「サガ、明日どうすんの? アイオロスと何か約束してんだろ?」
風呂から上がってバスタオルで髪を拭きながら、カノンがそれとなくサガに明日の予定を尋ねた。
「ああ、一応な。具体的なことは何も聞いていないが、とりあえず昼前頃に迎えに来てくれると言っていたから、どこかへ出かけるんだと思う。お前は? やはりミロと何か約束をしているのか?」
カノンの問いに答えつつ、サガも同様の質問を返した。
「うん、まぁ一応ね。ただあいつ、今日夜勤なんだよ。だからあいつも昼前には迎えにくるとは言ってたけど、多分午後になるんじゃないかなぁ? 下手したら夕方くらいになるかも」
カノンはそう答えながら、小さく肩を竦めた。
二人が話をしているのは、明日の自分達の誕生日の予定のことである。
互いに互いの恋人と何か約束をしているのであろうと決めつけ――実際にそうであったわけだが――特に相手に確認することもなく、誕生日前日夜の今に至っていた。
「別に前の日夜勤なんだから無理しなくていいっつってんのに、絶対に昼前には迎えに行くって言い張って聞かないんだよ。自分の誕生日ってワケでもないのに、何か無駄に気合い入ってんだよな、あいつ」
呆れたようにカノンは言ったが、表面上そう装っているだけであることをサガは見抜いていた。
と言うよりも、カノン本人はまるで気付いていないようだが、呆れている素振りで思いっきり惚気ているようにしか聞こえないのである。
そんなカノンの様子が微笑ましくて、サガは思わずくすりと小さな笑いを零した。
「自分の誕生日じゃないからこそ、気合いが入っているのだろう。それだけミロがお前のことを想ってくれている証だ、素直に喜んでおけ」
サガは努めて軽い口調で言ったが、もちろんカノンをからかっているわけではない。
「サガ……聞いてる方が赤面するような恥ずかしいこと平然と言うのヤメてくれるか?」
思いもかけぬことを言われたせいで、文字通り自分の頬が熱を持って赤くなっていることをカノンは自覚し、サガに文句を垂れたのだが、
「恥ずかしい? 何が? 事実だろう」
サガはあっさりとそう切り返して、今度は楽しそうに声を立てて笑った。
確かに事実ではあるのかも知れないが、だからこそ人に言われると気恥ずかしさが倍増するものなのである。
サガの場合、それをわかっていてやっているのか本気でわかっていないのかが今一つ不明なのだが、自分だけが気恥ずかしい思いをして終わるのはどうにも癪に触り、少しはサガにも同じ気持ちを味わわせてやるとカノンが反撃に出ようとしたその時、双児宮の私室玄関が忙しなくノックされ、間髪入れずにドアが開閉する音がリビングに響いて来た。
何事かとサガとカノンがリビングで入口に視線を移したのと、そこにアイオロスが姿を現したのはほぼ同時であった。
何やら血相を変えて飛び込んで来たアイオロスに、この宮の主の双子の目が同時に丸くなったが、
「アイオロス……どうしたんだ? こんな時間に」
逸早く気を取り直したサガが、明らかに慌てた様子の自分の恋人を不審に思い心配そうに声をかけた。
するとアイオロスは目にも止まらぬ素早さでサガのすぐ傍に移動し、
「18、17、16、15、14、13……」
主の二人に挨拶もないどころか、サガの問いに返答もせずにいきなりぶつぶつと数字を呟き始めた。
アイオロスの意味不明な言動に、カノンは言うに及ばず恋人のサガすら唖然呆然とせずにはおれなかった。
「9、8、7、6……」
アイオロスは自分の挙動を訝しんでいる二人の様子を気に止めることもなく、数字を呟き続けている。
逆に数えているところをみるとカウントダウンのようだが……? とサガが小首を傾げた次の瞬間、
「0!」
一際声を張り上げて最後の数字を言うが早いか、アイオロスは目の前のサガを抱き寄せ、いきなり唇を塞いだ。
サガの瞳が驚愕に大きく見開かれ、それを見ていたカノンの瞳が真ん丸になる。
サガは我が身に何が起こっているのか把握できずにアイオロスの腕の中で硬直し、傍らに立つカノンは呆気に取られて硬直していた。
そんな状態で無音の数秒が流れた後、アイオロスはようやくサガの唇を解放すると、
「誕生日おめでとう、サガ」
開口一番サガに祝いの言葉を告げて、にっこりと微笑んで見せた。
「誕生日って……えっ……?」
相変わらず状況が飲み込めていないサガが、呆然としたままアイオロスに聞き返した。
アイオロスは自分の腕時計をサガの目の前に差し出し、時計盤を指差しながら得意げに言って笑みを深めた。
「ほら、もう今日はお前の誕生日だ」
アイオロスの言う取り時刻は午前0時ちょうどを指しており、日付が変わって数十秒ほどの時間が経過したところであった。
「日付が変わった瞬間に『おめでとう』って言いたかったんだ。誰よりも早く、いの一番にな。だから……」
「それでこんな時間にいきなり飛び込んで来て、カウントダウンを始めたのか?」
つい今し方のアイオロスの奇妙な言動にようやく合点が言ったサガが、とりあえず確認を求めて聞き返すと、アイオロスは頷き、
「こうでもしないとカノンに先を越されそうだったからな。一緒に住んでいない分、オレの方が分が悪いし」
なっ? とカノンの方に顔を向け、何故か彼に同意を求める。
「お前が飛び込んで来て珍妙な行動とるまで現在時刻すら認識してなかったってのに、先を越すも何もあるかバーカ」
ここまで唖然呆然としていたカノンだったが、いきなり名指しでそんなことを言われた挙げ句に同意を求められ、一気に我に返った。
それと同時にあまりの馬鹿馬鹿しさに怒りではなく脱力感を覚え、思わず疲労感たっぷりにアイオロスにそう毒づいた。
「そっか……ま、そんなことはどうでもいいや。とにかく間に合って良かった」
カノンに毒づかれても動じるでも気にするでもなく――というより見事にスルーして、アイオロスは笑顔を浮かべたままサガに向き直ると、
「改めて誕生日おめでとう、サガ」
もう一度サガに祝いの言葉を贈り、今度は唇に軽く触れるだけのキスをした。
「あ、ありがとう……」
アイオロスの行動が極端というか豪速球ストレートすぎて、この時のサガは先刻のカノンよりも遥かに恥ずかしい思いをしていたのだが、さすがにこの場面でアイオロスにつれない態度がとれるはずもない。
カノンに向かって言ったことが即自分に返ってくるとは夢にも思っていなかったが、これもアイオロスが自分を想ってくれている証に他ならないとわかっていたからである。
それよりも何よりもサガ自身は無自覚だったが、恥ずかしいと言う気持ちより実は嬉しい気持ちの方がほんの僅かながら上回っていたからでもあった。
「今日日中学生のガキでもやらねぇことを、よく平然と出来るよなお前。バッカバカしいにも程があるというか、ある意味感心するっていうか……どっちにしてももうこれ以上付き合ってられんわ。邪魔者は消えてやるからあとは勝手にやってろバカップル」
はっきりと頬を赤らめて俯くサガと、そんなサガを盛大に頬を緩めて幸せそうに見つめているアイオロスの様子に脱力感が極限に達したカノンは、呆れ果てたようにそう吐き捨てて踵を返しかけた。
だが、
「ちょっと待てカノン!」
自室に戻ろうとしたカノンを、意外なことにアイオロスが慌てて呼び止めた。
「何だよ?」
不機嫌丸出しでカノンが答えると、アイオロスは軽く抱いていたサガの身体を離し、カノンの方へ歩み寄って来た。
思いきりバカにされた反撃でもする気かとカノンは思わず身構えたのだが、アイオロスはまたしても予想だにしなかった行動に出たのである。
「えっ!?」
今度はいきなりカノンの腰を掴んで自分の方へ引き寄せると、アイオロスはサガに向けていたものとは違う、例えて言うならやんちゃ坊主が悪戯をしかける前のような笑顔を浮かべてから、
「今日が誕生日なのはサガだけじゃない。お前もだろ」
「え? あ、うん……」
今更聞くようなことじゃねえだろとは思ったものの、アイオロスのその笑顔に逆らい難い何かを感じたカノンは思わず素直に頷いてしまっていた。
それを見たアイオロスも満足そうに頷きを返すと、
「誕生日おめでとう」
おもむろに祝いの言葉を告げてから、カノンの額に軽くキスをした。
よもや兄の恋人から祝福のキスなど受けるとは思わず、カノンは衝撃のあまり大きく息を飲み、絶句した。
「お前はサガの大事な弟だからな。平等に祝わせてもらわないと……って、厳密には平等じゃないっていうか、平等にしたらマズいけど、まぁこれはオレの気持ちだ」
自分で自分の言葉に突っ込みを入れつつ、アイオロスは笑い声を立てながらカノンの頭をクシャクシャと撫でた。
いつもであれば、何が平等だ気持ち悪いんだよ! ――とでも悪態をつくカノンだが、今の不意打ちは規模は極小ながら破壊力が抜群すぎて、カノンの思考回路の機能を一時的にシャットダウンしてしまっていたのだ。
お陰でカノンは絶句したまま、アイオロスの顔をポカーンと見上げることしか出来なかったのである。
「さすがはサガの双子の弟だ。そういう顔も可愛いな」
見ようによっては間抜け面にしか見えないカノンのそんな表情を褒めつつちゃっかりサガのことを惚気て、アイオロスは最後に仕上げとばかりにカノンの頭をポンポンと軽く叩いた。
「それじゃあサガ、また明日……じゃない、今日の昼前に迎えに来るから」
そうしてからアイオロスは軽く抱いていたカノンの腰を解放すると、再びサガに向き直り、来た時と同様唐突に帰ると言い出した。
「えっ!? もう帰るのか?」
アイオロスがここに飛び込んで来てから、まだほんの数分程度の時間しか経っていない。
まさかこんな短時間滞在しただけですぐに帰るとは思わず、さすがにサガも驚いてやんわりとアイオロスを引き止めた。
カノンが居るのでこのままアイオロスとここで夜を過ごすことはさすがに憚られるが、せめて茶の一杯くらいは出したかったからである。
「ああ、もう夜も遅いしな。夜が明けてからまたゆっくり、な」
つまり今から睡眠を充分に取って、お互い今日この後の時間に備えようということである。
「そうか。それじゃ……待ってるから」
アイオロスのその意を正確に理解したサガは、あっさりと納得して頷き、それ以上彼を引き止めはしなかった。
「ていうかお前、マジで何しに来たの?」
ここに来てようやく思考回路を再起動させたカノンが、いつもの調子に戻って思いっきり胡散臭げにアイオロスに聞くと、
「さっきも言っただろ? 誰よりも早くサガにおめでとうを言いたかったし、お前にもおめでとうって言いたかったんだって。だから来たんだよ」
「ホントのホントにそれだけの理由なのかよ!?」
「ああ、そうだよ。他に理由が必要なのか?」
他に理由が必要と言うわけではないが、ここまで堂々と言い切られても困るとしかカノンには思えない。
だがこれ以上何を言っても時間の無駄であることは間違いないので、帰るというならさっさと帰した方が得策と思い、カノンはここで口を噤んだ。
「じゃ、おやすみ」
アイオロスはもう一度サガを抱き寄せてお休みのキスをし、満足そうに微笑みながら軽快な足取りで帰って行った。
程なくして玄関のドアが開閉する音が聞こえて来ると、カノンはあからさまに大きな溜息を聞こえよがしに吐き出し、サガに向かって厭味ったらしく言いがかりをつけたのである。
「自分の恋人の目の前でその恋人の弟にキスするとか、何考えてんだあいつは……。しかもオレ、思いっきり半裸なんだけど。その状態のオレを抱き寄せてキスするとか、他人が見てたらとんでもない誤解をされてもおかしくないシチュエーションなんだけど……」
言いがかりではあるが事実でもあるだけに、これにはサガも苦笑を誘われずにはおれなかったが、アイオロスの行動が100%純粋な好意から来ていることもわかっているので少々リアクションに困らされた。
「確かにまぁ……もし見られていたら変な誤解を受けかねなかったかも知れないが、実際に他人に見られたわけではないしな。それにキスをしたと言っても額に軽く触れた程度だし、大した問題でもあるまい。純粋にアイオロスの祝いの気持ちだと思って受け取ってやってくれ」
一方でカノンも文句を言ってはいるものの、嫌悪しているわけではないと言うこともわかっていた。
ただ単にアイオロスにあんな祝福を受けるとは夢にも思わず、突然降ってわいた予想外の出来事に戸惑い、複雑な心境になっているだけなのだろう。
もしカノンが本気で嫌がっていたのなら、今に至るまでこんなに大人しくなどしていないはずだからである。
問答無用で即座にアイオロスに攻撃を加えるくらいしていたに違いない。
「ありがた迷惑なんですけど……」
そうは言われても何となく釈然とせず、カノンは尚も文句を言ってからむすっとして黙り込んだ。
そんな弟の様子がおかしくて、サガはついうっかり吹き出してくすくすと声を立てて笑い始めた。
「っつーかサガさぁ、あんなの見せられて何とも思わなかったワケ?」
サガの笑いが収まった頃、カノンが唐突にサガにそう問いかけた。
「何とも思わなかったのかって、何がだ?」
きょとんとしてサガが聞き返すと、カノンは少し驚いたように目を瞠り、
「何がって、さっきも言ったけど自分の恋人が目の前で自分の弟にキスしたんだぜ。例えそれがおでこだろうがほっぺだろうが唇だろうが、普通は心中穏やかでいられないモンなんじゃないの? しかもオレ達双子だぜ。自分と全く同じ姿形をした別人に、自分の恋人がキスしてるの見て平気だったワケ? ヤキモチ妬かなかったのか?」
捲し立てるようにカノンに問いを重ねられサガはまたしても苦笑したが、すぐにその苦笑を余裕綽々の顔に一転させて自信満々に言い放った。
「いくら双子の弟であるお前が相手でも、この程度でヤキモチを妬くほど私は狭量ではないよ。それに私にも一応、アイオロスに愛されている自覚はあるのでな」
つまりサガは相手が誰であろうとアイオロスの心は自分にあるから大丈夫、だからヤキモチなど妬く必要もなければ心配する必要もない……と言外に言っているのである。
「……はいはいどーもご馳走さまです」
サガのその絶対的な自信に半ば感心し半ば呆れて、結局カノンは諦めたようにそう応じることしか出来なかった。
普段はあまり言葉にも態度にも出さないくせに、惚気る時には盛大に惚気るんだよな、本当に両極端なんだから……と、心の中でぼやかずにはおれないカノンであった。
「では私も明日……ではなく、数時間後に備えてそろそろ休むとしようか。お前は?」
表面上変わりなく振る舞っているようにも見えるが明らかに上機嫌な様子のサガに、カノンは内心でやれやれと肩を竦める。
これはもう何を言っても無駄、綺麗さっぱりと流されるのがオチである。
「オレも髪乾かしてから寝るつもりだけど、そう早起きする必要もなさそうだからあとは適当にやるよ。気にしないで先に寝てくれ」
どうせミロは明日の朝まで仕事だし、そのまますぐに迎えに来ると言う約束にもなっていないので、自分もそんなに早く起きる必要もない。
早起きをする必要がないと言うことは、つまり早寝をする必要もないということである。
「そうか。だがあまり夜更かしはしない方がいいと思うし、朝寝坊もしない方がいいと思うぞ。それじゃお休み」
最後に含みのある口調でそう言って、サガはリビングを出て行った。
リビングに一人残ったカノンはサガの部屋のドアが開閉する音を聞きながら、29歳になったばかりのこのタイミングで何で子供がされるみたいな注意をされなきゃいけないんだろう? と小首を傾げつつ、この日一番の大きな溜息とともにこう呟きを漏らしたのだった。
「今夜のお兄様はすこぶるご機嫌がおよろしいようで……」