A JACK IN THE BOX
シュラ達が約束の時間から5分ほど遅れて城戸邸に行くと、そこでは氷河と瞬の二人が揃って出迎えてくれた。

「突然無理な頼みをして悪かったな、氷河」

「いいえ、これくらいはお易い御用です。気にしないでください、シュラ」

開口一番シュラは氷河に謝ったが、氷河にとっては崇拝しまくっている師からの依頼である。迷惑になど思うはずもない。
だがそれはそれとして、二人はシャカの姿を認めると、途端に素直な驚きを露にした。

「あなたとミロが来るとはカミュから聞いてましたが、シャカも一緒だとは思いませんでした」

目をぱちくりと瞬かせながら、氷河と瞬は同時にシャカを仰ぎ見た。
後輩である氷河達青銅聖闘士は、黄金聖闘士達のようにシャカを『変人』だとは思っていないが、黄金聖闘士の中でも一際異彩な雰囲気を放っている人だということはわかっていた。
聖域はおろか十二宮、いや、処女宮から出る事すらない人だと、無意識にだが信じて疑っていなかった部分があり、氷河達にしてみればそのシャカがシュラ達に同行して日本に来るなど、予想だにしていなかった出来事なのである。
しかもこんな風に普通の格好をしているシャカは、まるで自分達が知っているシャカとは別人のようにも感じられた。

「ああ、ちょっと事情が変わったと言うか、成り行きでな……」

ははは……と力なく笑って、シュラは曖昧に言葉を濁した。

「へぇ〜、そうなんですか。でもシャカが普通の格好してるの初めて見ました。新鮮ですね」

「そりゃそうだろう、オレ達だって、いや本人だって初めてなんだから。な、シャカ」

軽く振り返ってシャカに同意を求めると、シャカは黙って頷き、

「着慣れていないせいもあるだろうが、どうも落ち着かなくて仕方ないのだよ」

この男でも相手が後輩という事を一応は考慮しているのか、いつもの高飛車な物言いとは打って変わった穏やかな口調で答えた。

「でもシャカは綺麗だから、何を着ても似合いますよ」

ストレートにそう褒め讃えたのは、瞬であった。

「そうか?」

「ええ」

瞬が即答すると、シャカがほんの微かに口元を綻ばせた。
シュラもミロももちろんそれを見逃してはいなかったが、シャカのこんな表情を見たのは初めてで、氷河達とは別の意味で驚きを覚えていた。
シャカって案外、褒め言葉に弱いタイプなのかも……と、この時二人は心の中で同時に思った。

「ところで氷河、頼んでた物は?」

「もうそろそろ出来上がる頃だと思います。お店の方に行きましょう」

「……ここにあるのではないのか?」

不思議そうにシャカが聞き返すと、氷河は小さく首を左右に振り、

「この屋敷の専属のシェフに作ってもらってもよかったんですけど、どうせなら専門のパティシエの方がいいと思って、外に頼みました。財団系列の会社が経営してる人気のお店があるんで、そこに」

「すごく美味しいんですよ。沙織さんも大好きで、よくそこからケーキ買ってるんです」

氷河の後を引き取るようにして、瞬が付け加えた。
13〜14歳の小僧とは思えないこの二人のなかなかの気遣いっぷりに、シュラとミロはちょっと感服した。
元々美味いと評判の日本の菓子である。どれほど美味しいケーキが出来ているものやらと、自然二人の胸が期待に弾んだ。

『シュラ、パティ……シエとは何だね?』

その時、シュラの脳内に直接声が響いた。
もちろんそれは、シャカの声である。
さすがに声に出して聞くのは恥ずかしかったのか、シャカは小宇宙で直接シュラの脳内に問いかけて来たのだった。

『パティシエってのは、菓子職人のことだ』

相手がシャカなので、パティシエと言われてわからなくとも不思議はない。
シュラは驚きもせず、簡潔にそう答えて小宇宙通信はあっという間に終了した。
氷河と瞬には聞こえていなかったが、ミロにはその小宇宙通信が聞こえていて、思わず吹き出してしまいそうになるのを堪えるのに少なからずの苦労を要していた。

「突然の頼みだったのに、色々気を使ってもらって悪いな」

「いいえ、ホントに気にしないでください。それじゃ行きましょうか、あっちに車が待ってますんで」

テレポートすればいいではないか、とシャカが言い出すのではないかとシュラとミロはハラハラしたが、さっきシュラに怒られたのが効いているのか、はたまた後輩達の手前ということで少なからず取り繕っているのか、シャカは何も言わずにおとなしく車に乗り込んだ。

因みにシャカが車という乗り物に乗ったのも、今日が初めてのことであった。



目的のパティスリーには、車で20分ほどで到着した。
カフェが併設されているというその店は、確かに氷河が言った通り、人気店であることは一目瞭然だった。
もう夜の九時になろうかという時間だというのに、店の外にまで行列ができていたからである。
日本人は並ぶのが好き――と聞いた事はあったが、実際にそれを目の当たりにしてシュラとミロは感心と呆れが半々になったような、非常に微妙な微苦笑を誘われた。
これも国民性というやつなのかも知れないが、ギリシャやスペインはもちろん、日本以外の国ではまず滅多にお目にかかれない光景である事だけは確かだった。

「こっちです」

呆気にとられてその行列を眺めているシュラとミロを、氷河が手招きした。
氷河と瞬はきらびやかな容姿をした三人の外人を引き連れ(傍目に見れば氷河も外人に見えていたが)、行列を尻目に正面から堂々と店に入った。
ショーケース越しに氷河が名前を告げると、応対した店員は心得顔で「お待ちしてました」と丁寧に頭を下げてから一度店舗の奥へ姿を消し、約一分後に巨大な箱一つと大きな箱を二つそれぞれ抱えた店員を引き連れて戻って来た。

「こちらがご注文の品でございます」

わ、すごい……という感嘆の声が、行列の中から上がった。

「いつも突然無理を言ってすみません」

「いいえ」

瞬が店員に向かって頭を下げると、店員はすっかり慣れきった様子で笑って応じていた。
それを見てシュラとミロは、そうか、いつも女神が突然無理な注文をしたりしてるんだなと納得した。

「氷河、なんで箱が3つもあるんだ?」

一番大きいのが多分バースデーケーキであろうことは間違いなさそうだが、あとの2つの大きな箱は一体……?。
訝しげにシュラが英語で氷河に聞くと、氷河も英語で、

「カミュに頼まれたんですよ。人数多いから、バースデーケーキの他にカットケーキも一緒に頼むって」

「あ、そういうことか」

さすがにオレの恋人はよく気が利くなと、シュラは内心でだらしなく頬を緩めた。

「全部でおいくらになりますか?」

再び店員に向き直って氷河が聞くと、店員は一瞬不思議そうな表情を閃かせて、

「代金の方は、いつも通り本社の方へ売掛で……」

やや声のトーンを落として、困惑気味にそう言った。
城戸家からの注文はいつも売掛で処理することになっているので、今まで改まって値段なと聞かれた事がなかったからである。
だが氷河が答えるより先に、横から割って入るような形でシュラが口を開いた。

「すみません、今回はイレギュラーですので、今ここで現金でお支払いさせていただきたいんですけどよろしいですか?」

見るからに外人のシュラに突然流暢な日本語で話しかけられ、店員は驚きを隠す事が出来ず、思いっきり目を見開いてシュラを凝視してしまった。
5秒ほどポカーンとシュラを見上げた後、店員は我に返って慌てて表情を営業用に作り直し、

「はい、私どもの方は構いませんが……」

そう答えながら、確認を求めるようにして氷河の方へ視線を転じた。
氷河が店員に向かってお願いしますと頭を下げると、店員は速やかに「かしこまりました」と応じた。

「ほら、シャカ。お前が払うんだろ?」

段取りを整えてから、シュラはシャカの方へ向き直って支払いを促した。ったく、オレって奴はどこまで人がいいんだと思いながら。
シュラに促されたシャカは意気揚々とポケットから財布を取り出し、そして同じく流暢な日本語で店員に問いかけた。

「何ユーロですか?」

「は?」

次の瞬間、シャカ以外の人間がその場に固まった。

「ユーロって……あっ!」

思わず声を上げたのはミロだったが、ほぼ同時にシュラもそのことに気付いたらしい。
その顔は青ざめ、満面に『しまった!』と書き殴ってある。

「あの、シュラ……」

遠慮がちに声をかけて来たのは、氷河だった。

「悪い、氷河……不測の事態でいきなり日本に来る事になったもんだから、オレ達全員、金を日本円に両替して来てないんだ」

シュラは非常に決まりが悪そうに、早口の英語で氷河に事情を説明した。
これは不覚としか言いようがないが、シュラもミロも日本円に換金する事を忘れていた――というよりも、頭の隅にもなかったのである。

「それじゃオレ達が立て替えましょうか? さもなくばいつも通りにしてもらって……」

「いや、さすがにそういうわけにはいかん」

シュラはソッコーで首を左右に降ると、ニヒルな笑顔を作り直し、店員に向き直った。

「あの度々すみません……こちらはカード使えますか?」

「は、はい、お使いいただけますが」

「それじゃすみませんけど、支払いは現金じゃなくカードで……」

シュラはシャカを隠すようにしてその前に進み出ると、急いで財布から自分のカードを取り出した。
ここまでの展開にまったくついていけていないシャカだったが、自分が支払う気満々だった代金を何故か今になってシュラが横取り(←シャカ視点)しようとしていることにはすぐに気付き、慌てて後ろからシュラの肩を掴んだ。

「何故邪魔をするのだ?! シュラ!」

「邪魔じゃねーよ!」

シュラは咄嗟にギリシャ語でシャカを叱責した。

「邪魔であろう! 代金は私が払うと言っているではないか!」

「だからお前の持ってる金じゃ払えねーんだよっ!」

更に吐き捨てるようにシュラが言うと、シャカはきょとんと美しい碧眼を丸めた。
こいつは絶対に状況をわかってないと思っていたが、案の定だった。
シュラは溜息をついた後、今時小学生でも知っているであろうことをシャカに説明した。

「あのなシャカ、ギリシャと日本の通貨は同じじゃないの! 日本はユーロじゃなくて円なの¥!」

「エン?」

「そうだ。だからユーロは使えないんだよ」

シュラがちょいちょいとシャカの持っている財布を指差すと、シャカはつられるようにしてその指が指し示す場所へ視線を落とした。

「とにかくここはオレが代わりに払っておくから、お前、後でオレに金払え」

「それでは私が来た意味がないではないか!」

「四の五の言うな! それしか方法がないんだから仕方がないだろう」

シュラはシャカを一喝したが、無論、それですんなり納得するようなシャカではない。
ユーロしか持っていないくせに自分が払うと断固として譲らず、通貨が違うんだから払えない、日本円に換えなきゃダメ、でももう日本の銀行は閉まってるから無理なんだとシュラに三回も説明させた挙げ句、それならばテレポートでギリシャに戻って金を変えてくるとまで言い出す始末で、シュラを心底困らせた。
シャカには『カードで物を買う』という概念そのものがない。だから現金で支払わなければ、自分が買った事にならないと思い込んでいるのである。
その思い込みを今この場で根底から正すのは、限りなく不可能に近い事だった。

「あのさぁシャカ、とりあえずこの場だけの話なんだから、シュラの言う通りにしようぜ、な?」

とミロも取りなそうとしたのだが、シュラの言うことすら聞かないシャカがミロの言うことなど素直に聞くわけもなかった。
この電波、マジでこの場で切り刻んでやろうかとシュラが本気の本気で思い始めた時、

「あの……」

ギリシャ語のトラッシュトークの合間を縫って、瞬が恐る恐るその会話の中に入って来た。

「よかったら僕達が、シャカのお金を日本円に両替しましょうか?」

瞬も氷河も英語は堪能だが、ギリシャ語はあまりよくわからない。
だからギリシャ語で会話するなど論外だが、聖域に出入りしているうちに日常会話を『何となく』というレベルで理解する事くらいは出来るようになっていた。
細かいニュアンスまで正確にはわからなくとも、シャカが現金で払うと言って譲らないこと、だが持っているユーロを日本円に両替する術がないことで揉めているらしいことだけはわかった。
瞬のその申し出に、年長者3人はピタリと言い合いをやめ、一斉に視線を瞬に向けた。

「僕達が立て替えておいてもいいけど、それじゃダメなんでしょう? シャカ」

瞬の確認を含んだ問いに、シャカは無言でこくりと頷いた。

「だったら僕達が両替するのが一番いい解決法でしょう。そのお金を明日僕達が日本円に替えればいいだけだし。それならいいでしょう? シャカ」

再びシャカがこくりと頷いた。

「だがな、そこまでお前達に迷惑をかけるわけには……」

確かに瞬のいう通りそれが最も手っ取り早い方法である事に違いはないが、ここまでさんざん世話をかけて迷惑をかけて、先輩としての威厳が損なわれているというのに、この上こんなことでまで世話になっては、先輩として黄金聖闘士として面目丸潰れというものである。
――目の前で喧々囂々の言い合いをしていた時点で、面目もくそもないのだが。

「いいえ、別に迷惑でも何でもないですよ。明日になれば電話一本で済むことですから気にしないでください」

「……すまん」

もうシュラは、瞬と氷河に頭を下げる事しか出来なかった。
恥ずかしさと情けなさで穴があったら入りたい気分だったが、とはいえ瞬の申し出を固辞する気力はもうシュラには残っていなかったのだ。
そしてミロもシュラに倣うようにして、後輩二人に向かって手を合わせた。その唇が日本語で「ごめんな」と動いていた。
どこ吹く風でしれっとしているのは、諸悪の根源シャカだけである。
世間知らずってのは幸せなものだと、そんなシャカを横目で睨みつつ、皮肉混じりに羨まずにはおれないシュラとミロだった。

「氷河、ごめん、今日のレート調べてくれる?」

瞬の頼みに頷いて氷河はすぐに携帯で今現在のレートを調べ、それから一分ほどで無事に両替は完了した。
英語の会話も当然ギリシャ語の会話も分かっていなかった店員達は、口ポカン状態で呆然と成り行きを見つめる事しかできなかったが、わけのわからない大騒ぎの後に何とか無事に支払いを済ませてもらい、やっとケーキを引き渡す事が出来たのだった。

すったもんだの末にようやく本願を達成したシャカはご満悦であったが、反してシュラとミロはこれ以上ないほどに疲れ果てていた。
ミロはまだ恋人の為と思えば我慢も出来ようというものだったが、シュラはいい迷惑では済まされない。今回の最大の被害者は、間違いなくシュラであっただろう。
機嫌良くバースデーケーキの箱を抱えているシャカの後ろ姿に恨めしげな視線を送りつつ、『こいつだけは二度と連れて歩かない!』と、シュラとミロは共に決意を新たにしたのだった。

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