夕陽が周辺をオレンジ色に染め上げる中、星矢は自宅への帰り道を急いでいた。

別に急ぐ理由があるわけでもなかったが、自分の帰りを待っててくれる人がいるのだと言う思いが、自然に星矢の足取りを軽く早くしていたのである。

「星矢!」

自宅であるヨットハウスの50mほど手前で、星矢は誰かに呼び止められ、その足を止めた。

「……アイオロス!?」

振り返った視線の先に佇んでいる射手座の黄金聖闘士の姿に、星矢は思わず声を張り上げてその名を呼んでいた。

「やぁ、久しぶり。元気そうだな」

その名の如く風を思わせるような爽やかな笑顔を浮かべて、アイオロスは星矢の傍へ歩み寄った。

「うん、アイオロスも元気そうだね」

アイオロスは星矢にとって、サガとはまた違った意味で特別な、尊敬できる先輩であった。果てしなく繰り返されていた激しい戦いの最中、アイオロスの強靱な遺志の宿ったサジタリアスの黄金聖衣に、星矢は幾度この身を救ってももらったかわからない。アイオロスには、どんなに感謝してもし足りないほどの借りがあった。だが……

「でもどうしたの? こんなところで。オレに何か用事?」

アイオロスに聞き返しながら、星矢は自分の30cmほど上空にあるアイオロスの顔を見上げた。

「う、うん……まぁ、用事って言うか……」

何とも言えぬ複雑な表情で曖昧に言葉を濁すアイオロスに、星矢は言った。

「……サガのこと迎えに来たんだろ?」

はっきり言って、最初から理由など聞くまでもなかった。城戸邸ならともかく、ここにアイオロスが居ること自体が不自然なのだ。となると理由など1つしか思い当たらない。

あっと言う間に星矢にそれを見抜かれたアイオロスは、不覚にも返答を詰まらせて、表情を強張らせた。

「やっぱりな。てか、それ以外考えられないもんな」

アイオロスの顕著な変化を見て取って、星矢は苦笑した。

「……何でわかったんだ?」

星矢の言っていることは事実だし、下手な言い訳は見苦しいだけだった。アイオロスはそう聞き返すことで、星矢の言葉を肯定した。

「そりゃわかるって。サガは何も言わなかったけど、サガが聖域を飛び出してくる理由なんてそうそうあるわけないからね。いくらオレだって、ちょっと考えればすぐに分かるよ」

サガの性格からして、星矢に素直に理由を話しているとは思えなかったが、やはりそれは思った通りだったようだ。アイオロスは黙って、星矢の次の言葉を待った。

「詳しいことはわからないし、聞こうとも思わないけど、そんな原因を作れるのなんてアイオロスかカノンしかいないからね。多分、どっちかとケンカでもしたんじゃないかって思ったんだ」

星矢もアイオロスとサガが特別な関係であることは知っている。と言うか、つい先日知ったばかりではあるのだが、まぁそんなことはどうでもいい。いずれにせよ、サガに対して個人的な部分で多大な影響力を持つ人間は、アイオロスかカノン、この2人しかいないのである。

「でもケンカの相手がカノンだったら、多分サガじゃなくてカノンが聖域を飛び出してくるだろうからね。となるとアイオロスしかいないなって思ってたんだけど、正解だったみたいだね」

クイズをしてるわけじゃないんだぞ、と思いつつ、星矢のその意外な洞察力の鋭さにアイオロスは驚いた。まだ子供だと思って見くびっていた部分があったのだが、アイオロスが思っているほど星矢は子供ではなかったようだ。

「それはそれとして、何でもっと早くに迎えに来てやんなかったんだよ?」

「えっ?」

今までどこか楽しげにも聞こえていた星矢の口調が一変した。

「5日もサガほっといて、アイオロスは平気だったのか?」

「平気だったのか……って言われても……」

平気だったわけじゃない。だが意地を張って、平気なフリはしていた。もしカノンに尻を叩かれなければ、きっとまだ意地を張り通していただろう。心の隅では、すぐにでもサガのところへ行きたいと、思っていながらも。

「この5日間、オレの前ではサガはいつも通りに振る舞ってたけど、時々スッゲー淋しそうな悲しそうな顔してる時があった。サガはきっとその時、アイオロスのこと考えてたんだと思う」

この5日間にほんの数回、しかも僅か一瞬垣間見た程度ではあったが、その時のサガの顔が星矢の脳裏には焼き付いている。そんなサガを見るにつけ、切ない思いをしていた星矢であったが、自分ではどうしてやることも出来ないこともよくわかっていた。

「確証無かったから何も言えなかったけど、アイオロスが早くサガのこと迎えに来てくれればいいって思ってた。サガのあんな顔、見たくなかったからさ……」

サガと過ごしていたこの5日間は楽しかった。できることならずっとこのままでいたいとすら、思ってしまうほどに。
だがその反面で星矢は、アイオロスがサガを迎えに来てくれることを待っていたのだ。例え一瞬でも、サガの悲しそうな顔を見るのがつらかったから……。

「すまなかったな、星矢。お前にまで余計な心配かけてしまって……」

心から謝罪しながら、アイオロスは大きな手でくしゃくしゃと星矢の黒髪を撫でた。
カノンに言われた通り、自分が下らない意地を張りすぎたせいで星矢にまでかけなくていい心配をかけさせてしまった。
情けなくも申し訳なくも思ったが、それでもアイオロスは星矢のその言葉で、自分の中に残っていた僅かな意地と拘りを捨てることが出来た。
13歳の少年にそんなことを教えられるとは思わなかったが、お陰でアイオロスの中からは完全に迷いが消えたのだった。

「アイオロス……」

上目遣いで自分を見上げてくる星矢に、アイオロスは微笑んで見せてから、言った。

「サガのところへ私を連れてってくれ、星矢……」





施錠をしていないドアが、カチャリと小さな音を立てて開いた。いつもはもっとバタバタと帰ってくるのに、今日は随分大人しいなと思いながら、サガは玄関の方へ振り向いた。

「お帰り、せい……」

いつものように出迎えようとして、サガは思わず大きく息を飲み込んだ。星矢の隣に、ここにはいるはずのない人間が立っていたからだ。

「……ア……イオロス……」

これ以上ないほど大きく見開いた目で、サガはアイオロスを凝視した。

「サガ……」

ぎこちなく笑いながら、小さな声でアイオロスもサガの名を呼ぶ。その声が聴覚を刺激した途端、サガの体がまるで凍てついたかのように硬直した。

「アイオロス、オレ外で待ってるね」

「ああ、すまないね、星矢。すぐに終わるから……」

星矢はアイオロスにそう言って、再び外へ出ていった。アイオロスの背後で、玄関の扉が静かに閉められる。

「サガ……」

もう一度名を呼んで、アイオロスがゆっくりとサガの元へ歩み寄ってくる。サガは立ち竦んだまま、その場を動くことが出来なかった。
間もなくアイオロスがサガの目の前に立ち、10cmほど高い位置から真っ直ぐにサガの瞳を見下ろした。その瞳の優しさにいたたまれず、サガは全身の力を込めてアイオロスから逃げるように顔を背けた。

「……サガ、迎えに来たんだ。一緒に聖域に帰ろう」

かけられた声は、ともすれば泣きだしたくなるほど優しかった。だがサガは、顔を上げてアイオロスを見ることができなかった。

「もういい加減、お前の気も済んだだろう? いつまでも意地張ってないで、帰ろう、な?」

諭すように言いながら、アイオロスはサガの肩に手をかけた。反射的にサガは身を引こうとしたが、アイオロスがそれを許さず、両手でしっかりとサガの両肩を掴み直した。だがそれでもまだ、サガはアイオロスの方へ顔を上げようとはしなかった。

「サガ、お前が意地を張り続けるのは勝手だが、これ以上星矢に迷惑をかけるわけにはいかないんだ。それくらい、お前にもわかるだろう?」

サガはアイオロスから顔を背けたまま、微かに頷いた。アイオロスの言う通り、サガにもそのことは嫌というほど分かっていた。自分が下らない意地を張り続ける限り、星矢には迷惑をかける一方なのである。先輩として、黄金聖闘士として、いや、それより以前にいい年をした一人前の大人として、はっきり言って言語道断の行いである。

「…………悪かった…………」

サガが黙ったままでいると、小さな、蚊の鳴くようなアイオロスの声が、サガの耳に届いた。あまりにらしくないそのか細い声に、サガは一瞬、自分の気のせいかと疑ったくらいだが、それは間違いなくアイオロスの声帯から発せられた声であった。

「……オレが悪かったよ、サガ……ごめん……」

そして今度は幾分はっきりした声で、アイオロスは言った。その声に押されるようにして、サガがようやく顔を上げてアイオロスを見た。アイオロスは照れ臭そうな、バツの悪そうな、困ったような何とも言えない表情をしていたが、それでも瞳は真っ直ぐサガに向けられていた。

「……アイオロス……」

「ごめん」

もう一度、アイオロスはサガに詫びた。

「お前の気持ちも考えず、自分の気持ちばっかり押し付けて……。すまなかったと思ってる……」

アイオロスの言葉に、サガは夢中で首を左右に振った。

「違う、アイオロス、悪かったのは私の方だ。お前は私のことを心配してくれていたのに、私がそれを突っぱねたから……」

自分が最初から素直に、アイオロスの心配を受け止め、その厚意を受け入れることが出来てさえいればそもそもこんなことにはならなかったのである。そのこと自体はサガもとっくの昔に分かってはいたのだ。でも分かっていても素直になれず、結局ここまで自我を張り通してしまっていたのだった。

「確かにオレはお前のことが心配だった。自分のこととなるといつも二の次、三の次にしてしまうお前のことが、心配で歯痒くて、見ちゃいられなかった。けど、結局のところそれはオレの都合であって、お前に押しつけられる筋合いのもんじゃなかったんだよな……」

「アイオロス……」

「ごめんな……」

アイオロスの口調には自戒の響きが強く込められており、それが小さな針となってサガの胸を刺した。サガは今度は小さく、そして静かに首を左右に振った。アイオロスばかりが悪いわけじゃない。自分の都合を押し付けていたのは、サガだって同じなのである。

「私の方こそ、すまなかった……」

それはこの5日間、絶対に謝るもんか! と意地を張り続ける反面で、何度も心の中で呟いていた言葉だった。
理性と感情とがそっぽを向きあってしまっていた為、ずっと言い出すことが出来なかったその一言を、今ようやくサガは素直に口にすることが出来たのである。半ば以上アイオロスにつられるような形ではあったけれど、サガ自身もずっとこの瞬間を心の奥底で望んでいのだ。

「サガ……」

びっくりしたように自分を見返してきたアイオロスに、サガは笑顔になりきらない笑顔を返した。

「ごめん……。本当はもっと早くに、謝らなければいけなかったのに……」

「いや、もっと早くにと言うのはオレも同じだよ。年甲斐もなく、意地になっちまって……」

「年甲斐もなくと言うのなら、それこそ私も同じだ」

言い合って2人は思わず顔を見合わせると、堪えきれずに吹き出した。互いに自分の年齢と、そして自分たちが置かれている立場とを再認識し、その上で今回のことを振り返ると、今の今まで真剣に喧嘩していたこと自体が滑稽以外の何物にも思えなくなって、とても笑わずにはいられなくなってしまったのである。
意地を張りあって、反目しあって、そのくせ互いのことばかりを考えてムカムカ苛々と過ごしていたこの5日間が、途端に馬鹿馬鹿しくなる2人であった。
ついでに言うなら、この2人の喧嘩の煽りを食った者たちも、いい災難だったわけだが……。

ひとしきり笑いあった後、アイオロスは掴んでいたサガの両肩を引き寄せ、数日ぶりにその身体を抱き締めた。

「帰ろう、サガ。やっぱりお前が居てくれないとダメだ。仕事から何から目茶苦茶だよ」

サガの青銀の髪に頬を擦り寄せ、アイオロスは耳元でそう囁いた。

「私がいなくても仕事に支障はないと言っていたのは、お前ではないか」

大人しくアイオロスの腕に抱かれながら、サガは楽しそうにくすくすと笑った。

「前言撤回しとく。やっぱダメだ、お前がいてくれないとさ、オレ、仕事自体が手に付かないんだよ。居場所と理由がはっきりしてるならまだしもだけど、今回みたいのは金輪際パス! もう二度とごめんだよ」

意地と勢いだけで強がってはみたものの、目の届くところにサガの存在がないと、結局そのことばかりに意識を取られて何も手に付かなくなってしまうのだと言うことを、アイオロスは今回の件で思い知ったのだった。

「……そう言えばアイオロス、お前、よく私がここにいることがわかったな……」

ここに来てようやくそのことに思い至って、サガは少しだけ身体を離してアイオロスを見上げた。サガは小宇宙も気配も殺していたのだから、いくらアイオロスとは言え、容易にここが知れるわけもない。アイオロスが来てくれなければますます帰るタイミングは逸してしまっていただろうが、それはそれとして別問題である。

「ん? ああ、カノンに教えてもらった」

「カノンに!?」

「ああ。オレがお前の居場所分かんなくて途方に暮れてたら、カノンがここにいるからって教えてくれたんだ」

「あいつにも居場所は言ってこなかったのに……」

「双子マジックで探したらしいぞ。お前達、便利なもんで繋がってるな」

便利と言うのはかなりの語弊があるだろうとサガは思ったが、アイオロスが妙に感心しているので何も言えなかった。と言うより、サガとしてはそんなもん真面目に信じるな!と言いたいのが本音であったのだが、確かに双子の兄弟ゆえ、他人には分からないことが以心伝心で通じたりもする部分もあることは事実だった。カノンがどうやってここを特定したのか何となく想像はつくが、これも言っても仕方がないことである。

「お陰でカノンの奴に借りができたけどな。どうやって返せと言われるか、ちょっと怖いけど」

冗談めかして言いながら、アイオロスは声を立てて笑った。それに引き込まれ、サガの顔にも笑みが浮かぶ。

「でもあいつも何だかんだ言って、お前に早く帰ってきて欲しいってことだったんだろうな」

シオンがカノンの元へ押しかけたことを知らないアイオロスは、今回のカノンの行動を100%の善意と受け取っていた。そのことをカノンが知ったら、また「おめでたい頭」と言われるであろう事に間違いはない。最も、カノンの中にも早くサガに帰ってきて欲しいと言う気持ちがあったことは、紛れもない事実なのだが。

「さ、帰ろう……」

真顔に戻って、アイオロスがサガを促した。サガは黙ったまま、だが久方ぶりの晴れやかな表情で、アイオロスに頷きを返した。





アイオロスがサガを伴って部屋から出てきたのは、星矢が席を外してちょうど20分ほどが経過した頃だった。

「星矢」

家の前でボケッと海を見ていた星矢は、背後から声をかけられて振り向いた。そこには、アイオロスとサガが並んで立っている。星矢はすぐさま2人の傍へ駆け寄った。

「話、終わったの?」

「ああ、ありがとうな」

アイオロスが短く答えて頷く。星矢がサガの方へ視線を転じると、サガは穏やかな微笑みを星矢に返した。
そのサガの表情で、星矢は2人が無事に仲直りできたのだということを察した。

「それじゃ帰っちゃうんだ、聖域に……」

そう言う星矢の表情は、ほんの少し淋しそうだった。サガは頷き、星矢に言った。

「星矢、色々迷惑をかけてすまなかったね。この埋め合わせは、必ずさせてもらうから……」

サガの言葉に、星矢がプルプルと首を振る。

「別に迷惑でも何でもねーよ。て言うか、むしろ楽しかったし嬉しかった」

「星矢」

「ホントだぜ。オレさ、サガがオレを頼ってくれたこと、スッゲー嬉しかったんだ。だから迷惑かけたなんて、思わないでくれよな。それと、埋め合わせなんて水臭いこと言うなって!」

星矢はそう言って、人懐っこく笑って見せた。

「……ありがとう……」

星矢の笑顔に、サガの胸が熱くなる。この5日間、サガは幾度となく星矢のこの笑顔に癒されてきた。そして今も……。

「またアイオロスとケンカしたらさ、いつでも来てくれよな。オレ、待ってるからさ」

「おいおい、勘弁してくれよ。そうそうケンカばっかして堪るか!」

半分おどけて見せる星矢に、アイオロスは間髪入れず、しかも真顔でそう応じた。

「だったら、もう二度とサガを泣かせるようなことすんなよな! 今度アイオロスがサガを泣かしたりしたら、オレが承知しないんだからな!」

キッと表情を引き締めて、星矢はアイオロスを見上げた。その顔が意外なほど真剣で、一瞬アイオロスは得も言われぬ迫力に押されてたじろいだ。

「バ〜カ、子供が生意気言ってんじゃないの! 大体、私はサガを泣かした覚えなんかないぞ!」

気を取り直して苦笑いしながら、アイオロスは星矢に軽いデコピンをお見舞いしてやった。痛ぇっ!と、星矢が短い悲鳴を上げる。

「アイオロス!」

軽く睨んでアイオロスを窘めたサガは、アイオロスにデコピンされた星矢の額を優しく撫でてやった。

「……星矢、今回のことは私も悪かったんだよ。だからアイオロスばかりが悪いわけじゃないんだ」

「それはわかってる。でもオレはいつでもサガの味方だから!」

単純明快、明朗活発にそう宣言する星矢に、アイオロスは呆れ、サガは嬉しそうに微笑んだ。

「本当に色々とありがとう、星矢……」

心から礼を言ってサガは身を屈めると、そっと星矢の額にキスを落とした。
星矢の頬がその瞬間、パッと朱に染まった。

「また聖域にも遊びに来なさい。元気でな」

「う、うん、サガも元気でね……アイオロスも……」

星矢は顔を赤くしたままやや呆然とした様子でそう答え、機械人形さながらのようにぎこちなく頷いた。

「ああ。今日はこのまま帰るけど、女神にもくれぐれもよろしくお伝えしてくれ」

「うん、伝えとく……」

「それじゃ……」

サガとアイオロスの体が一陣の光に包まれ、間もなく2人は星矢の目の前からその姿を消した。


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