春の暖かな陽射しが西に傾き始めた夕刻時。

年齢にそぐわぬきっちりとしたスーツで身を固めた1人の少年が、ゆっくりと十二宮の最初の宮・白羊宮へと続く階段を昇っていた。何度か遠目に眺めたことのあるこの場所に、足を踏み入れるのはもちろん初めてであった。本来、この地は古の頃より女神の結界に守られ、一般人であれば近辺に寄ることすら出来ぬ場所であるが、見るからに良家の子息と言った風貌の彼は、俗世間で言うところの一般人ではなかった。

海皇・ポセイドンに仕えし海闘士の、最強と謳われた七海将軍の1人、海魔女(セイレーン)のソレント。それが彼の名であり、正体であった。

海皇・ポセイドンは、先の女神との聖戦により、再びその魂は女神の壷に封印され、海底神殿においてこれより先数百年にも及ぶであろう静かな眠りについている。

女神が冥王・ハーデスとの聖戦を終えた時、先に戦った海闘士達も女神の加護を受け現世に蘇り、海底神殿もその姿を復活させた。そしてそれと同時に海界は、冥界同様、地上の女神と改めて休戦を約し、海闘士達は今は主の魂が眠るこの神殿だけを守ってひっそりと生活している。その海闘士の1人であるソレントは現在、海皇復活時にその魂の依代となっていたジュリアン・ソロと一緒に、先の聖戦で水害を受けた地の慰問に回るとともに、海底神殿に定期的に戻ると言う生活を送っている。戦いは終わったとはいえ、海界には海界の、守るべきものやるべきことは残っている。それを行うのは、海将軍たる運命の元に生まれてきた自分たちの、言わば義務であった。

必要以上に干渉しあわないと言う暗黙の了解の元、復活以後は一定の距離を置き、それぞれの立場を守ってきたソレントが今日ここを訪れたのは、無論、拠ん所のない事情があったからだが、多分にそれは建前であった。もちろん本人はこの時点ではその建前の部分以外を自覚してはいなかったが、実のところその建前以上に彼の背を強く押していたのは、彼の裡にある複雑な私情の部分だった。

ゆっくりとした一定のペースを変えずに階段を上り進んでいくと、やがて第一の宮・白羊宮がソレントの眼前にその姿を現した。そしてその入口には1人の青年が立っており、静かな強さを宿らせたその瞳でソレントを見下ろしていた。

程なくしてその青年の目の前に立ったソレントは、恐らくは生来のものであろう柔らかで優雅な動作で一礼をした。

「アリエスのムウ様でいらっしゃいますね。私は海皇・ポセイドン様にお仕えする海闘士七海将軍の1人、セイレーンのソレントと申します。突然の訪問の失礼をお許しください」

面識もなく、黄金聖衣を纏ってすらいなかったムウを、ソレントは正確に見極めていた。十二宮の各宮の守護人の名は承知していたし、何より裡に秘めたる強大な小宇宙は常人のものではなく、それらを合わせ考えれば自ずと出てくる答えは1つである。

ムウは一瞬の間を置いた後、無言で頷きを返し

「海将軍のあなたが、この十二宮に何用があっていらしたのですか?」

そうしてからやはり物静かな口調で、ソレントに問い返した。最も、休戦中の海界の戦士たる海闘士の、しかも海将軍の称号を有する人間が、この十二宮を訪ねてくる理由など、今は1つしかないと言っても過言ではないのだが。

「シードラゴン……いえ、ジェミニのカノンに所用があってまいりました。どうかお取り次ぎいただきたく、お願いいたします」

やはり……と、ムウは内心で呟きを漏らした。ポセイドンの依代となっていたジュリアン・ソロが当主を務める海商王・ソロ家と、女神である城戸沙織が当主であるグラード財団は、いわゆる人界ではビジネス・パートナーとしての間柄で、当然今でも公私に渡り交流はあるが、それはあくまでグラード財団とソロ家、城戸沙織とジュリアン・ソロと言う関係であり、女神と海皇という関係は消滅している。ソレントが今現在もジュリアンの側近として仕え、秘書のような役割もこなしているということはムウも知っていたが、とは言え、ビジネス絡みでソレントがこの十二宮を訪ねてくるはずがなく、目的はかつて海将軍筆頭であったカノンに会うこと、それ以外にはありえないのだ。

「警戒なさるのも無理はございませんが、私はカノンと事を構えようとしてここに参ったわけではございません。その旨、誤解のないよういただければと存じます」

ムウは完全に表情を消していたが、自分の存在が少なからずムウの警戒心を呼び起こすであろう事は、ソレントも予想していたことであった。どの程度まで詳しい事情を知っているかはわからないが、少なくともカノンと自分達との間に確執があることくらいは、周知の事実のはずである。となれば、どういう反応をされるかなど、火を見るより明らかだった。

「ご存知のことと思いますが、カノンは経緯はどうあれ、私共海闘士の筆頭でございました。彼にしかわからぬ海底神殿の事情もございますゆえ、今神殿を守護している者に頼まれて私がその話をしに参っただけでございます。お信じいただければ幸いです」

必要以上に警戒心を煽らないよう、ソレントは穏便且つ丁寧に言って、もう一度ムウに頭を下げた。

「貴鬼」

ムウは少しの間黙ってソレントを見つめていたが、その視線をソレントに向けたまま、さほど大きくない声をソレント以外の誰かに向けた。

程なくして、白羊宮の中から1人の少年が姿を現した。その少年は、ソレントにとっても知己の相手であった。

「はい、ムウ様……あ、お兄ちゃん!」

ムウの正面に立っているソレントを見て、貴鬼は嬉しそうに声を上げた。先の聖戦時、貴鬼はこのソレントに、傷ついた身を助けてもらっていたのである。

「やぁ、久しぶりだね、坊や。そう言えば名前を聞いていなかったけど、貴鬼って言うんだ……」

ソレントが貴鬼に向かって、柔らかく微笑む。その笑顔が本物であることを瞬時に見て取ったムウも、ほんの僅かにだけ口元を綻ばせた。

「でもお兄ちゃんがどうしてここに?」

素朴な疑問をぶつけながら、貴鬼は自分の師とソレントとを交互に見遣った。

「カノンを訪ねて来たそうだ。貴鬼、双児宮へ行って、カノンを呼んできなさい」

「カノンを?!」

ムウがそう言いつけると、貴鬼は驚いたように目を瞠り、直前までとは打って変って緊張したように顔を強張らせた。無理もない、貴鬼はカノンとソレントとの確執を目の当たりにしている、言わば当事者の1人である。貴鬼はまだ子供とは言え、いずれは牡羊座の座を受け継ぐであろう黄金聖闘士の卵。その観察眼も状況判断能力も、並外れたものを有している。ソレントの人柄をある程度わかっている貴鬼でも、やはり警戒心を抱かずにはいられなかったのだ。貴鬼は不安そうにムウを見上げた。

「……早く行ってきなさい。いつまでも彼をここで待たせていては、失礼だからね」

貴鬼の不安はもちろんわかっていたが、ムウは敢えてそれには触れず、静かな口調で貴鬼を促した。

「は……はい……」

尊敬する師であるムウの言いつけは絶対である。貴鬼は言葉を詰まらせながら頷くと、身を翻して駆け出し、双児宮へ向かって行った。

「5分もすれば降りてくるでしょう。こんなところですみませんが、もう少し待っていてください」

貴鬼の後ろ姿が白羊宮を抜けるのを見届けてから、ムウはソレントの方を振り返った。

「ご理解いただき、感謝します」

ソレントはムウが自分を信じてくれたことに、礼を言った。

「あなたが海底神殿で傷ついたあの子を助けてくれたそうですね。話はあの子から聞いています。いつか機会があれば、あなたにお礼を言いたいと思っていました、ありがとう」

一転してムウは優しい表情を作ると、今度はソレントに向かって頭を下げた。正直なところ、無条件でソレントの言葉を信じていたわけではなかったが、それとこれとは話は別だった。自分の弟子がソレントに助けられたのは紛れもない事実。それに対しては、ムウは素直にソレントに感謝していた。

「恐縮です」

ソレントはそう一言だけ、短く答えた。そしてその短いやり取りの後、2人の間には再び沈黙が流れた。

「……来たようですね……」

それからしばらくして、ムウが後ろを振り返りもせずにポツリと呟くように言った。先刻ムウが言ったように、5分ほどの時が経過した後のことだった。ソレントがムウの肩越しに、白羊宮の中へ視線を移す。薄暗くてまだはっきりはわからなかったが、貴鬼が1人の青年の手を引いているのははっきりとわかった。そして、そのシルエットは紛れもなく……。

「……シードラゴン……」

ソレントは独り言のように、ぽつりと海闘士時代のカノンの称号を呼んだ。ごくごく自然に……と言うよりは、むしろ無意識に近かったかも知れない。その声に今までとは微妙に違う響きを感じ取って、ムウはごく微かに表情を動かした。

間もなく、その影がはっきりとした姿をソレントの前に現した。ソレントの目が、一瞬、驚いたように見開かれた。

「お久しぶりです、……カノン……」

だがソレントはすぐにその表情を消して、今度はやや強張ったような声でカノンに向かって声をかけた。

「この人はカノンではありませんよ、ソレント」

ムウは振り向きもせず、だが静かながらもきっぱりとソレントに向かってそう言った。

「えっ?!」

ソレントが戸惑いを顕にした声を上げた。そしてもう一度、貴鬼が連れてきた青年の顔を凝視する。カノンじゃない?……ムウの言葉の意味がすぐにはわからなかったソレントだが、直後、1つのことを思い出した。

「……ではあなたがカノンの双子のお兄さん……サガ、ですね?」

ソレントのそれは、問いというより確認であった。そう、貴鬼が連れてきたのは、カノンではなくサガだったのだ。サガは無言のままで静かに頷いた。

「なるほど、どうりで……」

そう呟いて、ソレントは苦笑した。

「何がどうりで……なんです?」

ムウが聞き返すと、ソレントは今度はくすっと笑って

「いえ、随分と優しい表情をしていたものですから、少しビックリして……。私が知っている頃のシードラゴ……カノンは、もっと冷たくて鋭い雰囲気の人でしたから。でもお兄さんであったのなら、なるほど、雰囲気が違っていて当然ですね」

そうしてから今までとは微妙に違う視線を、サガに向けた。そんなソレントに向かって、サガは小さな笑顔を返した。

「そうですか……ならばカノンに会ったら、もっとびっくりするでしょうね……」

サガではなく、ムウが独語めいた小声を漏らした。その意味がわからず、ソレントはえっ?と声を上げてムウを見たが、ムウはそれ以上は何も言わずに、口元に微笑だけをたたえていた。

「カノン……には会わせてはいただけないのでしょうか?」

ソレントもムウに対してそれ以上は何も聞かず、改めて視線をサガに戻すと、些か落胆したような面持ちでサガに尋ねた。カノンに面会を求めたにも関わらず、兄であるサガだけが姿を現したということは、即ちそう言うことなのだろうと思わざるを得なかったのだが、ソレントのその言葉にすぐに首を振ったのは、サガではなく貴鬼であった。

「違うんだよ、お兄ちゃん!。カノンに会わせたくないんじゃなくて、カノンが居なかっただけなんだよ!」

「えっ?」

ソレントは一旦貴鬼を見遣ってから、もう一度サガを見ると、サガが小さく、だがはっきりと頷いた。

「ソレント……だったね。せっかく訪ねてきてくれたのにすまないが、カノンはちょっと出かけていてね。もうすぐ帰ってくるとは思うんだが……」

サガがようやく口を開くと、ソレントは再びびっくりしたように目を瞠ってから、複雑な表情を作り

「当たり前のことを言って恐縮ですが、声もカノンと全く同じなのですね。でも喋り方が随分と違っておられるので、変な感じがします」

そう言って苦笑にも似た笑いを溢した。十二宮に住まう聖闘士達は既にもう慣れきってしまっていることだが、サガとは初対面のソレントにとっては新鮮な驚きだったのかも知れない。そう思うと微笑ましいような気がしないでもなかったが、面と向かってそんなことを言われたサガの方はさすがに表情と返す言葉の選択に困り、曖昧な笑顔を返すことしか出来なかった。

「君さえよければ、双児宮でカノンの帰りを待っていてもらっても構わないのだが……」

「よろしいのですか?」

どうやらサガの申し出は、ソレントの虚を突いたらしかった。ソレントが意外そうに聞き返すと、サガは頷いて

「ああ。ただ君も知っているかも知れないが、あれは一度出ていくと鉄砲玉なところがあってね……。友人が一緒だし、もうすぐ帰ってくるとは思うんだが、或いは待ち惚けを食うかも知れない。それでも構わないかい?」

冗談と本気とが綯い交ぜになったような口調で言って、サガはくすっと笑った。

「友人……」

半ば呆然と呟いて、ソレントは目を大きく見開いた。そのソレントの様子に、サガが再び苦笑する。ソレントが知っているカノンがどんな人間だったのか、ソレント以上によく知っているのは他でもないサガだ。ソレントの驚きは至極最もと言えるが、そのリアクションがあまりにはっきりしているので、ついぞ笑いも溢れようと言うものであった。

「もし何だったら、後日改めてカノンから君に連絡させるが……」

ソレントが何も答えないのでサガが言葉の先を継ぐと、ソレントはハッとして、

「あ、いえ……ご迷惑でなければ、待たせていただきます」

そう答えてやや引きつり気味の笑顔を作った。

「それならば白羊宮で待たれてはいかがですか?、サガ」

しばらく黙ったままだったムウが、サガに向かって口を開いた。

「いいのか?」

「ええ、貴方達が構わなければ、私の方は一向に」

ムウが微笑しながら頷く。

「そうさせてもらえると助かるが……君もそれでいいかい?、ソレント」

「ええ、私はどちらでも構いません」

ソレントとしてはカノンにさえ会わせてもらえれば、それでいいのである。場所はどこでも構わなかった。

「それじゃ、お言葉に甘えてお邪魔させてもら……」

そこまで言った途端、サガは不自然に言葉を切ると、不意に視線をソレントの遥か後方の方へ移した。ほぼ同時に、ムウの視線もサガと同じ方向へ向けられる。

「?」

ソレントが不審げにサガの顔を見ると、下にいた貴鬼が身を乗り出すようにして2人の視線の先を見て、あっ!と声を上げた。

「噂をすれば何とやら……ですね」

ムウが視線をサガへ転ずると、サガは微かに頷いてから

「帰ってきたようだよ、ソレント」

視線を動かさないことでその方向を指し示して、サガはソレントに言った。ソレントがゆっくりと、振り返る。

「?!」

向けた視線の数十メートル先に、紛れもないカノンの姿とそして知らない青年を認めたソレントは、今までになかったほど大きくその目を見開き、息を飲んだ。一緒にいる青年は、たった今サガが言っていたカノンの『友人』であろうが、何よりソレントを驚かせたのは、カノンの表情だった。まだソレント達の位置からは少し距離があり、常人であらばその表情までもは見えない距離であったが、海闘士たるソレントにはそれがはっきり見えていた。ソレントは我が目を疑うような気持ちで、カノンの姿を凝視した。

そこには、ソレントの全く知らないカノンが居た。横を並んで歩く青年と楽しそうに話をしながら、弾けるような笑顔をその青年に向け、声を立てて笑っている。

「シー……ドラゴン?。あの人が……?」

無意識のうちに、ソレントは呟いていた。カノンのあんな笑顔は、海闘士時代、常に近くにいたソレントですら1度も見たことのないものであった。驚いたというより信じられない思いに、ソレントは胸を締めつけられた。

あの青年は誰だろう……?。カノンと一緒にいるということは、恐らくは黄金聖闘士の1人であろうが……年の頃は恐らくはカノンよりも自分に近いであろうその青年も、楽しげにカノンと話ながら笑顔を溢している。見つめるソレントの瞳に、一瞬だけ雷のような鋭い光が走った。

だがソレントはすぐに表情を作り直すと、再びサガ達の方へ向き直った。

「さっき貴方が、カノンに会ったらもっとびっくりする、と言っていた意味がようやくわかりました。確かに、随分と彼は変わったようですね……」

ソレントは先刻までと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて、ムウに言った。

「ところで、カノンと一緒にいる方は?」

ソレントはごくごく自然な口調と素振りで、今度はサガに尋ねた。

「ああ、彼は蠍座の黄金聖闘士で、スコーピオンのミロだよ」

スコーピオンのミロ……もちろんソレントも、その名前は記憶していた。確か8番目の宮である、天蠍宮を守護する聖闘士だ。

「とてもカノンと親しげな様子ですが……」

言いながらソレントは、チラリと自分の背後の方へ視線を流す。

「どういうわけだが、妙に気が合っているらしくてね」

簡単に答えて、サガはくすっと笑った。もちろん理由はそんな単純なものだけではないし、実のところ2人はただの友人同士と言う関係ではないのだが、わざわざそんなことまでをソレントに言う必要もないだろうとサガは思い、軽く応じて済ませたのだった。

「そうですか……」

ソレントもそれ以上は何も聞かなかったが、この時点で薄々、2人の関係がただの友人同士でないことの見当はついていたのだった。表面上、何食わぬ顔をしていたものの、自分の裡に単純ならざる感情が渦を巻き始めたことを、この時ソレントは漠然と自覚していた。





「あれ?、白羊宮の前に誰か居るぞ?」

そのことに最初に気づいたのは、ミロの方だった。

「えっ?」

「ムウとサガと……あともう1人……誰だ?、あれ」

ミロの言葉につられるようにして視線をそちらへ向けたカノンは、そのもう1人の人間の後ろ姿を見てピタッと足を止めた。

「あ……れは……」

驚きにその目を大きく見開き、カノンは掠れるような小声で呟いた。遠目ではあるが、あの後ろ姿にははっきりと覚えがある。

セイレーンのソレント。

互いの思惑はどうあれ、かつては同じ陣営で戦っていた仲間の姿を、カノンが見紛うはずもなかった。

「……?……どうした?、カノン……知り合いか?」

ミロがカノンに尋ねたが、カノンにはそれが聞こえているのかいないのか、答えようとする素振りも見せずに呆然と立ち竦んでいた。

何故、ソレントがここに?。無論、考えられる理由は自分以外にはなかったが、何故今頃になって?と言う疑問が、カノンの中にはあった。自分と違って純粋にポセイドンに忠誠を誓い、そのポセイドンを守護する海闘士であることを誰よりも誇りに思っていたソレントは、海将軍の中で最もカノンを忌み嫌い、軽蔑しているはずの人間だったはずだ。そのソレントが、こんな時期になって何故、しかも単身で十二宮にやってきたのか……カノンにはソレントの真意が全く掴めなかった。

「カノン?」

明らかに挙動不審なカノンにミロが小首を傾げていると、カノンは無言でその場を駆け出し、すごい勢いで階段を駆け上がり始めたのである。

「おっ、おいっ!、カノンっ?!」

何が何だかさっぱりわけがわかっていなかったが、ミロは慌ててカノンを追いかけた。





「セイレーン……」

程なくして白羊宮の前まで上がってきたカノンは、戸惑いがちにソレントに声をかけた。ソレントが静かにカノンの方を振り返る。ソレントが完全にカノンの方へ向き直ったのと同時に、ミロがカノンに追いついてきた。

「お久しぶりです、シードラゴン」

今度こそ間違いなくカノン本人を目の前にしたソレントは、わざと意識してカノンを海闘士時代の呼称で呼んだ。カノンのすぐ後ろにいるミロが、瞬時に表情を固めたのがソレントにもわかった。

「セイレーン……お前、どうしてここに?」

「セイレーンって、それじゃ……」

背後でミロが声を上げると、カノンは肩越しでミロを振り返り、頷いて見せる。ミロの全身に緊張が走った。

「初めまして、とご挨拶するべきですね、スコーピオンのミロ。私は海闘士七海将軍の1人、セイレーンのソレントです。以後、お見知り置きを……」

ムウにしたのとほぼ同じような丁寧な挨拶をして、ソレントはミロに向かって頭を下げた。

「……何故、オレの名前を?」

ミロは怪訝そうに眉を寄せたが、

「たった今、サガから伺いました」

ソレントは涼しい顔で答えて、微笑んだ。その微笑みがどこか挑戦的に見えたのは、ミロの気のせいであっただろうか?。

「お前を訪ねてきたんだよ、カノン」

ソレントの後ろから、サガがカノンに声をかける。カノンにもわかりきっていることではあろうが、サガは敢えてそれを口にしたのだった。

「う、うん……」

カノンはサガに向かって曖昧に頷く。正面からはソレント、サガ、ムウ、そして貴鬼の視線が、後ろからはミロの視線がカノンに集中していた。

「セイレーン、お前一体どうしたんだ?。オレに何の用があって……って、ジュリアンは?。お前はジュリアンと、世界中を回ってたんじゃなかったか?」

小さく息を吐いて気を取り直してから、カノンは改めてソレントに尋ねた。

「一昨日、帰国しました。ジュリアン様はご自宅で休まれてます。しばらくは仕事の関係で、ギリシャに腰を落ち着けていることになると思います」

「そうか……。でもお前、ジュリアンの仕事も手伝ってるんだろう?。大丈夫なのか?、ジュリアン放っておいて」

「大丈夫です。私は今日から一週間、休暇の身ですから」

「休暇?」

「ええ、ジュリアン様が気を使ってくださいまして、たまには里帰りでもしてこいと休暇を下さったので……そのお言葉に甘えさせていただきました」

「それが何で里帰りもせずに、オレの所になんか来たんだよ?」

カノンとソレントとの関係が良好なものであるならばともかく、残念ながらその全く逆である以上、ソレントがわざわざ遊びやご機嫌伺いでなどカノンを訪ねて来るわけもない。そんなことはカノン自身が百も承知していることだった。

「もちろん、貴方に話があるからです。バイアンに頼まれましてね……」

「シーホースに?」

カノンが目を丸くすると、ソレントは頷いた。

「ジュリアン様に本当のことを言うわけにはいきませんから、そのまま里帰りと言うことにしてソロ邸を出てきましたけど……まぁ、そう言うことです」

ジュリアン・ソロには、ポセイドンが乗り移っていたときの記憶は一切残っていない。当然海闘士達の事も海底神殿のことも、ジュリアン自身は『知らない』わけで、ソレントも今更それをジュリアンに教えようとは思ってはいないが、今現在もソレント自身が海将軍であると言う事実に変わりはなく、ソレントは折を見つけては秘かに海底神殿へ帰ると言う生活を続けていたのだった。そのこと自体はカノンも、城戸邸を守護しているアンドロメダ・瞬から聞いて承知はしていた。

「あいつが一体、オレに何の……」

「お話し中申し訳ありませんが……」

カノンが更にソレントに先を尋ねようとしたところで、やや控えめにムウが口を挟んだ。話の只中だったカノンとソレント、それをやや緊張気味に見ていたサガとミロ、4人の視線が一斉にムウに向けられる。

「どうやら立ち話程度で済むような内容でもなさそうですので……よろしければ白羊宮の中へどうぞ。腰を落ち着けて、ゆっくり話した方がよろしいでしょう」

ムウは穏やかに微笑んで、カノン達に場所提供を申し出た。

「いいのか?」

カノンの珍しく控えめな問いにムウは頷きを返して、

「元々、貴方達が帰ってくるまで中で待っていてもらう話になってたんですよ。双児宮まで上がっていくのも面倒でしょう。お話に立ち入るつもりはありませんから、遠慮なくどうぞ」

「そうか、すまないな。お前もそれでいいか?、セイレーン」

カノンが尋ねると、ソレントは構いませんよと短く答えて頷いた。

「それじゃ、中へどうぞ」

ムウは4人を中へ入るよう促してから、貴鬼を呼んだ。

「お前はシオン様のところへ行っていなさい」

ムウにそう言いつけられた貴鬼は、一瞬「えっ?!」と声を上げたが、すぐにムウの意図を察してその言い付けに従った。とりあえず、このことを教皇・シオンの耳に入れておけ、と言うことである。

「それじゃ、お兄ちゃん……また会おうね」

貴鬼はソレントに向かって、明るい笑顔で言いながら手を振った。

「ああ、ありがとう、貴鬼」

ソレントが貴鬼に手を振り返すと、貴鬼は元気よく白羊宮の出口に向かって走り出した。貴鬼が白羊宮を抜けたのを見届けてから、残った4人は私室の中へと入った。


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