11月29日-
サガがこの日の仕事を終えたのは、夜も11時になろうかと言う時間だった。 明日のことがあるので、とにかく今日のうちに終わらせられるだけのことを終わらせたかったサガは、渋るアイオロスを2時間ほど前に帰宅させ、1人残って仕事を続けていたのである。 サガが片付けと明日の準備とを簡単に済ませ、帰宅しようとしていた時、教皇・シオンが政務室に現れた。既に数時間前に仕事を終え、私室に引き取っていたシオンは、法衣ではなく私服のローブで寛いだ格好をしていた。 「サガ、毎日遅くまでご苦労であるな」 シオンはサガに労いの言葉をかけ、笑顔を向けた。 「恐れ入ります」 サガはその場で姿勢を正し、一礼して答えてから 「教皇様、こんなお時間にいかがされました?」 やや不審気に眉を寄せた後、表情を引き締めシオンに尋ねた。シオンがこんな時間になっていきなり政務室に戻ってくるなど、急な仕事の指示に違いない。サガは頭の片隅で、徹夜仕事を覚悟した。 「ふむ。そなたに言っておかなければならないことがあっての」 「はい。急ぎの仕事でございますか?」 この時期、昼夜問わず予定外の仕事が突然舞い込んでくるのは日常茶飯事だ。しかもどれもこれもが『急ぎ』のものばかりである。経験上、それら全てが予測の範疇にあったサガは、別段驚く様子1つ見せることなくシオンに聞き返したが、シオンは笑って首を振った。 「そうではない、サガ。仕事ではないのだ」 「え?」 てっきり仕事だと信じて疑っていなかったサガは、シオンの返答の方に驚いた。 「仕事であればもっと早くに言うておるわ」 そう言いながら、シオンは軽く笑い声を立てた。 「それでは一体……」 仕事でないとすると、私用であろうか?。いや、また例の「アイオロスと結婚しろ」攻撃か?!と、サガは先刻以上に身構える。 すったもんだの後、13年前の決定通り次期教皇はアイオロスと決まったまでは良かったが、とにかく一日でも早く引退して教皇職の煩わしさから解放されたいと切望しているシオンは、その機会を虎視眈々と狙っており、事あるごとにサガに「アイオロスと結婚しろ」としつこく迫っているのである。自分がアイオロスを教皇として育てるまでには、まだあと2〜3年はかかる。だが、13年間教皇として君臨し、その職務を行ってきたサガがアイオロスと結婚してその補佐につけば、全てをサガに押し付けられるとシオンは踏んでいるのである。つまり表向きアイオロスを教皇として君臨させ、裏でサガに手綱を引かせようと言う魂胆である。 だがその計画もサガがのらりくらりと躱すのでなかなかうまく行かず、シオンは引退してのんびりとした生活を送ることを夢に見つつも、教皇職を退くことが出来ずに今日に至っている。 隙あらば朝昼晩を問わずにその攻撃を仕掛けてくるシオンであるから、わざわざそれを言うためだけにここに戻ってきたのだとしても、何らおかしくはない。散々それに取っ捕まって酷い目を見ているサガは、思わず警戒心を強めた。 「いや何、大したことではないのだが、そなたの帰り際でないと言えんかったのでな」 だが、何やら今日は様子が違うようである。 「……何用でございましょう?」 シオンの意図が見えず、サガは内心で首を傾げた。 「ふむ。明日のことだが、そなたにも休暇を与える故、出勤せずともよいぞ」 「は?」 全く予想外のシオンの言葉に、サガは無意識のうちにマヌケな声を上げた。 「だから休みをやると言うておるのだ」 シオンにもう一度繰り返され、サガはパチクリと目を瞬かせた後、表情を曇らせた。 「教皇様、お心遣いには感謝いたしますが、それは以前にもお断りさせていただきました」 実は数日前にも、サガは同様のシオンの申し入れを謝辞している。アイオロスの誕生日であると言うことを配慮した上での、シオンの粋な計らいであったのだが、当事者であるアイオロスはともかく、自分までそれに甘えて仕事に穴を開けるわけにはいかないと、サガが断固としてそれを承知しなかったのである。 シオンも生真面目すぎるほど生真面目なサガの性格はよくわかっていたので、これ以上は言っても無駄だと諦めて、溜息混じりでその話を終わりにしていたのだが……。 「アイオロスもそのことは充分承知いたしておりますし、教皇様のご温情はありがたく頂戴いたしますゆえ、何卒お気遣いなきようお願いいたします」 サガはシオンの配慮に感謝の意を表しつつも、改めてきっぱりとそれを断ると、恭しく頭を下げた。 「仕事のことなら心配するでない。ちゃんとそなたの代わりの者がおる」 「えっ?!」 だがすぐに続けられた言葉に、サガは先刻以上にはっきりとした驚きの表情をその顔にのぼらせて、シオンを見つめた。代わりのものと言っても、現在教皇補佐の職務にいるのは自分とアイオロスだけ。アイオロス以外には自分の仕事を代われるものなど、居ないはずだ。シオンが誰のことを指して代わりと言っているのか、サガには見当もつかず、ただ呆然とシオンを見つめることしか出来なかった。そんなサガの様子を少し楽しげに眺めてから、シオンが再び口を開いた。 「そなたの弟だ」 そうして得た答えに、サガの目が大きく見開かれる。 「弟……カノンでございますか?」 「そなたに弟は、カノン1人しか居らぬであろう」 シオンはそのマヌケな質問に苦笑して答えたが、サガの方は自分が変なことを聞いていると言う意識はなかった。信じられないと言う思いの方が、圧倒的に強かったからである。 「な……何故、カノンが……」 サガにしては珍しく、内心の動揺をそのまま表に出していた。もちろん、カノンはそんなことはサガには一言も言っていなかったどころか、それらしい素振りの1つも見せていなかった。第一あの面倒臭がりのカノンが、自ら進んでサガの代わりに仕事を引き受けるとは、到底思えなかったのだ。とすると、シオンがカノンにそれを要請したのであろうか?。 「一昨日のことだったかの?。カノンが余のところにまいっての……」 「カノンが……教皇様のところに、ですか?」 シオンはそれに頷き、話を続けた。 「それで余にこう願い出て行ったのじゃ。『30日は私が兄の職務を代行いたしますので、兄に休暇を与えてやっていただけないでしょうか?』とな」 サガの目が、驚愕にますます大きく見開かれた。カノンが?、あのカノンが自ら自分の代わりを務めると……?。俄に信じがたい事実に、サガは呆然とした。 「別に余が休みをやらぬと言うておるわけではないのにの」 言いながらシオンがケラケラと笑ったのを受け、サガはハッと我に返って恐縮した。 「申し訳ございません」 「別にそなたが謝ることでもなかろう。それにそのこと自体はカノンもわかっておったし」 サガが頭を下げカノンの非礼を詫びると、シオンは片手を軽く振ってそれを制した後に、言葉を継いだ。 「余がそう言うたらの、カノンは『それは充分承知しております。堅物の兄のことですから、教皇様のご厚意を仕事に穴を開けるわけには行かないとでも言って、固辞したのでございましょう』と言うておった。さすが双子の兄弟、よく兄の性格がわかっておるの」 シオンは心底楽しそうにそれを語って聞かせたが、サガの方は恐縮する一方であった。 「それでの、『こうでもしない限り、兄は絶対に首を縦には振りません。勝手なお願いですが、どうかお聞き入れいただきたく存じます』と、深々と頭を下げての」 シオンとしても、実はカノンがそのようなことを申し入れてくるとは些か意外だったのである。 サガとカノンの兄弟仲は既に修復し、今まですれ違い憎み合っていた20数年の月日を取り戻そうとしてるかの如く、今は平穏無事に仲良く2人で双児宮で暮らしている。それ故かカノンがアイオロスに対して少し複雑な思いを抱いていることを、もちろんシオンも見抜いていた。 今回の場合、誰が一番喜ぶかと言えば、考えるまでもなくアイオロスである。当然カノンにもそれがわかっているはずなのだが、にも関わらずカノンは自らサガの代わりを買って出てきた。兄の為と言うよりはアイオロスの為と承知していながら、シオンに頭を下げに来たのである。さすがにシオンもこればかりは予測することができず、意外の念を禁じえなかったのだ。 「そう言われたら余とて断れぬ。明日1日はカノンに余の補佐を命じた故、そなたはアイオロスとゆっくり休むがよい」 だがシオンは、それによって率直に感銘を受けたのも事実である。シオンはカノンの申し入れを快諾し、カノンを1日サガの代わりに自分の補佐につけることによって、サガに休暇を与えることにしたのだった。 「しかし教皇様……」 まさかカノンが、自分とアイオロスのために、わざわざそんなことを教皇に申し入れてくれてたとは思わなかった。素直にカノンの気持ちを嬉しいと思った。そしてそれを容れてくれた教皇の寛容にも感謝した。 だが、サガにはそれをすぐに受諾することは出来なかった。 「弟の勝手な申し入れをお聞き届けいただき、大変嬉しく思います。弟の気持ちも嬉しくないと言えば嘘になりますが、実際問題として弟は今まで教皇補佐の職務を代行したことは1度もございません。それをいきなりでは、教皇様にご迷惑がかかるだけでございます」 一度でも代行したことのある仕事であればともかく、カノンはサガの仕事を手伝ったこともないのだ。教皇補佐のアイオロスとサガを除いた他の黄金聖闘士達は、今も三交代制で毎日教皇宮及び女神神殿の守護についており、カノンの本業はそっちである。つまり、カノンはカノンで仕事を抱えており、サガの仕事を手伝おうにも手伝えないのは当たり前なのだが。 「ふむ、そなたの言うことも最もだが、カノンは『双子マジックがあるから大丈夫です』と、自信満々に言うておったぞ」 シオンは楽しげに笑ったが、そんな非現実的なことを平気で言ってのけたのかと思うと、サガの顔色はますます青くなる一方であった。 「そのような根拠のない大言壮語をお信じにならないでください。ともかく、昨日の今日では弟には無理でございます。それに弟は弟で、確か明日は教皇宮の日勤番であったはず。弟の本来の職務はそちらでございますし、それを疎かにさせるわけには参りません」 サガの頭の中には、自分のシフトの他にカノンのシフトも完璧にインプットされている。明日はカノンは間違いなく、教皇宮の日勤番であるはずで、自分と勤務時間が重なっているのだ。それだけでも、到底自分の代わりなど出来ようはずもない。 「ああ、それも心配せずともよい。そっちはミロが代わるそうだ」 「は?」 だがこれまたあっさりとシオンに言われ、サガはまたマヌケな声をあげることになった。 「……ミロが……で、ございますか?」 「ああ、言わんかったがの、ミロもカノンと一緒に来たのじゃ。そなたの仕事を代行するカノンの代わりは自分が勤めるからと、共に頭を下げて行ったわ」 「ミロが……」 何と言えばいいのか言葉が見つからず、サガは小さく呟いた後に黙り込んだ。 「あの2人は相変わらず仲が良いの。まぁ、よく喧嘩もしておるようじゃが」 カノンとミロも、シオン公認の仲である。兄を思うカノンと、そのカノンを思うミロとの姿を、シオンは非常に微笑ましい思いで見ていたのだった。 「ミロにとってはそなたもアイオロスも、義兄になるかも知れん人間だからの。一生懸命にもなるであろう」 冗談とも本気ともつかぬ口調でそう言って、シオンは笑った。 「お、お戯れを……」 思わず頬を赤くして、サガは顔を伏せた。 「それとの、そなたが休むことを固辞していると知って、カノンにそなたの説得を頼んだのは、アイオロスの弟だそうだ」 シオンが笑いを収めて言うと、サガはまた新たな驚きに弾かれたように顔を上げた。 「アイオリアが?」 「そうじゃ。そなたのことだ、恐らく仕事にかこつけてアイオロスをアイオリアの側に居させてやろうとしていたんだろうが、こちらもさすがに兄弟、弟は兄のことをよくわかっているようだの」 アイオロス、アイオリア兄弟にも、13年間の空白がある。その原因を作ったのも、他ならぬサガ自身だ。サガにはアイオリアの十数年をつらいものにさせてしまったと言う、自責の念が強く残っている。アイオリアは既にサガを許し、全て水に流してくれているが、サガの中からアイオリアへの罪の意識が消えることはない。 こんな些細なことで罪滅ぼしになるとも思っていなかったが、自分がアイオリアの中に植え付けてしまった空白の時を、少しでも埋めてやることが出来たらと、サガはいつも思っている。だからせめて今年の誕生日くらいは、兄弟水入らずで過ごさせてやりたいと思っていたのだ。半年前、アイオロスが自分とカノンにしてくれたのと同じように。 「サガ、肉親への情愛と他人への愛は、似ているようで全く非なるものじゃ。アイオロスがどんなに強くそなたを求めても、アイオリアへの愛情が薄れることはない。それはアイオリアもよくわかっておる。だからこそ、兄が1番強く求めているそなたにこそ、兄の傍らに居て欲しいと願うのであろう」 そして立場を同とするカノンも、アイオリアのそんな気持ちを肌で感じたからこそ、自分のところにサガの代わりを申し出てきたに違いないのだ。 「のう、サガ。余の厚情とは思わず、弟達の兄を思う気持ちを受け取ると思うて、素直に甘えたらどうだ?。あやつらもアイオロスを喜ばせてやりたいのだ」 シオンが弟達の気持ちを受け容れるよう、静かにサガを促した。サガは少し俯いたまましばらく黙っていたが、やがて 「はい、教皇様。お言葉に甘えさせていただきます」 その顔を上げ、大きくはないがはっきりとした口調で、そう返事を返した。真正面からしっかりと自分の目を捉えるサガの蒼い瞳から、迷いの色が完全に消えたのを見て取り、シオンは満足そうに頷いた。 |
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