ではなくなったバルドルと、戦士としてしか生きられないシャカ――それぞれが歩いて行く道は、未来永劫交わることは決してない。
仕える神が違えども自分が神闘士として、戦士として在り続ければ、いつの日かシャカと同じ場所に立つことが出来たかも知れない。その"同じ場所"とは、血で血を洗い命を奪い合う戦場に他ならないけれど、その戦場で今度は敵対する者としてではなく同志として並び立ち、共に戦うことが出来たのかも知れない。
自分の選択に後悔はないけれど、これから先自分達が進む未来、歩んでいく道はあまりに違いすぎる。それを改めて思い知らされたような、そんな気分に陥るバルドルだった。
それと同時に、シャカと会えるのは正真正銘これが最後になるかも知れないという予感めいたものが、突如バルドルの脳裏を過った。
これまでも頻繁に会っていたというわけではない。と言うよりも、現世に蘇ってからシャカに会うのはこれで二度目、最初に会った時にはゆっくり語り合う時間すらなく、実質今日が初めてのようなものなのだ。そう考えると現状とこの先、何が大きく変わるわけでもないといえばないのかも知れない。
「ではあなたと会えるのはこれが最後になるのかも知れませんね……」
それでも心の奥底から込上げてくる寂寥感を抑えることが出来ず、息が詰まるような胸苦しさに襲われたバルドルは、無意識のうちにそんな弱々しい本音を吐露していた。
しばしの沈黙の後、まるでバルドルの心の中を見透かしたかのように、シャカは穏やかな口調で語りかけるように彼に言った。
「確かに私とお前は今後全く異なる道を行くことになろう。命を助ける道と命を奪う道という言わば真逆の、そして決して交わることのない道をな。だが、歩む道が違えども友であることに変わりはない。会おうと思えばいつでも会えるし親交を深めることもできる、そうではないか?」
予想だにしなかったシャカの言葉にバルドルは弾かれたように顔を上げ、「友……?」と絞り出すような声で問いかけた。
「私はそう思っているのだが……」
バルドルが目を丸めて呆然としていることに気づいたシャカは、違うのか? と聞き返しながら小さく首を傾げた。
「いえ、いいえ……」
シャカの問いに、バルドルは大きく首を左右に振った。
「まさかあなたに友と言ってもらえるなんて思ってもみなかったものですから、驚いてしまって……」
バルドルはシャカに明確な恋心を抱いてはいたが、同時にそれが決して叶わぬものであることも知っていた。ゆえに自分の想いがシャカに届くことも絶対にないと諦めていた。
「友」とシャカが明言したことによって、やはり予想通りに自分の恋が実ることはないのだという決定打を得ることにはなってしまったが、代わって友情という新たな、そして掛け替えのない絆が生まれていたことをバルドルは知った。
同時にこの新たな絆は、これからもずっと永遠に失われることはないであろうことも――。
「嬉しいです本当に……ありがとう、シャカ……」
心の底から嬉しいと思う気持ちが、この時バルドルの胸の内に充満していた。
だがその喜びの中にほんの僅かに含有されていた、すぐには払拭することのできなかったシャカへの淡く切ない恋心が引き金となり、バルドル自身にすら予想もできない行動を起こさせたのである。
次の瞬間、バルドルは無言のまま突然シャカの薄い両肩を掴むと、その身体を引き寄せ、あっという間に彼の身を両腕で抱きしめていた。
これは完全に無意識下での行動であり、バルドルは自覚も認識も全くできていなかった。バルドルが今自分が何をしているのか、その行動をしっかりと認識できたのは、抱きしめたシャカが腕の中でほんの一瞬ごく僅かに身を強張らせたその時だった。
現状をはっきりと理解した刹那、自分は何故こんなことをしまったのかと大きな困惑と後悔に襲われたバルドルだったが、ここまで来てしまったからには最早後戻りなどできるわけもなく――。
戻れぬならば進むしかないと瞬時に覚悟を決めたバルドルは、シャカを抱きしめる両腕に力を込め、彼の耳元に唇を寄せた。
「突然こんなことをして、驚かせてしまってごめんなさい、シャカ……でも少しだけ……ほんの少しだけでいいんです、このままでいさせてください、お願いします……」
シャカの耳元でバルドルは文字通り懇願した。鼻先に触れるシャカの髪から仄かに漂う優しい香りが、やはり優しくバルドルの鼻腔を擽る。初めて抱いたシャカの身体――これが正真正銘、最初で最後となるに違いない――は、身長も体格的にもほぼ自分と同じくらいであろうか? 人のことは言えないが戦士としては線が細く華奢で、やや貧弱であることは否めない。この身体のどこにあんな驚異的な力が秘められているのかと、不思議に思えるほど儚く感じられた。
腕を振り解かれ跳ね除けられることも覚悟していたのだが、その懸念に反してシャカは何も言わず、抱かれた腕の中から逃れようとはしなかった。黙したまま身動くこともせず、バルドルのしたいように、思い通りにさせてくれていた。つまり彼の懇願を受け入れてくれた、ということである。
ありがとう、と声に出さずに呟いて、バルドルはシャカの身体を更に強く抱き、愛しげに髪に頬を摺り寄せた。
そしてこの時、シャカもようやくバルドルが自分に対して抱いている『想い』の本質に気がついた。同時にその想いが自分には決して受け入れられぬものと、バルドル自身が最初から理解していることも――。
今更気づかぬふりなどできないが、バルドルの想いに応えられぬまでも一度くらいなら彼の願いを叶えることはできる。そう考えてシャカは敢えて何も言わず、彼の最初で最後の願いを聞き入れたのである。
時間にしてほんの一分、いや一分にも満たない時間だったかも知れない。バルドルはシャカを抱きしめていた腕を解き、緩慢な動作で彼から身を離した。
「すみません……突然こんなことをしてしまって……」
「いや、別に謝るようなことではない」
決まりが悪そうにバルドルが詫びると、シャカは何事もなかったかのように答え首を左右に振った。
困惑している風も動じている風もまるでなく、いつに変わらぬ落ち着き払った様子のシャカを見てバルドルは、どうやら自分が衝動的に起こした失礼な行動に嫌悪感を持たれたりはしなかったようだと心の底から安堵し、自分の一方的な願いを聞き入れてくれたシャカに改めて感謝した。
そのお陰で自分の気持ちにも、明確に踏ん切りをつけることもできた。だがやはり――これはバルドルの主観的なものが大きくはあったが――あんなことをしてしまった以上気まずい思いをすることは避けられず、何食わぬ顔で平然としているシャカとは対象的にバルドルは居た堪れなさに身を縮めずにはおれなかった。
自分はこの後どんな行動を取れば良いのだろう? と今更ながらにバルドルが頭を悩ませ始めたそんな折、シャカがふと何かに気づいたように表情を動かした。
実際には何かに気づいたわけではなく、アイオリアの小宇宙に語りかけられそれに応じていたからであったのだが、二人の小宇宙での会話は当然バルドルには聞こえていない。
「バルドル」
「は、はい」
少ししてシャカに呼ばれ、バルドルは思わず姿勢を正した。
「今アイオリアから連絡が入った。ヒルダ殿が茶会の準備を整えてくれたので、すぐにワルハラ宮に戻るように、と」
「そうですか……」
別れるのが名残惜しいような、だが少しだけホッとしたような、そんな複雑な心境だったバルドルはどこか上の空でそう答えたのだが、
「では、行こうか」
シャカに突然そう促され、バルドルは思わず「……は?」と間の抜けた声を上げた。
「聞いていなかったのか? ワルハラ宮へ行くぞと言っているのだ」
「私もですか!?」
バルドルが驚きの余り声を張り上げるとシャカは「そうだ」と頷き、
「私がお前と会っていることは皆が知っているのだぞ、私だけを呼び戻すわけがあるまい。お前も一緒に連れてくるようにとヒルダ殿が言っておられるそうだ。お前の仕事の方も既に調整済みだから一緒に連れてきてくれと、アイオリアに念を押されたのだが……」
行きたくないのか? とシャカが問い返すとバルドルは首を左右に振り、「行きたくないというわけではありませんが……」と前置きしてから、
「私はもう神闘士ではありませんし、同席する資格そのものがありませんので」
歯切れ悪く言って眉尻を下げた。
それを聞いたシャカは平素あまり見せぬようなきょとんとした顔で目を丸めていたが、やがてプッと吹き出すと、微苦笑しながらバルドルに言った。
「参加する資格も何も、仕事の調整までした上でヒルダ殿自らがお前を名指ししておられるというのに、何の問題があるというのだ? それに茶会の席で一戦交えるわけでもあるまいし、神闘士か否かなどそもそも関係なかろう」
「あ……」
言われてみれば確かにその通りで、己の発言のお間抜けさに今更気づいたバルドルは返答を詰まらせ絶句した。
そんなバルドルを見てシャカは今度は小さな声で笑ってから、
「行くぞ」
ともう一度短く促すなり、答えも聞かずに踵を返して歩き始めた。
「は、はい!」
全身で頷きを返すバルドルの顔には、一気に晴れやかな笑みが広がっていた。
小走りですぐにシャカに追いついたバルドルは、やや遠慮気味に彼の真横に並んだ。そんなバルドルにシャカは軽く微笑んで見せる。バルドルもシャカに微笑みを返し、二人は肩を並べてワルハラ宮へと続く道を歩き始めたのだった。