その日の午後、カミュはシュラとともにミロの宮・天蠍宮を訪れた。別にカミュもシュラも取り立ててミロに用事があるわけではなく、何となく2人で過ごしているうちにちょっとミロんとこにでも行くかと言うことになって、こうしていきなりやってきたのだ。つまりは、単に気が向いたから遊びに来ただけと言うやつである。
カミュにとっては勝手知ったる何とやら……の天蠍宮なので、わざわざ玄関先でミロが扉を開けてくれるのを待ったりはしない。殆ど自宮と同じような感覚で、黙って私室に入って行くのが常である。もちろん、ミロがカミュの宮である宝瓶宮を訪れるときも、然りであった。 「よう、カミュにシュラじゃん!」 ちょうど昼食を終え食後のコーヒーを飲んでいたミロは、リビングに姿を現したカミュとシュラに驚いた様子もみせず、嬉しそうにそう声をかけた。 「すまん、食事中だったか」 さしてすまなくもなさそうに、カミュは言った。 「いや、もう食い終わってる。お前達もコーヒー飲むか?」 「ああ」 カミュとシュラは頷いて、ミロに促されるままミロの正面に腰掛けた。2人が座ると同時に、ミロはコーヒーを入れようと汚れた皿を手に立ち上がった。 「……これは……」 ダイニングのテーブルについた2人は、ほぼ同時にその上に置かれている2枚のチケットに目を留めた。カミュがそれを手に取ると、そのチケットをマジマジと眺める。英語で書かれているそれは、アメリカのプロバスケットボールリーグ公式戦のチケットであった。何でこんなものが?と、カミュとシュラが無言のまま顔を見合わせる。 「ああ、それね。カノンが生で観たいって言うからさ。女神に頼んで手配してもらったんだよ、VIP席♪」 コーヒーを入れながら、ミロはカミュ達が尋ねるより先にそう答えた。 「カノン……が?」 カミュもシュラもカノンの名前に思わずピクリと反応した。 双子座の聖闘士の片割れであるカノンとミロは仲がいい。ミロとカノンが初めて顔を合わせたのは冥界との聖戦直前で、その付き合いの長さ自体は短いのだが、先の海皇との聖戦の首謀者であったカノンが改心し聖域へ戻った際、黄金聖闘士の中で一番最初に彼を許し、仲間として受け容れたのがこのミロであると言う経緯があるからか、聖戦を経て現世に蘇って以降、2人の間にはごく当たり前のように友情関係が成立していた。 最も、その友情関係がここ最近で微妙に形を変えてきていることを、ミロの親友であるカミュはもちろん、カミュの恋人であるシュラも気付いてはいたのだが。 「そ♪。本場NBAを生で観たい!!って言うからさ」 ミロはカミュとシュラの前に、コーヒーを注いだカップを無造作に置いた。 「これは……明後日のものか」 素早く時差を計算してカミュが言うと、ミロはうん、と頷いた。 「だから明後日、ちょっくらアメリカ行ってくる。日帰りだけどね」 光速で移動でき、しかもテレポートも使える黄金聖闘士にとって、ギリシャーアメリカ間の距離など、はっきり言ってあってなきが如しである。テレポートで移動できない十二宮の隣宮に行くよりも、ある意味容易く行ける地である。 「ミロ……つかぬことを聞くが……」 カミュが僅かに眉を顰めて、ミロを見た。 「ん? 何?」 「お前、ついこの間も……カノンが行きたがってるからって、女神に頼んで東京ディズニーランドを貸し切りにしてもらってなかったか?」 そう、これはついぞ1ヶ月くらい前の話である。最もこの時は、ついでとばかりに黄金聖闘士全員にお呼びがかかり、「聖域黄金聖闘士様御一行・東京ディズニーランド貸し切りツアー」になったので、カミュもシュラも同行していたわけだが、そもそものきっかけはカノンの希望を叶えてやるべく、ミロが女神に頭を下げたことから始まっていたのだ。 「ああ、そう言やそうだったな。カノンが世界のディズニーランド全部に行きたい!って言うから、手始めに日本に行ったんだった」 しれっとした顔で、ミロがそう答えた。 「春になったら大リーグと、日本のプロ野球……とも言ってなかったか?」 「ああ、それももう、女神に手配頼んである。日本のなんか東京ドームの超VIP席用意してくれるって〜」 どこか浮ついたような感のあるミロの返答を聞いて、カミュは呆れたように目を丸くした。 「ミロ……それはちょっとやりすぎではないか? いくら女神に頼めば右から左に何でも揃うとは言っても……」 カミュはやや控えめに苦言を呈しつつ、溜息をついた。ミロとカノンが仲がよいのはいいことだし、ミロ自身も承知の上でのことだからとやかく言うつもりはなかったが、さすがにこれは些か度を越しすぎなのではないかとカミュは思う。 「ん〜、あいつ13年も海の底にいたからさ、何てーか子供みたいにそう言うとこ行きたがるし、喜ぶんだよね。それ見てっとさ、オレまで嬉しくなるって言うか何て言うか……」 嬉しそうにそう言うミロを見て、カミュとシュラは再び顔を見合わせた。 「ミロ、単刀直入に言うが……」 少しの沈黙の後、今度はシュラが口を開いた。 「ん? 何?」 「あのな、お前がカノンのことを好きだってことは、オレ達も知ってる。そのカノンの願いを叶えようとして、一生懸命になってるお前のこと健気だとも思う……けどな」 そう、いつの頃からか、ミロはカノンに対して明確な恋愛感情を持ち始めていたのである。 根が正直で素直なミロであるから、思うところはすぐに態度に出てしまう。なので、ミロ自身が自分の思うところを口にしなくても、行動に全て現れてしまうのでバレバレなのである。ミロとの付き合いの密度が誰よりも濃いカミュと、そのカミュと特別な付き合いがあるシュラは、かなり早い段階でこのことに気付いてはいた。もうどこをどう見てもそれが明らかだったので、敢えてミロに真意を問い質すような真似はせずにここまで来たのだが、そうこうしているうちに他の黄金聖闘士達もすっかり気付いてしまい、誰も口にはしないものの今では「ミロはカノンが好き」と言うことは周知の事実に近い状態になっているのだった。 「あ、やっぱ気付いてた? カミュもシュラも気付いてるっぽかったから、そのうち聞かれるだろーなーとは思ってたんだ」 ミロはあっけらかんとそう言って、ケラケラと笑った。カミュとシュラが自分のカノンに対する気持ちの変化に気付いているらしいことは、ミロにもわかっていたのだ。なのでいずれはそのことを聞かれるだろうと思っていたので、いきなりシュラにそれを切り出されても驚きもしなかったのだ。もちろん、他の黄金聖闘士連中もそれに気付いているなどと言うことは、露程も思っていないミロであったが。 気付かない訳ないだろう……と呆れたように応じてから、シュラは先を続けた。 「あのな、ミロ、さっきカミュも言ったが、いくらカノンのことが好きだっつったって、ちょっとやりすぎじゃないかとオレも思うぞ。見方によっちゃお前、まるでカノンのパシリじゃないか」 ミロには回りくどい言い方は却って逆効果なので、シュラはストレートに思っていることを口に出した。ミロはえっ?と言うように首を傾げてから、 「そんな風に見える?」 小さく苦笑をしながら、シュラにそう尋ね返した。 「ああ。お前がカノンの気を引こうと必死なのはわかるんだが、それをカノンに逆手に取られて利用されてるみたいにも見えるぞ」 そこまで言ったとき、横のカミュがくいくいとシュラのシャツの袖を引っ張った。シュラがチラリと横目でカミュを見ると、ぶつかったカミュの目が、『言い過ぎだ』と言っていた。とは言え、出してしまった言葉は引っ込められない。年長者であると言う勢いも手伝って、シュラはこの際ずっと聞けずにいたことを全部ミロに聞いてみようと意を決したのだった。 「カノン、そんな奴じゃないよ。そりゃさ、ちょっと前まではグレてヒネくれてしょーもない奴だったけど……」 カノンの改心が本物であることをしっかりと見届けた者であると言う自負から、ミロはカノンを庇った。それにそんな奴だったら、自分はカノンのことを好きになったりなどしない。 「あのな、あいつはあの海皇ポセイドンすらも手玉にとった男だぞ。お前みたいな小僧を手玉に取るの、チョロイなんてもんじゃないだろう」 シュラとてカノンを信じていないと言うわけではないのだが、カノンがその気になればミロを手の平の上で遊ばせることなど容易くやってのけるはずだ。こう言う小狡さと言うものは完全に消えてなくなるものではないだけに、シュラの一番の心配の種だった。 「大丈夫だよ、そんなことしないよ……」 ミロはまたきっぱりとその可能性を否定したが、先刻より些か口調が弱くなっていた。実際のところ、そう言われてしまうと、ミロとしてもほんのちょっとだけ不安に思わなくもなかったのだ。 「なぁ、ミロよ……確かにカノンは黙って立ってりゃオレの目から見ても美人だと思うし、それだけでもまぁ、お前があいつを好きになった理由はわからないでもない。しかもお前は昔からサガにヘバりついてたし、それが転化して……と考えれば、サガの双子の弟であるカノンに特別な感情を抱くようになっても、あながち不思議じゃないとも思う。けどな……」 シュラは腕組みをして、溜息を1つついた。 「普段のあいつ、カノンを見てるとついつい忘れがちなんだが、お前、カノンの歳いくつか知ってんのか?」 「知ってるよ! 28歳だろ」 「そう、28歳だ、お前より8歳も年上なんだぞ。精神年齢レベルは大差ないにしても、実年齢差が結構あるんだ。そのことちゃんとわかってんのか? オレとカミュみたいに、3歳くらいしか離れてないのとはワケが違うぞ」 「……8歳くらいの年齢差など、さほど気にすることでもあるまい?」 シュラのその言葉に反応したのは、ミロではなく今まで黙って事の成り行きを見守っていたカミュの方だった。カミュに言わせてみれば、8歳の年齢差など大した問題とも思えなかった。自分に置き換えて考えてみても、8歳年上の人に恋愛感情を抱くことは充分できると思うし、別に何ら不思議なことではないと思うからだ。 「お前なりミロなりから言わせりゃそうだろうけどさ、カノンにしてみりゃ8歳も年下の小僧っ子だぜ? まともに恋愛対象として相手にできると思うか?」 「……それは……」 そう言われるとカミュも、そしてミロも反論は出来なかった。普段の2人を見ていると、殆ど同年代と変わらない風に見えるだけにあまり強く意識したことはなかったのだが、確かにカノンは時折、ミロのことを完全に子供扱いしている節はある。それを併せ考えると、シュラの言っていることはかなり的を射ていると言わざるを得なかった。 「ところでミロ……カノンの方はお前の気持ちを知っているのか?」 少しの重苦しい沈黙の後、思いだしたようにそう尋ねたのはカミュだった。 「う〜〜〜ん、改まっては何も言ってないけど、気付いてるんじゃないかなぁ?……とは思う」 はっきりと告ったわけではないのだから憶測の範囲は出ないが、気付いているっぽい節は見えなくもない。でも全然気付いてないようにも見えるし、いずれにせよミロにもどちらなのかはっきりはわからなかった。 「気付いてるに決まってんだろう、あれだけはっきり態度に出てりゃ」 だがシュラは、きっぱりとそう言い放った。口には出さなかったが自分たちはおろか、他の黄金聖闘士にまであっさり看破されてる有様なのだ。今、ミロの好意を一身に受けているカノンが……例え相当の大ボケであったとしても……気付かないわけがない。 「だとすると……やっぱちょっとなぁ……」 シュラ自身もカノンとは仲のいい方であるから、ミロとカノンが一緒にいるときに自分も一緒にいることも多いのだが、少なくともカノンにはミロに対して恋愛感情らしきものを持っているようには見受けられないのだ。だからこそ、あれこれと心配もするわけだが……。 「お前の感触的にはどうなんだよ?」 「えっ?」 「いや、だからさぁ、カノンの方も自分のこと好きっぽいなぁ、とか思うことないのか?」 シュラに言われてミロはしばし考え込んだ後、力なく首を左右に振った。 「わかんないよ。あいつとは仲はいいけど、オレのことが特別ってわけでもなさそうだし」 デスマスクやシャカ達など他の黄金聖闘士と接している時のカノンも、自分と一緒の時と態度的には大差がなく、取り立てて自分がカノンにとって特別な存在なのだと思わせるようなところはない。 シュラの言うようにカノンが自分の気持ちに気付いているとして……態度が全く変わらないということは、やはり自分を恋愛対象としては見てくれていない、と言うことになるのだろうか。 シュラに現実問題を突き付けられるまで気にもしなかったミロだが、改めて考えてみると先の展望はあまり明るいとは言えない状態かも知れなかった。 「やっぱ……ダメなのかなぁ……」 途端にしょぼんとなったミロは、ぼんやりと独り言を言うようにそう呟いた。その顔からは、先刻のような活気に満ちた表情は消え失せていた。 「いや、そう結論を下すのは早いが……」 シュラも思わず言葉を詰まらせる。カノン自身の口から気持ちを聞いたわけではないし、そうだと決めつけることはシュラには出来なかった。 「でも……恋愛対象として相手にされないのは仕方ないとしても、利用されてるだけなんてことは思いたくないよ、オレ……」 ミロはそう言いながら顔を上げ、力のない笑顔を2人に向けた。シュラもカミュもそんなミロの様子を見て、さすがにすぐにはかけるべき言葉を見つけることが出来なかった。
「シュラ、やはりちょっと言い過ぎたのではないか? もう少し様子を見てからでも、遅くなかったんじゃ……」 天蠍宮から人馬宮へと続く階段を昇りながら、カミュがやや躊躇いがちに口を開いた。 シュラが間違ったことを言ったわけではなく、シュラはシュラなりにミロを心配して助言したのだと言うことも無論カミュにはわかっていたが、それでもやはり時期尚早だったのではないかと言う感は拭えなかった。まして、あんなミロの落ち込んだ顔を見てしまうと尚更である。成り行きで転んでしまった話だし、別に自分達が悪いことをしたわけではないのだが、何となく罪悪感にも似たものを覚えてしまうカミュであった。せめてもう少し、黙って見守っていてやってもよかったのではなかっただろうか? 「そうは言うがなカミュ、傷は少しでも浅い方が治りが早い。遅くなればなるほど、傷口は広く深くなって行くんだ。遅いよりは早い方がマシなんじゃないのか?」 カミュの言わんとしている真意はシュラにもわかる。シュラだって何となく可哀相なことをしたと、後味の悪い思いはしているのだ。 「と言うことはシュラ、やはりあなたは、カノンはミロの気持ちには応えてくれないだろう、と思っているのか?」 「そう言い切るのも早いが、その可能性は否定できないとは思ってる」 言われてカミュは押し黙った。確かに、シュラの言うことは正論ではある。 「ミロには可哀相だが、もしそうなら早めに諦めさせたほうがいいだろうとも思うしな。ただ……」 「ただ?」 「いずれにせよ、早々にカノンの方の気持ちを探る必要はあるだろうな」 どのみち、自分たちの憶測や推測だけで事を進めるわけにはいかない。それにはまず、カノンの気持ちを確かめなければならないだろう。 「カノンの気持ちを探るって……どうやって?」 「ま、それはちょっとこれから考えてみるさ」 肩を竦めてそう答えると、シュラは心配そうに自分を見ているカミュを安心させるように、優しい微笑みを向けた。まさかこんなことになるとは思わなかったが、ここまで来たら乗りかかった船である。シュラはミロのためというよりも、ミロを心配するカミュのために、一肌脱いでやる決意を固めたのだった。 |