聖域高校バスケ部
アイオロスは部室のある旧校舎から体育館へと続く中庭の通路を、足早に歩いていた。
もう辺りはすっかりと夜の闇に包まれ、弱々しい通路の電灯では心許ないくらいだった。
向かって左手にある新校舎の方も、既に職員室とそして警備員室の灯しかついていない。
そんな中、正面の体育館から洩れる電灯の明かりが、やけに煌々と浮き上がって見える。
しっかり閉ざされている体育館の出入口の側まで来ると、中からボールの弾む音が聞こえて来る。
それと一緒に響いてくるバッシュの音は複数の人間のものではなく、音を立てずにほんの少し扉を開けて中を覗くと、そこには予想通り、たった一人で黙々と練習をしているサガの姿があった。

アイオロスはここ、聖域高校バスケット部の主将である。
聖域高校は先だって行われた夏のインターハイに出場していたのだが、アイオロスはその大会中に負傷をし、インターハイ後はその療養の為に休部を余儀なくされていた。
そのアイオロスが医師の許可を受け、部に復帰してきたのは二日前のことであった。
頼もしい主将の復帰にバスケ部は活気づいたが、多分、アイオロスの復帰を誰よりも心待ちにしていたのは、今、中で一人残って自主練を続けているサガだろう。
サガは聖域高校バスケ部の副主将として常にアイオロスをフォローして来た戦友であり、そして親友であり、実は恋人でもあった。
もちろん二人が恋人同士であることは、部の誰一人として知らぬ秘密であったが。

サガはどうやら、スリーポイントシュートの練習をしているようだった。
全国でも名の知れた超高校級のシューターであるサガは、内からも外からも自由自在にシュートを放てる抜群の実力の持ち主であるが、中でもとりわけ得意としているスリーポイントシュートは秀逸であった。
その決定率の高さは驚異的とも言われているが、その驚異的な数字はこうした日々のたゆまぬ努力により生み出されているものだということを、アイオロスは誰よりもよく知っている。
一心不乱に練習を続けるサガの後ろ姿を見て、中に入るか否か一瞬迷ったアイオロスだったが、このままでは恐らくいつまでたってもサガはアイオロスのことに気が付きはしないだろう。
アイオロスは意を決して靴を脱ぎ、何故か忍び足で体育館の中に足を踏み入れた。
全神経をボールとゴールに集中させているサガは、まだアイオロスのことに気付いてはいない。
スリーポイントラインから理想的かつ完璧なフォームで放たれたそのシュートは、アイオロスの目の前でふわりと柔らかく舞い上がり、見事な放物線を描くと、きれいにゴールに吸い込まれていった。

「ナイッシュー!」

ゴールネットから床に落ちたボールが弾む音と、アイオロスの声が重なった。
サガがびっくりしてして振り向くと、アイオロスがニコニコと微笑みながら自分を見ている。

「アイオロス……帰ったんじゃなかったのか?」

故障明けで復帰したばかりのアイオロスは、現在はまだ練習時間を制限されており、皆よりも一足先に練習を終えてあがっていたはずだ。
正確にはわからないが、アイオロスが上がってから既に2時間近くの時間は過ぎているはずである。
とっくに帰宅しているものとばかり思っていただけに、再び体育館に姿を現したアイオロスにサガは驚きを隠せなかった。

「久しぶりに一緒に帰ろうと思ってな。お前が上がってくるのをずっと部室で待ってたんだが……」

サガの傍に歩み寄ったアイオロスは、跳ね返って足元に転がっていたボールをひょいと拾い上げ、

「居残り組が次々上がってきてさ、最後のカノンとミロも上がってきたってのに、お前だけいつまで経っても上がってこないんだもんな。さすがに待ちくたびれちまったよ」

言いながら、それを右手の人差し指でくるくると回した。

「そうか、それはすまなかった。だが私なんか待っていたら遅くなることはわかっていたろう? 先に帰ってくれればよかったのに」

サガは朝は誰よりも早く来て練習を始め、夜は一番遅くまで残って練習をしている。
それは一年生の時からずっとで、いわばサガの日課であった。もちろん、遠征先でも試合の当日でも、その日課は変わらない。
そしてアイオロスも怪我で休む直前まで、毎日そんなサガに付き合っていた。だから、誰よりもそのこともよく知っているのである。
1年生の時はただただ自分の為に、自分が上手くなることだけを考えて練習をしていればよかった。アイオロスも、そしてサガも。
だが2年生になり後輩ができてからは、そういうわけにもいかなくなった。
後輩達の指導や面倒を見ねばいけない立場となってから、特にサガは頼られるまま請われるままに後輩達の早朝練習やら居残り練習に付き合うようになっていたのだが、となると必然的にサガ自身の個人的な練習時間が減ってしまうことになる。
生真面目なサガは、それを取り戻そうとこうして連日更に遅くまで残って練習をしているのであった。

「そんなことはわかってるけどさ」

アイオロスは指で弄んでいたボールを持ち直すと、即座にひょいっとシュートを放った。
だがそのシュートは僅かに外れ、ガコンッと派手な音を立ててゴールリングに当たり、大きく跳ね返った。

「あ〜、やぁっぱお前みたいにゃいかねぇよなぁ〜」

インサイドワークが得意なアイオロスは、殆どスリーポイントを放ったことがない。
見様見真似で上手くいくはずもなく、苦笑いしながらそう呟いて、またサガの方へと視線を戻した。

「3ヶ月」

「え?」

「あのインターハイから3ヶ月だ。その間お前とろくすっぽ一緒にいられなかったんだからな。オレはその分を、少しでも取り戻したいんだ。だから待ってたんだけど、迷惑だった?」

あのインターハイとは、言わずもがな、アイオロスが大怪我を負った大会のことである。
大会後、アイオロスは地元の病院に転院してしばらく入院生活を送っていたのだが、その間サガは頻繁に病院に見舞いに訪れてくれてはいたし、退院後も暇を見つけてはアイオロスの自宅に立ち寄ってくれていた。
それでもやはり多忙の合間を縫ってのことだから滞在時間は短く、また他の部員と一緒のことが殆どだった為、ゆっくりと話をすることも出来なかったのだ。
それまでずっと、一日の大半をサガと一緒に過ごしていたアイオロスにしてみれば、物足りないなんてものではなかった。
思い通りにならないもどかしさと、募るばかりのサガへの想いにどうにかなってしまいそうだったのである。

「迷惑なんかじゃないけど……」

モゴモゴと呟きながら、サガはアイオロスから視線を外して俯いた。
俯くサガの頬が紅く染まっているのは、練習の余波のせいばかりではないだろう。
それを素早く見て取ったアイオロスの口元が、自然と綻んだ。

「急かすような真似はしたくなかったから、おとなしく待ってるつもりだったんだけど、もうそろそろ9時だ。いくら何でも遅すぎだろう。お前の気持ちはわかるけど、オーバーワークはよくないぞ。ゆっくり休んで体調を整えるのも、大事なことだぞ」

やんわりとした口調で、アイオロスはサガのオーバーワークを窘めた。
もちろんサガ本人にその自覚はない。サガはただ、バスケがしていたいだけなのだ。
そのことはよくわかってはいるけれど、放っておいたらサガはすぐに無理をするので、適度なところで止めてやらねば駄目な時もあるのである。

「それにあんまり遅くなると、ボイラーが止まってシャワーが浴びれなくなるぞ。な? 今日はもうこの辺にして上がろう」

サガは練習後、汗を落とさずにいることを極端に嫌う。なのでこの説得方法が、一番効果覿面なのであった。
案の定、物足りないと満面に書いて不満を露にしていたサガの表情が、コロリと一変した。

「そうだな」

あっさりと頷いて、サガは流れ落ちる汗をタンクトップの裾で拭った。
アイオロスも満足したように頷きを返し、

「じゃ、片付け手伝うよ」

そう言うが早いか、床に散乱しているボールを拾い始めた。

「いいよアイオロス、ここは私が片付けるから……」

サガは慌ててアイオロスを止めた。
ここを好き勝手使っていたのは自分なのである。とっくに上がってしまったアイオロスに片付けを手伝ってもらうのは、さすがに気が引けたのだが、

「いいっていいって。1人より2人でやった方が断然早いんだから」

アイオロスはサガの言うことを意にも介さず、集めたボールをボール篭に放り込みながら、サガに向かってニッコリ笑ってみせた。


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