「おい、シュラ!」

この日、教皇宮の当直番を終えて仕事を上がったシュラは、たった今、勤務を交代したばかりのカノンに教皇宮を出る寸前のところで呼び止められた。

「……何だ?。日報に不備でもあったか?」

立ち止まって振り返り、シュラが聞き返すと、カノンは首を左右に振った。そうして何となく落ち着かない様子で周囲を伺ってから、声を潜めてシュラに言った。

「あのさ、今日の帰りお前んとこ寄っていいか?」

シュラは思わず、目をパチクリとさせた。別に寄ること自体は一向に構わないのだが、いつもだったら何の前触れもなく勝手に上がり込んでくるカノンが、今日に限って何故事前にお伺いを立ててきたのか、それが疑問だったのである。

「別に構わんが……どうかしたのか?」

「いや、ちょっと何つーか……相談があってさ」

「相談?、お前が?、オレに?」

顔中一杯に『珍しい』と書きなぐって、シュラは先刻にも増してきょとんとした顔をカノンに向けた。

「ああ、出来ればカミュも呼んでおいてくれ」

「カミュも?!」

更に驚いたように、シュラが聞き返す。

「ああ、頼んだぜ。そうそう、このことカミュ以外には誰にも言うなよ!。サガにも、もちろんアイオロスにも、ミロにもだ、いいな!」

「え?!、って、ちょっとおい、カノン!!」

相談に乗ってもらう立場でありながら偉そうに一方的にそう言い置いて、カノンはとっとと踵を返すと、教皇の間へと走って引き返していった。

「誰にも言うな……って、あいつ、またミロとケンカでもしたのかよ?」

たかがちょっとケンカをしたくらいで、あのカノンがわざわざ自分のところに相談を持ち込んでくるとも考えづらいのだが……用件の見当がつくようなつかないような、変な気分に小首を傾げつつ、シュラは自宮への帰路についた。




「カノンが私達に相談事なんて、ミロとケンカした以外には考えられないな」

呟くように言って、カミュは溜息をついた。カミュはシュラに頼まれた通り、カノンがやって来るであろう時間を見計らって、磨羯宮に降りてきていた。最も、別にそれがなくとも来るつもりではいたのだが。

「やっぱお前もそう思うよな……。でもカノンとミロのケンカなんて年中行事だぜ?。今更改まって相談なんて、何かイマイチ解せないんだけどな」

シュラの納得いかない部分は、正にその一点であった。シュラの言う通り、カノンとミロのケンカなど、所構わず昼夜構わずの年中行事で、十二宮一ケンカの多いカップルと呼ばれているくらいである。ケンカするほど仲がいい、とは正にこの2人のためにあるような言葉だと言うのが、他の黄金聖闘士達の共通の認識であった。

ケンカとは言っても大体がして小競り合い程度だし、ごくたまにとんでもない大喧嘩になったとしても、見かねたサガとアイオロスとが乗りだしていって事を収めてしまうことが殆どだし、何よりミロの方はともかくとして、あのカノンが自分達に相談を持ち込んでくるなど、普段であれば考えづらいところだった。

「お前、今日ミロに会ったか?」

「いや、今日は会ってないが……」

「となると、ケンカじゃないのかな?。ケンカしてたんなら、ミロが真っ先にお前んとこに来るだろう」

言われてカミュも、思わず黙り込んだ。確かにカノンとケンカをするたびに、ミロが愚痴や悩みを言いに来るのは、物心ついた頃から一番心を許し合ってる友達である自分のところである。だが今回は、ミロは自分に何も言ってきてはいない。となると、ケンカをしたわけではないと言うことになるのであろうか?。

どうにもこうにもカノンの意図するところが掴みきれず、2人は顔を見合わせて首を傾げあった。

その時、磨羯宮の玄関のドアが開閉する音が聞こえて来た。考えるまでもなく訪問者が誰であるかがわかったシュラとカミュは、玄関まで出迎えに行くこともせず、リビングのソファに座したまま訪問者が姿を現すのを待っていた。

「ちぃ〜っす」

3秒程してリビングに姿を現したのは、もちろんカノンである。シュラは片手をあげてカノンに応え、カミュは小さく頭を下げて応えるとすぐ、ソファから立ち上がってお茶を淹れにキッチンへと消えていった。

「何だ、お前起き抜けか?」

カミュと入れ替わりにソファに腰掛けたカノンは、Tシャツにスウェットパンツと言う寛いだ格好でソファに身を投げ出しているシュラを見て、小さく笑った。

「そりゃそーだ。オレぁ、当直明けだったんだぞ」

「そう言えばそうだったな」

朝シュラと交代したのは自分だと言うのに、そのことをコロッと忘れていたカノンである。シュラは呆れたように小さく肩を竦めたが、別に怒るようなことでもないのでそのまま黙っていた。

少ししてコーヒーを淹れたカミュが、リビングに戻ってきた。カミュは手際よく3つのコーヒーカップをテーブルの上に並べ終えると、シュラの隣に腰を落とした。

「で?、相談って何だよ?」

すっかり気の急いているシュラは、カミュがソファに腰掛けるとほぼ同時に、カノンに用件を話せと促した。コーヒーに口をつける間もなく話を急がされ、カノンは一瞬不満げに表情を歪ませたものの、

「ん〜、いや、その……実はさ、ミロのことなんだけど……」

そもそも相談がある、と言って押し掛けてきたのが自分であることを思いだし、少し躊躇った後に口篭りながらボソボソと話を始めた。

「やっぱミロか!」

思わずシュラが声を上げたが、その声には何となく懸賞に当選したときの喜びに似た音が含まれていた。

「……何だよ、そのやっぱってのは?」

「だって、他に理由なんか見当たらないじゃないか」

間髪入れずにシュラに言われ、カノンは思わず返す言葉に詰まった。

「で?、今度は何が原因だ?」

「何がって?」

「ケンカだよ、ケンカの原因。どうせまたケンカしたんだろ?、お前ら」

「バカ!、違うよ、ケンカなんかしてねーって……多分……」

「何だ?、その多分ってのは?」

カノンの物言いに、シュラが怪訝そうに片目を細めた。

「いや、その……ケンカ、と言えばケンカなのかも知れないけど……よ……」

「何なんだ?、はっきりしない奴だな」

良くも悪くもはっきりストレートに物事を言う性格のカノンが、こんな歯切れの悪い物言いをすること自体、割に珍しいことである。カノンの顔には、明らかに戸惑いの色が浮かんでいた。

「いや、その……オレにもよくわかんねーんだよ」

「はぁ?!」

シュラはまたもや片目を細めて、素っ頓狂な声を上げた。

「よくわかんないって、何が?」

「だから、何でこんなことになっちゃったのかの原因」

今度はカノンが腕組みをして、小首を傾げた。

「……一体何がなんだか、さっぱりわからん。とにかく、事の最初からちゃんと説明しろ!」

相談を持ちかけてきた当の本人がこんな有様では、相談を受けるほうだっていつまで経ってもわけがわからない。業を煮やしてシュラは、口調を強くしてカノンに話の先を促した。

「ん〜、そもそものきっかけは、映画なんだな」

「映画?」

カノンは相変わらず腑に落ちない表情を崩さぬまま頷いて、話を始めた。

「一昨日の話なんだけどさ、映画に行ったんだよ」

「ミロとか?」

「いいや、デスマスク」

デスマスクぅ〜〜〜?!

その固有名詞を聞いた途端、シュラが目を大きく見開いて声を張り上げた。隣のカミュも、無言のままビックリしたように目をパチクリとさせている。もちろん、シュラの大声に驚いているわけではない。

「2人きりでか?!」

「……そうだけど?」

「な、何でデスマスクとお前が一緒に、2人きりで映画になんか行ったんだ?」

デスマスクとカノンは、よく一緒に飲みには行っている間柄だ。と言っても大抵自分やアフロディーテなども一緒であるから、カノンとデスマスクが2人きりでと言うことは、実のところ一度もないはずだった。最も、カノンがミロと恋人付き合いを始めてからは、その回数事態が減ってはいたのだが。
なのでカノンとデスマスクが個人的に全く繋がりがないわけではなく、むしろ結構気は合って仲がいいと言っていい関係ではあるが、2人きりで映画となると若干話は別の方向に異なってくるのだ。

「いや、元々はミロと一緒に行く予定だったんだけどね」

「それが何でデスマスクと?」

今度はカミュが、カノンに聞き返した。

「ん〜?。いや、ミロがさ、仕事のシフト一日間違えててよ、一昨日は出勤だったんだ。それを当日になって気付きやがってあのバカ、朝っぱらからウチにすっ飛び込んできやがってよ、今日映画に行けなくなった!ゴメン!!……だぜ」

「それでお前が頭に来て、腹いせにデスマスクと映画に行ったのか?」

シフトを一日勘違いしていたなど、別に珍しいことでも何でもない。ミロは時々、そう言う大ポカをやらかすので、さして驚くに値するようなことでもないのだ。シュラからしてみれば逆に、よく出勤前に気付いたと褒めてやりたいくらいである。ミロに責任感がないと言うわけではないのだが、例のサガが起こした十二宮の乱の直前に聖域に呼び戻されるまでの約10年余りを時間に縛られない気ままな生活を送っていたせいか、ミロの時間の感覚と言うか使い方が多少ズレているのである。ストレートに言ってしまえばルーズなのだが、一応本人は本人なりそれを改善しようと努力はしているようである。

まぁそれはさておき、今はカノンとデスマスクのことである。

「あほう!、何でオレがそんなことでいちいち腹立てなきゃいけねんだよ?。あいつのそんなボケには慣れてるっつの」

シュラの問いに、カノンは呆れたように眉を顰めた。

「じゃ何で?」

何で?何で?と、シュラとカミュは2人揃ってこの短い時間に何度聞き返したかわからない。が、話が一向に見えそうで見えない状態なので、聞き返さずにはいられないのだ。

「チケットの期限がさ、一昨日までだったんだ。チケット無駄にするのも勿体ねーし、ミロがとりあえずサガかアイオリアとでも行ってくれっつーから……」

「サガかアイオリアが、何でデスマスクになるんだ?」

確かにミロならそう言うだろう。兄であるサガか幼友達のアイオリアであれば、ミロもカノンと2人きりにしても余計な心配をしなくて済むからだ。

「だぁからぁ〜、一昨日はサガも仕事だったんだよ。んじゃ、アイオリア誘おうかな〜って思って獅子宮に上がってったら、ちょうど巨蟹宮で私室から出てきたデスマスクに会ってさ」

言うまでもなく、巨蟹宮は双児宮と獅子宮の間に位置している。獅子宮へ行く道すがら、巨蟹宮で主のデスマスクと出くわしたところで、別に珍しいことではない。

「で、獅子宮まで上がってくのもメンドくさくなってたとこだったから、ちょうどいいやと思ってデスマスクに行かねえ?って誘ったら、行くっつーから一緒に行ったんだ」

そこまで聞いてようやく何となく話が見え始めてきたシュラは、軽い頭痛を覚えてこめかみを押さえた。

「なるほど、それがミロにばれてケンカになった……と、そう言うわけか」

どうせ下らないことが原因だろうと思ってはいたが、やっぱり下らなかった。完璧にそう決めつけてシュラが言うと、カノンは小さく首を振った。

「え?、何?、ケンカじゃねーの?。だってお前さっき、ケンカと言えばケンカだって……」

「だから、それがちょっと違う気がすんだよな。いやミロが怒ったってことは事実なんだけどさ……ケンカしたってのともちょっと違うような違わないような……」

いつもだったらすぐにカッとなって、うるせーな!とでも言い返してくるカノンが、今日に限ってはどこか妙に大人しいと言うか何と言うか、とにかくいつもと違うのである。シュラにしてもカミュにしても、さっきからどうも変な違和感を覚えているのは、これが原因であろう。どこがどう、とはっきりは言えないのだが、とにかくいつもと微妙に様子が違うことだけは間違いない。

「だから何なんだ一体……」

まったくさっきからはっきりしない奴である。サガと違って非常に考えていることが分かりやすいと言う点がカノンの長所(兼短所)であるにも拘らず、今日に限ってはどうにもこうにもよくわからないのだ。シュラとカミュが苛立ちを覚えるのも、無理はない。

「あ、言っとくけど別にデスマスクと行ったこと隠してたわけじゃねーぞ。帰ってきてからミロに、デスマスクと行ってきたって、ちゃんと言ったんだ。したらさぁ、あいつ急に怒りだしやがってよ」

だがシュラの苛立ち混じりの問いに答えるより先に、取ってつけたようにカノンは先の自分の言葉にそう補足した。自分がこっそり内緒でデスマスクと映画に行って、それがバレてミロに怒られたのだと言う風にシュラ達に誤解されたら困るからである。結論から言えば、それはいらぬ心配というものであったのだが。

「……ふぅ〜ん、なるほどねぇ〜……」

この時点でやっと、シュラにもカミュにも何となく事の次第の察しがつき始めていた。原因は大したことじゃないだろうとは思っていたが、やっぱり大したことではなさそうである。

「で?、ミロ、何つって怒ってた?」

これも既におおよその見当はついていたのだが、一応全部聞いておこうとシュラはカノンに先を促した。

「そう、それがワケわかんねーんだよ。何かさ、『何でよりにもよってデスマスクとなんか行くんだ!』って怒っちゃってさ。オレが事情説明しても全然納得しなくてよ」

「ま、そうだろね……」

シュラはついぞ漏れそうになる笑いを、懸命に堪えた。

「まぁそりゃあいつはサガかアイオリアとでも、とは言ってたけど、別にデスマスクだっていいじゃんか、なぁ?。どこがどう違うって言うんだよ?!」

「……ミロにとっては大違いなんです……」

控えめに……と言ってもこれが地声なのだが、カミュが口を開いた。

「そう、それ!。あいつもそう言ってたんだけど、オレには全然さっぱりわかんねーんだよ!。なのにあんにゃろう、何であともう1コ上に上がっていけなかったんだって散々文句言った揚げ句に、サガかアイオリアとしか一緒に行っていいって言った覚えはないとかゴネ始めやがってよ!」

話しているうちにカノンのボルテージはどんどん上がり、口調はどんどん激しく、語尾はどんどん荒くなって行った。

「でさ、終い最後にゃ『他の誰と行ってもよかったけど、デスマスクだけは絶対ダメだったんだ。上に行くのが面倒なら、下に行ってアルデバランを誘えばよかったろう!』とかなんとか、てめえ勝手な矛盾したこと言いやがってよ、ワケわかんね〜っつの!。何がどう違うんだっつんだよ?!。なら最初から言っとけっつの、あの大バカが!!」

カノンはそこまで一気に捲し立てると、酷使した喉への水分補給のため、一口も飲んでいないうちに冷め始めてしまったコーヒーを一気に流し込んだ。

「で?、売り言葉に買い言葉でケンカになった、と、そう言うわけか?」

懸命に笑いを堪えつつ、シュラがカノンに聞き返した。どうせミロの怒りに任せた言葉に、カノンも同じ調子で応じてしまったのであろう。2人のケンカの様子が脳裏にまざまざと浮かび、更に笑いが込み上げてくる。

「だからぁ、ケンカっつーか何つーか……どっちかってーとあいつが一方的に怒ってるだけで……。とにもかくにもあいつの考えてることがよくわかんなくて……言ってること無茶苦茶なんだけど、何てかその……あ〜!、もう上手く言えねえんだけど!!」

「……オレ達に向かって逆ギレすんなよ……」

そんな理不尽な怒りを自分たちに向けられても困るのだが、一方では慣れていたりもするシュラとカミュであった。

「でもまぁ、話はわかった、うん。お前さ、そりゃミロが怒るのは無理ないわ」

ここまで聞いて合点の行ったシュラが、完璧に拍子抜けした声で言った。

「んだよ、そりゃ?。さっきも言ったけどな、オレがミロに隠れてこそこそ行ったとでも言うんならともかく、ちゃんと話はしたんだぞ!。だからそもそもあいつに怒られる筋合いなんてもんは……」

「バカ、言った言わないの問題じゃない。一緒に行った人間が問題なんだ!」

「はぁ?!、どう言うことだよ、それ?」

シュラが言っている意味がわからず、カノンは怪訝そうに聞き返した。

「だからデスマスクとなんか行くから悪いんだ。と言うか、お前が軽率なの!」

「何で?!」

いきなりシュラに自分が軽率だと非難され、カノンは眉を吊り上げた。

「あのなぁ、お前……ほんっとにわかってねーの?」

「だから何が?」

「何がって、ミロが怒った原因だよ」

「わかってたら、わざわざお前等にこんな話なんかしに来るか!」

ま、そりゃそーだ、と内心で呟いて、シュラは思わず頷いていた。

「いつもだったらさ、その……言い負けたりもしないんだけどよ、何か今回はあいつの何つーかその、わけのわからん迫力に押されて……っつか、何が何だかさっぱりわかんなくてさ」

「で、最後には何も言い返せなくなった……と」

カノンはこっくりと頷いた。

「つまり、お前の相談っつのはそれか。ミロが何考えてんのかわかんない……と、そう言うわけか」

一応恋人であると言う自覚のあるカノンとしては認めるのも癪に触るのだが、正にシュラの言う通りであった。平素であれば負けじと強気な態度に出るカノンも、今回ばかりは何故かミロの迫力に気圧されてしまい、最終的にシュラに指摘されたように何も言い返せなくなってしまったのである。ミロはどっちかと言えば感情が表情に直結するタイプなので、大体何を考えているかわかることの方が多いのだが、今回はさしものカノンもミロの真意が理解できずに戸惑っていた。とにかく、あの怒り方は尋常ではなかったのだが、何があそこまでミロを怒らせたのかの因果関係が今一つわからないのである。

今回に関して言えば、結果的にカノンが引いた形になっていたので大喧嘩には至らずに済んでいたのだが(これが先刻からカノンが言葉を濁していた原因である)、言うまでもなくカノンの中には変な形のしこりが残っていた。

とは言え、こんなことをサガに相談することも出来ず、カノンは悩んだ末にシュラとカミュの元へと来たのであった。カミュはミロの親友で自分よりもミロのことをよく知っているし、そのカミュの恋人であるシュラは、カミュとの関係を通していつでも客観的にミロのことを見ている。カノンとしては、打開策を求めるにあたってどうしてもこの2人の存在は外せなかったのだ。まぁ、元来のプライドというか意地っ張りが邪魔をして、門戸を叩くまでに丸一日以上の時間はかかってしまったわけだが……。

「お前、今言ったよな……問題は言った言わないじゃなくて、一緒に行った人間が問題なんだって」

「ああ」

「オレが軽率だ、とも言ったよな?」

「ああ」

「それってどう言うことなんだよ?」

カノンには、つい今し方シュラに言われた言葉の意味がわからなかった。別に隠れて行動を起こしたわけでも、やましいことをしたわけでもない。カノン的にはミロの言い分の方が無茶苦茶だと思うし、無意識のうちにシュラもそれに同意してくれるものと思っていた部分もあったのだが、シュラから返ってきたのはそれに全く反した答えだったのだ。

「わかんない?」

「わかんない!」

勿体付けているのか面白がっているのか、シュラはニヤニヤ笑いながら同じ質問をカノンに繰り返してくる。業を煮やしてカノンが声を荒げると、シュラは更に楽しそうにクックッと喉の奥で笑った。

「ミロの奴、心配だったんじゃねーの?。デスマスクがお前に手ぇ出すんじゃねえかって思ってさ」

「はぁ〜?!」

「お前、性格に難ありだけど美人だからな。デスマスクは美人には手が早いから、ミロも心配だったんだろう」

性格に難ありなんて、お前に言われたかないわ!と思いつつ、カノンは憮然とした。

「何バカ言ってんだ、お前は……。確かにデスマスクは手ぇ早いように見えるけどよ、実際はアフロディーテにぞっこんで、他の人間なんざ目の端にも入ってねーぞ。んなこと、十二宮の人間なら誰でも知ってるし、他ならぬお前が一番よく知ってるこっちゃねーか」

何を言いだすのかと思えば……と、カノンはあからさまな呆れ顔を浮かべた。デスマスクがアフロディーテに惚れ込んでいることは、カノンの言う通り周知の事実。中でも件の2人と同期のシュラが、そのことを誰よりも良く知っているはずなのだ。デスマスクが間違っても自分に手を出そうなどと言う気を起こすわけがない。

「まぁ、それはそうなんだけどな。アフロの奴が、10回に1回くらいしか色好い返事を返さないこともみんな知ってるし、それでデスマスクが悶々としてることもみんな知ってるぞ」

だがシュラは相変わらず楽しげな笑いを浮かべたまま、揚げ足を取るように付け加えた。

「で、その欲求不満の捌け口に、オレを襲うかも知れないってか?。けっ、冗談じゃねーよ、んなことあって堪るかってんだ!。あんっのバカ、そんなろくでもねーこと考えてやがったのか!!」

もしそんなことを考えてミロがあんなに怒ったのだとしたら、先走りも度が過ぎると言うものだ。何の根拠もない想像を元に非難されては堪ったもんじゃない、とカノンが憤然としていると、

「シュラ、もういい加減にしてください」

さすがに見かねたらしいカミュが、つんつんと肘でシュラを突いた。すると、もう我慢できないとばかりにシュラが派手に吹き出し、ケタケタと声を立てて笑い始めたのである。笑い続けるシュラを、カノンはきょとんとした顔で見つめていた。

「悪い悪い、今のはちょっとした冗談だ。まぁ、あながちその可能性がないとも言い切れんが、仮にデスマスクが変な気を起こしたとしても心配いらんだろう。誰の目から見てもデスマスクよりお前の方が強いんだし、ミロがと言うよりサガが後ろについてるお前に迂闊に手を出すバカなんか、この十二宮にはいやしないって」

少ししてようやく笑いを収めたシュラが、目の縁に笑い涙を浮かべながらカノンに言った。からかわれたと知ったカノンの顔にカッと朱が立ち上り、片眉が瞬時に吊り上がった。

「てめぇっ!人をからかいやがったなっ!!」

怒りに任せてカノンは勢いよくソファから立ち上がったが、シュラはカノンの剣幕に慌てた様子も見せず、

「まぁまぁ落ち着けよ。話はこれからだ、これから」

ややのんびりとした口調でカノンを制してから、両手のジェスチャーで座れと促した。からかわれた怒りが収まったわけではなかったが、ここは話の先を聞くほうが得策かと、カノンは仏頂面のまま再びソファに腰を下ろした。

「でもな、別にオレは完璧に的外れなこと言ったわけじゃないぞ。その手の疑いを持った、持たないは別にしても、ミロはお前がデスマスクと2人きりになること自体が嫌なんだよ」

「だからそれが何でだって聞いてんだよ?!。あいつにゃ一応アフロディーテがいるんだし、変な心配なんかいりゃしないんだ。そういう意味ではデスマスクだって、アイオリアと大差ねぇじゃねえか!。なのに何でアイオリアは良くて、デスマスクじゃダメなんだよ!。ちっともわかんねーよ!!」

さっきからカノンが繰り返しているのは、正にその点なのである。デスマスクに想い人ないし恋人らしき人間が居ない、もしくは明らかに自分に気があるような素振りがあると言うのなら、ミロが2人きりにはしたくないと思ったとしてもおかしくはないが、そんな心配など全然いらないのである。だからこそカノンだって気軽にと言うか、何も考えずにデスマスクを誘ったわけで、はっきり言ってこんな事態になってしまうなんて思ってもみず、解せない事だらけなのだ。だから恥を忍んで、こうしてシュラ達に相談に来ているのに話が全然前に進まず、カノンの苛立ちばかりが募る一方であった。どうやらシュラには、それを楽しまれているらしいのだが。

「さっきカミュも言ったけど、あいつにとっちゃ大違いなのさ。お前さ、落ち着いてもう一度よ〜〜〜く考えてみ。ミロとデスマスクの関係を」

「ミロとデスマスクの関係〜〜〜?!」

「そう、常日頃のあいつらの関係」

シュラに言われ、カノンは渋々ながら2人の関係を思い返してみた。当たり前のことだが日頃全く意識してないことなだけにあまり深く考えたこともなかったが、言われて改めて思い返してみると、ミロとデスマスクの2人が仲良く一緒にいる場面など、カノンの記憶巣の中には1つも存在していなかった。

「いつものあいつらって言ったら……デスマスクが、ミロを子供扱いして年中からかって遊んでて、ミロはそれを真に受けて、デスマスクにつっかかってって……」

「そう、それ!。何て言うのかなぁ?、デスマスクとミロって『圧力と反発』の関係って言うのかな?。ちと違う気もするけど、まぁ、あの緊迫感溢れる関係がさ、子供ん時から変わらずず〜〜〜っと続いてて、現在進行形なワケさ」

どこが緊迫感溢れる関係なんだ、とカノンは思ったが、とりあえず思うだけにとどめて口には出さなかった。

「デスマスクの方は完全に面白がってるんだけど、ミロの方としちゃ面白いわけがないよな。今でこそ実力が拮抗してるから取っ組み合いのケンカにゃならないが、子供ん時なんかそりゃすごかったんだぜ。な、カミュ」

シュラがカミュに同意を求めると、カミュは頷いて

「私達の方が3歳も年下ですから、子供の頃の力の差は歴然でした。でもミロは子供の頃から負けず嫌いで向こうっ気が強かったものですから、いっつもからかわれる度にデスマスクに掴みかかっていって……」

「そんで見事に返り撃ち食らって、よくビービー泣いてたわ。で、今度は逆にミロを泣かしたことで、デスマスクがサガやアイオロスに怒られてな。デスマスクも悔しいもんだから、またミロを苛めたりからかったり……」

「その繰り返しだったんです……」

見事なコンビネーションでそこまで言うと、カミュの方がほうっ、と小さく溜息をついた。だがそこまで聞いて、溜息をつきたくなったのはカノンも同じであった。

「てなワケで、ミロにはデスマスクに対する積年の恨みつらみがあってな。デスマスクにゃ、単純ならざる感情を持ってるわけだ」

「……積年の恨みつらみって……そんな下らないことがか?」

カノンは思わずテーブルに肘をついて、ズッシリと重くなった頭を支えた。

「ミロにとっては下らないことじゃないんです。何しろ、現在進行形ですから……」

カミュがそうフォローを入れたが、言うまでもなくそれはフォローにはなっておらず、カノンを更に激しく脱力させた。

「極論すれば、デスマスクはミロにとっては天敵みたいな相手なわけだ。その天敵と大事な恋人が2人きりで映画なんか観に行ったとなりゃ、心中穏やかでいられるわけもないし、ミロの性格なら激発して怒りだすのは当然だろうな」

他人事みたいに(いや、実際他人事なのだが)シュラは言って、また楽しそうに笑った。

「何が当然だ、ふざけんな!。んな下らないことに振り回される、オレの身にもなってみろ!!」

何かもっと単純ならざる深い理由があるのかと思えば、小学生のケンカレベルの確執が原因ではないか。バカバカしくて開いた口が塞がらないとはこのことだ。それに振り回されて、あれこれ悩んだ自分がバカみたいと言うか、それを通り越して情けなさすら覚えるカノンであった。

「何度も言うけど、ミロにとっては下らない理由じゃないんだ、しょうがないだろう。今回に関して言えば、それに気付かず迂闊にデスマスクと出かけちまったお前が軽率だったんだ。もう少しその辺を察してやれよ、お前の方がミロよりずっと年上なんだから」

「んなこと知るかっ!!。何でもかんでも年上年上って言うけどな、オレぁあいつらのガキの頃のことなんざ知らねえんだよ!。いちいちそんなことにまで気ぃ回してられっかっての!!」

「別に子供の頃のことなんか知らなくても、常日頃のあいつら見てりゃ何となく察しはつくだろうが」

「つかねえよっ!」

「それはお前が鈍感なんだ!。誰の目から見たって、んなもん一目瞭然じゃないか」

シュラはカノンの痛いところに直球を叩き込んだ。一瞬、カノンがグッと返す言葉に詰まる。シュラの言う通り誰がどこをどうやって見ても、ミロとデスマスクが仲良しさんには見えるはずもないし、まかり間違っても2人きりにはしておけないコンビであることは確かだ。その辺りを失念していたことは今更ながら認めざるを得ないところではあるが、だからと言って何でもかんでも自分の方にばかり配慮を求められても困るというものだ。

「……100歩譲ってオレの方の配慮が足りなかったとしてもだ、ミロの態度にだって問題あるだろう?。言ってることが子供じみてて自分勝手すぎるうえに、支離滅裂だったんだぞ」

「それも仕方ないだろう。あいつはそう言う性格なんだし、まだ20歳そこそこじゃ子供っぽい部分も残ってて当然さ」

「ふぅ〜ん、同い年のカミュは、随分と落ち着いてるみたいですけどね」

厭味ったらしいと言うよりも半ば八つ当たり気味にそう言って、カノンはチラリとカミュの方へ視線を向けた。

「それは個性の差と言うもんだろうな」

シュラはそれにはとりあわず、さらりと受け流した。

「いずれにせよ、そういう部分をこそ年上のお前の方がフォローしてやらにゃ話にならんだろう。同じレベルでやり合ってたら、お互いいつまで経っても成長できんぞ」

ついでに言うなら、カノンはシュラよりも5歳年上である。だが今この場を見るかぎりでは、まるでシュラの方がカノンよりも年長者のようである。立場的には完全にシュラの方が優位に立っているのだが、幸か不幸かカノン自身そのことには気付いていないようであった。

「何でオレがそこまで譲歩してやらにゃいけねーんだよ……。オレはミロの保護者じゃねえんだぞ」

「譲歩ってんじゃなくてさ、こう、何て言うか掌の上で転がすような感覚って言うの?。相手を上手く乗せて操縦するのも、年上の器量ってもんだと思うぜ。サガとアイオロスを見てみろよ。サガのアイオロス操縦法の上手いこと」

何でここでサガとアイオロスが出てくるんだ、とカノンは思ったが、どう言うわけだかいつも自分達の比較対象にあげられるのがサガとアイオロスなので、面白くないと言う思いがある反面、慣れてもいた。自分とサガが双子である以上、ある程度は致し方ないと諦めてもいるカノンであった。

シュラ達から言わせれば、理由はそれだけではないのだが、別に懇切丁寧に説明してやる程のことでもないので、細かいことには一切言及はしなかった。

「……あれは単に、アイオロスが尻に敷かれてるだけだろう」

言いつつカノンは小さく溜息をつく。

「そうとも言うかも知れないけど、案外そればかりでもないぜ。サガは立てるべきところでは、ちゃんとアイオロスを立ててるからな。その辺り、お前も見習ったらどうだ?」

「……見習えったって……」

カノンがまたまた嫌そうに顔をしかめた。

「直球勝負ばかりが脳じゃないぜ。時には変化球を決め球に使ってみるのも、いいんじゃねえの?」

「どう言う意味だ?、そりゃ?」

「正面から言い合うばかりが全てじゃないって事だよ。たまには側面攻撃を交えてみるのも、効果的かも知れないぜ。ま、後はお前の懐の深さと大きさの見せ所ってことかな。ミロの成長を促すのは、お前次第ってこった」

「……よくわかんねー比喩を使うやつだな、お前は」

「でもオレの言いたいことはわかったろ?」

「まぁ、何となくね」

どっちにしろ貧乏くじを引くのは自分のような気がしないでもないカノンだったか、シュラが言うことも一理あるような気もするので、おとなしく頷いておいた。

「とりあえず今回のデスマスクとの一件は、お前の方が下手に出とけ。ミロは単純だから、それで一件落着だ」

「……別にオレ、悪いことしてねーのに……」

シュラの言っていることはわかるが、やはり釈然としない思いが残ることも事実であった。

「そう言う風に考えるなって。いつでも常に、ミロを自分の掌の上で遊ばせるような気持ちで、大きく構えてりゃいいんだ」

「う、うん……」

何となく上手く丸め込まれたような感が否めず、カノンは何とも浮かない顔ではっきりしない返事を返した。

「すみません、カノン……ミロが色々と迷惑をかけまして……」

シュラよりもカノンの苦労が身に染みてわかるカミュが、神妙な面持ちでカノンに頭を下げた。シュラの言っていることは正しいのだが、カミュ個人の感情レベルではどちらかと言えばカノンの気持ちの方が理解できると言うのが本音ではあった。どう考えてもミロの言い分の方が、子供っぽい我儘である。ただそれに至るまでの経緯を嫌というほど知り尽くしているだけに、カミュとしてもミロを強く責めることも出来ないのだが(かと言ってデスマスクを責めるのはそれこそ御門違いというものだし)、それだけにカノンに対して申し訳ないと言う気持ちが強くなってしまうのだった。

「いや、別にお前に謝られる筋合いのもんでもないんだけど……よ……」

いきなりカミュに頭を下げられ、カノンは鼻白んだ。シュラはそんな2人の奇妙な様子を見て、苦笑しつつ肩を竦める。

「ま、健闘を祈るぜ、カノン。何かあったらまたいつでも相談に乗ってやるから、遠慮なく来い」

シュラは偉そうにそう言って、ひとまず話を締め括った。

「はいはい、それはどーもありがとさんです」

感謝の意の欠片も見せずにカノンは応じたが、シュラもカノンの口から殊勝な言葉など期待していなかったので、別段気にもせずに軽く聞き流したのだった。

「じゃ、オレ帰るわ。いきなり邪魔して悪かったな」

一応用事も済んだので、カノンは2人に軽く礼を言って、磨羯宮を辞そうとソファから立ち上がった。

「あ、カノン、せっかく来たんですから一緒に食事をしていってください。すぐに支度をしますから……」

だが帰ろうとしたカノンをカミュが呼び止め、一緒に食事をしていくように勧めた。

「おう、食ってけ食ってけ。今日は久しぶりにカミュにキッシュを焼いてもらうんだ。カミュのキッシュは美味いぞ」

さり気なく恋人の料理上手を自慢して、シュラもカノンに一緒に食事をしていくよう促した。断る理由もなかったので、カノンは遠慮なくその言葉に甘えることにして、一度浮かした腰を再びソファに下ろした。それと入れ違いに、カミュがソファから立ち上がり、テーブルの上のコーヒーカップを手早く片付け始めた。

「あ、カミュ!」

キッチンへと向かいかけたカミュを、カノンが呼び止める。

「はい?」

「いや、キッシュってさぁ……ほうれん草入ってるやつ?」

「え、ええ……そうですけど?」

カノンの問いに、カミュが怪訝そうに頷く。キッシュと言えば最もスタンダードなのは、ほうれん草とベーコンが入っているものである。

「あのさ、オレ、ほうれん草ちょ〜っと苦手なんだけど……」

バツが悪そうにそう言って、カノンは頭を掻いた。カミュは少し驚いたように目を瞠ってカノンを見返したが、すぐに表情を和らげて

「……ミロと一緒ですね……」

呟くようにそう言って、くすっと笑いを溢した。

「いい年して好き嫌いかよ。ったく仕方ねーなぁ」

しかもほうれん草が嫌いだなんて子供みたいなことを言うカノンに、シュラは呆れたように言ったが、その顔は笑っていた。

「るせーな……昔からほうれん草は苦手なんだよ」

ますますバツの悪い思いをしながら、カノンは口を尖らせた。誰が何と言おうが、嫌いなものは嫌いなのである。

「しょうがないな、カミュ、アレも作ってやれよ」

カミュの方に顔を向けてシュラが言うと、カミュはすぐに頷いてキッチンへと姿を消した。

「おい、シュラ……」

「何だ?」

「アレって何だよ?」

不思議そうな顔で、カノンはシュラに今の会話になっていない会話の内容を聞いた。

「ああ、サーモンのキッシュのことだ。こないだ良質のノルウェーサーモンもらってな。お前、サーモンは大丈夫だろう?」

「いや、サーモンは好きだけど……アレで通じてるわけ?」

カノンにとっては固有名詞を何一つ出していないのに、無事に話が通じているのかどうか甚だ疑問であったのだが、

「ああ、大丈夫だ。カミュだって、何も聞き返してこなかったろう。あれくらいはわかるのさ」

まるで当たり前のようにそう言ってのけて、シュラはどこか得意げな笑顔を浮かべた。そんなシュラの顔をカノンはマジマジと見ながら、

「何かお前等……熟年夫婦みてーだなぁ……」

褒めてるんだかけなしてるんだかわからないようなことを言って、感嘆混じりの溜息をついた。

「オレ達くらいの付き合いだったら、別に当たり前さ。ま、お前等はまだ付き合いが短いから、不思議に思うのも無理ないけどな。一日も早くオレ達みたいなツーカーの仲になれるよう、頑張れよ」

惚気ながらエールを送って、シュラはカノンに向かって片目を瞑って見せた。

「もう少ししたらミロも呼びましょう。仲直りはまず胃袋から……と言いますからね、カノン」

カノンが呆気にとられてシュラを見ていると、カミュがキッチンからひょこっと顔を出して言った。そんなこと誰が言ったんだと思いながら、奇妙な逆らいがたさを感じて、カノンはおとなしく頷いた。


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