「たっだいまぁ〜!」 扉の開閉する音と、その元気な声で、過去を彷徨っていたサガの意識が現在(いま)へと引き戻された。 「お帰り、星矢」 学校から帰ってきた星矢を、サガが笑顔を作って出迎える。星矢も満面の笑顔で、もう一度ただいま、と繰り返した。 「サガ、そんなとこで何してたの?」 鞄をベッドの上に乱暴に放り投げながら、星矢は窓辺に佇んだままのサガに尋ねた。 「ん? いや、夕陽を見てたんだ。綺麗だなと思ってね」 サガが再び窓の外へ視線を転じると、星矢もつられるようにして同じ方向へ視線を向けた。 「日本は空が狭いから……聖域から見る夕陽の方が、何倍も大きくてキレイだろ?」 6年間聖域で生活していた星矢は、その違いを良く知っている。この辺りは都会のど真ん中からは少し離れているし、しかも海沿いであるからまだしも空は広い方だが、それでも聖域の空の広大さとは比べるべくもなかった。太陽は同じだけれど、それでもギリシャで見ていたものに比べれば、やはり日本で見る太陽は遥かに小さく見える。 「いや、そんなこともない。綺麗だよ」 そう応じたサガの声には、どこか力がなく、張りを欠いていた。星矢がサガの方へ視線を移すと、夕陽の朱に染められたサガの横顔が酷く淋しく、そして悲しげに見えて、星矢はハッとした。 「サガ……」 突然ここにやって来た理由を、サガは言わない。そして星矢もそれをサガに聞こうとは思わない。理由がまるで気にならないと言えば嘘にはなるが、『言わない』のは『言いたくない』からだと言うことくらい、星矢にも察しはつく。余程のことがあったには違いないが、とにかく今は黙って何も聞かないこと、それが自分にできる唯一のことだと、星矢は思っていた。 聖域から飛び出してきて3日。カノンには2〜3日と言い置いてきたが、3日経った今も、サガはまだ聖域に帰る気にはなれなかった。 アイオロスとあんな些細なことで喧嘩をして、頭に来て飛び出して……馬鹿みたいだと思う、大人げないこと甚だしいとも思う。そしてああは言ったもののやはり仕事のことも気になるし、何よりあまり長い間星矢に迷惑をかけるわけにはいかない。自分が大人しく聖域へ帰れば済む話なのだが、胸の中に渦巻いているモヤモヤとした気持ちが、サガの決意を躊躇わせていた。 全ての原因は自分にあること、そしてどうすればこの状況が打開できるかも分かっていながら、サガは踏ん切りをつけられずにいたのだ。 ぼんやりとそんなことを考え込み、黙ったまま数十秒の時を流した後、サガは窓の外に向かって小さく吐息してから、星矢の方へ向き直った。 「そんなことよりお腹が空いたろう?、星矢」 些か唐突に星矢にそう聞きながら、サガは星矢に笑顔を向けた。 「う、うん!。実はもうペコペコなんだ」 片手で腹を押さえながら、星矢はいたずらっ子のようにペロッと舌を出して見せた。 「もう殆ど支度は出来ているんだ。急いで仕上げてしまうから、お前はその間に風呂に入ってきなさい」 そう言ってサガは星矢を風呂へ入るよう促した。だがそれに驚いたのは、星矢である。 「え? 支度できてるって……サガが作ってくれたの?」 「ああ。大したものは作れなかったが……世話になってるんだ、これくらいはしなくてはな」 昨日、一昨日は外食とジャンクフードで済ませたが、さすがに毎日それでは飽きてしまうし、第一体に良くない。星矢には世話になっているのだし、せめて食事の支度くらい自分がするのが当然だろう。どのみち普段でも自宅では家事一般は自分がやっているわけだし、別に食事の支度の1つや2つどってことはなかった。 「でも冷蔵庫の中、あんまりモノ入ってなかったと思ったけど……」 今朝、自分が家を出ていく時点で、せいぜい昼にサガが食事を出来る程度のものしか残っていなかったはずである。だからこれからサガと一緒に、食料品の買い出しに行こうと思っていたところだったのだが……。 「ああ、お前が学校に行っている間、私は暇だからね。さっき買い物に行ってきたんだ。ちょうど本も欲しかったし……」 「えっ!?」 サガはさらりとそう言ったのだが、星矢はそれを聞いてビックリしたように声を上げた。 「買い物に行ったって……サガ、1人で?!」 「……ああ、そうだが……?」 頷くサガを、星矢は大きな目をぱちくりさせながら凝視した。 「……それがどうかしたのか?。何かまずいことでもあるのか?」 訝しげにサガが尋ね返すと、星矢は何とも言えぬ複雑な表情で頭を掻いてから、またサガに聞き返した。 「い、いやマズイことがあるとかそーゆーんじゃなくて……その、大丈夫だった?」 「何がだ?」 星矢が何を心配しているのかがわからなくて、サガは小首を傾げた。 「……金のことか? なら心配要らんぞ」 「いや、金のことじゃなくて……それは全然心配してないけど……」 黄金聖闘士で、かつ教皇補佐官たるサガが高給取りであることくらい、星矢も知っている。なので金銭的な部分では全く心配などしていないのだが(そもそもこの3日間の食費だって、全額サガが出してくれているのである)、問題はそんなことではなかった。 「? ……では、何だ?」 「うん、だからさ、その……言葉とか……」 「言葉?」 「うん、そう。だって、日本じゃ英語だってろくに通じないし、ギリシャ語なんて論外だしさ。買い物するの、大変だったんじゃないかと思って……」 やっと何を心配していたかを口にした星矢に、今度はサガがきょとんとした目を向けたが、ややしばらくしていきなりぷっと小さく吹き出し、くすくすと笑い始めた。そしてサガはひとしきり笑った後に、 「なるほど、それを心配してくれていたのか。でも大丈夫、私は一応日本語が話せるからね」 と、日本語で星矢に言った。 「………あ………」 サガの流暢な日本語を聞いて、星矢は今更ながらにそのことを思いだし、何とも言えぬバツの悪さに顔を赤らめた。そう、元々サガは日本語を話せるのである。サガは一応と注釈をつけていたが、そのレベルは「何とか話せる」とか「辿々しい」とか言うものではなく、イントネーションから何から日本人と遜色ない程で、つまりはほぼ完璧なのである。 「そっか……そうだ、そうだったよね……サガ、日本語喋れたんだった」 バツの悪さを隠すかのように、星矢は大袈裟に頷くと、あははっと声を立てて笑った。 言うまでもなく、長い年数を聖域で過ごしていた星矢は、ギリシャ語がペラペラである。故に星矢はサガとは当たり前のようにギリシャ語で会話をしていたのだが、そう言えば自分以外の人間、例えば紫龍や氷河や瞬などが一緒の時は、サガは日本語使って会話をしてくれていたのだった。星矢にとっては日本語もギリシャ語もどちらも等しく母国語のようなものなので、どちらを使われても何の違和感もないものだから、感覚が完全に麻痺して全然その違いに気付いていなかったのである。 「サガとはいっつもギリシャ語で話してるから、つい忘れてた」 てへへ……と、星矢が照れたように頭を掻いた。 「何なら、これからはお前とも日本語で話そうか?」 サガが日本語のままでそう尋ねると、 「別にどっちでもいいよ。オレにとっては同じだから」 星矢は軽くそう答えて、肩を竦めた。 「それにしても、日本人は優しいとは聞いていたが本当だな。買い物をしたら、買ってもいないものを色々おまけしてくれたよ」 「おまけ?」 ふと思いだしたようにサガが言うと、星矢はまた目をぱちくりとさせながらサガに聞き返した。 「ああ。野菜を買ったら果物をくれたし、肉を買ったら増量してくれたし、卵もおまけしてもらえたな。それからエビを買ったら白身魚の切り身をおまけにくれたぞ」 サガが指折り数えている横で、星矢は各商店のおばちゃんやお姉ちゃんの顔を思い出し、乾いた笑いを浮かべた。確かに下町気質の気のいい人達で、星矢のことも可愛がってくれてはいるが、今回の場合は根本的にそれとは違うだろう。 「ははは……そりゃまぁ、サガがちょっとニコッとでもすれば、それくらいはくれると思うよ……」 「そうなのか?」 これは日本人が優しいとか何とか言う以前の問題であるが、サガはそのことに全く気付いておらず、星矢の言葉の意味すら分かっていないようだった。ただその理由を深く追及する気はないようであったが。 「でもさ、サガ日本語はバッチリだし、このまま日本に移り住んでも何の不自由もなさそうだよね。何ならこのまま永住しちゃえば?」 不意に冗談とも本気とも区別のつかぬ口調で星矢にそんなことを言われ、サガはえっ?と短く言葉を詰まらせ、そのまま黙り込んだ。 「………なこと、出来るわけねぇか。変なこと言っちゃったな。ま、いいや、オレ風呂入ってくるね」 サガがどう答えていいものか困ったのがわかったか、些か強引に自己完結をさせると、星矢は学ランを脱いでそれを鞄同様ベッドの上に放り、小走りに浴室へ消えていった。 その星矢の背中を見送った後に、サガは自嘲とも苦笑とも取れる笑みを自分自身に向け、何かを払拭するかのように小さく頭を左右に振ってから、気を取り直してベッドに放り投げられた鞄と学ランをきれいに片付けて、夕食の支度の仕上げに入ったのだった。 「うわ、スゲ!」 風呂から上がった星矢は、テーブルの上に並んでいる料理を見て感歎の声を上げた。そこには星矢にとっても馴染み深いギリシャ料理ではなく、パスタなどのイタリア料理が並んでいたのである。 「これ、全部サガが作った……んだよね?」 今、この場にはサガと自分しかいない。はっきり言って聞くまでもないことであったが、自分の発した質問のマヌケさに、星矢は気づいていなかった。 「まぁ、一応ね」 「へぇ〜……オレ、てっきりムサカとかギリシャ料理が出てくるんだと思ってたから、ちょっと意外」 言いながら星矢は、ちょこんと用意された席に着いた。 「そっちの方がよかったか?」 「ううん、どっちでもいい。オレ好き嫌いないから何でも食えるし、元々パスタとかは大好物だしね」 「好物なら良かったが……。星矢は食べ物の好き嫌いがないのか?」 イタリアンは万国人受けすると聞いていたし、とりわけ日本人はイタリアンが好きだと聞いていたから、サガは敢えてこれを作ったのだが、そんなことよりもサガには星矢に食べ物の好き嫌いがないと言う事実の方が驚きであった。ちょうどこのくらいの年頃だと、一番食べ物の好き嫌いなんかも激しい時期であるはずなのだが……。 「うん。小さい頃はそれなりにあったんだけど、魔鈴さんがそう言うのすっごいキビしかったからさ。好き嫌いなんか言おうものなら、メシ食わせてもらえなかったもん。いつの間にか、食えないものなくなってたよ」 屈託なく笑いながら、星矢が言った。 「そうか……。でも好き嫌いがないのはいいことだ」 20歳になっても食べ物の好き嫌いの激しいミロと、20歳などと〜っくの昔に過ぎてるのに、未だ好き嫌いバリバリのカノンの顔を同時に脳裏に思い浮かべながら、サガは小さく笑った。 「それにしても美味そう〜。サガって器用だね、何でも作れるんだ」 テーブルの上に並べられた料理を見回して、星矢は嬉しそうに目を輝かせた。 「別に何でも作れるというわけではないが……。それに美味いか不味いか、さすがに味の保証はしかねるぞ」 双児宮でカノンと生活を始めてから、家事全般はサガがやっている。料理自体が得意というわけではなかったが、ほぼ毎日やっているうちに自然と慣れては来て、まぁそこそこ食べられる程度のものは作れるようにはなっていた。とは言え、サガは料理のプロと言うわけではないし、絶対美味いと言いきれるほど完璧な自信はさすがになかった。 「大丈夫。サガが作ってくれたものなら、絶対美味いって!」 だが何故か星矢が自信たっぷりにそう言い切って、ニッコリと微笑んだ。星矢のその言葉と笑顔に記憶巣の一部を刺激され、サガはハッとした。 あれはもう何年前になるだろうか?。15年、いや、20年は経つかも知れない。 初めてアイオロスに、自分の作った料理を食べてもらうことになった時の話だ。サガの手料理が食べたいとアイオロスに強請られて作ったまではいいものの、料理の出来に自信が持てずにそれを出すことを躊躇っていたサガにに向かって、アイオロスは満面に笑みをたたえて自信たっぷりに言ったのだ。 『大丈夫!。サガが作ってくれたものだもん、絶対美味いに決まってる!』 その時のアイオロスの声と笑顔が、今の星矢に重なって、サガの胸の中に懐かしさと切なさとがじわりと広がった。 以前から漠然とは思っていたのだが、今この瞬間にその漠然とした思いが明確なものへと変化した。星矢は、アイオロスに似ているのだ。姿形がと言うのではなく、人間としての本質的な部分が星矢とアイオロスは似通っている。15歳年下のこの少年と一緒にいる時、何故かサガはいつも奇妙な安心感と心地よさを覚えていた。そしてその感覚が既知のものであるように思えていたのが不思議だったのだが、その理由が何であったのか今ようやくわかったような気がしていた。 だが同時に、アイオロスと喧嘩して飛び出してきたというのに、気付けばアイオロスのことを考えている自分を、サガは非常に腹立たしく思っていた。 「いっただきまぁ〜す!」 星矢の元気な声で我に返り、サガは再び意識を星矢の方へ戻した。星矢はフォークを手に取り、すぐ目の前のカルボナーラを口に運ぶ。モグモグモグと味わうようにそれを食べて飲み込むと、 「うん! 美味い!」 そう言って、サガの方へ親指を立てて見せた。 「そうか、口に合ったのなら良かった」 星矢がお世辞を言っているのでないことは、その表情とリアクションでわかる。どうやら無事、星矢の口に合ってくれたようで、サガは少しホッとした。 「な、オレの言った通りだったろ。サガの作るものは、美味しいに決まってるって!」 得意げに言って、星矢は二口目を口に運ぶ。 「ありがとう、星矢……」 美味い、美味いと言いながら、嬉しそうに自分の作ったものを食べる星矢を、サガは静かに微笑みながら見守っていた。 |
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