Happy Birthday to Milo
そして11月8日当日――。
この日のカノンの目覚めは、文字通り最悪だった。
目を覚ました瞬間から激しい頭痛に節々の痛み、それに加え鼻と喉に著しい不快感を覚え、全身が重怠くベッドの上に身を起こすのも億劫という状態だったからである。
これはどう考えても風邪をひき込んでしまったとしか思えない。
実を言うと昨夜からどうにも嫌な感じ――というよりはっきりヤバイ感じの違和感を覚えてはいたのだが、何故よりにもよってこんな大事な日に数年ぶりの風邪をひいてしまったのか。
どうしようもない部分もあるかも知れないが、カノン的にはこれはもう不覚としか言い様がなかった。

「マジ、やべぇ……」

カノンは天井に向かって力なく呟いた。
計っていないのでわからないが、この体調の悪さからして多分、発熱もしているのだろう。
だが例え発熱をしていたとしても、今日ばかりはこのままベッドと友達を決め込むわけにはいかなかった。

カノンは怠そうにベッドサイドの時計に視線を流した。
あと小一時間程で、ミロとの約束の時間が来てしまう。
今日はこれから日本に行って一緒にミロの誕生日プレゼントを買って、それから沙織に頼んで予約をしてもらっている店で誕生日ディナーの約束になっているのだ。
これが殆ど祝ってもらった試しのない自分の誕生日というならあっさり諦めもつくし落胆することもないのだが、今日は自分の誕生日ではない、ミロの誕生日なのである。
ミロは誕生日プレゼントだのディナーだの、そういうことよりも何よりも、『誕生日をカノンとともに過ごす』ことを何よりも楽しみにしているのである。
そんなミロをがっかりさせるわけにはいかなかった。
もし自分が風邪をひいたことがミロに知れたら、ミロは間違いなく日本行きを中止すると言い出すだろう。
そんなことになったら、せっかくミロが楽しみにしている誕生日の一日を台無しにしてしまう。それだけは何としても避けたかった。

多少の無理をしてでも今日は一日平気なフリを押し通して、予定通りに過ごさなければ――カノンは大きな溜息を吐き出してから、鉛のように重く怠い全身を持ち上げるようにしてベッドの上に身を起こした。
次の瞬間、ズキン、と一際激しく頭が痛んだ。
その痛みに顔をしかめてから、カノンはもう一度小さく吐息し、数秒の間を置いた後にゆっくりとベッドを下りた。




「おはよう、カノン」

カノンが重怠い身体を何とか引きずってリビングに行くと、兄のサガがいつも通りの笑顔で迎えてくれた。

「おはよ、サガ」

正直、口をきくのすらしんどい状態だったが、カノンは懸命にいつも通りの笑顔を作ってサガに挨拶を返した。
ミロに風邪をひいたことを隠すためには、サガにもそのことを隠しておかねばならない。
絶対に気取られてはいけないと、カノンは努めて元気に振る舞ったつもりなのだが、

「カノン? お前、どうしたのだ?」

目と目が合った瞬間に、サガの表情が不審そうに動いた。
そのサガの表情の変化に気付き、カノンは内心で焦りを覚えたが、

「どうしたって、何が?」

平静を装って、すっとぼけてみせた。
だがそれはカノン本人ですら情けなくなるほど白々しくなってしまい、サガの目を誤摩化すどころか、ますます不審を煽ってしまうことになった。
サガは瞬時に笑顔を消し、座っていたソファから静かに立ち上がると、今度は一転して足早にカノンの真正面へと歩み寄り、まるで何か確認をするように無言でじっとカノンの顔を見つめた。
一卵性双生児の兄弟なのだから当たり前だが、こうして真正面至近距離で向き合っていると、自分達ですらまるで鏡と向き合っているようなそんな錯覚に陥ってしまう。
いつもだったら互いに何となく気恥ずかしいという程度だが、今日に限っては引け目のあるカノンの方は非常にいたたまれない気分だった。

「何人の顔じ〜っと見てんだよ? 俺が美形だから見とれてる? ってか、自分と同じ顔だろ」

そう茶化してさり気なくサガから離れようとしたカノンだったが、そんな手がサガに通用するわけもない。
サガは軽く眉間を寄せながら更に数秒黙ってカノンの顔を凝視した後、

「酷く顔色が悪いぞ。どこか身体の具合が悪いのだろう?」

と、問い返して来た。
問い返して来たというよりは確認を求めて来たと言った方が正解だろう。
サガの口調は、ほぼそれと確信しているような口ぶりだったからだ。
カノン的には正に嫌な予感的中といったところだが、それにしても兄の観察力の鋭さには脱帽せざるを得ない。
この一瞬でよくもまぁ自分の不調を見抜いたものだと思うが、裏を返してみると、つまり自分は一目でそれとわかるほど青白い顔をしているということなのだろう。
だがそれはそれとして、この後のことを考えるとあっさりうんと頷くわけにもいかない。
ばれたら最後、絶対に行くなと止められるに決まっているからである。
何とか誤摩化さねば、と、カノンは苦しい言い訳を口にした。

「別にどこもなんともないよ? 顔色悪いっつわれても鏡見てないからわかんないけど、それは単に起き抜けだからじゃ……」

そんなカノンの言葉を遮るようにして、サガが無言で自分の掌をカノンの額に当てた。
サガの掌が当てられた額から、ひやりとした感触が伝わって来る。
その冷たさを心地よく感じたカノンだったが、それは即ち、自分が発熱をしているのだという何よりの証でもあった。

「熱があるな」

そしてサガの一言が、それを決定づけた。
カノンとは反対に、サガの手にはじんとした熱さが伝わって来ていた。
それはいわゆる病的な熱さで、カノンが発熱しているのだということは嫌でもわかる。
サガは心配そうに目を細め、重ねてカノンに問いかけた。

「風邪をひいたのか?」

もう言い逃れは出来ないと諦め、カノンは小さく頷き、短く「みたいだね」と返した。

「いつからだ?」

「今朝起きたらひいてた」

カノンの返答にサガは訝しげに眉は寄せたものの、昨夜のカノンの様子を思い出す限り、確かに体調が悪そうな様子はなかった。
多少の変調はあったのかも知れないが、サガにはわからなかったし、恐らくその時点では本人もまるで気付いていなかったのだろう。
サガは小さく吐息を溢した後、カノンを促してソファに座らせ、もう一度額に手を当てた。

「他に症状は?」

「鼻と喉がちょっと気持ち悪い……」

観念したカノンは、サガの問いに素直に答えた。
サガは少し考え込むようにして黙った後、困ったように眉尻を下げながらやや遠慮がちにカノンに言った。

「どうするんだ? カノン。今日はミロの……」

言うまでもなくサガは、今日がミロの誕生日であることも、その誕生日の一日をカノンがミロと一緒に過ごす予定であることも知っている。
だが風邪をひき、発熱までしているこの状態ではさすがに無理ではないかと思わずにはいられかった。

「行くよ、もちろん」

「行くって、お前……」

間髪入れず即答したカノンに、サガは今度ははっきりと難色を示した。

「しょうがないだろ、今日ばかりはドタキャンてわけにはいかねえんだからさ」

「気持ちはわかるが、いくら何でも無理ではないか? 計っていないからはっきりしたことはわからんが、微熱程度でないことは確かだぞ」

カノンの額に触れた時の熱さは、ほんの少し熱があるというレベルの熱さではなかった。
ここにこうしていられるのだから起きていられないという程ではないにせよ、少なからずの無理をしていることは紛れもない事実だろう。

「怪我なら治してやれるが、風邪ではな……」

外傷ならヒーリングで治せるが、さすがに風邪は治せない。
それを得意とするサガであっても、無理な話というものである。

「ちょっとやそっとの怪我くらいなら、サガに頼らなくても自分でだって治せるけどさ」

言わずもがな、風邪は絶対に無理だ。
苦笑いしながら溜息をつくカノンをしばし見つめた後、サガはやや躊躇いがちに言葉を接いだ。

「ミロに事情を話して、今日の約束は延期してもらったらどうだ? せっかくの誕生日に可哀想だが不測の事態だし、あいつも納得してくれるだろう」

カノンも気持ちもわかるしミロを可哀相だとも思うが、やはりサガとしてはこんな状態のカノンを黙って送り出すわけにはいかなかった。
サガに今日の約束はキャンセルするよう勧められたカノンは、だが頑として首を縦に振らず、

「そういうわけにはいかないよ。あいつ、今日のことスッゲー楽しみにしてたんだから」

初めて恋人と過ごす誕生日を、ミロは指折り数えて楽しみにしていた。
そんなミロを間近でずっと見て来ただけに、カノンはミロを、しかも誕生日当日にがっかりさせるような真似だけは絶対にしたくないのである。

「だがなカノン……」

「サガの言うことはわかるけど、でもやっぱそれは出来ないよ。単に買い物に行って飯食うだけだってんならともかく、今日はそうじゃないからな。いくら同じ姿形してるっても、まさかサガに代役頼むわけにいかないし。ってか、さすがに今回ばかりはオレじゃないとダメだからな」

「それはそうだが」

カノンが冗談で言っているということはもちろんわかっているが、ミロにとって唯一無二の大切な存在はカノンなのである。
いくら遺伝子レベルまで同一の物を有しているサガとはいえ、その代わりなど出来るはずがない。

「大丈夫だよ、心配いらない。現にこうやってフツーに起きて動いてられるんだから、今日一日くらいどってことはないさ。そもそもオレは一般人とは違うし」

当然のことながら、カノンは自分の不調をミロに言う気はなかった。
ミロに余計な心配をかけさせたくないし、気を使わせたくなかったからだ。
ましてや自分は――まぁミロもサガもだが――聖闘士、一般人とは桁違いの体力と耐久力を持っているのである。
よってこの程度のことで行動が制限されるようなことは基本的にはないのだが、それはそれとして一つだけ気掛かりがないわけでもない。

買い物だの食事だのはまず問題はないだろう。
恐らく不調を気取られることもないとは思うが、一番の問題はその後、即ち夜のことである。
誕生日だし、自然の流れでそうなることは確実だろうが、さすがにこの状態でミロと一夜を共にするわけにはいかない。
だが事実を伏せたまま、その状況を回避することが果たして出来るかどうか、さすがのカノンもそこには頭を悩まさずにはおれなかった。
――まぁそこまで行った段階で、白状してもいいのだが。

「お前がそこまで言うのなら、仕方がないな」

カノンが早くも半日以上先のことで頭を悩ませていると、やや独り言めいたサガの静かな声がその思考を破った。

「え?」

カノンは短く聞き返しながら、サガを振り返った。
言葉の通り本当に仕方がないという様子ではあったが、サガはカノンが予定通りに出かけることを許してくれたのである。
ミロにとってはもちろんのこと、カノンにとっても今日が特別な日であることに違いはない。
心配ではあるが、カノンの気持ちを考えるとこれ以上強くは止められない――というより、いくら止めても無駄だとサガもわかったからである。

「だがミロに伝染さないように気をつけろよ」

「う、うん、わかった」

そう答えて頷きはしたものの、そうは言われてもこればかりはわかんねぇよなぁ……とカノンは思っていた。
もちろん充分気をつけるつもりではいるが、何しろ相手は見えない強敵だからである。

カノンの返答を聞いたサガは、小さく溜息をついてソファから立ち上がった。

「……サガ?」

「食欲はあるか?」

「うん、まぁ、一応大丈夫みたいだけど」

空腹を感じてないのであまり食べたいとは思わないが、だからと言って食べられないというわけでもない。
でもいきなり何だ? と思いながらカノンがサガを見ていると、サガはダイニングを指差し、

「朝食の用意はしてあるから、それを食べていろ。私はその間に薬を買って来る」

「えっ……」

薬と聞いて、カノンが思わず声を詰まらせる。
それは暗に「イヤだ」という意思表示をしたわけだが、サガには通用しなかった。

「薬も飲ませずに行かせるわけにはいかん」

「いや、大丈夫だと思うけど」

「大丈夫なわけあるか!」

薬を嫌がるだけの元気があるのは結構だが、こればかりは問答無用とばかりにサガはぴしゃりと言った。

「完全には無理だが、少しでも熱を下げなければ話にならんだろう。それに出先で具合が悪化したらどうするつもりだ?」

「どうするもこうするも、その時はその時って言うか……」

「つべこべ文句を言うな。薬を飲まんと言うなら行かせんぞ!」

最後は叱りつけるように言って、サガはカノンを黙らせた。

「とにかく私が帰って来るまでに朝食を済ませておくんだぞ。いいな」

更に一方的にそう言い置いて、サガは自室へ戻っていった。
聖域の外に出るため、普通の服に着替えに行ったのである。

「……自分が風邪ひいた時には最後まで薬飲まなかったくせに、っとに勝手なんだからな」

サガがリビングを出て行った後、カノンは小さな小さな声で文句を垂れたが、こうなってしまったからには大人しくサガの言うことを聞くより他はない。
カノンは疲労感たっぷりの溜息をつき、不承不承重い腰を持ち上げた。




ミロがカノンを迎えに双児宮に来たのは、カノンがサガに有無を言わせずに飲まされた薬がちょうど効き始めてきた頃合いだった。

「おっはよー!」

いつに増して元気一杯で私室に入って来たミロを、サガが笑顔で出迎える。

「おはよう、ミロ。それから誕生日おめでとう」

「ありがとう!」

祝いの言葉に礼を言いながら、ミロが無邪気な笑みをサガに返した。
サガも笑みを深めて、ミロの柔らかな髪を撫でる。
そんな二人を横目で見遣ってから、カノンはソファから立ち上がり、背もたれにかけてあった上着を手に取った。

「行くぞ」

「うん」

カノンが二人の傍に歩み寄り、ミロを促しながらさりげなく視線を動かすと、サガの心配そうな視線とぶつかった。
大丈夫だよ、と目で合図を送ってからカノンは、

「それじゃ行って来る」

改めてサガに向き直り、そう言った。

「ああ、気をつけてな」

何気なく応じたサガだったが、その言葉にはいつもとは違う重みが含まれていた。
サガはすぐにミロに視線を戻すと、

「楽しんでおいで」

言いながら、もう一度ミロの頭を撫でた。

「うん、行って来ます」

ミロはサガに軽く手を振り、足取りも軽くカノンと一緒に出かけていった。

「確かに、あの様子ではとても今日の約束をキャンセルなどできんな……」

二人が出て行った後の扉を見つめながら、サガは苦笑混じりの独り言を零した。


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