カノンはリビングに入る前に、一旦立ち止まって小さく深呼吸をした。そして何食わぬ顔を作ってから、リビングへと入った。

リビングに入るとすぐ、正面のソファに座っていたサガが、カノンの姿を見て立ち上がった。

アイオロスの言った通りだった。サガは本当に、ここでカノンの帰りを待っていたのだ。サガの姿を確認した途端、カノンの体から変な緊張感が一気に抜け去った。

「どこに行っていたのだ?。昼食に手も付けずに居なくなっているから、心配したのだぞ」

サガはカノンの側に立つと、叱るというより語りかけるような口調でカノンに聞いた。

「ん……ミロんとこ……」

サガに全く同じ高さから真っ直ぐに目線を合わされて、カノンは慌ててそれを外した。

「やはりミロのところに行っていたのか。アイオロスが多分そうだろうと言って迎えに行ってくれたのだが……」

十二宮内に於て、自分の行動パターンは確かに限られてはいるが、アイオロスにまでそれをあっさりと見透かされているのかと思うと、何となく腹立たしい思いのするカノンであった。

「今日は出かけずに待っていろと書き置いて行っただろう?。何故おとなしくしておれんのだ?。ミロにもアイオロスにも迷惑をかけているではないか」

サガに窘められ、カノンはあからさまにムッとした表情をした。

「自分は勝手にアイオロスと出かけて、オレにだけ出かけるな、おとなしくしてろなんて、虫が良すぎるんじゃねーの?。サガだって好き勝手してたんだから、オレだって好きなことしてただけだ。怒られる筋合いなんてない!」

思いっきり不貞腐れて、サガにそう言ってやると、

「何を言っているのだ?、お前は。私は別にアイオロスと一緒に出かけていたわけではない」

サガは訝しげな顔をして、カノンを見返した。

「嘘つけ!。だってついさっき、アイオロスが天蠍宮に駆け込んでくる前まで、一緒にいたんだろーが!」

つい先刻の会話の中でもそれが証明されているのに、しれっとした顔でそれを否定するサガに、カノンは怒りを覚えた。

「何を勘違いしているか、早とちりしているのかは知らんが、私はアイオロスと一緒になど出かけてはいない。私はずっと白羊宮にいたのだからな。嘘だと思うのなら、白羊宮に行ってムウにでも聞いてみるといい」

「ヘ?、白羊宮?!」

「そうだ。アイオロスとは午前中白羊宮まで行ったときと、先刻白羊宮からここに帰ってきたときに一緒だっただけだ」

サガの言葉に、カノンは思わずポカンと口を開けた。

「……ホントに?。アイオロスとデートしてたんじゃ……」

「だからそれはお前の勘違いだと言っている。私は白羊宮にいたし、アイオロスには頼んでアテネ市内に行ってもらっていたんだ」

「……アテネ市内?。何でそんなとこ行かせたんだよ?」

カノンがサガに聞き返すと、サガは珍しくちょっと照れたように小さく笑い、そのままカノンの手を取った。

「な、何だよ?!」

取られた手を引かれ、カノンはサガにソファの所まで連れていかれた。そこまで来てからサガはカノンの手を放すと、ソファの脇に置いてあった大きめの紙袋を取り、それをカノンの方に差し出して言った。

「アイオロスにはこれを買いに行ってもらったのだ。私の代わりにな」

カノンはサガから差し出されたそれを、反射的に受け取った。何やらズシッと重みがある。

「……何?、これ」

「開けてみればよかろう」

サガに言われ、カノンは受け取ったそれをゴソゴソと開け始めた。紙袋から出し、包装紙を半分破いたところで、カノンの目が驚きで見開かれた。

「これっ……プレステ2じゃん!」

思わず声に出して言ってから、カノンはサガの顔を見た。

「お前がこれを欲しがってるとミロから聞いてな。お前、これが目当てで天蠍宮に入り浸っていたのだろう?」

それだけが理由と言うわけでもないし、入り浸っていると言うのには語弊がある気もするが、ここはカノンは素直に頷いておくことにした。欲しがっていたのは事実だからだ。

「もうゲームなど欲しがる歳でもなかろうと思ったが、あまり天蠍宮に入り浸られてミロに迷惑をかけるのも心苦しいのでな」

「それで……買ってくれたの?」

カノンの言葉に、サガは黙って頷いた。

つまりはこれが、サガのカノンへの誕生日プレゼントと言うわけだ。素直にそう言えばいいものを、照れているからか慣れないからか、表面上はミロを口実にして仕方なくを装っているあたりが、サガらしいかも知れなかった。

「あ……りがとう……」

カノンは半ば唖然としたままサガに短く礼を言った。

「ははは、まさか兄さんがこれを買ってくれるなんて思わなかった。プレステ2なんて、存在すら知らないんじゃないかって思ってたよ」

ややしばらく放心した後、カノンは今度は思いっきり笑いだした。聖域なんて閉鎖された空間で生活していればある程度は無理もないのだが、サガは頭は良くてもいわゆる俗世間一般的な流行物などには疎いところがある。そのサガがまさかまさか自分に黙ってこんなものを買ってくるなど、さすがのカノンも予想すら出来なかった。

「バカにするな。私だってそれくらいは知っている!」

カノンだって偉そうにサガのことを笑えた義理ではない。世間知らずは実のところお互い様なのだ。ただ家の中で読書などをして静かに過ごすことを好むサガと違って、ミロやデスマスク達とよく遊び歩いているカノンは、いわゆる遊び関係のことだけはサガよりほんの少しだけ知っているのだ。だがそれだけの話である。

「それにアイオロスだって……13年前からタイムスリップしてきたような奴が、よく1人でこれ買いに行けたよな」

これにはサガも苦笑した。何を隠そう、張りきって出ていったアイオロスは、13年間ですっかり様変わりしてしまったアテネ市内でしっかり迷子になっていたのである。だがこれはアイオロスの名誉のためにも、カノンには言えないことであった。

「アイオロスにも骨を折ってもらったのだ。明日、会ったら礼を言っておけ」

アイオロスの場合、自分のためと言うよりはサガの頼みだったから一生懸命になっていただけの話だろう、とカノンは思ったが、とりあえずはサガの言葉にうんと頷いておいた。まぁ、礼くらいは言ってもバチは当たらない。

「ありがと、兄さん」

今度ははっきりとそう言って、カノンはサガに笑顔を向けた。さっきまで拗ねまくっていたことなど、すっかり忘れてしまったカノンの笑顔は晴れやかだった。サガはそれに、満足そうに小さく頷きを返した。

「ところでさ、アイオロスがこれ買いに行ってくれたのはわかったけど、兄さんはその間ずっと白羊宮にいたんだろ?。何してたんだよ?」

落ち着いたところでカノンが次なる疑問を口にする。サガがほぼ一日中、他の宮に邪魔していること自体、珍しいことなのだ。カノンのその問いに、サガの表情が微妙な変化を見せた。

「………どうしたの?」

そのまま黙りこくってしまったサガに、怪訝そうにカノンが尋ねる。サガは無言のまま、再びカノンの手を取ると、またカノンを引っ張って今度はダイニングの方へ連れていった。

ダイニングのテーブルの上には、いつもよりちょっと豪華かな?と思えるような食事が並んでいたが、カノンが見て思わず目を剥きそうになったのは、ちょうどテーブルの中央に置かれていたものである。

「これ……」

そこに置かれていたのは、大きなデコレーションケーキだった。カノンの目は、思わずそれに釘付けになった。

「あの時……お前と約束してたものだ」

静かなサガの声で我に返って、カノンはサガの方へ顔を向けた。

「覚えて……たの?」

カノンに聞き返され、サガは無言のまま頷いた。

20年前のあの日……。サガとカノンの間に大きな亀裂を生んだあの誕生日、『苺と生クリームがいっぱいの、大きなケーキが食べたい』と言っていたカノンに、誕生日には必ずそれを持って家に帰るとサガは約束していた。

あの時既に黄金聖闘士となっていたサガは、住居を双児宮へ移しており、カノンは聖域から少し離れた村の外れの小さな家で1人で暮らしていた。会えるのは月に一度だけ。しかもサガがカノンに会いに行くことのみ許されており、その逆は厳禁されていた。

カノンはいつも別れ際になるとサガに縋り付き、帰っちゃ嫌だと泣いていた。サガはいつも身を切られるような思いに耐えながら、カノンに向かって『また来るからね、おとなしく待っているんだよ』と優しく言い残して聖域へと帰っていった。

「今更こんなことをしたところで、所詮は私の自己満足に過ぎないと、わかってはいるのだがな……」

自嘲気味にそう呟いて、サガは苦笑した。カノンはそれに対し、やはり無言で首を左右に小さく振った。

ここに来てカノンは初めて理解した。あの日のことは自分だけではなく、サガの心にも深い傷跡を残していたのだ、と言うことを。

「兄さん……それじゃ、兄さんが白羊宮に行ってたのって、これ作る為?」

カノンが言うと、サガの頬に僅かに赤みが差した。

「その……私はケーキなど作ったこともないし……どうしていいのかわからなくてな。それでムウに教えてもらいながら……何とか……」

珍しく歯切れ悪く、しどろもどろになりながらサガが言う。

「どうりで……ちょっといびつな形してると思った」

言いながらカノンは、くすっと小さく笑った。

「そうか……それでもこれが一番きれいにできたものなのだが……」

「これが一番……って、一体いくつ作ったんだよ?」

「5個、6個……いや、7個だったか?」

あっさりと答えるサガに、カノンは思わず唖然とした。なるほど、5個も6個も失敗して作り直していたのでは、時間もかかるはずだった。しかしその大量の失敗作は一体どうしたのか、気になるところである。

「形はいびつかも知れないが、味はムウ直伝だし分量は間違えていないから大丈夫……だと思う」

自信なさ気なサガの物言いに(これまた非常に珍しいことである)、カノンはつい吹き出しそうになった。いびつだとは言っても、ほんの僅かに傾いでる程度なので、パッと見は充分きれいな形をしている。

「なぁ、これ兄さんに入れ知恵したの、アイオロスだろう?」

意地の悪い笑みを浮かべながら、カノンはサガに聞いてみた。サガはちょっと困ったような顔はしたものの、結局否定も肯定もしなかったが、カノンはそれで自分の考えに間違いがないことを確信した。

合理主義のサガに、手作りケーキなどという発想が生まれるわけはない。大方、事情を知ったアイオロスが、サガに入れ知恵したに違いない。なるほど、昨日サガとアイオロスが書斎に閉じ篭もって何やら話をしていたのは、恐らくは今日のこの段取りを打ち合わせするためだったのだろう。ようやく全てを理解したカノンは、何となくいたたまれない気持ちになった。

「ったく、サガも人が悪いよな。ちゃんと最初から言っておいてくれれば、変な誤解しなくてもすんだのに」

カノンが一方的に誤解して早とちりして拗ねていただけなのだから、随分と勝手な言い分ではある。だが、結局一日の大半を苛々と過ごしてしまったカノンとしては、とんでもなく無駄に時間を浪費してしまったような気がして、ちょっとだけ悔しかったのである。

「上手く出来るかどうかもわからないものを、言えるわけがなかろう」

サガは眉間を僅かに寄せながらそう言った。アイオロスに内緒にしておけと言われたこともあるが、それよりも以前にサガにとって初めての試みなだけに、全く自信がなかったのだ。失敗したら格好悪いなんてものではない。それを考えたら、とてもじゃないが事前になど言えようはずもない。

「あははっ、サガらしいや」

カノンはサガの答えに声を立てて笑った後、一転して真顔に戻った。そして何か言いたげな瞳をサガに向けたが、言葉が見つからないのか何なのか、結局は何も言葉を発しないまま、カノンはおずおずとサガに向かって手を伸ばすと、そのままサガに抱きついた。不意をつかれたサガは、カノンの体重を支えきれず、僅かに後ろによろめいた。

「カ、カノン?!」

余りの意外な行動に、サガは目をぱちくりとさせながらカノンの名を呼んだ。カノンはサガの肩口に顔を埋めたまま、微動だにしなかった。

「……ゴメン、兄さん……」

少しして、蚊の鳴くような小さな声が、サガの耳に届いた。サガが思わず息を飲む。そしてその言葉は、もう一度繰り返された。

勝手な思いこみだけでサガを疑ってしまったこと、サガのことばかり一方的に責めてしまったこと……。でもサガの気持ちを全然わかっていなかったのは、自分の方だったのだ。

「バカだな、何を謝ることがある……」

サガはそっとカノンの両肩を抱くと、静かにカノンの耳元に囁き返した。サガの肩口に顔を埋めたまま、カノンは小さく頷く。こんな風にしてサガが弟を、カノンが兄を抱き締めるのも、20年ぶりのことであった。そのまま2人の間には、静かで穏やかな時が回遊した。

「……兄さん、何か甘い匂いがする……」

そんな時が数十秒ほど流れた後、先にその静寂を破ったのはそんなカノンの呟きであった。

「ん?、そうか?。一日中ケーキと格闘していたから、匂いが移ってしまったのかな?」

言われてサガは、反射的に自分の匂いを嗅いだ。が、すっかり甘い匂いで嗅覚が麻痺したか、自分では全然わからなかった。

「じゃ、その一日の格闘の成果って奴、食っていい?」

言いながらカノンが、サガの肩口から顔を上げ、サガの目を覗き込んだ。

「ああ」

サガは優しい笑顔で頷くと、カノンを促して席に座らせた。

そうしてからナイフを手に取り、慣れない手つきでケーキを切って皿に取り分けると、それをカノンの前に置いてやった。

だがカノンは目の前に置かれたケーキにすぐに手を付けようとはせず、置かれたそれをただじっと見つめていた。サガが不審に思って声をかけようとしたその時、やっとカノンがフォークを手にして一口分を切り、一瞬躊躇った後にそれを口に運んだ。サガはつい、息を詰めてその様子を見守ってしまっていた。

「……へぇ〜……ショートケーキって、こんな味がするんだ……美味いね」

一口食べて、カノンは妙に感慨深げにボソッと呟いた。

「お前、食べたことないのか?!」

だがそれに驚いたのはサガである。

「ないよ。ショートケーキなんて、見るのもイヤだったからな」

カノンが何気なく口にした一言に、サガは表情を曇らせた。かつての自分の不用意がいかにカノンを傷つけていたのかと言うこと、そしてその傷の深さと大きさを、この時サガは再認識したのである。

「あ〜、でもまぁ13年海底にいたせいもあるから。当たり前だけど、海底にケーキなんてなかったかんな」

サガの変化に気付いたカノンが、フォローのつもりなのかちょっと慌て気味に言葉を継いだ。そして二口目のケーキを口に運び、

「うん、マジで美味いぜ。サガも食べなよ」

無邪気に笑いながら、早く食べろとサガを急かした。こんなカノンの笑顔を見るのは、本当にいつ以来であろうか?。それはサガの脳裏に残っている幼かった時の、屈託なく笑っていたカノンの残像に重なった。


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