「どうぞ、この部屋をお使いください」

ムウはカノンとソレントを、奥の小さな客間の方へ通した。

「すみません」

ムウに礼を言ってソレントは部屋に入ると、すぐ後にカノンが続いた。ごくごく当たり前のようにミロがそのカノンの後に続こうとすると、ムウがミロの腕を掴んでそれを制した。

「?!」

ミロがムウを振り返ると、ムウは無言のままで小さく首を横に振る。何かを言おうとして口を開きかけたミロだったが、ムウの目が「今は何も言うな」と強く語っているのを見て取って、その口を噤んだ。

「今、コーヒーをお持ちしましょう。でも私達は席を外してますので、その点はご心配なく」

ムウが掴んだミロの手を引っ張って、自分の方へ引き寄せた。

「お構いなく。私は招かれざる客ですから」

そう言いながら、ソレントはチラッとミロの方を見た。ミロと視線がぶつかると、ソレントは意味あり気な笑みを小さく口の端に乗せる。ミロの表情が、不愉快そうに動いた。

「招き入れた以上は大切な客人ですよ。ご遠慮なく」

ムウはソレントがミロに含みのある視線を向けていることに、もちろん気付いていたが、それに気付かないふりをして簡単にそう応じるだけに止めた。

「気ぃ使わせちまって、悪いな」

申し訳なさそうにムウに言うカノンに、ソレントはまたもや意外そうな視線を向ける。今日ここに来てからの僅かな時間で、何度ソレントはカノンの言動の意外さに目を瞠り、驚かされただろうか。サガやムウ、ミロにとってはきっと驚くにも値しないような些細なことであろうが、ソレントにとってはどれも予想だにしなかったことばかりだった。いや、予想できなかったと言うより、考えもつかなかったと言った方が正解であろう。釈然としない思いが、ソレントの中に燻っていた。

「サガ、よろしければ貴方はご同席いただけませんか?」

ソレントは視線をムウ達の後方にいるサガに向けると、おもむろにそう切りだした。その申し出はサガにとってはもちろんのこと、その場にいる全員の意表をついた。

「……私が立ち会っていいような話ではないのではないか?」

だがサガはそれを全く顔には出さず、冷静に聞き返した。

「いえ、むしろご同席いただいたほうが私としてはありがたいのですが……。カノンと2人きりですと、私がカノンに危害を加えるのではないかと、あらぬ誤解も招きそうですし」

言いながらソレントは、またミロをチラリと見た。明らかに含みのあるソレントの物言いと視線に、今度はミロはあからさまにムッとした表情を浮かべる。

「別にそんな下らん心配はしないさ。君の実力のほどを詳しく知ってるわけではないが、カノンの方が強いってことくらいはオレにだってわかるからね。危害を加えようとしたところで、君が逆撃を食うのがオチさ」

ミロは底意地の悪い笑みを浮かべて、嫌み混じりにソレントに言い返した。

「やめろ、ミロ」

それに対してソレントが何かを言い返そうと口を開きかけた瞬間、カノンが嗜めるようにミロに言った。

「すまんな、セイレーン。こいつ、ちょっと頭に血が上りやすくて……気を悪くしないでやってくれ」

落ち着き払った口調でカノンはソレントにそう言うと、柔らかく微笑んだ。

「……いえ、別に気を悪くなどはしてませんから大丈夫です」

カノンがこんな笑顔を自分に向けたのは初めてだった。ソレントの胸の内に、チクリと針で刺されたような痛みに似た感覚が走る。

「兄さん……悪いけど同席してくれないか?」

カノンはソレントからサガの方へ視線を移し、自分達の話に同席してくれるよう頼んだ。ソレントが自分を快く思っていないことは他の誰でもない、カノン自身が一番よくわかっていることで、自分が彼等にしたことを思えば殺されても文句は言えないところだ。だが仮にソレントが自分への復讐を目論んでいたにせよ、鱗衣も纏わずに聖闘士の総本山である聖域に、ましてや最強の黄金聖闘士が守護するこの十二宮へ単身で乗り込んでなどくるようなバカな真似はソレントはしない。その点、カノンは一部の疑いをすら抱いてはいなかった。

ただ事情もソレントの気性も知らないミロが、不安や心配を抱くのは仕方のないことで、カノンとしてはそんなミロの心情もよくわかってはいた。かと言ってミロを同席させるわけにもいかないが、それならせめてソレントの言う通り、サガに同席してもらった方がミロにかける心配も最小限で済むだろう。本来であればこれは自分の問題だけに、例え少しであってもサガの手を煩わせるようなことはしたくはなかったのだが、今回ばかりはやむを得ない。

「わかった」

多くを語らずとも、サガにはカノンの気持ちは手に取るようにわかっていた。短く答えて頷き、サガはカノンの頼みを受諾した。

「では、すぐにコーヒーを3つ持ってきましょう。行きますよ、ミロ」

言うが早いか、ムウは明らかに納得していない様子のミロの手を引っ張って、部屋を後にしていった。とりあえずムウが一緒にいてくれれば、少なくとも自分たちの話が終わるまで、ミロを上手く押さえておいてはくれるだろう。気性の激しいミロのこと、カノンを案ずる余り途中でこの場に乱入してこないとも限らなかったし、そもそも今だって「自分も同席する」とゴネなかったのは、ムウがミロを止めてくれていたからである。ムウにまで余計な面倒をかけるのは心苦しい気もしたが、この場は致し方なく、ムウにも甘えざるを得ないところだった。

「とにかく座れよ」

カノンはソレントに座を促すと、静かに部屋のドアを閉めた。




「ムウ、お前何でオレを止めたんだよ?」

有無を言わせずほぼ強制的にムウに引っ張ってこられたミロは、キッチンでコーヒーを淹れ始めたムウに向かって抗議めいた口調で自分を止めたわけを聞いた。

「止めなければ貴方は自分も同席する、と言って聞かなかったでしょう?」

手を休めず、ミロの方を振り返りもせずにムウが答える。

「当たり前だ!、2人きりになんかさせておけるかよ!。あいつは海将軍なんだぞ!」

「おや、仮に彼がカノンに危害を加えようとしても、カノンの方が強いんだから心配してないと言い切ったのは、貴方でしょう?」

ムウが先刻のミロ自身の言質を取って切り返すと、ミロは一瞬、返す言葉に詰まった。

「オレが心配してんのは、そんなことじゃない!。昔のカノンならいざ知らず、今のカノンはあいつらに少なからず罪悪感を感じてる。出来ることなら償いたいって思ってるんだ。あいつに何かされたら、無抵抗でそれを受けちまうだろうよ。それこそ、殺されても文句は言えない、くらいのことは思ってるはずだからな」

ミロ自身、カノンからそれをはっきり聞いたわけではなかったが、それくらいのことは何も言われずともミロにだってわかる。海闘士時代のことはカノンも自分からはあまり話したがらないが、何かの拍子に話がそれに及んだときには、カノンの言葉の端々に彼らへの罪の意識のようなものが伺い知れるのだ。

「そんなカノンに、不用意にあいつを近づけとくわけにはいかないだろうが!」

そうなると、ミロとしても神経過敏にならざるを得なかった。表向きは海底とも休戦状態で平和的な関係にあるが、人心と言うものはそう簡単に割り切りのつくものでもなく、海闘士達、特に海将軍達はカノンには単純ならざる心情があろう。

「心配要りませんよ、少なくとも今はサガが同席していますから、彼だってまかり間違ってもカノンに危害を加えるような真似はしないでしょう。それに……」

そこで一旦言葉を切ったムウは、コーヒーカップを準備しながら更に言葉を継いだ。

「ソレントは悪い人ではないようです。海界との聖戦の時、彼と戦った瞬もそう言っていましたし、何より彼は戦いの最中にありながらも、傷ついた貴鬼を助けてくれました」

いくらカノンに不信を持った結果とは言え、ソレントは子供とは言え敵陣に属する貴鬼を助けてくれた。非情な人間であれば、裏にどんな理由があったとしても、平気で貴鬼を見殺しにしていただろう。それを思うとムウは、無条件に……とは行かないまでも、ある程度はソレントの人間性を信用できるのだった。

「それはオレも知ってる。けど……」

ムウの言っていることはミロにも理解できるし、確かに悪人ではなさそうだが、ミロにはどうしても釈然としない思いがあった。

「何か……あいつのオレを見る目にさ、敵意が篭ってるような気がするんだよ。しかも腹の中で何考えてるのかわかんないような、そんな不気味さみたいなものも感じるんだ」

ソレントとは会話とも言えないような短いやり取りを交わしただけで、しかも彼はミロに対しても礼儀正しく振る舞っており、不穏なものを思わせるような態度は表面上からは感じられなかった。自分の気のせい、或いは思い過ごしと言われればそれまでかも知れないが、ミロにはどうしてもそうは思えなかったのだ。

「貴方の思い過ごしでしょう、とも言い切れませんが、いずれにせよここは我々の出る幕ではありません。却って面倒なことにもなりかねませんからね。ここは静観していた方がいいでしょう」

サーバーに一杯になったコーヒーをカップに淹れながら、あくまでも冷静沈着にムウが言った。だがムウは口にこそしなかったが、ソレントのミロを見る目が自分やサガに対して向けられていたそれと、微妙に色合いが異なることを敏感に見て取ってはいた。その奥に隠されているものが何であるのかまではさすがにわからなかったが、それだけにミロが釈然としない思いを抱くのも無理はなく、そんなミロの心情はムウも充分理解していたが、だからこそ余計にミロを立ち入らせるわけにはいかないと思ったのである。それにこれはカノン自身の問題であり、そのカノンもミロを関わらせることを良しとはしないはずだった。

「でも……」

ムウの言の正しさは最初からミロも認めてはいたが、やはり感情レベルでは割り切れない部分があった。

「大丈夫ですよ、サガもついていますし、心配は要らないでしょう。今貴方がすべきことはただ1つ、ここでおとなしく彼らの話が終わるのを待つことですよ」

ムウはコーヒーを3つトレイに乗せると、慣れた手付きでそれを持ち上げた。

「これを置いてきたら貴方にもコーヒーを入れてあげます。リビングで座って、おとなしく待っててください」

そしてムウはミロにそういい置くと、まだ不満げなミロを残してキッチンを出ていった。ミロとしても全然納得はしていなかったものの、ここはおとなしくムウの言うことに従わざるを得ず、一先ず仕方なくリビングの方へと戻ったのだった。





「お前と一緒に海底に来い……だって?!」

ムウがコーヒーを置いて下がった後、ソレントがおもむろに切りだした用件に、カノンは目を丸くして驚いた。

「はい、そうです」

動揺丸出しのカノンとは対照的に、ソレントは落ち着き払った様子でさらりと言って、頷いた。

「シーホースがそう言ってんのか?。オレを連れてこいって?」

バイアンの代理で来たのだとソレントは言っていた。と言うことは、ソレントの言葉はそのままバイアンの言葉、と言うことになるのであろうが、言ったのがバイアンであるにせよソレントであるにせよ、カノンにとって意外な要請であることに変わりはなかった。

「はい。でもバイアン1人からの要請と言うわけではありません。残った海将軍全員からの要請、とでも捉えていただければ結構。その総代として、こうして私が出向いてきたのです」

「な、何で?!」

ソレントのその答えに、カノンはますます目を丸くした。海底におびき寄せて、袋叩きにでもしようと言うのだろうか?。いや、そうされたところでカノンには文句は言えないのだが。

「海底神殿の結界ですよ」

「結界?!」

だがソレントから返ってきたのは、これまた全く予想外の答えであった。だが、それによってますますわけがわからなくなり、カノンは首を捻った。

「ええ」

訝しがるカノンの様子を気にもせずにソレントは頷くと、ムウが淹れてくれた上質のコーヒーに口をつけた。

「今でも海底神殿はポセイドン様の結界には守られていますが、それとは別に個々の柱ごとにそこを守護する海将軍が結界を張って神殿を守護しています。……まぁ、こんな事は貴方もよくご存知のことですし、今更言うまでもありませんね。その結界ですが、貴方が守護していた北大西洋の柱の結界がかなり弱ってしまって、所々に亀裂が入り始めているんですよ」

言いながらソレントはカップをソーサーに戻し、更に言葉を継いだ。

「もともと主である貴方と私が不在の北大西洋、南大西洋の柱は結界が弱まりがちなんですよ。私は定期的に戻って結界を張り直してますからまだしもですが、北大西洋の柱は放置しっぱなしですからね。最近、異界や外界のものがその亀裂から入り込んできたりもするようで、何かと面倒が多いらしいんですよ」

「で?、その結界を張り直しに来い……と、お前達は言いたいわけか?」

「それだけではありませんけど、手っ取り早く言えばそう言うことですね」

ろくに表情も動かさずに、ソレントは言った。カノンは瞬間、ポカンと口を開けてソレントの顔を見ていたが、少ししてから何とも言えない複雑な表情を作った。

「……いや、まぁその……お前の話はわかった。けどさ、こんなこと言うのも何だけど、たかが柱の結界くらい、オレでなくとも張れるだろう。わざわざオレを呼びに来るようなことじゃないんじゃないのか?」

いきなりのソレントの訪問に何事が起こるのかと身構えていただけに、多少拍子抜けした感の否めないカノンであったが、極力波風立てないよう口調に気をつけながら、素朴な疑問をソレントに返した。

「誰かが代わりに張れるものならとっくにやってます。できないからこうしてわざわざ来たんでしょう?」

やや呆れたように言って、ソレントは小さく溜息をついた。

「できないわけないんじゃないのか?」

「できないんですよ。元々貴方が張っていた結界の強さはメインブレドウィナに次ぐ程のもので、7つの柱の中でも最も強靱なものでした。それだけにかなり特殊な張り方をしていたでしょう?。残念なことに、今海底神殿に居る者……私も含めてですが、誰もそれを真似できる者がいないんですよ」

「裂け目修復できないなら、全部取っ払って結界そのものを張り替えちまえばいいじゃないか」

「それもできないから困ってるんでしょう」

ソレントは今度はあからさまに大きく溜息をついた。

「どんな捻くれた張り方をしたのかは知りませんけど、亀裂を塞ごうとしてもダメ、その上に別の結界を重ねようとしてもダメ、結界自体を取ろうとしてもダメなんですよ。かといってあの強さじゃ、亀裂は生じても完全に消滅するのには数十年単位での時間が必要ですし、情けないとは思いますけど、完全にお手上げ状態なんです」

これは褒められてるんだろうか、けなされてるんだろうかと、カノンは数秒ほど真面目に悩んだ。

「捻くれた張り方……ねぇ。まぁそう言われると言い返せないけど、あれってウチの兄貴オリジナルで、しかも直伝なんだよね」

言いながらカノンは、横にいるサガをチラリと見て、くすっと笑った。サガはここまで一言も発せず、ただ黙って2人の話を聞いていたが、さすがに心境は些か複雑なようで、その素振りが見え隠れしていた。最もこれは、カノンにしかわからないことではあったが。

「それなら尚更、私達の手に負えるわけがありませんよ」

やれやれとでも言いたげな目を、ソレントはカノンに向けた。

「ん〜、言われてみるとそうかも知れないけど……」

今まで気にしたこともなかったが、確かにそう言われてみるとそうかも知れないなと、今更ながらに思うカノンであった。

「それに実際のところ、問題はそれだけじゃないんですよ。私はジュリアン様について主に地上で生活していますからそうでもありませんが、海底神殿にはあなたでないとわからないことが他にも結構あるらしくて、困ることも多いみたいですよ。何しろあそこは事実上13年もの間、貴方が独裁してたも同然だったんですからね。如何せんわからないことが多過ぎるのです」

そう言われるとカノンとしても返答に窮する部分があったが、だからと言って、はいそうですか、とソレントにくっついて海底神殿に行く気にはなれなかった。カノンは数十秒ほど考えた後、やや重々しく口を開いた。

「セイレーン……協力したいのは山々だが、オレに今更どのツラ下げて海底神殿に行けって言うんだよ」

できることならカノンだって、バイアンやソレントの頼みを聞いてやりたいと思う。だがそれより以前の問題として、自分が海界に対してしでかしたことを思えば、とてもじゃないが今更のうのうと海底神殿に顔出しなど出来ようはずもなかった。

「そう言うだろうとは思ってましたが、気にすることもないでしょう。貴方が海将軍の筆頭であることに変わりはないんですし、堂々としていればいいんじゃありませんか?」

ソレントはカノンのこの返答は予測済だったようだが、逆にカノンにとってはソレントのこの返答は予測外であった。

「……海将軍筆頭って……おい、オレはもうとっくに海将軍なんかじゃないぞ」

ソレントに海闘士時代の呼称で呼ばれること自体は別段何とも思わないので放っておいたが、カノン自身は冥界との聖戦前に海龍の位を返上した身である。それに伴い、当然海闘士でもなくなっているわけで、今更筆頭云々と言われる身分ではないのである。

「誰がそんなこと言いました?」

「はぁ?」

「ですから誰が貴方はもう海将軍じゃない、なんて言ったんですか?」

「誰が……って……」

まさかそんなことを聞き返されるとは思っていなかったカノンは、当然ろくな返答もできずに言葉を詰まらせた。

「海将軍を返上したと言うのは、あくまで貴方個人の勝手な認識であって、我々は誰一人それを認めてはいませんよ。つまり、貴方はまだ海闘士であり、海将軍なんです」

きっぱりとそう言い切ったソレントの顔を、カノンはますます瞳を大きく見開いて凝視した。さすがのサガも口こそ出さなかったものの、カノンと同様に驚きを満面に浮かべてソレントを見つめていたが、

「本音を言えばシードラゴン、私達はこれを機に貴方に海底神殿に戻っていただきたい、と考えています」

続けて発せられたソレントのこの言葉に、2人は更に驚愕した。

「戻って……ってお前、それは一体どう言う意味だ?」

茫然自失しかけたカノンだったが、何とかなけなしの理性でそれを繋ぎ止め、冷静を装ってソレントに聞き返した。

「言葉通りの意味です。以前のように海龍の海闘士として、我々の筆頭として海底神殿に戻り、我々を統率していただきたいと思っています」

躊躇うことなくきっぱりとソレントに答えられ、カノンとサガは同時に息を詰めた。

「……本気で言ってんのか?」

少しの間の後、カノンが静かに聞き返すとソレントは、本気です、と即答した。カノンは澱みのないその口調と、強い意志の光を宿した瞳とで、ソレントの本気を見て取った。

「なぁ、お前さ……オレが、お前達にしでかしたことがどれほどのもんか、一番よく知っているのはお前だろう?。オレはお前達に憎まれこそすれ、戻ってこいなんて言われるような人間じゃないんだぜ?」

次から次へと予想だにしなかったことを言われ、カノンも混乱せずにはいられなかったが、それでも客観的な事実……海界にとって自分は忌むべき存在以外の何者でもない……と言うことを、見失ってはいなかった。

「それにそもそもオレは、海闘士である資格すら最初から……」

「いいえ」

カノンの言葉の先を、ソレントが強引に遮った。

「確かに貴方の手によって、ポセイドン様は本来覚醒すべき時より数百年早く目覚めさせられてしまった。でも今にして思えば経緯はどうあれ、やはりポセイドン様はこの時代に目覚める運命にあったのでしょう。そして貴方は、そのポセイドン様からシードラゴンの鱗衣を纏うことを許された……海闘士であることを認められた人なんです。つまりこの時代のシードラゴンの海闘士は他の誰でもない、貴方なんだ、カノン」

「……セイレーン……」

まさか自分の悪事を誰よりもよく知っているはずのソレントに、こんなことを言われるなどとは、カノンは夢にも思っていなかった。同時に、嬉しい、と言うのとは少し違うが、心の片隅でどこかホッとしたような思いが生まれたのも事実だった。とは言え、反面ではやはり戸惑いを覚えずにもいられなかった。

「セイレーン、お前が……そう言ってくれるのは正直言って嬉しい。だけどな、オレがお前達、そしてジュリアンに対して犯した罪は大きすぎる。今更おめおめと海底になど顔を出せるわけないだろう?。それにお前が何と言おうと、他の海将軍はオレを許さないだろうさ。何せオレのせいで、一度命を落としてるんだからな」

結果として海闘士達も現世に再び蘇ったとはいえ、一度死したことは紛れもない事実。その元凶とも言うべきカノンを、そう易々と許せるわけもない。それが人の感情と言うものであろう。

「確かにそれも貴方の言う通りです。でもカノン、ポセイドン様は封印されたままとは言え、海底神殿と海闘士全員が蘇ることができたのは、貴方のお陰なんですよ」

「え?」

「貴方は冥界との聖戦の時、聖闘士として女神に忠誠を誓い、必死に女神を守って戦いぬいた。それを女神が認めてくれたから、その功績があったからこそ、我々も女神の加護を受けることが出来たんです。そのことは全員、よくわかっていますよ。今更誰も貴方に恨み言なんて言わないでしょう。少なくとも、表立ってはね」

腹の中で何を思っていようが知ったこっちゃない、と言わんばかりのソレントの言葉であったが、カノンの聖戦時の戦いが女神に認められたのも事実で、それが直接的にその後の海闘士達の運命を決定づけたと言うのも嘘ではなかった。

ソレントはコーヒーを一口啜り、ゆっくりとカップをソーサーに戻してから、再び口を開いた。

「とにかく、貴方にお戻りいただきたい……これが我々の真意です」

もう一度きっぱりと言い放って、ソレントは真正面からカノンを見据えた。

「…………」

カノンはすぐには何も返答できず、ソレントから視線を外してそれをテーブルの上に落とした。現世に蘇って以降、海底神殿に戻るなどということは考えたこともないことであり、カノンにとってソレントの要請は正に青天の霹靂のようなものだった。自分自身、とっくに海龍の座を返上したつもりでいたこともそうだし、何よりソレントに対して言ったようにおめおめと海底神殿に戻れようはずもないとわかっていたからだ。いや、そんなことよりも何よりも、居場所がなかった13年前とは違い、今のカノンには自分の居場所がある。20数年の時を経て、この十二宮に、兄の側に、やっと見つけた自分の居るべき場所を、カノンは失いたくはなかった。例え心底、ソレント達海闘士が、自分の存在を欲してくれていたのだとしても。

カノンは伏せていた視線を、サガの方へ向けてゆっくりと上げた。サガの自分と同じ色の瞳が、優しい光をたたえて自分を見詰め返していた。サガは今の今まで、ただの一言の言葉も発してはいない。心配しているのであろうことは聞かずともわかるが、同時にこれがカノン自身で何とかしなければいけない問題なのだと言うことを、自分が口出しできることではないということをわかってくれているのだろう。お前の思う通りにしなさい、と、サガの瞳がカノンに語りかけていた。そんな兄にカノンは微かな笑みを返してから、再びソレントの方へ視線を戻した。

「ありがとう、セイレーン。でも、すまない……オレは海底神殿には戻れない。オレは聖闘士として、女神に忠誠を誓ったんだ。お前達に対して身勝手だとも、無責任だとも思う、それはよくわかってる。でもオレは海皇の海闘士としてではなく、女神の聖闘士として人生を全うしたいと思ってる。本当に、すまない……」

カノンはソレントにそう詫びながら、自然にその頭をソレントに向かって下げた。そんな弟を見ながら、サガは小さく目を瞠った。カノンがこんな風にして他人に頭を下げているところなど、実の兄のサガですら見たことがなかった。

「……一生、正式な双子座の位を戴くことが出来なくても……ですか?」

数十秒の沈黙の後、ソレントが口を開いた。カノンが下げていた頭を上げ、ソレントを見る。それを合図にしたかのように、ソレントが言葉を接いだ。

「貴方が……サガと双子座の聖衣の共有を許されていることは、私も知っています。ですが、聖衣の共有は許されてはいても、正式な双子座の聖闘士は貴方ではなくサガだ。そんな中途半端な存在のままでもいいと、貴方は言うのですか?。海闘士筆頭の地位を捨てても、それに甘んじると?」

ソレントはサガにとってもカノンにとっても辛辣な問いを、容赦なくぶつけた。そもそも13年前、自分の置かれているそんな状況が嫌で、カノンは悪道に身を落としたのではなかったのか?。それを恨んでいたからこそ、海界までをも巻き込んで、乱を起こしたのではなかったのが?。それが今になってそれら全てを、かつてあんなにも呪っていた自らの境遇を受け容れると言うのだろうか?。

「ああ」

だがカノンは、1分の迷いも見せることなく、はっきりと頷いて見せた。たった一言の短い返事の中に、揺るぎない決意がこめられていることを、ソレントは感じ取った。

「そうですか……」

そう呟いたソレントの声には、無機質的な響きがあった。そのまま3人の上に、重苦しい沈黙がのし掛かった。

「……でも……」

1分が数十分にも思える程の重い沈黙の時を、ソレントが破った。

「せめて1度、海底神殿に来ていただけませんか?。現実問題として結界のこともありますし、さっきも言いましたが貴方にしかわからないことが多すぎるままでは困ります。今は取り合えずと言うことでバイアンが海将軍筆頭を務めてますが、貴方が海龍を返上するのなら、その旨話し合って正式にバイアンに引き継いでいただかないといけませんから」

はっきりとしたものではないにせよ、ソレントの表情にも声にも内心の落胆が滲み出ていた。カノンの翻意を促すのは無理と判断したか、ソレントはそれ以上のことには言及はしなかったが、ただ目下のところカノンの手を借りねばならない問題があることは事実で、それに対しては些かの強引にでもカノンの助力を請わざるを得ないところであった。

「…………わかった」

そこまで言われるとカノンも拒絶しきれず、半ば観念するにも似た気持ちで決意を固め、ソレントの要請を受諾したのだった。


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