窓から差し込む西陽が、部屋の中をオレンジ色に染め上げていた。夕陽の色はギリシャも日本も変わらないんだな、などと思いながら、サガは窓辺に腰掛けてぼんやりとそれを眺めていた。 サガがここ、日本の星矢の家に来てからそろそろ3日が経とうとしていた。実は3日前、サガは恋人であるアイオロスと13年ぶりの大喧嘩をし、その勢いに任せて聖域を飛び出してきたのだった。 大喧嘩とは言っても元のきっかけは些細なものであったのだが、一本気で多少融通の利かない面のあるアイオロスの気性と、穏やかなようでいて言い出したら聞かない頑固なサガの性格とが真っ正面からぶつかりあって、単純な事態が厄介な方向へと転がってしまっていたのである。 ところがいざ飛び出しては来たものの、はっきり言ってサガには行くあてと言うものが全く無かった。普段は思慮深く、行動を起こす前に熟考を重ねるサガであるが、その反動なのか何なのか、一度切れると今度は後先を全く考えずに突拍子もない行動に出る傾向がある。今回も正にそのパターンで、ブチギレした勢いだけで飛び出して来たサガは、当然その後のことなどまるで考えておらず、結局どこへ行こうか頭を悩まさざるを得ないことになってしまったのである。 十二宮の中ではどこに家出しても同じだし、第一それでは家出にならない。と言ってももう二十年以上も聖域から離れたことのないサガに、聖域以外に知り合いがそういるわけでもなく、結局のところ選択肢は無いに等しい状態であった。そう、行けるところといえば、日本の女神のところ……城戸邸くらいしかないのである。 とは言っても、理由などどうとでも取り繕えるが、さすがにこんなことで城戸邸に転がり込むのは躊躇われ(カノンであれば躊躇うことなく転がり込んだであろうが)、結局考えに考えた末、サガは個人的に一番誼みの深い後輩である星矢の元へやったきたのだった。 青銅聖闘士の中でもとりわけサガを慕い、懐いている星矢は、いきなりのサガの訪問に驚きながらも大喜びでサガを自宅へ迎え入れ、そして数日間滞在させて欲しいと言うサガの頼みを二つ返事で快諾してくれた。そのお陰でサガは、無事に家出先を確保することが出来たのであった。 にも関わらずサガは、何故自分が突然ここを訪れ、そして不躾に数日滞在させて欲しいなどと頼んだのか、その本当の理由を星矢には話していなかった。話していないと言うより、恥ずかしくて話せないと言った方が正解だが、幸いにして星矢はその理由をサガに根掘り葉掘り聞くような真似はしなかった。 またサガは星矢に、女神や他の青銅聖闘士達には自分がここにいることを内緒にしておいて欲しい、と言うわがまま勝手なことまで頼み込んだのだが、これについても星矢はろくにサガに理由を聞くことなく、あっさりと承知してくれていた。 サガは嘘をついて星矢を騙したりしているわけではないが、きちんと理由を話せない後ろめたさがやはりサガの中に色濃い影を落としていた。せめて本当の事情くらい話せたら……とは思うのだが、やはり自分のプライドにかけても、それだけはどうしても言えなかったのである。 もっとも、どう表面を取り繕ってみたところで、恋人と喧嘩した揚げ句に一回り以上も年下の後輩のところに転がり込むなど、とんでもない醜態であることに変わりはない。そんな自分の行動に情けなさと自己嫌悪を覚えつつ、サガとしてもここまで来たらもう引っ込みがつかず、加えて生来の意地っ張りな気質も手伝って、この際行けるところまで行ってやる的なヤケクソにも似た気持ちになっていたのであった。 そもそもの事の起こりは、ちょうど一週間前。一ヶ月に一度執り行われる、聖域の合同礼拝の日のことであった。 「サガ、お前顔色悪いぞ。大丈夫か?」 礼拝を執り行う教皇・シオンの補佐として一緒に祭壇に上がるアイオロスとサガは、同じ控えの間で身支度を整えていた。法衣に慣れているサガは、いつもアイオロスより身支度が早いのだが、今日に限ってはアイオロスが着替え終わってもまだサガは着替えを終えておらず、その動きもいつもに比べて緩慢であった。心配になったアイオロスが何となしにサガの顔を覗き込むと、サガの白皙に肌にいつもと違うやや病的な青みがかかっていたのである。ビックリしたアイオロスは、穴が開きそうなほどにマジマジとサガの顔を見つめて、唐突にそう言ったのだった。 「大丈夫だよ、別に何ともない」 自分をしげしげと覗き込むアイオロスに、そう応じながらサガは苦笑を返した。 「いや、顔青い。具合悪いんじゃないのか?」 だがアイオロスはその返答では納得せず、やや表情を強張らせて眉間を寄せた。 「本当に何でもないよ、大丈夫。そんなことよりアイオロス、きちんと法衣の前を閉めろ。そんなに開けてちゃ、みっともないぞ」 サガはそう軽く答えながら、広く開けっ放しのアイオロスの法衣に目を留めて、呆れたように言った。もちろんそれは、アイオロスの注意を自分から逸らすためでもあったのだが。 「えっ? あ、ああ……ここ閉めると息苦しいから……。出来れば礼拝始まるギリギリまで、開けておきたいんだけど」 言われてアイオロスは、自分の襟元に視線を落とした。常日頃から軽装を好む傾向の強いアイオロスは、法衣のようなカッチリとした衣服が非常に苦手であった。本音を言えばこんなかたっ苦しいものは着ずに済ませたいのだが、教皇補佐と言う職務上、しかも聖域の人間の大半が参加する礼拝の席上で、法衣を纏わないわけにはいかない。だが嫌々渋々着ているだけなので、アイオロスとしては出来ることなら皆の前に出るギリギリまで、せめて襟元くらいは大きく開けて僅かでも解放感を得たいのである。 「だめだ。次期教皇ともあろう者が、そんなにだらしなくてどうする?」 くすっと小さく笑いながらアイオロスを窘めて、サガはアイオロスの胸元から襟元をきちんと閉め始めた。アイオロスとは逆に、普段から割にかっちりとした長衣を纏っていることの多いサガは、あまり法衣を堅苦しいとは思わない。とは言え自分も最近では時折Tシャツやらジーンズやらを着ることもあるから、そう言った類いの服が楽だと言うことは知っているし、アイオロスの気持ちがわからないではないのだが、それはそれ、時と場合である。 サガは丁寧にアイオロスの法衣の前を止め、アイオロスは頬を綻ばせながら嬉しそうにサガの手にされるに任せていた。堅苦しい衣服は嫌いだが、いつもサガがこうしてくれるなら法衣を着るのも悪くないな、などと図々しいことまで考えていたのだが、下からポタンを止めつつ徐々に上がってきたサガの手がアイオロスの首に触れた途端、小さな幸せに緩んでいたアイオロスの表情が一変した。 「サガっ!」 突然声を上げるが早いか、アイオロスがサガのその手をいきなり掴んだ。その声と突然のアイオロスの行動に驚いたサガは、ビクッと身を震わせて反射的にその手を引こうとした。だが、アイオロスはサガの手をガッチリと掴んだまま、離さなかった。 「なっ、どうしたんだ?、アイオロ……」 「お前っ! 熱があるじゃないか!!」 怒鳴りつけるようにアイオロスが言うと、瞬時にサガの表情が強張った。 「……いきなり何を言いだすかと思えば……。熱なんかないよ、お前の気のせいだ」 だがサガはすぐに表情を作り直して、笑顔を浮べながらアイオロスに言った。 「嘘つけ!」 だがサガの体温を全身で記憶しているアイオロスに、そんな口先だけの誤魔化しは通じなかった。言うなりアイオロスは、掴んだ手を引っ張ってサガの身を引き寄せると、目にも止まらぬ早さで開いている方の掌をサガの額に当てた。 「お前っ……随分あるじゃないか! これで自分の体の変調に気づいてなかったなんて、言わせないぞ!」 予想していた以上の額の熱さに、アイオロスは口調と表情を更に険しいものにした。その熱さはサガの平素の体温を遥かに超えており、とても健康な人間のものではなかった。同様に、これだけ熱があってはサガ自身も自分の体に違和感を感じていないはずがない。普通だったら、起きているのもつらいくらいのはずなのだ。 「……ごめん……」 さすがにここまで来ては、サガももう言い逃れは出来ず、素直にそれを認めた。アイオロスの言う通り、サガは発熱していたのである。 実のところ2〜3日ほど前から体調が芳しくなく、どうやら風邪を引き込んだらしいことはサガもわかっていた。ただその頃はちょうど今日の準備で忙しく、休養する余裕などなかったし、それより以前にたかが風邪くらい放っておいても治ると油断していた部分があった。ところが、そんなサガの意に反して風邪は良くなるどころか見る見る間に悪くなり、遂に昨晩から発熱してしまっていたのだった。 それでも一晩寝れば平熱に戻るだろうと楽観していたのだが、残念ながら熱は下がらず、逆に昨日よりも高くなっている有様であった。 とは言え、大切な月次行事である今日の礼拝を、教皇補佐たる自分が休むわけにはいかない。正直、体が重くて怠くて起き上がるのもつらい状態ではあったが、そもそも風邪を引き込んだのは自分の不注意である。そんなことで、仕事に穴をあけるわけにはいかなかった。 自分が風邪をひいて発熱していると知れば、アイオロスもそしてシオンも自分を気遣って「休め」と言うに違いない。それが嫌で、サガは体調が悪いことを隠していたのだった。幸いと言えるかどうか、風邪はひいて発熱はしているものの、咳やくしゃみが出ているわけでもなかったので、そのまま隠し通せると思っていたし、隠し通すつもりでいたのだが、まさかほんの少し手が触れただけでアイオロスにそれを看破されるとは、思わぬ不覚であった。 「これじゃ顔色も悪くて当然だ。まったく、どうして黙ってた?」 一転して呆れたような口調になって、アイオロスはサガに尋ねた。 「別に大したこともないし、余計な心配させたくなかったから……」 「大したことないわけないだろう! そんなに熱が出てるのに!」 アイオロスは思わずサガを叱りつけた。いくら自分自身の体のこととは言え、無頓着にも程がある。サガの内心を察することが出来ないアイオロスではなかったが、むしろそれがわかるだけに腹立たしく思える部分があった。サガはいつでもそうだ。自分のことよりも仕事を優先し、他者を気遣う。自分がどんなにつらくても、誰にも言わずに自分1人で片づけようとする。その気質は昔からちっとも変っていなかった。 「とにかく、お前はすぐに双児宮に帰って休むんだ。シオン様には私から言っておく。それとカノンも一緒に帰らせるから……」 最も、今はそんなことをごちゃごちゃ言っている場合ではない。とにかくサガを帰らせて、休ませることが先決だった。 「バカを言うな! これから大事な礼拝だと言うのに、私が休めるわけがなかろう!」 やはりアイオロスの反応は、サガの予測した通りであった。だがもちろん、サガがそれに素直に頷ける道理もない。教皇補佐という要職に就いている自分が、たかが風邪による発熱程度で大切な礼拝を疎かにするわけにはいかないのだ。 「バカなこと言ってるのはお前の方だろう! 立ってるのもツライ状態のクセして、強がるな!」 「強がってなどいない! 第一、私の体のことが、お前にわかるわけないだろう! この程度の熱で立てなくなるほど、私はヤワではない!」 「自分のことを1番わかってないのはお前の方だろう! お前の『大丈夫』ほど、アテにならんものはないんだからな」 「余計なお世話だ!」 アイオロスの言い草にさすがにサガもカチンと来て、珍しく声を張り上げた。 「その余計なお世話を私がしなきゃ、お前は無理する一方だろうが!」 だがその程度のことで引き下がるアイオロスではなかった。誰かがうるさく止めてやらなければ、サガが無理に無理を重ねるのは目に見えている。体調が悪いことを押し隠してみたり、それが発覚してもなおこうして強情を張り続けてることが、何よりそれを如実に物語っていた。しかも本人に無理をしているという自覚がない為、余計に困りものなのである。 「だからそれが大きなお世話だと……」 サガがそこまでアイオロスに言い返したとき、控えの間の扉がノックされた。同時にサガは、その先の言葉を飲み込んだ。 「アイオロス様、サガ様、お時間でございます」 程なくして、閉まったままの扉の外から声がかけられた。神官が2人を呼びに来たのである。 「行くぞ、アイオロス」 サガは小さな吐息を1つついて興奮しかけていた自分を落ち着かせると、法衣の襟を正して背筋を伸ばし、いつも通りの穏やかな表情に戻ってアイオロスを促した。 「おっ、おい、サガ! だからお前は……」 「こんな寸前になって、今更休みますなどと言えるわけがなかろう!」 外に聞こえないよう声のトーンを下げて、サガはいい加減にしろとでも言いたげにアイオロスを睨んだ。 「サガ!」 「心配するな。たかが2時間程度だ、それくらいどうと言うことはない」 「たかが2時間って、お前なぁ……」 「アイオロス、このことはシオン様に申し上げるなよ。大事な礼拝前に、このようなことでシオン様に余計な心配をおかけしたくないからな」 「大事な礼拝って、さっきからそればっか言ってるけどな、お前、少しは自分のこと……」 「だから心配いらんと言っているだろう!。とにかく早くしろ、あまりモタモタしてると変に思われるぞ」 強引に会話を打ち切ってサガはもう一度アイオロスを促すと、口を開きかけたアイオロスを無視してくるりと踵を返した。 「礼拝が終わったら……すぐに帰らせてもらうから……」 サガは扉の所で一旦立ち止まると、アイオロスの方は振り返らずにボソッとそう言った。そしてそのままドアを押し開くと、アイオロスを待たずにサガはさっさと控えの間を出ていってしまったのだった。 サガの様子から、もうこれ以上の譲歩は望めないことを悟り、アイオロスは大きく溜息をつくと、仕方なくサガの後を追って控えの間を出た。ここまで来たらアイオロスに出来ることはただ1つ、礼拝が少しでも早く終わるよう、滞りなく進行するように全力で補佐すること、それだけだった。 アイオロスの努力の甲斐あってか(?)、礼拝は万事滞りなく進み、予定時間きっちりに終了した。 アイオロスが心配していたサガはと言えば、顔色はマシになるどころか次第に悪くなってはいったものの、それでも周りに体調不良を全く気取らせることなく、完璧にシオンの補佐を勤め上げた。もっとも過去13年間、他でもないこのサガが教皇として毎月この礼拝を取り仕切ってきたのだから、完璧なのは当たり前のことではあるのだが。 礼拝が終わったらすぐに帰る、と言っていたにも関わらず、事後処理が気になるのかサガはなかなか帰ろうとしなかった。アイオロスが何とか宥めすかして叱りつけた揚げ句、礼拝帰りのカノンをとっつかまえて無理やりサガを引っ張らせて、やっとの思いで双児宮へ帰したのだが、教皇宮から出ていくときは足取りもしっかりしていたサガは、だが案の定双児宮の私室に入るなりぶっ倒れたそうである。しかもそれ以降、熱は上がる一方だと言う。 夕方、仕事を終えて急いで双児宮に行ったアイオロスは、戸口に応対に出たカノンにそれを聞かされて、いかにサガの体調が悪かったのかを改めて思い知り、やはり無理やりにでも礼拝前に帰しておけばよかったと後悔したのだった。 「全くあいつは、何だってそんなになるまで無理をするんだか……」 アイオロスは痛々しげに表情を歪めて、小さく首を左右に振った。 「それについてはオレも同感だけど……でもまぁ、しょーがねえよ。サガはそう言う性格なんだからさ。無理すんなったって、聞きゃあしねえんだもん」 珍しくアイオロスの言うことに同意して、カノンは肩を竦めた。 「お前、気付いてたのか?」 「何が?」 「いや、サガが体調崩してるって事」 アイオロスに問われたカノンは、曖昧気味に頷いて 「何となくだけどな。ちょっと様子がおかしいなとは思ってたんだけど、聞いても『大丈夫だ、何でもない』の一点張りでさ、埒あかねーんだ。まぁ、元々具合が悪いのかって聞かれて、素直にうんと頷くようなタマでもないんだけど」 今度はアイオロスがカノンの言葉に同意して、そうだな、と力なく呟いた。実の弟のカノンに対してすらそうなのだから、いくら恋人とは言えアイオロスに対してサガがそうそう弱音を吐くわけも無く、意地を張り通したのも無理もない話であった。 「なぁ、サガに会えるか?」 何はともあれ、玄関先に突っ立ってサガの性格云々をカノンと言い合ってても仕方がない。せめてサガの様子だけでも見たいと、アイオロスはカノンに頼んだ。 「ごめん、アイオロス……サガさ、ついさっきやっと寝ついたところなんだ。起こしたくねーから、悪いけどそっとしておいてやってくれないか?」 だが、カノンは申し訳なさそうにそう言って、いつになく真剣な面持ちで首を左右に振った。 今回ばかりは、カノンもアイオロスに意地悪をしているわけではなかった。高熱が出ていて苦しいのか、薬を飲ませてベッドに寝かせてもサガの様子はなかなか落ち着かず、眠ったかと思ったらすぐに目を覚ますの繰り返しで、本当につい先ほど、ようやく眠りについたばかりなのである。カノンとしてはアイオロスの気持ちはもちろんわかるのだが、とにかく気配や物音に敏感なサガのこと、アイオロスが部屋に入っただけで目を覚まさないとも限らない。アイオロスには悪いが、とにもかくにも今はサガを静かに寝かせておいてやりたい、カノンはその一心だったのだ。 「……わかった……」 明らかな落胆の色が顔には浮かんでいたが、それでもアイオロスは小さな笑顔を浮べて頷いた。サガの様子を自分の目で確認できないのは残念だが、それ以上にカノンの気持ちが痛いほどよくわかったからである。 「それからさ、あの……お前に頼みがあるんだけど……」 「頼み? お前が? 私に?」 だがそこから続けられたカノンの言葉に、アイオロスは驚いて目を丸くした。カノンが自分に頼みだなどとまず滅多に……いや、もしかしたら未だかつて一度もなかったことかも知れない。アイオロスはまん丸くした目をパチクリと瞬かせた。 「あのさ、今回は……その、オレにサガのことは任せて欲しいんだけど……」 「えっ?」 一瞬、カノンの言っている意味がわからず、短くアイオロスが聞き返した。 「……アイオロスが、サガのこと心配してるのはわかってる。けど今回は、オレにサガの看病を任せて欲しいんだ」 ああ、そう言うことか……と、納得して、アイオロスはそのまま黙ってカノンの次の言葉を待った。 「それで、アイオロスにはその、仕事の方を頼みたいんだけど……」 「仕事?」 うん、と頷いて、カノンは続けた。 「サガの奴、具合が悪くて寝込んでるってのに、仕事のことばっか気にしてんだ。でもオレじゃ、仕事の方はフォローできないし……だから、そっちをお前に頼めたらって……」 所々言いづらそうに口篭りながらやっとそこまで言って、カノンは小さく息を吐きだした。普段であればカノンがこんなことを言おうものなら、頭からヤキモチを妬いていると決め付けられたであろうが、今回ばかりはそうではなかった。カノンの言っていることは全て嘘偽り誇張のない事実で、カノンは素直に真剣にアイオロスにそう頼んでいたのである。 「わかった……仕事のことは私が引き受ける。だからサガには仕事のことは心配しないよう、お前からもよく言っておいてくれ」 自分に対してカノンがこんな風にしおらしい態度に出るのも超がつくほど珍しいことだし、ましてや頼みごとをするなど天地がひっくり返ってもあり得ないことだと思っていただけに、アイオロスも相当驚いてはいた。だが言い換えれば、それだけカノンもサガのことを心配しているのだと言う証拠である。それはそれで変な言い方だが微笑ましく、またアイオロスにとっても嬉しいことではあった。 もちろん理由はそれだけではなく、やはりカノンの心のどこかには、こう言うときだからこそ自分が兄の側についていたいのだと言う気持ちがあるのであろう。無論、アイオロスはカノンが嘘を言っているなどとはこれっぽっちも思ってはいなかったが、その辺りの微妙な心情は察することが出来た。カノン自身、それを自覚しているのかしていないのかまでは、さすがにわからなかったが。 本音を言えばサガの側についていてやりたいのはアイオロスも同じであったが、ここはカノンの気持ちも尊重して、今回は全面的にカノンに任せることにした。それに確かにカノンの言う通り、仕事面においては同じ職務に就いているアイオロスにしか、サガのフォローは出来ないのである。 「悪いな……」 恐ろしいほどの素直さで、自分に謝意を向けるカノンを、アイオロスは嬉しいような照れ臭いような擽ったいような思いで見つめた。こんなおとなしく素直なカノンなど、正に天然記念物並に貴重である。いつもこうだといいんだけど……と、ついアイオロスは内心で思ってしまっていた。もちろん、口には出さなかったが。 「サガのこと、頼んだぞ。仕事の他にも何か私にできることがあったら、いつでも言ってきてくれ。それと、お前も風邪に伝染らないよう、気をつけるんだぞ」 言いながらポンポンとカノンの肩を叩いて、アイオロスはほんの少し後ろ髪を引かれるような思いをしながら、双児宮を後にした。 |
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