数ヶ月振りに海底神殿に足を踏み入れたカノンの身を、懐かしい空気が撫で付けた。海底神殿独特の空気と静けさは、崩壊前と全く変わってはいなかった。カノンの胸の中に、郷愁にも似た気持ちが過る。

きっかけはどうあれ、そしてその終わり方がどんな形であったにせよ、13年間という長い月日を自分はこの場所で過ごした事実に変わりはない。良い思い出などあまりなかったが、少なくともそれより以前に、聖域で存在を隠匿されて生活していたころに比べれば、ここでの生活は快適だった。

今ではもう、ここに戻りたいとは思わないけれど、それでもここは自分にとって別の意味で大事な場所なのかも知れない。カノンは上空に揺らめく海原を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「お久しぶりです、シードラゴン」

柄にもなくそんな感慨に耽っていると、不意に背後から声をかけられた。振り返るとそこにはソレントと、北太平洋の海将軍・シーホースのバイアン、そして北氷洋の海将軍・クラーケンのアイザックとが立っていた。バイアンとアイザックは、カノンに向かって軽く頭を下げた。

「久しぶり。元気そうだな……」

ややぎこちなく、芸のない返事をカノンは返した。

「わざわざご足労いただきまして、すみません」

「いや、オレの方こそ。お前達に言われるまで、色々放っぽらかしたままにしててすまなかったな」

「いえ、そんなことは……」

小さく首を横に振りながら、バイアンは苦笑にも似た笑みを浮かべた。当たり障りのない応対をしてはいたが、バイアンも内心では先刻のソレント同様、カノンの変わりように驚きと戸惑いを覚えずにはいられなかったのである。以前の、自分達が良く知る頃のカノンであれば、決してこんな風に自分達には接しなかったはずだ。かつてバイアンは一度たりとも、カノンから『優しさ』と言うものを感じたことがなかった。カノンから感じることが出来たのは、威圧感と恐怖と、冷酷さだけだった。

だが今目の前にいるカノンは……小宇宙の強大さは変わっていないどころか、むしろ安定を得てより大きくなったようにも感じるが、全身から出る雰囲気が、バイアンの知るカノンとは全く異っていた。本当にあのシードラゴンなのか?と、疑いをすら抱いてしまったほどで、そんな思いからか、無意識のうちにカノンの顔を呆然と見つめてしまっていたのである。

「……お前達さ、何ボケッと人の顔見てんだよ?」

言われてハッと我に返ったバイアンが隣のアイザックを見ると、アイザックもまたバイアンと同じようなリアクションを取っていた。どうやら図らずも2人揃って同じことを考え、同じような行動をとってしまっていたようだった。

「あ、いえその、何でもありません。不躾に失礼しました、久しぶりでしたもので、つい……」

バイアンが慌てたように取り繕うと、カノンは困ったように笑って

「いいよ、誤魔化さなくても。さっきセイレーンにも、さんざん同じような顔されたから、もう慣れた。にしてもお前達のオレを見る目、揃いも揃ってまるで珍獣でも見てるみたいだな。そんなにオレ、変わったか?」

それでいてどこか楽しげに、バイアンに聞き返した。

「いえ、そう言うわけでは……」

「別に気を使わなくてもいいさ。目は口ほどにものを言う、ってな。明らかに胡散臭そうな目で見てるぜ、お前等」

バイアンとアイザックを交互に見遣って、カノンは今度は楽しげに笑った。カノンが笑い声を立ててることに、やはりバイアンもアイザックも驚いて更に目を丸くした。

「まぁ、んなこたぁどうでもいいや。肝心のことをさっさと何とかしなきゃな。セイレーンから聞いたけど、北大西洋の柱の結界、何か面倒なことになってんだって?」

不毛な会話にピリオドを打って、カノンは本題へと話題を転換した。バイアンの表情が、瞬く間に真剣さを取り戻す。

「はい、そうなんです。詳しいことはソレントが説明したと思いますが、何分私達が総掛かりになっても手に負えなくて」

「らしいな」

「海将軍5人が総掛かりになって、結界一つ満足に修復できないのも、情けないかぎりなのですが……」

「あ〜、それな。情けないとか何とかそれ以前の問題として、お前達の手に負えなくて当然なんだわ」

「は?」

些かマヌケな声を上げて、バイアンは目を丸くした。

「悪ぃ、オレもすっかり失念してたんだけど、北大西洋に張ってある結界(あれ)な、ウチの兄貴オリジナルのちっとばかし特殊なもんでな〜、結界自体が捻くれてんだわ」

「はぁ?!」

ますますわけがわからず、バイアンはきょとんとしたが、それを聞いてソレントが横でくすくすと笑った。

「つまりそんじょそこらのもんとは根本的に違うんで、構造知らない人間がどうにかしようとしても、ちょっと難しいモンがあるんだわ」

「それを中途半端に放置されてたんですからね、こちらとしては堪ったもんじゃありませんよ」

笑いを収めてソレントは言ったが、嫌みというよりこれは多分に冗談口に属するものだった。

「忘れてたんだ、仕方ないだろう。で?、どうするよ?。結界の仕組み教えてもいいけど、それよか取っ払っちまってお前達で新しく張り直した方がいいだろう?。オレもそうしょっ中顔を出せるわけでもないしな」

ソレントの冗談口を軽く流して、カノンはバイアンにどうすればいいのかを尋ねた。

「そうですね、後々のことを考えればその方が都合がいいです。今後、北大西洋の柱はアイザックが見ることになりましたので、アイザックと一緒に結界の張り替えをしていただけると助かります」

なるほど、それで2人が一緒にいたのか……と、カノンは納得した。別に深くは気にしてなかったが、アイザックがバイアンと共に自分の前に姿を現したとき、少し疑問には思っていたのである。

聖域で生活するようになって間もなくの頃、カノンは氷河からアイザックとここ海底神殿で相対した時の話を聞いていた。カノンの存在を知らなかったアイザックは、カノンとサガを取り違えてはいたものの、あの聖戦の首謀者が誰であるのかと言う真実は、ソレントより以前に知っていたのである。生き返ってから真相は聞いているであろうが、いずれにせよ、アイザックはあの時点からカノンにいい心証を持っていなかったわけで、となれば自分の顔を見るのも嫌だと思っているに違いないと、カノンの方では思っていたのだ。

アイザックが海闘士になる以前、シベリアで水晶聖闘士の教えを受けていたことはカノンも知っている。またアイザックは氷河の兄弟子であり、僚友のカミュの孫弟子と言うことになるのだが、考えてみればこれも奇妙な縁である。

「よろしくお願いします」

今日初めて口を開くのと同時に、アイザックはカノンに頭を下げた。それを受けたカノンは、おや?と言うように僅かに表情を動かした。

海闘士時代もアイザックとはあまり深く接したことはなかったが、カノンの知る限り、アイザックはもっと冷たいと言うか、険のあるギスギスした感じの少年だった。氷河からアイザックが何故海底神殿に来ることになったのかと言う経緯と、彼自身が氷河に吐露した心情の一部を聞いて納得もしたのだが、今のアイザックからはその当時のようなギスギスとした雰囲気は感じられず、まるで角が取れたような印象を受ける。

ソレントもバイアンも、そしてアイザックも、カノンの変わりようにいちいち驚いていたが、カノンはカノンでアイザックの雰囲気の変化に驚かされたのだった。

「OK、じゃ、早速だけど行こうか?、クラーケン。ああ、そうだ、他にも何か色々あるんだろ?。それはこれ終わった後でいいか?、シーホース」

早速アイザックを促しつつ、カノンはバイアンに尋ねる。

「え、ええ、もちろんそれは構いませんが……」

明らかに事を急いている様子のカノンに、やや気圧されたようにバイアンは頷いた。

「待ってください、シードラゴン」

バイアンの返事を聞くが早いか、アイザックを伴ってその場を後にしようとしたカノンを、ソレントが引き止めた。

「何だ?、セイレーン?」

「別にそんなに焦って片付ける必要もないでしょう。時間はあるのですし、今日はもう時間も遅い。食事をしてゆっくり休んだらいかがです?」

遅いと言っても、恐らくはまだ7時を回った程度であろう。地上ではやっと完璧に日が沈んだくらいの時間で、宵の口とも言えないような早い時間である。まぁ、夕食時といえばちょうどいい時間だし、何も食べずに急いで出てきたから空腹ではあるのだが。

「何だよ、お前達が急いでるっつーか、困ってるって言うから、さっさと片付けようとしてるんじゃないか」

そう、困っている、何とかしてくれと言って来たのはソレントの方である。だから急いで何とかしてやろうとしているのに、言ってることが矛盾してるじゃないかとカノンは思わずにはいられなかった。

「ここまで放っておいたんですし、あと半日や一日遅れたところで大差ないでしょう。すぐに食事の用意をさせますから、神殿のダイニングで待っててください」

ソレントはそう言い置くと、カノンの返事も待たずにさっさとその場を離れていった。確かにソレントの言う通りかも知れないが、徹底的に可愛くないその物言いにカノンも憮然とせずにはいられなかった。こう言う奴だとわかってはいても、可愛くないものは可愛くない。

「ソレントの言う通りです。突然ここに来る羽目になって、貴方だってお疲れでしょう。今日のところは休んでください、シードラゴン」

カノンの僅かな表情の変化でその内心を察したか、バイアンがソレントをフォローするように彼に同意したが、どうやら笑いを堪えているようで、妙に不自然に表情が固まっていた。ここまで言われるとカノンも突っぱねるわけにもいかず、仕方なくそれに従うことにした。

本音を言えば一刻も早く諸々の仕事を片付けて十二宮へ帰りたかったのだが、さすがにそれを口にするわけにはいかなかったのである。




食事を済ませた後、そのまま海将軍達と座談を交わしたカノンが、かつての自分の私室に戻ってきたのは、ちょうど11時になろうかと言う時間だった。あんな風に海将軍達と他愛もない話をしたのははっきり言って初めてだったし、カノンの変わりようにいちいち驚かれたのには腹も立ったが、それはそれで良い時間は持てたのだとカノンも思っていた。ソレントの言っていた通り、内心ではどう思っているかはわからないが、少なくとも皆表面上は概ね好意的な態度をカノンに示していた。

だが、結局自分がここに来た肝腎要の用件の詳細には、最後まで触れられず終いであった。食事の席で仕事(?)の話を持ちだすのも難ありと言えば難ありなので仕方ないが、カノンとしては出来ることなら明日早々のうちに用事を片付けてしまいたかったので、多少なりとも逸る気持ちがあったのだ。まぁ、もうこんな時間になってからでは何も出来ない、と言うか、さすがに何をする気力もないのだが。

普段であればまだまだ夜はこれから、と言った時間なのだが、今日は……と言うよりも、ここにいると何故かもう真夜中にでもなっているかのような気分になる。時差があるわけではないのだが、主観的な時間の感覚に狂いが出ているようで、奇妙な気分だった。

「もう2度と、ここに来ることなんてないって思ってたのにな」

1人そう言ちて、カノンは嘲笑めいた笑みを唇の端に浮かべた。

久しぶりに足を踏み入れた私室は、一度崩壊しているにも関わらず、かつて自分が生活していた時の状態のままだった。サガへの憎しみ、聖域への恨み、そして世界征服への飽くなき野望を抱いて13年間を過ごしたこの部屋は、当時の愚かなだけだった自分を嫌が応にも思い出させるが、それでもなお、カノンの胸の中に懐かしいような気持ちが去来するのも事実だった。本来であれば、ここには自分の居場所も、存在理由もなかったはずなのに、不思議なものである。

カノンは苦い思い出と懐かしさとを一緒に払拭するように小さく頭を振ってから、おもむろにその身体をベッドに投げ出した。

「……心配してんだろうな……」

ボ〜ッと見上げていた天井に、サガの顔とミロの顔とが同時に浮かんで消えていった。





「お前、何でシードラゴンを連れて帰ってきた?」

各自が自室へ引き取った後、個人的に自分の元を訪れたソレントにコーヒーを出しながら、バイアンは訝しげに尋ねた。

「みんなが北大西洋の結界外すのに苦労してたからですよ。それに他にもわからないことが多くて困るから、彼に聞いてきてくれと私に頼んだのは貴方でしょう」

出されたコーヒーにミルクを落としながら、事も無げにソレントが答えた。

「それはそうだが、オレは連れてきてくれとまでは言わなかったぞ」

ソレントの正面に腰掛けて、バイアンも自分のコーヒーにミルクを落しながら話を続けた。

「確かにそれはそうですけど、本人が来てくれたほうが何かと都合がいいでしょう?。話も早くすむ、そう思って気を利かせたつもりだったんですけど、いけませんでした?」

「いや、いけないと言うことではないのだが、今の彼に下手に接触したら、聖域の不審を招く恐れがあると警戒していたのは、お前も同じだったはずだろう?」

「ええ」

「迂闊に彼をここに呼び寄せて、無用の誤解や混乱を呼び込む可能性がないとも言えんぞ。それがわかってて、何故?」

バイアン自身は過去のことは既に水に流しているし、今更彼に復讐戦など挑むつもりもなく、聖域とも共存しながらただ静かにひっそりとここで暮らしていくことを望んでいる。他の海将軍達も、大半はバイアンと思いを同じくしているはずだった。故に、こちらからカノンに危害を加える意志などないのだが、聖域からしてみればそうは見えないだろう。不用意にカノンに接触でもしようものなら、良からぬことを企んでいるのではないか?と思われるのが関の山だ。こちら側からすればそう思われるのは心外なので、無用の誤解を招かないようにとこれまでカノンとの接触を避けてきた。互いにとってこれが一番無難な方法であると判断したからだが、ただ今回ばかりは自分達の手に負いきれず、カノンの助力を借りねばならない状態に陥ってしまい、やむを得ずバイアンは地上で生活しているソレントにカノンへの使節の役を頼んだのだが、それはあくまで『結界の取り方、ないし修復の仕方を聞いてきて欲しい』と言うもので、海底に連れ帰ってきて欲しいと言うものではなかったのである。だから、実際ソレントがカノンを伴って帰ってきたことに一番驚いたのは、他ならぬこのバイアンだった。

結界のこと以外でも確かにカノンに聞ければ助かることが、山積みレベルであるにはあるのだが、それは何とかしようと思えばカノンに聞かなくとも何とか出来たことであるし、要らぬ誤解や疑念を招く危険性を押してまでカノンを連れてきてもらう必要性は、本来はなかったのだ。

「ですから、その要らぬ誤解を招いたりしないよう、ちゃんと彼のお兄さんに立ちあってもらって話を通してきたんですし、一緒に来てもらうことも同意してもらったんです。心配は要りませんよ」

ソレントはバイアンの心配を軽く一笑に付して、コーヒーを飲んだ。だがそうは言われても、バイアンにしてみればソレントのように気楽に構えてはいられなかった。冥界との聖戦の際、女神が改心して戻ってきたカノンを厚く遇して重用したと言うことはバイアンも聞き及んでいたし、言い換えればそれだけカノンは女神にも大事にされている人間だ。しかも彼の実兄は双子座の黄金聖闘士で、次期教皇候補だとも言うし、そんな連中を相手にあらぬ誤解や疑念を招くような羽目になったら、事態そのものがとんでもなく厄介な方向に転びかねない。そう思うととてもじゃないが、平静ではいられない。取り越し苦労だとソレントは笑うが、カノンの後を継いで海闘士筆頭の地位に立つのはバイアンなのである。この海底神殿、そして海闘士達の平和で静かな生活を守る責任と義務とが、彼にはあった。それだけにほんの少しの危険性でも、神経質にならざるを得ないのだ。

「お前、何考えてるんだ?」

「何がです?」

「何故今になって、シードラゴンに固執する?。お前は彼を、憎んでいたはずじゃなかったのか?」

バイアンは明らかに何らかの理由で、ソレントが個人的にカノンに固執していることを、見て取っていた。正式に海龍を返上していないからだの何だのと、他にも色々もっともらしい理由を付けてカノンをここに連れてきたらしいが、実際それは事実であってもさほど重要視するような類いのことでもないし、無理に形式付けをする必要もないことだ。カノン自身、黄金聖闘士の地位を有しているとは言え、些か中途半端な立場に立っていることはバイアンも承知しているし、彼が望むのであれば再び自分たちの筆頭の座に返り咲いてもらっても構わないとも思っているが、カノンがそれを望んでいないことが明らかである以上、こちらが強制してどうなるものでもないし、また強制しようとも思わなかった。あとはお互いがお互いのいるべき場所で、それぞれに役割を担いながら自らの人生を全うすればいいだけの話だ、バイアンはそう思っていたし、ソレントも同じだと思っていたのだが、それはどうやらバイアンの認識違いであるようだった。

「憎んでいた……そうですね……」

独語混じりに呟いて、ソレントはカップをソーサーに置いた。そう、自分はポセイドンを誑かし、そしてジュリアンや自分たちをも自己の野望のために利用したカノンを嫌悪し、憎悪していたはずだった。それなのに……。

自分の中に渦巻く感情が、以前のそれとどんどん形を変えていることを、この時ソレントは漠然と自覚し始めていた。

「いずれにせよ、心配は要りませんよ、バイアン」

だがソレントはそれ以上自分の思うところについては言及せず、一瞬にして表情を作り変えてバイアンにそう断言したのだった。

結局バイアンもそれ以上何を聞くことも出来なかったが、胸の内には釈然としない思いと、胸騒ぎに似た何かが残っていた。



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