それから3日後。 ようやく熱の下がったサガは、いつも通りの時間に教皇宮へ出勤した。 無理せずにもう1日〜2日休めとカノンには言われたのだが、サガはそれをやんわりと振り切って出てきたのだった。確かに病み上がりで体には重苦しい怠さは残っているが、3日も仕事を休んで皆に迷惑をかけたと言う思いが何より強かったサガは、とてもじゃないがこれ以上休む気になどなれなかったのである。 最もカノンもそんな兄の性格は熟知しているから、呆れながらもそれ以上は何も言わず、黙ってサガを送り出してはくれたのだが。 「サガ!」 教皇宮の入口で、サガは宿直明けで仕事を上がったばかりのミロに出くわした。ミロはビックリしたように目を見開いた後、嬉しそうな笑顔を満面に浮かべて、サガに駆け寄ってきた。 「おはよう、ミロ。今帰りか?」 些か奇妙な挨拶をして、サガもニッコリと微笑む。 「うん、そうだけど……サガ、もう大丈夫なのか?」 もちろん、ミロもサガが風邪で倒れて寝込んでいたことは知っている。熱が高く、軽くひいた程度ではないと言うことも聞いていたので、そのサガがたかだか3日程度休んだだけでもう出勤してくるとは、思っていなかったのである。 「ああ、もう大丈夫。熱も下がったしね」 心配そうな表情で自分を見つめるミロに、サガは笑顔のまま答えて頷いた。 「まだちょっと、顔色悪いみたいだけど……」 「3日も寝てたせいだろう。心配は要らないよ、本当にもう大丈夫だから」 「それならいいけど……」 そう応じたミロであったが、やはりまだ少し心配そうな目をサガに向けていた。ミロもこう言うときのサガの「大丈夫」が案外アテにならないことを、少なからず知っているからだ。 「お前にも心配かけて悪かったね。それにこの3日間、カノンは私につきっきりだったから、お前と会うことも出来なくて……」 そう、カノンはアイオロスに宣言した通り、この3日間つきっきりでサガの看病をしていた。たかが風邪程度で大袈裟だとサガは言ったのだが、強がってはみたものの、実際昨日までは高熱のせいで起き上がるのもままならないほどだったので、本音を言うとカノンが側に居てくれて助かってはいたのだ。だがそのせいでこの3日間、ミロは恋人であるカノンと全然会うことが出来なかったのである。2人のラブラブぶりをよく知るサガとしては、そっちの意味でもミロには申し訳ないと言う思いがあったのだった。 「何言ってんだよ? カノンはサガの弟なんだから、別にオレになんか遠慮することないだろ。一ヶ月二ヶ月会えなかったってワケでもないし。それにさ、カノンだってずっとサガの側に居れて、嬉しかっただろうしね」 普段であれば3日も顔を合わせないなど考えられないことだが(但し、喧嘩中を除く)、場合が場合なだけに、ミロもそのことは全く気にしていなかった。と言うよりも、カノンはサガの唯一の肉親なのだから、それくらいは当たり前のことだと思っているし、言葉にもした通り、カノン自身はまんざらでもなかったに違いない。何しろ本人自覚ナシながらも、カノンは天下無敵のブラコンなのだ。 「風邪っぴきの世話だぞ。嬉しいわけがないだろう?」 思わず苦笑しながら、サガはミロに言った。 「カノンはサガにくっついてられるだけで、嬉しいんだよ」 完全に決め付けて、ミロはくすくすと笑った。カノンが傍にいたらもちろんミロもタダでは済まないが、今は居ないので言いたい放題なのである。サガは何と答えていいかわからず、やはり苦笑することしかできなかった。 「本当はオレも何か手伝いに行きたかったんだけど、「お前が行ったら却って邪魔になるだけだから行くな、おとなしくしてろ!」ってアイオロスに言われちゃってさ」 カノンが奮闘しているであろうから、と言うのもそうだが、ミロにとってもサガは実兄と言うか、親も同然の存在。そのサガが倒れて寝込んだとあっては、さすがのミロも居ても立ってもいられなかったのだが、アイオロスに強く制止されて仕方なく思い止まったのだった。確かに、病人相手に自分ができることなど限られている……と言うか殆ど皆無に等しいし、オロオロしているだけが関の山なのである。 「邪魔になるなんて事はないけど、お前に風邪が伝染りでもしたら大変だからね」 「アイオロスと逆のこと言うね。アイオロスには、「お前にゃ風邪は伝染らんだろうけど」って言われたぜ」 ケラケラと笑い声を立てるミロに、サガは何とも言えない複雑な表情を向けた。確かにミロは小さな頃から頑丈な子で、風邪をひいたことなど一度もない……とまでは言わないが、数えるほどしかなかったことは事実だ。アイオロスの裡ではその頃のミロのイメージの方が強く、それがそのまま言葉となって反映されたのであろう。バ○は風邪をひかない……と言う俗説に基づいての発言である可能性も、否定は出来ないが。 「この私にとりつくくらいの風邪だ、お前にだって伝染ってしまうさ。そうならなくて、よかったよ」 当たり障りのないことを答えておいて、サガはくしゃくしゃとミロの頭を撫でた。 「でもサガ、本当にまだ顔色もあんまり良くないみたいだし……治ったばっかりなんだから、無理すんなよ」 しばらく気持ちよさそうにされるがままに任せていたミロは、不意に表情を改めてサガに言った。 「ああ、ありがとう。気をつけるよ」 常に変らぬ優しい笑顔で、サガがミロに向かって頷きを返した時、 「サガ!」 いきなり後ろから大声で名を呼ばれ、サガはほぼ反射的に声のした方へ振り返った。 「アイオロス……」 視線の先には、目を瞠ってサガを凝視しているアイオロスが居た。サガが今までミロに向けていたのと同じ優しい笑顔をアイオロスに向けると、アイオロスは慌ててサガの傍に駆け寄って来た。 「おはよう、アイオロス。今日は随分早いんだな」 いつも始業時間の5分前に飛び込んでくるアイオロスがこんなに早く出勤してくるなど、かなり珍しいことであった。その意外さに、サガは思わずくすっと笑いを溢した。 「おはよう、アイオロス」 サガの後について、ミロもアイオロスに挨拶をしたが、この時アイオロスの眼中にはミロは殆ど入っていなかった。 「おはようってお前……一体何しに来たんだ!?」 ろくに挨拶も返さず、アイオロスはサガに向かっていきなり声を張り上げた。 「何しにって、仕事をするために決まってるだろう。それ以外に、何があるというのだ?」 すっとぼけたようなアイオロスの質問に、サガはきょとんと目を丸くした。アイオロスから見てサガの後方に立っていたミロも、サガ同様に目を丸くしてアイオロスを見ていた。 「バカ! 私が言ってるのはそう言うことじゃない! お前の体のこと言ってるんだ!」 だがもちろん、アイオロスはそんな2人の様子など気にも止めることなく、サガに向かって捲し立てた。 「私の? ……あ、ああ、それならもう大丈夫だよ。お陰様ですっかり熱も下がったし、この通り元気に……」 ようやくアイオロスの言いたいことが分かったサガが、苦笑混じりにそう答えたが、アイオロスはサガの言葉を皆まで聞かずに強引にその先を遮った。 「嘘つけ!、昨晩にはまだ結構熱があっただろう。お前の状態は、ちゃんとカノンに聞いて知ってるんだぞ!」 サガのことはカノンに任せる、自分は仕事の方を全面的に引き受けると約束してしまった以上、アイオロスにはその約束を守る義務があった。この3日間、何度もサガの元へ駆け付けたい衝動に駆られたが、その都度胸の中でカノンと交わした約束を反芻し、思い止まっていたアイオロスは、それでも電話でカノンにサガの様子を確認することだけは忘れなかったのである。 昨夜仕事を終えて帰宅し、速攻で双児宮に電話をかけたアイオロスは、カノンからサガの熱がまだ下がらないと聞いていた。だから当然、今日サガがこうして出勤してくるなどとは思ってもみず、サガの後ろ姿を見止めた瞬間には我が目を疑ったくらいなのである。だが次の瞬間、アイオロスの頭を過ったのは、サガがまた無理をしているのではないかと言うことだった。 「ああ、確かに昨夜はまだ熱があったけど、朝起きたら下がってたよ」 まるで他人事のようにしれっと答えるサガに、アイオロスは呆れ顔を強くした。そしておもむろに手を伸ばすと、有無を言わせずその手をサガの額に当てた。 「……確かに、熱は下がってるようだけど……」 サガの額にはもう病的な熱さは残っておらず、アイオロスの掌には平素のサガの体温が伝わってきていた。一瞬、アイオロスはホッとしたような安堵の表情を浮かべたが、だがそれはすぐにまた険しいものに戻った。 「だからそう言っただろう。お前には随分と迷惑と心配をかけたけど、もう本当に大丈夫だから……色々ありがとう、すまなかった」 「私のことなんかどうだっていい。問題はお前だ、お前!」 「………だから、それはもう大丈夫だって……」 「なわけないだろ?。つい数時間前まで高い熱出してた人間が、そう簡単に復調するもんか!。その証拠にお前、まだ顔色悪いじゃないか!」 「そんなの、3日も寝てたんだから当たり前だ。動いてなかったから少し代謝機能が落ちてるだけだよ、心配ない」 アイオロスが心底自分を心配してくれているのはわかっているし、それはそれでありがたくも思うのだが、いくら何でもこれでは心配のしすぎと言うものであろう。サガもさすがに困ったように、表情を動かした。 「お前の『大丈夫』『心配ない』はアテにならん! 3日前で実証済だ!」 「じゃあ、どうしろと言うんだ!」 頭から決め付けてかかるアイオロスの物言いに、さすがにサガもムッとして語調を荒げた。まさか仕事に出てきた途端、こんなことでアイオロスにつっかかられるとは思わなかったし、そもそもこれでは丸っきり自分は子供扱いではないか。確かに3日前は少し無理が過ぎてアイオロスには心配も迷惑もかけたが、基本的に自分の体調くらい自分が一番よくわかっているのだ。アイオロスにこんな言われ方をされるような覚えはサガにはなかったし、第一これでは自己管理が甘いと責め立てられてるも同然で、面白いわけがなかった。 だがアイオロスの方はと言えば、そんな風にサガが不快感を露にしたにも関わらず、全くそれを意にも介さなかった。 「せめてもう2〜3日休んで、体調回復に努めろ。お前の場合、もう少し自分の体を労ってやってもバチは当たらん!」 それでも足りないくらいだ!と、アイオロスは付け加えた。確かに熱は下がっているようだが、だからと言って昨日の今日ではとてもじゃないが完治とは言えないだろう。むしろ今のこの治りかけの時期にしっかり養生しなければ、またぶり返して余計厄介なことになりかねないのだ。その辺りの意識がサガには希薄で、それがアイオロスを苛立たせていたのである。 「なっ……!」 いきなりとんでもないことを言われ、サガは瞬間返す言葉を詰まらせた。それでなくともこの3日間、仕事のことが気掛かりで仕方がなかったのに、この上あと2日も3日も休むなど言語道断である。風邪が治っていないと言うのならまだしも、サガ本人に言わせてみれば、病み上がりの倦怠感が残っていることを除けばほぼ復調したも同然なのだ。そこまでアイオロスに言われる筋合いはなかった。 「冗談じゃない! もう3日も休んだのだぞ! これ以上休めるか!」 つい先刻、カノンと交わしたのと似たような会話を、サガはアイオロス相手に繰り返すことになった。最も、カノン相手の時にはこんな喧嘩腰ではなく、もっと穏やかな会話であったのだが。 「たった3日だろう! あと2〜3日上乗せされたところで、大差ない!」 「大有りだ! 仕事はどうなる?!」 「仕事の方は私がフォローをするから心配要らんと言ってるだろう! 仕事仕事って、そればかり気にしてないで、お前は少し自分の身体のことを心配しろ!」 「だから、それはもう大丈夫だとさっきから何度も言っているであろう! 私は子供じゃないんだぞ、自分の体のことくらい自分が一番よく……」 「わかってないから、ぶっ倒れるまで無理して周りに迷惑かけるんだろうが!」 アイオロスに今一番痛いところを突かれ、サガは返答に窮した。 「……だからこそ、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないんだ!」 その点はサガも多いに反省はしている。反省しているからこそ、これ以上無駄に休んで公私両面で人に迷惑をかけたくないのである。なのにアイオロスは、そんなサガの気持ちをこれっぽっちも分かってくれていないのだ。身勝手と分かっていながら、サガはそんなアイオロスとの気持ちのすれ違いに苛つきを覚えていた。 「そんなこと言って……またぶり返したりしたらどうするんだ?。そっちの方がよっぽど迷惑だ、もう少し大人しくしてろ!」 「だから、もう何度も何度も大丈夫だと言っている! これ以上私が休んだら、仕事が滞る一方だろう! 気になって寝てなどいられるか!」 そこまで言って、サガはハッとして口を噤んだ。カッとなった勢いで、自分がとんでもなく考え足らずと言うか言葉足らずなことを口走ってしまったことに気付いたからである。だがもう時既に遅しであった。 「それじゃ何か!? サガはオレが頼りないから、オレじゃ仕事を滞らせるだけだから任せておけないと言いたいわけか!?」 サガの言ったことを真正面から額面通りに捉えたアイオロスは、サガが危惧した通りの誤解をした。 「違う! 私は別にそんなことを言っているわけではない! ただ私は13年間教皇をやっていて勝手が分かっているが、お前はまだ現世に戻って間もないし、わからないことも色々あるだろうと……」 「ほら! やっぱりオレじゃ頼りないと思ってるんじゃないか! 役に立たないと思ってるんだろう!?」 「だから! そうじゃないって言ってるだろう……」 サガは必死で弁明したが、完全に頭に血が上ってしまっているアイオロスは全く聞く耳を持たなかった。 「言っとくけどな、サガがいなかったこの3日間は、オレが1人で仕事をこなしてたんだぞ! でも仕事が滞ったことなんて、一度もなかったんだ! 別にサガがいなくたって、オレ1人でだってちゃんと仕事はできるんだよ!」 これも正に売り言葉に買い言葉であった。そして今度はそれを聞いたサガが、ぶっちんと切れた。 「そうか、つまりお前はお前で別に私などいてもいなくても仕事に支障はない、私など必要ない、とそう言いたいわけだな!」 誤解を招くような言い方をしたサガも悪いが、それを曲解したアイオロスも悪い。そしてそのアイオロスの言葉を、更にサガが曲解してしまったのだから、もう泥沼であった。とは言え、ここまで来るともうお互いがお互い引っ込みがつくはずもなかった。 「んなこと言ってないだろ! ただサガが仕事仕事って言うから、別に数日程度居なくても支障は出ないっつてるだけじゃないか! 第一、最初にオレを頼りないって言ったのはサガだろう!」 「私だって、そんなことは言ってない! そう言う意味で言ったんじゃない!」 そもそもの原因は、サガの風邪のことであったはずなのに、いつの間にか争点が完全にすり替わり、話がとんでもない方向へ転がってしまっていた。2人の喧嘩腰の会話が、遂に正真正銘の大喧嘩へと発展してしまったのである。 いきなり自分の目の前で、しかもよりにもよってあのサガとアイオロスが怒鳴り合いを始めたのを目の当たりにしたミロは、背中に冷や汗を流して硬直していた。サガとアイオロスの喧嘩自体、見たことが無いわけではなかったが、それはまだ自分がほんの子供だった頃の話で、サガとアイオロスも少年であった当時の話である。大人になってからの2人の、こんな怒鳴り合いの大喧嘩を見るのは、ミロとて初めてのことであった。それもそのはず、2人の喧嘩は正に13年ぶりでのことで、本人達だって大人になってから初めての喧嘩なのである。最も、現在進行形で怒鳴りあい真っ最中の2人は、そんなことに思いを致している余裕すらないわけだが。 どんどんエスカレートしていく2人の怒鳴り合いに、どうしたものかとミロは今度はオロオロし始めた。興奮しているアイオロスは、一人称はおろか言葉遣いまで少年の時のような乱暴なものに戻ってしまっているし、サガはサガで言葉遣い自体はあまり変らないものの、平素の彼らしくもなく語調を荒げて怒鳴っているしで、仲裁しようにも間に入り込む隙すらないのである。 「とにかく! お前にはたった今から休暇を与える。完全に体を治すまで、出勤を禁じるからな。すぐに双児宮に帰れ!」 ミロがオロオロしている間に、アイオロスの口から遂に最後通告とも言えるべき言葉が飛び出した。アイオロスのその言葉を聞くかぎり、サガの風邪→仕事のこと→互いの要不要論にまで及んだ話は、一回りしてとりあえず出発点に戻ったかのように見えたが、転がっているうちにどんどんこじれて最早収拾がつかないほどにまで大きくなっているのは明らかであった。 「お前にそんなことを指図される覚えはない!」 そして無論、サガがそれに素直に従うはずもなかった。が、 「これは次期教皇命令だ! 逆らうことは許さん! 聖闘士の勤怠についての権限は、お前よりオレの方が強いんだからな!」 珍しく……と言うか、これも初めてアイオロスが権限と言うものを楯にとって、サガに命じたのである。サガは返す言葉を失い、絶句した。 「ア、アイオロス……」 思わずミロが口を差し挟もうとしたが、それ以上の言葉が出てこなかった。サガは無言でアイオロスを睨みつけたまま、握り締めた拳を小刻みに震わせていた。 「……わかった……そう言うことなら勝手にしろ! 私も勝手にさせてもらう! お前のことも仕事のことも、もう知らん!」 吐き捨てるように言うと、サガはいたたまれずにその場を駆け出した。そしてそのまま振り返ることもせずに、十二宮の階段を駆け降りていった。 「サガ!」 「追いかけるな! 放っとけ!」 慌ててサガの後を追おうとしたミロを、アイオロスが叱りつけるようにして引き止めた。 「アイオロス、いくら何でも今のは言い過ぎだぞ! サガは……サガだってアイオロスのことすごい心配してたんだ!。自分が休んでる間、アイオロスには迷惑かけたって、仕事の負担も増やしてしまったって……。だからサガは少しでも早く、仕事に復帰したかったんじゃないか!。サガが仕事に拘ってたのは、アイオロスのためでもあるんだぞ!」 サガを庇うミロを、アイオロスは鋭い目で睨みつけた。 「オレのためだって言うなら、完全に御門違いなんだ! そんなことされたって、嬉しいわけないだろ! オレはな、サガがオレのために無理してる姿なんて、見たくないんだよ!」 「にしたって……」 アイオロスの言うこともわからなくはないが、それにしてももう少し言い様があるだろうとミロは思う。それを言おうとミロが口を開きかけたが、それをアイオロスが遮った。 「いいんだ! あいつはあれくらい強引なこと言わなきゃ、言うこと聞かないんだから!」 そう苛ついたように吐き捨てると、アイオロスはミロの脇をすり抜けて教皇宮の中へ入ろうとした。 「アイオロス!」 ミロがアイオロスを呼び止めると、アイオロスは一旦足を止めてミロを振り返った。 「サガのことは放っておけ! それからこのこと、誰にも言うんじゃないぞ。もちろん、カノンにもだ、いいな!」 アイオロスは一方的に言うと、ミロの返事も待たずにとっとと教皇宮の中へと姿を消してしまった。 後に残されたミロはしばらく呆然とそこに佇み、サガとアイオロス、それぞれが姿を消していった正反対の方向を、交互に見遣っていたのだった。 サガを送り出した後、1人自宮のリビングでのんびりコーヒーを飲みながら朝のニュースを見ていたカノンは、突然サガがすごい勢いで双児宮に戻ってきたのにびっくりして、危うく手にしていたコーヒーカップを取り落としそうになった。しかもその顔は、つい数十分前までの穏やかで優しげなものから対極のものへと一転していて、それがまたカノンを驚かせた。 「どっ、どうしたの? 兄さん? 忘れ物?」 カノンはサガに戻ってきたわけを尋ねたが、サガは何も答えず、そのままリビングで身に纏っていた聖衣を脱ぎ捨てると、これまたすごい勢いでリビングを通り抜けて、自室へ直行した。バタンッとえらく乱暴に扉が閉まる音が響き渡り、カノンは思わず身を竦ませた。 「なっ、何だ何だ? どうしたんだ?!」 仕事に行った兄が、またすぐに戻ってきて、しかも出ていったときと様子が180度変わっていたともなれば、さすがにカノンとて驚かずにはいられないだろう。しかも何がどうしてどうなっているんだか、さっぱりわからないのだ。 カノンがリビングでコーヒー片手に立ち尽くしていると、やがてサガが自室から飛びだしてきた。 「に、兄さん!?」 再びリビングに姿を現したサガの出立ちに、カノンはまたまた目をまん丸くした。シャツにジーンズと言う軽装で、片手に大きなバッグを持っていたのだ。これはどこからどうみても、今からどこかへ行きますよと言う格好である。 「兄さん、一体どうし……」 「カノン、私は少し出かけてくる。2〜3日帰らないが、心配しないように」 理由は一切言わず、必要最低限のことだけカノンに告げると、サガは呆気にとられているカノンを尻目にとっとと玄関の方へ向かっていった。 「ちょ……出かける、帰らないって、兄さん!」 我に返ったカノンが慌ててサガを呼び止めたが、サガは振り返りもせずにそのまま双児宮を出ていってしまったのだった。 「何なんだ? 何だったんだ? 今のは……」 突然の兄の変貌と、そして目の前を過ぎ去っていった嵐のような出来事に、カノンはただただ首を傾げ、呆然とする一方であった。 カノンがミロから事の顛末を聞き、頭を抱えて蹲ることになるのは、ここから更に数十分の後の話である。 |
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