珍しく休日の重なったサガとカノンが、自宮でのんびりと過ごしているところへ、ミロがやって来た。 「カノン、明日のことなんだけど〜」 「は?」 サガに良く冷えたアイスティーをもらい、飲んで一息ついてから、おもむろにミロが口を開いた。 「明日って?」 きょとんとしながらカノンが聞き返すと、ミロはムッと口を尖らせて 「何言ってんだよ?、一緒に日本に行って野球見るって約束してる日だろ!」 「はぁ?!」 ミロの返答に、カノンが素っ頓狂な声を張り上げた。 「にほん?」 「そうだよ!、自分で言ってたくせに忘れたのか?!。お前が日本のプロ野球も見てみたいって言うから、じゃあ女神に頼んで手配してもらうよって言って手配してもらったんじゃん!」 「……はぁ……」 カノンは更に目をぱちくりとさせながら、ミロを見た。 「それが……明日、だっけ?」 どこか上の空の口調でカノンが聞き返すと、ミロは大きく頷いて 「そうだよ。ったく、こんな大事な約束を忘れないでくれよな。念押しに来て良かったぜ」 溜息をつきながら軽くカノンを睨んだ。その横ではやはりサガがカノンと同じようにきょとんとしながらミロを見ていた。 「そう、それで女神がさ、ついでだからって東京ドームホテルのロイヤルドームスイートって言う部屋、押さえてくれたんだ。スイートだぜ、スイート!!」 一転して満面に笑顔を浮かべつつ、ミロが言った。 「だから明日はお泊まりだよ。大丈夫だよね、仕事休みだし〜」 「……あ、ああ、まぁ、それはいいんだけど……」 カノンはますます目を大きく見開き、半ば呆然と返事をしている。 「時差があるからさ、明日はこっちを……11時頃出るかんな。そのつもりでいてくれよ」 そこまで一気に言うと、ミロは立ち上がり、呆然としたままのカノンの耳元に唇を寄せた。 「明日の晩はゆっくりと、う〜んとイイコトしようねっ♪」 そしてカノンの耳に小声でそう囁いてから、ミロはカノンの頬に軽くキスをした。 「なっ!、何しやがる、このバカミロ!!」 呆然としていて隙だらけだったカノンは、いきなりとんでもないこと言われた揚げ句に、避ける暇もなく兄の前でこっ恥ずかしいことをされ、顔を真っ赤に染めつつミロの頭を叩いた。 「恥ずかしがることないじゃん〜。アイオロスだってサガに同じことしてるんだし……ねぇ?、サガ」 ミロがサガに同意を求めたが、素直にサガがうんと言うわけもなく、やはり頬を赤くしながらぷいっとそっぽを向いた。 「んじゃ、オレも用意があるから帰るね。カノン、明日な!」 一方的にそう言い置いて、ミロはまた慌ただしく双児宮を飛び出していった。滞在時間は僅かに15分弱と言う、ミロにしては恐ろしいくらいの短さであった。 双児宮の主達は唖然としながらしばし無言のまま時間を流した後、 「カノン……お前、明日日本に行くなどと一言も言わなかったではないか。本当にそのことを忘れていたのか?」 サガが今の今まで何も言わなかった弟に、改めてそう尋ねた。 「忘れてたって言うか……覚えがナイ……」 「はぁ?」 カノンはぼんやりとした目をサガの方に向けると、 「……覚えがナイ、全然……」 そうボソリと繰り返した。 「覚えが無いと言うのはどう言うことだ?」 今一つカノンの言っている意味がわからず、サガがまたまた聞き返した。 「だから……そんな約束した覚え、これっぽっちも……」 そう答える弟の顔を、サガはマジマジと見返した。 「いや、確かに野球を観てみたいとまでは言ったような覚えはあるけど、そんな具体的な約束なんて、全然……」 鳩が豆鉄砲食らったときのような顔で、カノンは言った。そう、カノンにはミロとそんな約束を交わした覚えが、全くなかったのである。ミロがさっき言い残していったこと全てが、カノンにとっては正しく初耳だったのだ。 「覚えが無いって……ミロがあんなにはっきり言い切っているのにか?」 サガの言葉に、カノンは無言のままこくんと頷いた。 「一体どう言うことなのだ?、それは……」 「んなの、こっちが聞きたいよ」 サガもますますわからなくなって首を傾げた。ミロは約束したと言って全ての手筈も整えているのに、一方の当事者たるカノンは全く覚えが無いと言う。普通そんなことはあり得ないはずだし、となるとどちらかが嘘を言っていると言うことになるわけだが……。 「それでは何か?。ミロがその……お前と出かけるために、先に手を回してから口実をつけた、とでも言うのか?」 嘘をついているのか?とはさすがに言えなかったサガは、言葉を選びつつそう言った。 「いや、あいつそんな風には頭回らないよ。出かけたいときには出かけたいって素直に言うし、嘘なんかついてたら一発でわかるよ。第一あいつが嘘なんかつける性格じゃないのは兄さんだってよく知ってるだろう?」 「それはまぁ、そうなのだが……」 どちらかと言うとバカ正直の部類に入るミロは、すぐに思ってることが顔や態度に出てしまって些細な嘘すらつけない。そのことはサガも、カノン以上によく知っていることであった。 「多分間違いなく、あいつが言ってることはホントのことなんだけど……」 カノンは腕組みをして、う〜〜〜んと考え込んだ。 「では、やはりお前がきれいさっぱり忘れているのではないか?」 ミロが言っていることが本当なのであれば、約束自体をカノンがすっぽりと忘れていると言う以外には考えられない。サガが言うとカノンは更に考え込んでから 「……ちょっと落ち着いて思いだしてみるわ……」 そう言い残してゆっくり思いだすべく(?)、自室に戻って行った。 どちらにしてもマヌケな話であることには変わりはなく、サガは思わず呆れたように小さく溜息をついた。
小一時間ほどもした頃、カノンが再びリビングに姿を現した。 「思い出したか?」 リビングで読書をしていたサガは、紙面から顔を上げてカノンに尋ねてみた。カノンが困ったような顔で首を左右に振る。 「ダメだ、考えても考えてもどうしても思い出せないんだよ」 サガの隣に腰を下ろすと、カノンはがっくりとうな垂れた。 「思い出せないのであれば仕方あるまい」 サガとしてはもう、これしか言う言葉がなかった。ここまで考えて思い出せないものを、どうしても思い出せと言うのは無理な話である。 「オレ、本当にそんな約束したのかなぁ〜?」 サガに話しかけているのか独り言なのか、よくわからないような口調でそうぼやいて、カノンは頭を抱え込んだ。 「なぁ、兄さん……それとなくミロに探り入れてきてくれない?」 「は?」 ガバッと身を起こすなり、いきなりカノンはサガに向かってそう言った。 「頼むよ、いつどこでそんな約束したのか、ミロから聞きだしてきてくれよ。そうすれば思い出すかも知れないしさ」 「そ、そんなこと頼まれても……。お前が直接ミロに理由を話して聞けばいいではないか」 さすがにサガもそんなことを聞くのは嫌である。 「そんなワケにゃいかないから、兄さんに頼んでるんじゃんか。オレがあいつとした約束を、きれいさっぱり忘れてましたなんて言ってみろ。あいつ、不貞腐れて拗ねて大変なことになっちゃうよ。下手したら泣かれる……」 「……いくら何でも泣きはしないだろう、子供じゃあるまいし」 普段カノンに負けず劣らずミロを子供扱いしているサガも、自分のことは完璧に棚に上げて、眉を顰めつつカノンに言った。 「あいつ、喜怒哀楽がまんま表に出る方だし、特に怒ったり興奮したりして感情がすっげー高まると、涙ボロボロ流すんだけど……」 言われてサガも、返すべき言葉を失った。確かにミロには、子供の時からそう言うところがあった。 「だからさ兄さん、それとな〜くミロから聞きだしてきてくれよ」 カノンは顔の前で手を合わせ、お願いっ!っとサガに頼み込んだ。 「……それならそれで、忘れたことは黙ったまま日本に行ってくればいいではないか。お前の仕事も休みなのだし、出かけても何ら問題はないのだから、無理に理由を追及しようとしなくても事は済むであろう」 カノンの言うこともわからなくもないが、それとこれとはまた話は別である。忘れたことには知らぬふりを決め込んで、カノンがそのままミロと出かければ万事上手く済む話なのだから、何も自分が面倒なことを背負い込む必要はないとサガは思うのだ。 「そんなん、オレがヤなんだってば!、納得いかないんだってば!。黄金聖闘士が、しかもこの年で健忘症だなんて、みっともないじゃないか!」 だがカノンにしてみれば、それで済む問題ではないかった。 「若年性の健忘症やら、アルツハイマーやらが流行っているらしいからな。別に不思議ではあるまい」 「人事のように言うなよ!。オレ達双子なんだからな!、オレがもし本当に若年性健忘症やら何やらになってたら、サガだってなる可能性が高いんだぞ!」 「そんなことはない」 と言いつつ、ちょっぴり内心で不安を覚えるサガであった。 「第一、下手したらこの先あと200年は生きなきゃならないかも知れないのに、今からボケたくなんかねえよ!。だから何が何でもこの謎を解明したいんだ、思い出したいんだよ!。協力してくれよ、サガ!」 カノンは必死の形相でサガを拝み倒した。そこまで言われてしまうとサガももう断りきれず、バカバカしいとは思いつつ渋々と腰を上げて天蠍宮へ向かった。
天蠍宮の私室のドアを開けたミロは、意外な訪問者の姿にびっくりしたように目を瞠った。 「どうしたの?、サガがウチに来るなんて珍しいね」 そう言いながらも嬉しそうに、ミロはカノンを迎え入れた。カノンの方ならしょっ中やってくるし、自分もよく双児宮に訪れてはいるが、サガが1人で天蠍宮を訪れることなど、平素には殆どないことであるだけに嬉しさも倍増すると言うものであった。 「突然すまないな」 天蠍宮のリビングに通されたサガは、突然の訪問を詫びながらソファに腰を下ろした。 「ジュースでいい?。それともコーヒーの方がいい?」 「いや、すぐに失礼するから気遣いは無用だ」 いそいそと茶の用意を始めたミロを、サガはにこやかに制止した。 「ええ?、すぐ帰っちゃうの?。せっかく来たんだからゆっくりしてけばいいのに……」 がっかりしたようにそう言った後、ミロはふと思いついたように 「あ、アイオロスのところ行くのか!。それなら引き止めちゃ悪いか」 1人で納得したようにそう付け加え、サガを苦笑させた。 「別にアイオロスのところに行くわけではないよ。ちょっとお前に聞きたいことがあってね」 「オレに?」 「ああ。その……さっきのカノン……との約束のことなのだが……」 言い出しにくそうにサガが切りだした。 「カノンとの約束?。明日の?」 「そう、その約束なんだが……実はカノンが何も話してくれなかったものでね、お前が来るまで私はそのことを全然知らなかったのだ。それでお前が帰った後にもカノンに聞いてみたのだが、一言『そうだよ』と言っただけで終わってしまってね」 「ええ?、あいつ、サガにちゃんと言ってなかったの?!」 ミロが驚いたように声を上げた。サガが頷くとミロは、ちゃんとサガに言っておけって言ったのに〜とブツブツ文句を言った。 「別にカノンもお前ももう大人なんだから私が口を差し挟むことではないのだが、やはりその……お前はいいのだが、カノンの素行がまだ少し心配でね。最低限のあいつの行動は承知しておきたいのだ。カノンはろくに話してくれないし、その、良かったら日本での行動予定だけでも教えておいてくれないだろうか?」 カノンの素行が心配と言うのは満更嘘でもなかったのだが、うっかりすると異常に自分がカノンを過保護にしているようでちょっと抵抗があるサガであった。 「うん、それは構わないけど……」 ミロは疑うこともせずにサガの言葉を信じたようで、明日以降の自分たちの行動予定をサガに話した。 「そうか……。カノンのわがままで、女神にも随分とお手数をおかけしてしまったのだな。後で私からもよくお礼を言っておかねば」 それを一通り聞き終えたサガは、何から何まで女神の……と言うか、グラード財団の力を借りたのだと言うことを改めて知り、大きく溜息をついた。 「いいんじゃない?。女神自身が手配するわけでもないしさ。グラード財団の力を持ってすれば、これくらいチョロイもんじゃん。それに女神は美人が好きだから、カノンのこともオレのこともお気に入りなんだよ♪。だから2つ返事でOKしてくれた」 「……そう言う問題ではなかろう……」 サガは頭痛を覚えたが、こう言う感性はカノンもミロもそっくりであった。 「で、その……お前達はいつから明日の約束をしていたのだ?」 とりあえずそのあたりの教育的指導は後回しにして、サガはさりげなく本題を切り出した。 「え?、ああ、う〜んと、一昨日だよ。カノンが仕事帰りにここに寄って、その時に話が決まって、んでもって翌日……つまり昨日だけど、オレが女神に連絡したんだもん」 「その記憶は確かか?」 「もちろん。一昨日のことなんて、忘れるわけないもん」 「カノンがここに寄ったのは、何時頃だ?」 「ん〜と、夜の8時頃」 多少曖昧ながらもしっかりとした返事を返してくるミロに、サガは『カノン健忘症説』の疑いを強めるのだった。 「ミロ、それは一昨日の話で間違いないのか?」 「ないよ」 「夜の8時頃か?」 「うん」 「カノンが仕事帰りにここに寄ったのだな?」 「うん、そう」 サガの念押しに、ミロは律義に頷きを返した。自信満々のミロの様子に、サガも疑う余地をなくし、思わず絶句した。となると自分の方が記憶違い……サガの脳裏にさっきのカノンの言葉がまざまざと蘇ってきた。 「……サガ?」 黙りこくってしまったサガの顔を心配そうに覗き込みながら、ミロがサガの名を呼んだ。 「え?」 「どうしたの?、急に考え込んじゃって……」 ミロが小首を傾げつつ、サガに聞き返す。 「いや、何でもないが……」 慌ててそう応じて、サガはやや引きつった笑顔を作った。 「ねぇ、何か今日のサガ、変だよ?」 さすがにサガの様子がいつになくおかしいことに気付いたミロが、不審気に眉を寄せた。 「いや、本当に何でもないんだ。いきなりやって来て、色々聞いてすまなかったな」 これ以上何かを言うと更にミロの不審を煽るので、サガは表面上はいつもと変わらぬ平静さを装い、優雅な動作でソファから腰を上げた。ここは墓穴を掘る前に、天蠍宮を辞した方が正解のようだった。 「帰っちゃうの?」 「ああ、邪魔してすまなかったな、ミロ。明日はカノンのこと、よろしく頼んだぞ」 ミロの方がカノンより8歳も年下なのだが、外の世界のことはカノンよりも遥かによく知っているミロである。なのでサガは2人が一緒に聖域から出るときには、いっつもこうして弟のことをミロに頼んでいる。もちろん、カノンの知らないところで……だが。 「うん!」 元気よくミロが頷く。実のところ、サガにこれを言われる度にミロは気を良くしているのである。 「それじゃあな」 サガはミロに向かって手を振ると、さりげなく急いで天蠍宮を後にした。 |
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