カノン達が部屋から出てきたのは、ミロが苛々した気持ちを持て余しながら5杯のコーヒーを飲み干した時だった。3人がリビングに入ってきたと同時に、ミロが弾かれたようにソファから腰を浮かした。 「部屋借りちまって悪かったな、ムウ」 リビングに入ってきたカノンは、心配そうにしているミロにではなく、まずはムウにそう声をかけた。 「いいえ、そんなことはお気になさらず。それよりお話は終わられたのですか?」 「ああ」 簡潔に答えてカノンが頷くと、 「色々ありがとうございました、ムウ」 その後を引き取るようにして、ソレントが礼を言いながらムウに頭を下げた。 「これくらいお安い御用ですよ」 穏やかに微笑みながらムウが答えるその側で、ミロが様子を伺うような目でカノンとソレントを見つめていた。そんなミロにカノンは小さな微笑みを向ける。 「それでは、私はこれでお暇致します」 「おや、もう帰るのですか?」 「ええ、完全に陽が落ちる前に、海底神殿へ戻らないといけませんので」 言いながらソレントは、夜の帳の降り始めた窓の外をチラリと見遣った。 「そうですか。貴鬼を呼び戻して夕食でも御一緒に、と思っていたのですが……」 引き止めるな!と言うような目をミロがムウに向けたが、ムウは知らん顔だった。 「お気持ちだけありがたくいただきます。どうぞ貴鬼にもよろしくお伝え下さい」 相変わらず礼儀正しくそう言って、ソレントはもう一度ムウに頭を下げた。ムウの厚意をソレントが謝絶したことに、ミロは内心でホッとしていたが、その安心感はほんの僅か一瞬のものであった。 「では、行きましょうか?、シードラゴン」 次いで発せられたこの一言に、ミロは驚いてこれ以上ないくらいに大きく目を見開いた。 「ちょ、ちょっとまて!。行くって……カノン連れてどこに行く気だ?!」 ソレントの言葉にカノンが頷いたのを見るや、ミロが抗議めいた声を上げた。 「もちろん、海底神殿ですが……それが何か?」 事もなげに答えたソレントに、ミロが眉根をつり上げた。 「何でカノンを海底神殿になんか連れていくんだよ?!」 「来ていただかなければいけない用事があるからですよ」 「用事だと?!。今更カノンに、何の用事があるっていうんだ!」 「それは私ども海界の事情ですので、貴方にお話しする理由はありませんが?」 落ち着き払ったソレントの物言いに、ミロがカッと頭に血を上らせる。 「その海界の事情とやらに、何故カノンを巻き込む必要があるんだ?」 激高する一歩手前の自分の感情を懸命に抑えながら、ミロはソレントに聞き返した。 「巻き込む、と言う言われ方は些か不本意です。彼はまだ海闘士であり、我々海将軍の筆頭なんですから、無関係ではありません。海界の事情に関わっていただくのは、当然のことと思いますが?」 「何をバカなことを!。カノンはもう海闘士じゃない、女神の聖闘士なんだぞ!」 思わずミロは声を張り上げたが、ソレントはやはり顔色一つ変えなかった。 「今し方カノンにも言いましたが、それは貴方達の勝手な認識です」 「何?!」 「だってそうでしょう?。カノンは私達の目の前で正式に海龍を返上したわけではないんです。つまり、私達がそれを認めてない以上、彼はまだ海龍の海闘士であり、海将軍なんです」 ソレントがきっぱりと断言したが、そんなことであっさりと納得するようなミロではなかった。 「カノンはもう海将軍なんかじゃない!、れっきとした黄金聖闘士だ!」 「いいえ、繰り返し言いますが、私達は彼の海龍返上を認めたわけじゃありません。むしろ私達の方が言いたいくらいですよ、カノンは黄金聖闘士なんかじゃない、海闘士だとね」 「何だと?!」 「やめろ、ミロ」 こうなるであろうことは予測していたものの、遂に見かねてカノンがミロを止めた。そうして今にもソレントに掴みかからんばかりの勢いになりつつあるミロの気勢を制するように、カノンはソレントとミロとの間に割って入った。 「カノン!」 「いいから、やめろ」 静かな落ち着いた口調でカノンに言われ、ミロの怒気がほんの少しだけその勢いを弱めた。 「セイレーンの言う通りだ。確かにオレはこいつらの前で海龍を返上したわけじゃない。勝手にそのつもりで居た、と言われたらなるほどその通りなんだ。だから、こいつに噛みついても仕方ないぞ」 「カノン……」 ミロの瞳に宿っていた怒りの色が、途端に不安そうなそれへと変化した。素早くそれを見取って、カノンは柔らかな笑みをミロに向けた。 「だからさ、ちょっくら海底神殿行って、最後の責任果たすついでに海龍返上してくるわ」 そうしてからカノンは、わざと軽い調子でそう言って肩を竦めた。ミロは数秒ほど、不安と心配と呆れとが綯い交ぜになった顔でカノンを見ていたが、そうしていたかと思ったらいきなりカノンの腕を掴んで引っ張り、その身を引き寄せた。 「お前、何お気楽なこと言ってんだ!。表向き体のいいこと言ってるが、腹ん中じゃ何考えてるかわかんないだろう?。上手くお前を海底に引きずり込んで、袋叩きにするつもりかも知んねーんだぞ!。もうちょっと警戒しろよ!」 素早く耳元に唇を寄せ、ミロはカノンにそう耳打ちをした。とにかくカノンが余りにも無警戒でのほほんとしている(ようにしかミロには見えなかった)ので、少しは危機感を持たせようとしたのだが、 「ご心配なく。海将軍のプライドにかけても、そんな姑息な真似はいたしませんから」 蚊の鳴くようなミロの声を目敏く、いや、耳敏く聞きつけて、ソレントがカノンの後ろから口を挟んだ。ミロがあからさまに嫌そうな顔でソレントを見ると、 「私は一般人じゃありませんよ。こんな近距離じゃ、いくら声を潜めてたって言ってることは全部聞こえてしまいます」 ミロの不見識とでも言わんばかりの態度で、ソレントはくすっと笑った。 「口では何とでも言えるだろう。それをバカ正直に信じる気にもなれないがな」 不快感を隠しもせずにミロが言う。 「信じる、信じないは貴方の勝手ですが、いずれにせよカノン本人が同行を承諾してくれたんです。貴方がとやかく言う筋合いのものでもないでしょう?」 礼儀正しくはあるが、ソレントのミロへの態度が先刻までと明らかに違うのは、もう誰の目にも明らかだった。完全にソレントは、ミロに対して敵愾心に似たものを顕にしていたのである。 「何だと?!、このっ……」 「やめなさい、ミロ」 完全に堪忍袋の尾が切れたミロを、今まで黙ったまま事の次第を静観していたサガが、静かな口調で止めた。 「サガ……」 「いいから、やめなさい」 サガには強く逆らえないミロは、渋々ながらも怒りの鉾先を収める。 「すぐ帰ってくるから、余計な心配しないで待ってろ」 子供にでも言い聞かせるかのように言って、カノンはミロの後頭部をポンと軽く叩いた。 「行こうぜ、セイレーン」 カノンが振り返ってソレントを促すと、ソレントはムウとサガに向かってもう一度礼を言って深く頭を下げた。 「ああ、サガ、こいつらに詳しい事情説明しといてやってくれな」 リビングを出ていく直前、カノンは思い出したかのようにサガに言い置いた。サガが頷いたのを確認してから、カノンはソレントとともに白羊宮を後にしていった。 「カノンっ……」 玄関の扉が開閉した音が響くと、呆然とその場に立ち尽くしていたミロが、ハッと我に返ってカノン達を追おうとした。心配するなと言われても、それは無理な話だった。カノンが海底に行くと言うのを止められないのなら、せめて自分がカノンと一緒についていくべきだろう。カノン1人ならともかく、黄金聖闘士が同行していれば海闘士達だって迂闊に手出しはできないはずなのだから。今更ながらにそれに思い至ったミロだったが、2人を追って飛び出そうとしたミロの腕をグッと掴んで止めた者がいた。サガである。 「待ちなさい、ミロ」 「サガっ!、何で止めるんだよ?!」 ミロはサガの腕を振り払おうとしたが、もちろんそう簡単には振り払えなかった。 「とにかく落ち着きなさい」 「これが落ち着いてられるかよっ!。早く追いかけなきゃ!」 ミロはじたばた暴れたが、サガは顔色一つ変えることなく静かに言った。 「お前がついて行ったって、どうなるものでもないんだぞ」 「オレが行けば、せめてカノンを危険から守ってやることは出来る!。カノンはああ言ったけど、オレはあいつの言うこと無条件で信じる気になんかなれねーよ!。だってカノンは……」 「そうだ、カノンが彼らにしたことを思えば、殺されたっておかしくはない」 冷静に言い切ったサガに、ミロは思わず息を飲んだ。 「……それがわかってて、何でカノンをあいつと一緒に海底になんか行かせたりしたんだよ?、サガ!。危険があるかも知れないってわかってて、何で?!。しかもあいつ、聖衣も纏わないで丸腰で行ったんだぞ!。殺してくれって、言わんばかりじゃないか!」 サガがやっと掴んでいたミロの腕を放すと、今度はミロがサガの両腕を掴んで詰め寄るようにサガの体を揺すった。 「下手に聖衣を纏って行ったら、海闘士達が警戒するだろう。カノンは、要らぬ混乱を招きたくなかったんだよ」 「だからって、だからって自分の身を危険に晒すような真似しなくても……。だったら尚更、放ってなんかおけないじゃないか!」 「ミロ、これはカノンが、カノン自身で片を付けなければいけない問題なんだ。カノン本人もそれを自覚し、自分1人の手で始末を付けることを望んでいる。だからお前のことも私のことも、このことには一切関わらせたくないんだ。だから敢えて、お前がそう言いだすであろう事がわかってても、お前を同行させなかったんだよ」 「そんなっ……」 サガは自分の二の腕にかけられたミロの手に、そっと自分の手を重ねると、静かにミロの腕を外した。 「お前がカノンを心配してくれる気持ちは良くわかるけど、ここはカノンの思う通りにさせてやって欲しい。あいつを信じてやってくれ」 「サガ……」 ミロの烈気が、急激にその勢いを失った。感情面はともかく、理性の面ではサガの言葉の正しさを認めざるを得なかったのだ。 「サガの言う通りですよ、ミロ。ここはカノンと、彼のかつての仲間を信じましょう。過去に確執があると言っても、今のカノンに迂闊に手を出せば、聖域全体を敵に回すことになります。それくらい彼らもわかっているはずですし、軽挙には出ないでしょう」 ここまでずっと黙っていたムウが、サガをフォローするかのように口を開いた。無論、ソレントの挑戦的とも取れる態度をまともにぶつけられたミロが、心中穏やかでいられないことはよく理解できるが、客観的に見てみれば自分たちがここで下手に動くのはとても得策とは言えないだろう。ミロにおとなしく待て、と言うのは酷かも知れないが、ここはそうする以外にはない。とりあえず、ムウとしてはソレントには悪い印象を持ってはいないから、彼の言葉を全面的に信じたいところであった。 「…………」 胸に抱えた不安は大きくなる一方ではあったが、ここはサガとムウの言う通りにせざるを得ないことを悟ったミロは、その単純ならざる心境を持て余すかのように、悔しげに唇を噛みしめた。 「随分と……貴方を心配していたようですね」 白羊宮から下へと続く階段を並んで降りながら、ソレントはさり気なく横のカノンに話しかけた。 「誰が?」 しらばっくれてることはバレバレだったが、ソレントはそのことは気にせずに話を続けた。 「彼ですよ、スコーピオンのミロ。まさか初対面の彼に、あんなに食ってかかられるとは思いませんでした」 自分でも煽るような言動をとっておいてよく言うぜ、と思ったカノンだったが、言っても仕方のないことなので、心のうちで呟くだけに止めておいた。 「ま、一応あいつは親友だからな」 「親友……ですか……」 そう聞き返すソレントの言葉には、確認というよりも疑問符の響きの方が強かった。だがカノンはそれには気付かず、少し照れ臭そうに、ああ、とだけ短く答えた。 「そうですか……」 「信じられない、って顔だな。オレに友達がいるのが、そんなに不思議か?」 はっきりしないソレントの表情を、別の方面に曲解して、カノンはからかうように言った。 「否定はしません。少なくとも私が知っている貴方からは、想像ができなかったことは事実ですから」 「そりゃそうだろうな」 嫌み混じりのソレントの言葉に同意しながら、カノンは声を立てて笑った。 『それだけじゃない……以前の貴方だったら、そんな風に私の前で笑ったりするようなことはなかった……』 胸中で呟きながら、ソレントは複雑な思いでカノンの横顔を見つめた。 |
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