星矢が久しぶりに聖域を訪れたのは、すっかり寒さも和らぎ日差しが暖かくなりはじめた3月の初旬であった
まだほんの少しだけ冷たさの残る初春の風を全身に受けながら、逸る気持ちを押さえて星矢はゆっくりと十二宮の階段を昇る。
たっぷり時間をかけて最上部にある教皇宮に着くと、忙しそうに宮内を行き来する神官やら雑兵に挨拶を受けながら、星矢は真っ直ぐに教皇の間へと向かった。

「よう、星矢じゃないか、久しぶりだな」

教皇の間に入ると、そこには二人の黄金聖闘士がいた。双子座のカノンと蠍座のミロである。
先に星矢を見つけて声をかけたのはミロで、ちょうど星矢に背を向ける形になっていたカノンは、ミロにやや遅れて星矢の方を振り向き、よう、とミロと同じように気軽に声をかけて微笑んだ。

「こんにちは、お久しぶりです」

星矢は二人に向かって礼儀正しく挨拶をして、軽く会釈をした。

聖域の内乱、そして海界、冥界との聖戦と続いた激しい戦乱の世が終結してから、5年余の月日が経過していた。
星矢も18歳になり、少年から青年へと、心も体も完全なる変貌を遂げつつあった。

「どうした?、今日は1人なのか?」

「ええ。でも2〜3日うちには紫龍も氷河も瞬も来ますよ。オレだけ一足早く来ちゃったけど」

ミロの問いに頷きながら、星矢は笑顔で答えた。

「へぇ、そうなんだ。あれ?、でもお前達学校は?。日本の学校はまだ春休みに入ってないだろう?」

「紫龍と氷河は大学だからもう休みに入ってますよ。オレと瞬ももう3年生なんで、卒業試験も終わったし、あと卒業式行くだけなんで、休みに入ってるも同然なんです」

「それじゃあと一ヶ月近く休みがあるんだ、そいつは羨ましいな」

オレも休みが欲しいな、などと子供のように本気で星矢を羨ましがるミロを見て、カノンは呆れたように苦笑したが、ミロに向かってはもう諦めているので何も言わず、

「それなら今回は少しゆっくりこっちにいられるのか?」

と星矢に聞き返した。

「そうですね、一週間くらい居られるかな」

「そうか。まぁそれなら時間が許す限りゆっくりしてけばいいさ」

「もちろん、そのつもりです!」

カノンの言葉に満面の笑顔で元気に答えた星矢だったが、不意にその笑顔を引っ込めると、突然キョロキョロと辺りを見回し始めた。

「サガとアイオロスなら、政務室の方にいるぞ」

星矢のその挙動不審な様子でいち早くその行動の裏を察したカノンは、さり気なくアイオロスとサガの居場所を教えてやった。
星矢の表情がパァッと明るくなり、はっきりとした笑みがその口元に浮かんだ。

「行っても大丈夫かな?」

「ああ、大丈夫だろ。行ってみろよ」

「ありがとう、カノン!」

星矢はカノンに礼を言うと同時に、もうその場を走り出していた。





政務室のドアの前で星矢は自分を落ち着かせるように小さく深呼吸すると、更に一呼吸置いてからその扉をノックした。

「どうぞ」

するとすぐに中から入室を促す声が帰ってきた。
その声は紛れもなく聖域の現教皇のものであった。

「失礼します」

少し大きめの声をかけてから、星矢は扉を開いた。

「星矢」

政務室に入るとすぐに、書棚の前に立っている法衣姿のアイオロスが視界に飛び込んできた。
どうやら何かの書物を繰っていたようだが、星矢の姿を認めるとアイオロスはその手を止めて嬉しそうに表情を綻ばせた。

「お久しぶりです、教皇。お元気そうなご様子で安心しました」

星矢は先刻カノンとミロに対したときより更に丁寧に恭しく、アイオロスに向かって頭を下げた。
アイオロスが教皇の座に就いた当初、法衣がまるで似合わないアイオロスに星矢ですら違和感を感じ苦笑したものだが、あれから4年の月日が流れ、気づけば自他共に似合わないと認めていたその法衣姿もすっかり板につくようになっていた。

「ああ、公式の場以外での堅苦しい挨拶は抜きにしてくれ、星矢。と言うか何度も言うけどお前にそんなことされると、照れ臭くて背中がむず痒くなるんだよ」

少し前までの星矢は、目上の者にも目下の者にも殆ど同じような態度で接していた。よく言えば元気で裏表なく人懐こい性格で、悪く言えば少し礼儀知らずなところがあったのだが、それがここ1年ほどで急速に変わってきていた。
公私の別に応じてきちんとした挨拶が出来るようになり、少なからず目上のものをしっかりと立てようとする姿勢が見えるようになったのである。
それは大変好ましいことではあるが、それでもアイオロスとしては公の場以外ではなるべく以前と同様に接して欲しいのだ。立場上一事が万事そう言ってもいられないが、そもそもアイオロス自身、堅苦しいのは大の苦手なのである。

「ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えて」

「だから、それやめろってのに」

アイオロスは手にしていた本を書棚に戻すと、星矢にソファに腰掛けるよう促した。

「それにしても本当に久しぶりだな。元気だったか?」

「元気だけはバッチリ!。ただ試験勉強で頭は疲れたけど……」

アイオロスの勧めに従い、星矢は言葉遣いをいつもの砕けたものに戻した。

「たかが学校の試験勉強程度で情けないぞ。私なんか毎日頭脳労働だ、見てみろあの書類の山」

アイオロスは親指でくいくいと背後にある自分の机を指差した。そこには確かに未決済とおぼしき書類が、パッと見でも軽く3センチ以上は積み上げられている。

「でもアイオロスの場合、半分はサガがやってくれてるんだろう?」

からかうように星矢が聞くと、アイオロスは

「半分って言うか……半分以上かな?」

悪びれる風でもなく、と言うよりむしろ嬉しそうに瞳を細めて答えた。
アイオロスのその様子だけで、二人の仲は相変わらずなのだということが手に取るように分かる。星矢は無意識のうちに、笑顔を浮べていた。

「こういう仕事は私よりサガの方が向いててな」

星矢が黙って笑っているのに少しバツが悪くなったか、アイオロスは取り繕うようにそう付け加えた。
最も、それは事実以外の何物でもないのだが。
教皇になって4年経った今でも、やっぱりアイオロスはデスクワークは大の苦手だった。

「ところで……そのサガは?」

入ったときから気付いていたのだが、さして広くもない政務室にサガの姿はなく、星矢はやや遠慮がちにアイオロスにサガの所在を尋ねてみた。

「ああ、今ちょっと席を外してるだけだ。すぐ戻ると思う」

「そっか……。何かオレ、忙しいときに来ちゃったのかな?」

「いや、そんなことはないよ。忙しいときはこんなモンじゃないからな。それこそ仕事のこと以外、話してる余裕すらないほどだ。だから気にしなくていい」

軽く答えてアイオロスは肩を竦めると、星矢は少しホッとしたように表情を動かした。
確かにアイオロスの言う通り、忙しければいくら久しぶりとは言ってもこんな風にゆったりと談笑などしてられないだろう。

「ところで私達がここにいることよくわかったな。面倒くさいから誰にも言わずにここに篭ってたのに」

教皇が誰にも所在を告げてないというのはマズイんじゃなかろうか?、と思いつつも、そういうところはいつまで経っても変わらないんだなと、星矢は一抹の嬉しさに似たものを感じていた。いい意味でいつまでも変わらない……そんなアイオロスが星矢は大好きだった。

「うん、教皇の間にカノンとミロがいて、カノンがアイオロスとサガはここにいるって教えてくれたんだ」

「あ、そうか、今日の日勤番はカノンだったか。なるほど、相手があいつじゃサガの居所は隠せないな」

変な納得の仕方をして、アイオロスは1人うんうんと頷いた。

「アイオロス、サガのこと隠しておきたいの?」

「ま、たまにそう思うときもあるな。でもダメなんだよな、カノンにはどうやっても見つけられてしまうんだ。双子ってのは便利なんだか不便なんだか、よくわからんよ」

冗談めかした星矢の問いに、アイオロスも冗談めかして答えた。が、その中に本気の要素が入っていることも明らかであった。

「あの二人も相変わらず仲良くやってるみたいだね」

あの二人というのは、ミロとカノンのことである。つい数分前、教皇の間で顔を合わせてきた二人の様子を思い浮かべながら、星矢が言った。
僅か五分も一緒にはいなかったけれど、それでも星矢にすぐにそのことを察することができた。二人の笑顔は一点の曇りもなく明るかったし、何より小宇宙がとても暖かで穏やかで落ち着いていて、二人の関係が安定していることを如実に示していたからだ。

「年中ケンカばっかりしてるけどな」

時々仲がいいんだか悪いんだか、アイオロスにもわからなくなるほど、あの二人はしょっちゅう些細なことでケンカをしては、等しく周りに迷惑をかけている。
五年も付き合っているんだからもう少し落ち着いてくれればいいものを、と、アイオロスは溜息混じりに愚痴をこぼした。まぁこの五年間、あの二人はず〜っとアイオロスの頭痛の種の一つになっているのだから無理もないと言えば無理もないが、それぞれがそれぞれに付き合い方があるのだし、ケンカばかりしてても本人達が幸せならいいんじゃないのかなと星矢は思う。
最も、それは星矢があの二人のケンカの被害に遭ったことがないから言えることかも知れないが。

「でもさ、カノン、この前会ったときよりまたキレイになってたよ。あれってやっぱりミロに大切にされてるからだろ?」

「カノンはサガの双子の弟だぞ。容姿は同じなんだぞ。キレイなのは当たり前じゃないか」

「いや、オレが言いたいのはそう言う意味じゃなくて……」

ははは、と星矢は思わず乾いた笑いを溢した。アイオロス自身に全くその気はないのだが、これはさり気なくと言うか、天然で惚気ているのである。

星矢が何と説明したものかと返す言葉を探していたとき、背後のドアがカチャリと開けられる音が響いた。
反射的に星矢はドアの方に振り返り、ソファから腰を浮かせていた。

「星矢……」

数冊のファイルを抱えて戻ってきたサガは、星矢の姿を見ると少しビックリしたように目を瞠ったが、すぐにそれを優しく細めると、常に変わらぬ穏やかな声で星矢の名前を呼んだ。

「サガ」

自分の名を呼ぶサガの声が鼓膜に心地よく響き、そしてその余韻は鼓膜を通りすぎて星矢の脳裏と胸の中へ染み渡っていった。

「久しぶりだね、星矢。いつ来たんだい?」

ファイルを抱えたままサガは星矢に歩み寄り、その正面に立った。

「うん、今さっき……」

「そうか。元気だったかい?」

「うん」

星矢が頷くと、サガも満足そうに微笑んで頷きを返してくれた。

「しばらく会わないうちにまた少し背が伸びたね、星矢」

この前会ったときより、星矢の目線の位置がまた少し高くなっていることにサガは気づいた。
一晩寝たら1センチ伸びるというような、最も成長著しい時期は過ぎたものの、まだ星矢の身長は止まることなく伸び続けている。
出会ったとき30センチ近くあったサガとの身長差は、今ではもう10センチもないだろう。はっきりと目に見える星矢の成長を、サガはいつも嬉しく思いながら暖かく見守り続けていた。

「そうかな?。一年くらい前に測ったきりだから、自分じゃよくわからないけど……」

だが言われて星矢も気が付いた。
正確に何センチ伸びたかはわからないが、それでももっと高く遠い位置にあったはずのサガの、澄みきった深い海のような濃蒼色の瞳が、また少し自分に近付いて来ていたのがはっきりとわかったからだ。

「あと一年もしたら、追いつかれてしまうかも知れないな」

穏やかな笑顔を絶やさぬままサガは言い、焦げ茶がかかった星矢の黒髪を撫でた。
追いつけるものなら追いつきたい、いや、できることなら追い越したい。せめて身長だけでも、この人より大きくなることが出来たら……この時星矢は心の中でそんなことを思っていたが、無論そんなことをサガが知る由もなかった。

「そうだな、言われてみれば随分と大きくなったもんだ。なるほど、私達が年を取るわけだな」

星矢の正面のソファに座ったままのアイオロスが、立っている2人を見比べながら何故かしみじみとした口調で言った。
サガより更に10センチほど背の高いアイオロスから見た出会った当初の星矢は、本当にちまっこい子犬のような少年だった。それが今ではサガと並んでおさおさ見劣りしないほどに背も伸び、体つきもあの頃と比べ物にならないほどしっかりとしてきたのである。
その星矢の成長が、アイオロスに改めて5年という月日を実感させたのだった。

「年取ったって……アイオロスもサガも……さっき会ったカノンだってミロだって、初めて会ったときから全然変わってないよ」

星矢はアイオロスに向かってそう言った後、再びサガの顔を見上げた。
星矢が彼らと出会ったとき、サガとカノンは既に28歳、聖戦後生き返ったアイオロスは27歳であったが、その時ですら年相応には見えないほど、サガもカノンもアイオロスも若々しく輝いていた。
当時20歳、今やっと25歳になったばかりのミロはともかくとしても、サガ達はとっくに30歳を超えた今も、皆一様に出会った時と変わらぬ若さを保っている。
これは贔屓目でも何でもなく、客観的な事実であった。

「そりゃまぁ、私達は黄金聖闘士だからな」

「元・黄金聖闘士だろう」

律義にサガがアイオロスの言葉を正した。
言うまでもなく聖闘士というのは戦士であり、『戦う』宿命の元に生まれついた者達である。故に若い時期が長く、少年期から青年期に入った時点での肉体を、一般人より遥かに長い時間保つことが出来るのだ。
それは全て小宇宙の力によるものだが、中でも最も強大な小宇宙を持つ聖闘士最高位の黄金聖闘士は、その下の白銀や青銅に比べても、やはり若さを保てる期間が段違いに長かった。
だからこそ前教皇のシオンや紫龍の師である天秤座の老師のように、二百数十年もの長い時間をごく当たり前のように生きることが出来るのだ。

そう、全然変わっていない……
優しい微笑みをたたえたままのサガを見上げながら、星矢は脳裏でたった今自分が言った言葉を反芻した。

サガと出会ったのは、激しい戦いの最中だった。
偽りの仮面を外した時に現れた素顔のサガの高潔な美しさに、半歩も引けない崖っぷちの状況であるにも関わらず、星矢は瞬く間にその目を奪われ釘付けにされた。ほんの数秒であったが、呼吸をすることすら忘れ、倒さねばならぬ敵だということすら忘れてその貌に見入り、心臓を高鳴らせたことを、星矢は今でもはっきりと覚えていた。
いや、きっと一生涯、忘れることはないだろう。

その時のサガと、今目の前にいるサガは、寸分違わず同じ姿を留めている。
天使のごとく優しく、高貴なサガの美しさは、5年という月日が経った今も全く色褪せることなく、むしろ更に色濃く光り輝いているようにすら星矢には見えていた。

「そんなことよりアイオロス、お前星矢にコーヒーも出してやらなかったのか?」

サガを見上げたままぼんやりとそんなことを考えていた星矢は、アイオロスを軽く叱責するようなサガのその声でハッと我に返った。
気付くと自分に向けられていたはずのサガの視線が、いつの間にか自分の斜め下の方に落とされていた。星矢がサガの視線の先を追うと、自分とアイオロスが対面に腰掛けていたソファの間のテーブルの上に行き着いた。
そのテーブルの上には、真っ白なレースのクロス以外何も乗ってはいなかった。
アイオロスは星矢に茶の一つも出さず、それに気付いたサガがアイオロスの気遣いの足りなさを窘めたのである。
別に教皇たるアイオロス自らに茶を入れろとまではサガも言う気はないが、ここには教皇付の神官がたくさん控えているのだ。その者達に指示をすればいいだけの話なのに、その様子すら見受けられないのでは、サガも小言の1つも言いたくなるというものだった。

「あ、オレ、本当に今来たばかりだから……」

サガが教皇たるアイオロスを叱っているのを見て、星矢はアイオロスを庇うように慌てて口を開いた。
だがそんな星矢とは対照的に、アイオロスは落ち着き払った様子で

「いや、すぐお前が戻ってくると思ったんでな。ちょうど私も一息入れたいと思ってたところに星矢が来たし、それならお前が入れてくれたコーヒーの方が断然いいからな。お前が戻ってくるのを待ってたんだ」

悪びれもせずにそう言って、にっこりと笑った。
サガは呆れたように絶句した後、小さく溜息をついた。

「何もわざわざ私を待たなくとも……コーヒーなど誰がいれても同じだろう。それにお前だけならともかく、星矢は遠路はるばるここまで来たんだぞ。疲れているだろうし、喉も乾いているだろうに……」

「オレは平気だよ、全然疲れてないし、大丈夫」

すぐに星矢は言ったが、そんな星矢にサガは申し訳なさそうな瞳を向けた。

「なら尚のこと、星矢だってお前が入れてくれたコーヒーの方がいいだろう。な?、星矢」

そんな中、アイオロスだけは1人あっけらかんとしたまま星矢に同意を求め、ますますサガを呆れさせた。

「うん」

だが今度は星矢がちょっと遠慮気味ながらもアイオロスに同意し、頷いた。これはアイオロスを気遣っているわけではなく、星矢自身本当にそう思っていたからだ。
ソファに座っているアイオロスと目の前に立つ星矢、二人に揃って同じような目を向けられたサガは、唖然として二人を見遣ったが、やがて諦めたように苦笑すると、

「わかった。それじゃ少しだけ待っていてくれ」

ポンポンと星矢の頭を叩いて、サガはコーヒーを入れに隣室へと消えていった。


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