SELFISH

その夜仕事を終えてから双児宮を訪れたアイオロスは、リビングから聞こえて来る喧しい声に眉を顰めた。

「何の騒ぎだ? 一体……」

アイオロスが出迎えてくれたサガに尋ねながらその声の主の方に目をやると、サガは苦笑いをしながら答えた。

「どうやらアイオリアと喧嘩をしたみたいでね。その不満と愚痴を溢しに来たようだよ」

「……またか」

サガから簡潔に事情を聞いたアイオロスは、うんざりしたように顔をしかめて溜息をついた。
そう、先程から一人で喚いていたのはミロで、彼が騒いでいる原因は今サガが言った通りである。
アイオリアとケンカをして獅子宮を飛び出してきたミロは、そのまま自宮の天蠍宮へは帰らずに十二宮を下ってここ双児宮へ飛び込むと、この宮の双子の主の片割れカノンを取っ捉まえ、彼に有無を言わせる間もなくたった今自分が恋人から受けてきたばかりのあんまりな仕打ちをぶちまけ始めたのだった。
一度堰を切ったアイオリアへの不平不満は止まるところを知らず、話が進むに従ってどんどんヒートアップしていったミロがカノンを相手に不平不満愚痴文句を絶賛放出中のところへ、タイミング良くというか悪くというかアイオリアの兄であるアイオロスが来てしまったのである。

「カノンも大変だな」

呆れ顔をしながらも適度に相槌をうちつつちゃんとミロの話を聞いてやっているカノンを見て、アイオロスは同情気味にそう呟いた。

「もう慣れてるよ、カノンも」

「慣れてるって、まさかアイオリアと喧嘩する度ここに飛び込んで来て愚痴りまくってるのか? ミロの奴」

「そう頻繁にというわけではないし毎回ではないかも知れないが、アイオリアと喧嘩をすると、まぁ……大抵はね」

微妙に言葉を濁しながらサガがそれを肯定すると、アイオロスはますます呆れて目を丸めた。

「とんでもなく迷惑な話だな。にも拘らずよく律義に相手してるもんだ、カノンも」

「あいつは案外あれで年下の面倒見が良くて聞き上手なんだ。しかもこの手のことは特にね」

つまりはケツの青い小僧の遇いが上手いということかとアイオロスは納得したが、なるほど一見しただけでもその様子は見て取れる。
だがいずれにしても迷惑この上ない話であることに、変わりはなさそうである。

「お前だって迷惑なんじゃないのか?」

「いや、迷惑なんてことはないよ。別に暴れて物を壊したりするわけでもないから、実害があるわけでもないしね。憂さ晴らしに愚痴を言いに来るくらいはどうってことはないさ」

事も無げに言って、サガは軽く肩を竦めて見せた。

「やれやれ……相変わらずお前はミロに甘いんだな」

今度は別の意味で呆れて見せると、アイオロスはまだカノン相手に不満ぶちまけ中のミロのところに向かって行った。

「ミロ、お前またアイオリアとケンカしたんだって?」

アイオロスがミロの背後からそう声をかけると、ミロがビックリしたように振り向いてアイオロスを見上げた。
どうやら文句を言うことに夢中で、アイオロスが双児宮に来ていたことに気付いてすらいなかったらしい。
だがミロはアイオロスの顔を見るなりあからさまにムッと顔をしかめ、返事もせずにプイッと顔を背けた。

「おいコラ! 何だその憎たらしい態度は」

アイオロスはミロの頭を軽く叩くと、その気にろの頭を掴んで強引に背けた顔を自分の方へ向き直らせた。

「痛ってえな! 何するんだよっ!」

「お前が人の質問に答えず、そんな失礼な態度を取るからだろう!」

アイオロスに怒られるとミロはぶすっとして口を尖らせた。

「だって……アイオロスの顔を見ると思い出して腹が立つんだよ」

「はぁ!?」

思い出すって何が? と、アイオロスは思いっきり訝しげに眉を顰めた。
ミロに腹を立てられるようなことをした覚えのないアイオロスにとってそれは至極当然の反応であったが、直後にミロの言葉の意味を理解して今度は完全に呆れ果てたように眉を寄せた。

「あのな、兄弟なんだから顔が似てるのは当たり前なんだよ。そんなことで腹を立てられたって知らん。オレに八つ当たりをするな」

無論世の中にはあまり似ていない兄弟姉妹も星の数ほど存在するが、アイオロス・アイオリア兄弟は体格の差こそあれど顔はまるで双子の兄弟といっても通用するくらいによく似ていて、しかも8歳もの年齢差があると思えないほどだった。
だがとにかくアイオリアに対して腹を立てまくっている今のミロは、彼そっくりのアイオロスの顔を見るだけで一層怒気を刺激されるのである。

「ったく、今日のケンカの原因は何なんだ? ケンカの原因は」

「アイオリアが悪いんだ!」

ミロは吐き捨てるようにして、全く答えになっていない答えを返した。

「お前達のケンカにどっちが悪いもくそもないような気がするんだがな。何れにしても、そんないい加減な説明じゃわけがわからん。もっと具体的に……」

「アイオロス」

詳細を聞こうとしたアイオロスの言葉の先をやんわりと遮ったのは、カノンだった。
アイオロスがカノンの方へ顔を向けると、カノンは苦笑いを浮べて黙って首を左右に振って見せた。
聞いても無駄だぞと、無言でアイオロスに告げているのである。
その意を了解したアイオロスが少し困ったようにカノンを見返すと、カノンは黙って頷いてからアイオロスを促すようにサガの方へ目配せをした。
とりあえずここは自分に任せろ、と言うことである。
それを理解したアイオロスは些か釈然としない部分はあったものの、先のサガの言葉を思い出してカノンの意図に従うことにした。

「あ〜、もうっ! 今日という今日はホンットにアタマ来た! マジムカついたっ! アイオリアの大バカ野郎、オレのこと何だと思ってやがんだっ!」

アイオロスが傍を離れると、ミロは気を取り直してカノン相手にアイオリアへの文句を再開した。
「アタマ来た」「ムカついた」「バカ」等々、恐らくこれまでの間に散々聞いたのであろう単語群を、カノンははいはいと絶妙な相槌を打ちながら巧く調子を合わせてミロの話を聞いている。
少し離れたところでその様子を眺めていたアイオロスは、カノンのその見事な遇い方を目の当たりにして素直に感心した。
なるほど、これならサガが一切口を出そうとしていないのも頷ける。アイオロスですらそうしみじみと思ってしまうくらい、カノンはミロ遇いが上手かった。

「あいつがああいう態度に出るなら、こっちにだって考えがある!」

「考えがあるって何をするつもりだ?」

「浮気だよ浮気! 浮気してやるんだ! そしてあいつに思い知らせてやる!」

思い知らせてやるって何を? とは思ったものの、カノンはもちろんそれを口に出したりはしない。
ただ怒りに任せて物を言ってはいても、『別れてやる!』とだけは絶対言わないあたりにミロの隠しきれない本心が見えていて、この時カノンは笑い出すのを堪えるのに少なからずの苦労をさせられていた。
だが怒り心頭のミロはそんなことには気付かず、改めてカノンに向き直ると、真剣な顔をしておもむろに切りだした。

「なぁカノン、オレと浮気しようぜ」

「気が向いたらな」

もちろんそんな戯言を本気にするカノンではない。
ミロの方には本気の要素が微粒子レベルで混在していたが、カノンはそれを見て取った上で即座にそう切り返したのである。
ミロは面白くなさそうに口を尖らせると、それでも挫けずに言葉を繋いだ。

「……それじゃサガと浮気する」

「アイオロスにぶっ殺されるぞ」

即答しながらカノンは親指でちょいちょいとアイオロスの方を指差した。

「だったらカミュと浮気……」

「シュラに八つ裂きにされるな」

「じゃ、そのシュラで……」

「八つ裂きが氷漬けに変わるだけだぞ」

「ならアフロディーテ……」

「ペットにされるのがオチだ」

「デスマスク」

「積尸気に連れ込まれた揚げ句にそこで襲われるな」

「………アルデバラン」

「ムウにチクチクネチネチいびられたいのか?」

「……それじゃシャカ……」

「ヤケになるな」

殆ど意地というか自棄になっているミロに諭すように言って、カノンはミロの肩を叩いた。
ミロはますます仏頂面を強くしたが、カノンのツッコミはいちいちもっともなだけにそれ以上何も言えず、とうとう黙り込んでしまう。

「まぁ、そうシケた面するなって。付き合ってやるから今晩は気晴らしにパーッと飲もう! な!」

子供のように頬を膨らませて完全に不貞腐れているミロを宥めながら、カノンは今度はミロの金色の頭をくしゃくしゃと撫でた。



「あ〜あ、だから言わんこっちゃない」

「いくら何でも飲ませすぎたのではないか?」

「オレが飲ませすぎたわけじゃない。こいつが勝手に飲みすぎただけだ」

呆れたようにそんな会話を交わす三人の視線は全部同じ場所、カノンの膝の上で寝ているミロに集中していた。
寝ているといえば聞こえはいいが、端的に言うと浴びるように酒を飲んだ揚げ句に酔っ払ってぶっ潰れたというのが正解であった。
アイオロスが溜息混じりに呟いたように、今日のミロの荒れ具合からしてこの結果は容易に予測できていたので、一緒に飲んでいた年長者三人は一応所々でブレーキをかけようとはしていたのである。
にも拘らず予想通りの結果を回避出来なかったのは単にミロが言うことを聞かずにガバガバ酒を飲んだからで、つまりここにいる年長者三人が悪いわけではない。言わばミロの自業自得というやつである。
ミロの飲み方は誰の目から見てもただの自棄酒の無茶飲みで、散々飲んで散々管を巻いた挙げ句ミロはカノンの膝の上に勝手に撃沈したのだ。

「それにしても誕生日を勘違いしてたアイオリアもアイオリアだが、こいつも何もここまで意固地になることはないだろうに。ったく、毎度のことながらこいつらのケンカはどっちもどっちなんだよな」

ミロがカノンに向かって延々と垂れ流していた文句から二人の喧嘩の原因を知ったアイオロスだったが、どうせろくな理由じゃないだろうと予想はしていても、あまりに予想通りだと呆れるを通り越して脱力感を覚えるというものである。

「そう言ってやるな、アイオロス。ミロにとっては、恋人としてのアイオリアと過ごす初めて誕生日だったんだ。ミロはミロなりに特別な思い入れがあったんだろう」

だからと言ってアイオリアを責める気など毛頭ないが、ミロの気持ちもわかるだけに同情的な気分になってしまうサガだった。

「本当にお前はどこまでもミロに甘いんだよな……」

チラリと横目でサガを見遣り、アイオロスは今までとは別の意味で溜息をついて苦笑した。
アイオロスとてミロの気持ちがわからないわけではないのだが、子供じゃあるまいしこんな大喧嘩するようなことでもないだろうにと思わずにもいられなかった。

「お前も大変だったな、カノン」

とは言え、それをサガに言ったところでどうなるものでもない。アイオロスは気を取り直して、恐らくは本日一番の功労者であろうカノンに労いの言葉をかけた。

「慣れてるよ」

カノンはあっさりと答えて微苦笑した。
最近ミロはアイオリアと喧嘩をすると、決まってカノンのところに駆け込んできては鬱憤をぶちまけていた。
ただミロがここまで派手に荒れるようなことは最近はあまりなかったのだが、縮小版程度の騒ぎは何度もあったので、良くも悪くもすっかりと慣らされてしまっているカノンであった。

「それにしてもお前、本当に小僧の扱い上手いな」

「まぁね」

余裕の表情で応じたカノンだったが、すぐに表情を改めると兄のサガの方へ視線を転じ、膝の上で潰れているミロをちょいちょいと指差しながらサガに問いかけた。

「それはそれとして、どうしようか? これ」

「どうすると聞かれても……このままうちで寝かせるしかないだろう」

「だよな、やっぱり」

完全にぶっ潰れているので起こして天蠍宮に帰そうとしたところでとても無理だろうし、そもそもこの有様では起こしたところで起きるわけがない。
となると、今夜はこのままここに泊める以外に方法がないのである。

「ああ、いいよ。オレがミロを連れて帰るから」

「え?」

だがここでアイオロスが思いもよらぬことを言い出し、二人を驚かせた。

「連れて帰るって天蠍宮にか?」

「ああ。このままここに泊めたんじゃ、明日の朝お前達がまた色々大変だろう。オレの場合、嫌でも帰りに天蠍宮を通るからな。そのついでに落としていくさ」

アイオロスはそう言って笑い、ソファから腰をあげた。

「どうせ客間に寝かせておくだけだし、うちのことなら大丈夫だぞアイオロス」

「言っただろ、ついでだついで。帰り道だしお隣だしな」

サガがアイオロスを気遣ってそう言うと、アイオロスはサガに向かって"ついで"を強調しながらミロの前にしゃがみ込み、

「ミロ! おいミロ! こら起きろ! 帰るぞ」

大きな声で名を呼びかけながら頬を叩いた。
だがサガとカノンの予想通り、泥酔状態のミロがこの程度で目を覚ますわけがなかった。

「こら! ミロ! ミロ! 起きろって!」

アイオロスは一層声を張り上げて繰り返し名前を呼んで、更に強くミロの頬を叩いた。

「もういい、可哀相だからやめろアイオロス。ミロはこのままうちに泊めるから……」

一向に目を覚まさないミロの頬を叩き続けるアイオロスに、見かねたサガが制止の声をかけた。
するとそれと同時にミロの睫毛が微かに震え、間もなくゆっくりと閉じていた瞼が持ち上がった。
乱暴に頬を叩かれまくり、さすがに泥酔して爆睡していたミロの目も覚めたようである。

「やっと起きたか。ほら、もう帰るぞ」

酒精分を湛えたミロの寝惚け眼を覗き込み、アイオロスはしかりとした覚醒を促すべくまた軽く彼の頬を叩いた。
その直後、

「なっ!?」

茫洋としてたミロの瞳が大きく見開かれるが早いか、ミロは物凄い勢いでソファから半身を起こし、文字通り目にも止まらぬ速度でいきなりアイオロスの胸倉を掴んだ。
突然のミロの暴挙に、胸倉を掴まれたアイオロスのみならず傍で見ていたサガとカノンまでもが一瞬にして硬直した。

「てめぇアイオリアっ! 今更何しに来やがったっ!!」

「はぁ!?」

いきなり掴みかかられて怒鳴られたアイオロスは、わけがわからずに目を丸くして間抜けな声を上げた。

「オレを迎えに来たのか? でもオレを連れて帰ろうったってそうはいかねーぞ! オレは帰らないからなっ! 絶っっっ対に帰んない! わかってんのかアイオリアぁ〜!」

アイオロスの胸倉を掴んで一方的にそう捲し立てながら、ミロは酔っ払いのバカ力でアイオロスの身体を大きく前後に揺らした。
突然の降ってわいたようなこの災難に唖然呆然としていたアイオロスだが、やっと酔っ払いミロが真剣に自分とアイオリアを間違えて因縁を付けていることに気付いて、不快感を露にして思いきり眉間を寄せた。
オレはアイオリアじゃない! 間違えるなバカ! と怒鳴りつけようとしたアイオロスだったが、ミロはアイオロスに口を開く間を与えてはくれなかった。

「わかった! オレに謝りに来たんだろう? でもいっくら謝ったって許さないんだかんな! ちゃんと約束守ってくれるまで、ぜってーに、許さない……んだ、か……」

息苦しくなるくらいに強く締め上げられていた胸元が、フッと急激に軽くなった。胸倉を掴んでいたミロの手からいきなり力が抜けたからである。
だがアイオロスが解放感に一息ついたのも束の間、ミロの身体がグラリと揺れ、そのままアイオロスの上に崩れ落ちて来た。
その身体を、アイオロスが反射的に抱き留める。

「……このバカ、私とアイオリアの判別もつかないくらいヘベレケになってやがる」

アイオロスが心底呆れ果てたように呟くと、それを聞いていたサガとカノンが同時に小さく吹き出した。
一方的に怒鳴るだけ怒鳴って速攻で寝落ちしたミロは、自分の恋人の兄の逞しい肩口に頭を凭せて今度は気持ち良さそうに寝息を立てている。
首筋に当たるミロの猫っ毛の感触が擽ったくて、アイオロスは思わず顔をしかめた。

「本当はアイオリアに迎えに来て欲しかったくせに意地張りやがって……しょうがねえなぁ、ホントに」

くすくすと笑いながらカノンが手を伸ばし、そのミロの後ろ頭を撫でた。

「ったく、アイオリアの奴もさっさと迎えに来てやりゃいいものを……」

いくら兄弟とは言え、とばっちりを食ったアイオロスにとってはいい迷惑以外の何ものでもない。
もっとも、迷惑というなら赤の他人のサガとカノンの方がよっぽど迷惑だっただろうが。

「アイオリアにはアイオリアの言い分も意地もあろう」

アイオロスのその文句に、やはり笑いながら応じたのはサガだった。

「二人揃って子供みたいな意地の張り合いして。ホントにこいつらはもう……」

今までの倍はあろうかという大きな溜息をついて、アイオロスは小さく頭を左右に振った。

「どうする? アイオロス。これではミロを連れて帰るのは無理だろう。やはりりこのままうちに泊めようか?」

「いや、大丈夫だ。カノン、すまんがちょっとこいつ頼む」

サガに向かってそう答えながら、アイオロスは自分に全体重をかけて凭れているミロの身体をカノンの方へ僅かに押し返した。

「え? あ、ああ……」

カノンが小首を傾げながら寝ているミロの身体を引き取ると、アイオロスはしゃがんだ姿勢のままくるりと180度反転しカノンに背中を向けた。

「?」

「いいぞ。ミロを乗っけてくれ」

アイオロスが何をしようとしたのか一瞬分からなかったカノンだが、言われてやっとその意図を理解し、思わず微笑した。
アイオロスはミロをおぶって帰るつもりなのだ。
カノンが言われた通りアイオロスにミロを背負わせると、アイオロスの前に回ったサガがミロの両腕を静かにアイオロスの肩に回した。
双子の見事な連携プレーであった。

「でかくなったのは図体だけか。いつまで経っても世話の焼ける……」

ブツブツと文句を言いながら立ち上がったアイオロスは、背中にかかるずっしりとした重みに顔を僅かにしかめつつ微苦笑を唇の端に浮かべた。