くすっ、とアイオリアが笑いを溢したのと、ミロのくしゃみが寝室に響いたのはほぼ同時だった。

「何笑ってんだよ?」


豪快に鼻水を啜りながら、ミロは自分が寝ているベッドの傍らに座るアイオリアに気怠そうに問い返した。


「ん? いや、何でもない。……38度2分か、下がらないな、熱」


ミロの問いに曖昧に答え、アイオリアはたった今計測し終えたばかりの体温計の数値を読み上げた。


「う〜、ダリぃ〜頭痛ぇ〜体中痛ぇ〜……」


「当たり前だ、風邪ひいて熱があるんだから」


体温計をケースに戻しながら、素っ気無くアイオリアが言った。

ミロは拗ねたように唇を尖らせてアイオリアの方へ寝返りを打ち、熱で仄かに潤んでいる大きな薄青色の瞳でアイオリアの緑色の瞳を睨みつける。


「ったく、ツイてないよ。何で誕生日当日に、風邪ひいて熱出して寝込んでなきゃいけないんだよ」


「文句言ったって仕方がないだろう」


言ってもどう仕様もない文句を垂れるミロをまた素っ気無く窘めて、アイオリアはケースに戻した体温計をサイドテーブルの上に置いた。


「何だよそれ、超冷たい! 誕生日当日に恋人が風邪で寝込んでるっていうのに、お前それでいいのかよ!?」


今日はミロの21歳の誕生日であった。

今日のこの日をミロはずっと楽しみに指折り数えて待っていたのだが、運が悪いと言おうか間が悪いと言おうか、3日ほど前から風邪をひきこんでしまい、あろうことか昨日から高熱を出して寝込んでいる有様であった。

風邪なんかひかなければ今頃は……と、ミロは悔しそうに唇を噛んだ。

ミロが今日を楽しみにしていたのは、晴れて恋人となったアイオリアと初めて迎える自分の誕生日であり、彼と久しぶりに聖域の外へデートに出かける約束をしていたからである。

二人で映画を見て、食事をして、それからゆっくりと誕生日の夜を過ごそうとずっとずっと楽しみにしていたのに、風邪をひいてしまったせいで楽しい予定はすべてキャンセル、一転して咳と鼻水と熱に苦しめられながらベッドの中で過ごさなければならなくなったのだから、愚痴や文句の1つや2つ言いたくもなる。

だが当の恋人の方はと言えば、そんなミロとは対照的に落胆している素振りも見せずに淡々としており、ある意味いつもと全く変わらぬ様子のアイオリアにミロは怒りにも似た感情を覚えずにはいられなかった。


「それでいいわけ? って聞かれても、しょうがないだろうとしかオレには言えないんだが」


どこまでもあっけらかんとしている(ようにミロには見える)アイオリアに、ミロの機嫌がますます悪くなる。


「可哀相だって思わないのかよ?」


「お前が気をつけてなかったのが悪いんだろ」


「せっかく一緒に出かける約束してたのに、パァになっちゃったんだぞ! 残念だとか思わないわけ?」


「思ったところで出かけられるわけでもないし、どうしようもないだろ」


感情の赴くままに文句を吐きだしたミロであったが、いちいちアイオリアに正論で返され、黙らざるをえなくなった。

恨みがましい目で自分を睨むミロに、アイオリアは呆れたように言った。


「子供みたいに不貞腐れるな」


気性が激しく感情の起伏がはっきりしていて、それが表情や態度に直結するミロは、些細なことですぐに笑ったり怒ったりこうやって不貞腐れたりする。

それは子供の頃からまったく変わっておらず、アイオリアも慣れているせいか動じることもなければ焦る様子も見せずに淡々とした態度を崩さない。


「何だよ、涼しい顔しやがっ……」


そんな態度がますます癇に障ってミロは思わず声を張り上げたが、途端に激しく噎せて咳き込んだ。

あ〜あ言わんこっちゃないと心の中で呟き、アイオリアは咳込むミロの背を擦ってやった。


「大丈夫か?」


「……大丈夫か?じゃねえよ……」


少しして咳の収まったミロが、低い声を絞り出す。


「風邪で喉もやられてるのに興奮するからだぞ」


「お前が興奮させたんだろ」


ミロは弱々しくアイオリアの手を叩くと、再び寝返りを打ち、今度は当てつけるようにアイオリアに背を向けた。

やれやれ、とアイオリアは溜息をついたが、こんなことにも慣れているので慌てたりはしない。


「あのなぁ、そりゃオレだって残念だとは思うよ。でも不満を言ったところでどうなるものでもないし、そんな状態のお前を外に連れ出すわけにもいかんのだし、諦めるしかないだろう。何度も同じこと言わせるな」


まるで子供に言い聞かせるかのような優しい口調でアイオリアは言い、ミロの後ろ頭を撫でた。

だがミロは無言で背を向けたままで、こちらを振り返ろうともしない。しょうがないなと内心で呟き、アイオリアは肩を竦めた。

傍目から見ればミロが勝手に怒って勝手に拗ねて勝手に八つ当たりをしているだけなのだが、アイオリアは恋人のそんな態度を不快に思ったことなど一度もなかった。

むしろ――これは口が裂けてもミロ本人には言えないのだが――素直で真っ直ぐで良くも悪くもそんな子供っぽさを残しているミロのことが、可愛くて愛しくて仕方がないのだ。

今は体調の悪さと誕生日に風邪をひきこんでしまったという決まりの悪さから、やり場のない憤りを感じてアイオリアに八つ当たりをしているが、裏を返せばそれもアイオリアにしか言えない、できない態度であることを誰よりもアイオリア自身がよく理解していた。

だからミロにどんなにわがままを言われても八つ当たりをされても平気だし、むしろそんなところが心底微笑ましいと思えてしまうくらいなのだから、付き合いの長さや慣れというものはすごいものだと思う。

どのみちミロは怒りが長続きする性格ではないし、少し放っておけば自然に機嫌も直るので、アイオリアはそれ以上は何も言わずに、おとなしくミロの機嫌が直るのを待つことにした。


「せっかくお前が……」


それから5〜6分程の時間が経っただろうか。

そろそろミロに夕飯食わせなきゃなぁ、とアイオリアが考え始めたところで、ミロがいきなり口を開いた。


「ん?」


ミロの背に向かって、アイオリアが短く聞き返す。


「滅多にそんなことしてくれないのに映画のチケット買って、タベルナの予約してくれて……それなのにこんなことになっちゃって……」


別に何ということのない普通のデートだが、不器用が服を着て歩いているようなアイオリアが自分の誕生日を祝うためにと、一生懸命セッティングしてくれたデートだったのだ。

だからこそミロにとっても特別な意味があり、今日のこの日をミロはまるで遠足前の子供のように胸を弾ませて楽しみにしていたのに、肝心の自分がこのザマとなってはさすがに情けなくもなろうというものだった。


アイオリアはミロには聞こえないよう忍び笑いを洩らした後、静かに手を伸ばして再びミロの柔らかな髪を撫でた。


「映画も食事も風邪が治ったら行けるだろう。ちゃんと誕生日やり直してやるからさ。だからお前はとにかくゆっくり休んで大人しく寝て、早く風邪を治せ、な?」


ミロはようやくアイオリアの方へ向き直り、上目遣いで彼を見上げた。

ミロの表情にはもう不機嫌を示す成分は残されておらず、ようやく機嫌が直ったかとアイオリアを安心させた。


「さ、そろそろ晩飯にしようか。しっかり食って栄養つけないと、治るもんも治らんからな」


アイオリアはミロの薄青色の瞳を映した緑色の瞳を優しく細め、微笑んでからくしゃくしゃとミロの髪をかき回した。


「……晩飯って、お前が作ってくれるのか?」


「残念ながら違うよ。オレじゃ碌な物作れないからな、それはお前だってよく知ってるだろう」


「じゃ、何を食わせる気だよ?」


不信の目を向けるミロに向かって、アイオリアは苦笑いしながら言った。


「心配するな。さっきサガが飯を作りに来てくれたんだよ。風邪薬も持ってきてくれた」


それを聞いてミロの表情が今までと違う動きを見せた。


「えっ? サガが来てくれたのか?」


「ああ。ちょうどお前が眠ってた時だったけどな」


「何だ、起こしてくれればよかったのに……」


アイオリアを責めているわけではなかったが、それでも残念そうにミロが呟いた。


「オレも起こそうとしたんだけどな。サガに起こすなって止められたんだよ」


ミロは子供の頃から特にサガに懐いていて、大人になった今も根本的な部分は変わっていない。

なのでこの反応は予想通りといえば予想通りであった。


「もう帰っちゃったのか?」


「ああ、とっくにな」


サガは食事を作ると、後のことはアイオリアに任せて早々に帰っていった。

もしかしたら一つ上の兄の宮に行くついでだったのかも知れないが、いずれにせよサガはサガなりに自分達に気を利かせてくれた面もあったのだろうとアイオリアは思う。


「何だ? もしかしてサガに看病してもらいたいのか?」


「そんなこと言ってないだろ。いいよ、お前がいてくれればそれで」


随分な物言いであったが、これはミロの照れ隠しである。

そんなミロを見ながらアイオリアはプッと吹き出し、そのままくすくすと笑い始めた。


「……お前さっきから何笑ってんだよ?」


熱でぼんやりとはしていても耳敏くそれを聞き止めたミロは、明らかに思い出し笑いをしているアイオリアに訝しげに眉を顰めて問いかけた。


「あ、いや、さっきふと思い出したんだけどな。昔もこんなことあったなぁ〜って思って」


「昔?」


「そう、ちょうど15年前になるのか。お前、やっぱり誕生日に風邪ひいて熱出して寝込んだことあったろう」


アイオリアが言うと、ミロの表情があっ! というように動いた。


「その顔は『ちゃんと覚えてます』って顔だな」


からかい交じりに言われてミロはムッと表情を歪ませたが、つまりはそれを肯定したということである。

そんなミロのわかりやすい変化を楽しんでから、アイオリアは先を続けた。


「あの時はお前、見事にオレにまで風邪をうつしてくれたもんな。酷い目に遭ったよ」


そう言ってアイオリアは、今度は楽しそうに笑い声を立てた。


「……もしかしてさっきもそれ思い出して笑ってたのかよ?」


あからさまに不愉快そうに聞き返すミロに、アイオリアは軽い調子で「まぁな」と答えた。


「思い出し笑いなんかしてんじゃねえよ。根の暗い奴だな」


ミロは毛布を顔の半分まで被って、キッとアイオリアを睨みつけた。

だがミロが本気で怒ってなどいないことは一目瞭然、単にそうやって気恥ずかしさをごまかしているだけなのである。

そんなミロの様子を見てアイオリアはまた笑ってしまいそうになったが、ここで笑ったら今度こそミロが本気で怒りそうだったので、寸でのところこみ上げてきた笑いを押し止めたのだった。


「しょうがないだろう。あれは忘れろったって忘れられんぞ」


事もなげにそう言いおくと、アイオリアはますますムクれるミロを尻目にさっさと寝室を出てキッチンへと向かった。

そう、あれは決して忘れられない思い出なのである。

アイオリアにとっても、そしてもちろんミロにとっても――。