【Count 6】2月8日:馨香
自宮で優雅に午前のフィーカを楽しんでいたアフロディーテは、突然来訪したシャカに大いに驚いて手にしていたコーヒーカップを取り落としそうになった。

「やぁ、シャカ。君が私の元を訪れるなんて随分と珍しいこともあるものだね。私に何か用かい?」

何とか気を取り直し平静を装いつつ、アフロディーテがシャカに突然の訪問の理由を尋ねる。
するとシャカはいつもより雀の涙程度畏まった様子で、おもむろにアフロディーテにこう切り出した。

「アフロディーテ、実は貴方に頼みがあって来たのだが」

「頼みがあるって、えっ!? 君が!? 私に!?」

それを聞いてアフロディーテは文字通り目を剥いて驚きを露にしたが、シャカの方は何を大袈裟に驚いているのかとでも言いたげに小首を傾げると、アフロディーテの返答も聞かずにいきなり本題に入った。

「双魚宮の薔薇を一本譲って欲しいのだ。赤い薔薇を……」

「赤い薔薇? 赤い薔薇って、デモンローズをかい!? ……別に譲ることは吝かではないが、何故君がデモンローズを? 現状非常に考え辛くもあるが、もしかして君に誰かの暗殺命令でも出たのか? それでデモンロースを必要としているとか? いやでも例えそうであったとしても君ならそんなもの必要ないだろうに……」

驚きのあまりアフロディーテがシャカにやや支離滅裂な質問を矢継ぎ早に浴びせると、シャカはそうではないと首を横に振り、暗殺指令とデモンローズを欲しがっていると言う彼の誤った思い込みを否定した。

「そもそも私が譲ってくれと頼んでいるのはデモンローズではない。ただの赤い薔薇を一本、それだけだ」

「はぁ? ただの赤い薔薇を一本って……すまないがシャカ、私には君のその要望の意図がまるでわからない。君が赤い薔薇を欲しがっているその理由をきちんと説明してくれないか?」

ますますわけがわからなくなったアフロディーテが赤薔薇を欲しがっている理由を単刀直入にシャカに尋ねると、ここでシャカは初めて、そして彼にしては珍しく少し困ったように表情を動かし、そのまま黙り込んでしまった。
ん? とアフロディーテが訝し気に柳眉を動かしたところで、漸くシャカが口を開いた。

「私の母国では……今日からバレンタイン週間と言うものに入る……らしい」

「は?」

バレンタインてあのバレンタインのことか? とアフロディーテが問いになっているのかいないのかよくわからない問いを返すと、シャカは無言で頷きを返した。

「えっ……でもバレンタインまでにはあと一週間あるし……ていうか君がバレンタインって、えっ!?」

よもやシャカの口からバレンタインなんて言葉が出てくるとは夢にも思わなかったアフロディーテは、またしても何が何やらわけがわからなくなって困惑する一方であった。

「ちょっと待ってくれ、今頭を整理するから……。えっとつまり君が赤い薔薇を欲しがっている理由は、一週間後のバレンタインに関係がある……という理解でいいのかい?」

「私は最初からそうだと言っているが?」

言ってねぇよ! と心の中で突っ込みつつ、アフロディーテは動揺している自分を落ち着かせ、シャカが間違いなく言った言葉を頭の中で反芻し整理をつけてから気持ち口調を和らげて問いを重ねた。

「今君、母国のバレンタイン週間がどうのって言ったよね? そのバレンタイン週間というものが何なのか、まずはそこから説明してくれないか?」

「私も先日初めて聞いたばかりでよくはわからないのだが……」

わかんないのかよ! とまたしてもアフロディーテは心の中で突っ込みを入れた。

「私の母国ではバレンタイン当日の一週間前から祝い事を始めるそうだ。当日までの一週間、一日毎に贈るものや過ごし方が決まっている……らしい」

「へぇ〜それはまた随分と力が入っているんだね。ちょっと意外だったけど」

シャカの母国はインド。
シャカ個人はほぼ唯一無二の特殊な例なので除外するとしても、インドと言えば一般的にはヒンドゥー教の文化や思想が根強く、バレンタインは盛り上がるどころか迫害対象にもなりうるイベントだったはず――というのがアフロディーテの認識だったのだが、やはり近年その辺の事情にも変化が生じているのか、どうやらその認識は誤りというより少々古かったようである。
それにしてもたかがバレンタインに一週間!? そこまでするようなイベントか!? とも思ったのだが、そう言えばインドでは結婚式も一週間かけて行うと聞いたことがあったとアフロディーテは思い出した。
なるほど、祝事は時間と金をたっぷりかけて全力でやる! というのがどうやら彼の国の流儀らしい。

「そのバレンタイン週間初日の今日8日が、ローズ・デーと言って相手に薔薇を渡す日らしいのだ」

ここでようやくアフロディーテは、シャカが突然自分の元を訪れた理由を完全に理解した。

「なるほど。それでデモンローズではない普通の赤薔薇が欲しいと?」

シャカは黙って頷いてから言葉を接いだ。

「街に出て花屋で買おうかとも考えたのだが、アフロディーテ、貴方の育てた薔薇の美しさに敵うものはないと思ってな」

それを聞いたアフロディーテは一瞬絶句した後、

「君の口からバレンタインなんて言葉が出ただけでも青天の霹靂なのに、更にその君からそんな過分なお褒めの言葉までいただけるなんて思わなかったよ。全く、君は私を驚かせるだけ驚かせて私の心臓を止めようとでもしているのかい?」

冗談めかしてそう言って笑ってみせた。

「でもまぁ、事情は承知したよ。そういうことならとびっきり美しい赤薔薇を一本、喜んで進呈しよう。ところでシャカ、君にもう一つ聞きたいことがあるんだけど?」

「何だね?」

「これから私が君に渡す薔薇、そしてバレンタイン当日までに君から贈られるのであろうプレゼント、それをもらえる相手は一体誰なんだい?」

やや意地悪なアフロディーテのその問いに、シャカは思わず閉じていた目を開いた。
もちろん小宇宙を解放しようという意図ではなく、単純にそんな質問が返って来ると思っていなかったから――つまり今度はアフロディーテがシャカの虚を突いたわけである。
今のシャカの表情は、交流は然程多くはなかったものの付き合い自体はそれなりに長年に及んでいるアフロディーテすら見たこともない表情で、端的に言うと『可愛い』としか表現のしようがないものだった。
へぇ、シャカでもこんな顔出来るんだ……と新たな驚きを得たアフロディーテは、堪えきれずに小さく吹き出した。

「ごめんごめん、ちょっと意地悪な質問だったな。大丈夫、相手が誰なのかは私もちゃんとわかっているよ。隣の宮の幼なじみの黄金色の猫ちゃん、だよな」

からかうように言ってからアフロディーテはシャカの反応を待たずに腰を上げ、

「一番美しい赤薔薇を見繕って来るよ。少し待っててくれ」

そう言い残し、双魚宮の庭園の方へと消えて行った。

 

アフロディーテが「今、双魚宮で一番美しく咲いていた薔薇だよ」と太鼓判を押してくれた実に見事な赤薔薇を一輪携え、シャカは双魚宮を出た足で真っ直ぐ獅子宮に向かった。
シャカにとって獅子宮は今や勝手知ったる恋人の宮、主の承諾など必要とせず自由に出入りが出来る。いつものようにノックもせずに獅子宮の私室に入ったシャカは、主の小宇宙のあるリビングへ真っ直ぐに足を向けた。

「おはよう。今日は随分と早いな」

アイオリアも玄関の開閉する音と小宇宙で恋人が来たことはわかっていた。
シャカがリビングに入るタイミングでアイオリアはソファから立ち上がり、気紛れにここを訪れる恋人を笑顔で迎え入れた。

シャカはそんなアイオリアの傍に歩み寄るなり、無言でアフロディーテからもらって来たばかりの赤薔薇を彼に向かって差し出した。

「えっ!? な、何!?」

これに面食らったのはもちろんアイオリアであった。
何も言わずいきなり赤薔薇を差し出された(というより眼前に突き付けられた)ら驚くに決まっているし、挙動がおかしくなるのは当然である。

「バレンタインだ」

「は?」

「だからバレンタインの贈り物だ。受け取るがいい」

シャカのアイオリアに対する物言いは、恋人になる前から基本的に変わっていない。
恋人になる以前は言うに及ばず、なってからも他の人間に対するのとほぼ同じで、どこまでも上から目線で偉そうなのが所謂シャカの標準装備であった。
故にその高飛車な物言い自体は全く気にならないどころか、そんなシャカであるからたまに見せる可愛らしいところがより一層際立つとすら思っているアイオリアだったが、今はそんなところにデレデレしている場合ではない。

「バレンタインの贈り物って……えっ? でも……」

シャカのこの唐突な行動の意図と赤薔薇の意味はわかったものの、今度はまた別のことでアイオリアは困惑した。
自分の恋人が甚だしいレベルで浮世離れしていることは、もちろんアイオリアも正しく理解している。そのシャカが『バレンタイン』などと言い出したこと自体がそもそもアイオリアの胆を抜いたのだが、一番の問題はそこではない。

「えっと、その……ありがとう。でもシャカ、バレンタインは2月の14日で今日は8日だからまだ一週間早いような気が……」

とりあえず差し出された赤薔薇をありがたく受け取りつつ、アイオリアがバレンタインにはまだ早いと遠慮がちに言うと、

「そんなことはわかっている」

「は?」

シャカの返答にアイオリアの目が丸くなった。

「ごめん、オレには何故今日お前がこれをくれたのかその意味がわからない。説明してもらえないか?」

何が何だかワケのわからないアイオリアは、改めてストレートにシャカにバレンタインと赤薔薇の因果関係の説明を求めた。

「これまで全く関与のない世界で生きていたので知らなかったが、私の母国のバレンタインは当日の一週間前から始まるそうだ」

またも前振りも前置きもなしに本題に突入したシャカだが、それは割といつものことでもあるのでアイオリアももう完全に慣れている。

「当日の一週間前から?」

「そうだ。その一週間をバレンタイン週間と呼ぶらしい。2月14日の一週間前、つまり今日からそのバレンタイン週間が始まり、決められたものを送ったり行事をこなしたりするそうだ」

「これから一週間? 毎日!?」

アイオリアの問い返しにシャカは頷き、

「そうだ。そしてその初日の今日はローズ・デーと言って相手に薔薇を渡す日なのだ」

「あ、それでこれを……」

やっと話が繋がりシャカの行動の意味がわかったアイオリアが、受け取ったばかりの赤い薔薇に改めて視線を落とした。
その薔薇は素人目に見ても素晴らしく美しいとしか評価しようがないくらい、それは見事な薔薇だった。

「ありがとう、シャカ。オレには花のことなんてよくわからないけど、でもこの薔薇が素晴らしく綺麗だってことくらいはちゃんとわかるよ。本当にありがとう」

「そうか……アフロディーテに頭を下げた甲斐があったというものだな」

実際にはシャカはアフロディーテに1mmたりとも頭など下げていないのだが、彼自身の認識としてはきちんと頭を下げたことになっていた。

「えっ? それってアフロディーテからもらったってこと? てことはこの薔薇もしかして……」

アフロディーテの名を聞いた途端にアイオリアが顔色を変えたことに気付いたシャカが、思わずプッと小さく吹き出した。

「案ずるな、その薔薇はデモンローズではない。普通の薔薇だ。双魚宮の中で一番美しく咲いている赤薔薇を見繕ってくれたと、アフロディーテは言っていたぞ」

それを聞いてアイオリアはホッとしたが、よくよく考えればシャカが自分に渡す為にもらって来た薔薇なのだから、出所がアフロディーテであっても毒が仕込んであるはずがない。
条件反射とは言えシャカにもアフロディーテにもちょっと申し訳ない反応をしてしまったと、アイオリアは反省した。

「一番美しい薔薇、か。確かにその通りだな」

そうは言ってもシャカに謝るのも変な話なので、その反省は自分の中に止めてそれ以上の言及はしなかった。

「大事にするよ、ありがとう」

三たび礼を言うとシャカは満足そうに頷いた。
だがシャカのその笑顔を見た直後、アイオリアは一転して表情を曇らせ、

「でもシャカ、あの……ごめん」

「? 何を謝っているのだ?」

「オレ、バレンタイン週間なんて知らなかったから……お前に贈る薔薇を用意してなくて……」

赤薔薇を片手に非常に気まずそうに謝るアイオリアに、シャカは本日二度目の開眼をするとその美しい碧眼を丸め、二〜三度瞬かせてからまたも小さく吹き出した。

「これは私の母国独自のやり方のようなものだ、しかも恐らく近年定着したばかりのな。異国人であるお前が知らぬのは当たり前のこと。私は単純に母国のやり方に倣ったまでで、同じことをお前に要求するつもりはない。お前はお前の母国……はこの地であったな、そのやり方でやればよかろう。私に合わせる必要もまして気に病む必要もない」

同じことを要求する気など最初から毛頭なかったシャカは、笑いながらアイオリアに気にするなと繰り返した。

「う、うん……お前がそう言うなら……」

それでもまだどこか申し訳なさげな様子のアイオリアを見つめながら、こういう生真面目で不器用なところが本当にアイオリアらしい……とシャカは無意識に笑みを深めていた。
しばし微笑ましくそんなアイオリアの様子を見つめてから、シャカは無言のまままた唐突に踵を返した

「あれ? シャカ?」

どこに行くんだ? とアイオリアがシャカの背に声をかける。

「今日は帰る」

「えっ? 帰るって、もう!?」

驚いたように言うアイオリアの方に振り返り、シャカは頷いて見せた。

「せっかく来たのに?」

「今日はその薔薇を渡しに来ただけだからな」

「だからって何もそんなに急いで帰らなくてもいいだろう。すぐに茶を入れるから、ゆっくりしていけばいいじゃないか」

「いや、今日のところは遠慮しておこう。明日、また来る」

シャカは引き止めるアイオリアにやんわりと謝辞を告げ、足早に獅子宮を後にして行った。

「明日また来るって、今度は一体何を……?」
残されたアイオリアはしばしその場でポカーンと佇み、呆然とそう呟くことしか出来なかった。

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